第1章 出逢いの町
cafe①
本棚の最下段、左から数えて7冊目。奥付けのページに、メモを挟んで閉じる。
そこでのやり取りが、ぼくとエリにとって唯一の内緒話だった。
最後のつもりで残したメッセージ。
彼女がそれを読む頃、ぼくはいったいどこで何をしているだろうか。
* * *
からん、ころん。
錆びかけのドアチャイムが来客を教えた。
町外れの喫茶店。先代から受け継いだという店構えは木造が基調で、良くいえば趣があり、悪くいえば古ぼけていた。
黄昏時にかかる頃。通常なら営業時間内だが、今日は扉に『CLOSE』の札がかけられている。
「いらっしゃいませ、お姫様」
店主の歓迎に、客の少女は会釈を返した。
エリーゼ・トアイモア。
宝石のような碧眼が、眼鏡の奥から覗く。いわゆる垂れ目で、眠たげな印象。かと思えば、時には別人かと疑えるほど鋭くも光る。
ちょうど今この時のように。
「……サクラさん。いま、誰か隠れませんでしたか」
エリーゼの背中に、愛刀はない。
小柄な身体には大きすぎるサイズのワンピースに、深くかぶったキャスケット。底の厚いブーツと、いずれも白に統一されていた。
「店の中? いないわよ、貸し切りだもの」
「お客さんじゃなくて、カウンターの中に、です」
サクラは首を傾げる。やがて何か思い当たったらしく、表情を曇らせた。
「……貴女、そういうの視える人?」
「!? ……ち、違い、ます。幽霊などではなく」
「だってさっきからあたし一人だし。この店古いもんね、色んな人の情とか念とか移ってそう。取り憑かれても不思議はないかも」
ぐるり、見回してみる。ふむふむ。
天井は雨が降るたび雨漏りの範囲が拡がるし、壁は強風に対するとあちこちで不穏な音を立てるし、床板には子供が歩いただけで軋む部分がある。ざっと見ただけでも修繕が急がれるのは明らかだ。
こんな危なっかしい店が、よくもまあ繁盛するもんだと他人事のように感心する。常連さんとは、かくもありがたきかな。
「ごまかさないで、ください……!」
「何をごまかすのよ? それより視えたもの、詳しく教えて。除霊の時きっと必要に」
「……っ、本当に、いないんですか」
疑い深い子だ、とは思うだけに留める。勘は鋭いし目も良いな、とも。仕事に打ち込んだ成果なのだろう。
しかし今はどうだ、瞳にうっすら涙の膜が張っている。さっきまでの威勢はどこにへやら、まるで仔犬のようではないか。
「………み、見間違い、したみたいです……失礼しました」
若干不服そうでありながら、しぼむように小さな声で謝罪する。かわいそうに。
まあ、そうなるように誘導したのはこちらだけれども。もとから舌足らずで区切れがちな話し方が、よりたどたどしくなっている。
苛めすぎたかも。切り上げ時かな。
「そう? また視えたら言ってね」
「視えません居ません有り得ません」
「オカルトとかホラーが苦手なところ、変わってないのねー。かあ〜わいい」
「ぅ……説明ができないものは、みんな怖いはず、です。からかわないでください」
「可愛い子を見かけたらとりあえずつついてみるでしょ」
一般常識のように語られても困る。
「ほら、座って」
「ありがとう、ございます」
カウンター席の真ん中に腰掛ける。
エリーゼからすると高さのある椅子で、全力の背伸びと、ちょっとのジャンプが必要だった。涼しい顔をしていたつもりだが、一発で決められた快挙に内心、ガッツポーズ。
「カフェラテ好きなのも、変わらず?」
「はい、ありがとうございます。あと、トッピングもお願いしたいのですが……」
眼鏡を畳んでテーブルに置かせてもらう。
顔を隠す効果を期待して一応かけてきたダテなのだが、不慣れなせいか窮屈感が違和感でまことに遺憾なのである。
一言でいうと、邪魔なので外した。
「姫といえば、アレかしら」
「はい。お願いします」
「了解。相変わらず好きなのねえ」
「一度好きになると、ずっと好きかもです」
「……それは、素敵なことだわ」
店のコーヒー豆はすべて、サクラの手で焙煎された特製品だ。あたたかくて優しい香り。ドリンクを育てるサクラの眼差しに、エリーゼは思う。母親の愛情なるものはこのようだろうか、と。いかんせん記憶にない以上、想像の域は出ないけれど。
「ずいぶんご無沙汰よね。元気にしてる?」
「! ……申し訳ありません、ご挨拶が遅れました」
慌てたのは一瞬。すぐに体勢を整える。座った姿勢でありながら、すっと伸びた背筋が美しい。口調も一変、まるで仕事モード。なんだ、なんだ。サクラも身構える。
「ご無沙汰しております。お陰様で息災です。サクラさんも、お変わりありませんか」
深々と頭を下げると、帽子にしまいこんでいた髪が一束こぼれた。清らかな銀髪。窓から入る夕日を映して一層に輝く。
「どうも、ご丁寧に。見ての通り、あたしは元気よ。しかしまあ、本っ当に綺麗になったわね。ロリエリーゼ姫も可愛かったけど。会うの、いつぶりかしら」
「ロリ……? えっと、サクラさんがお店を継いですぐ、伺った以来なので……」
「ああそうそう、そうよね! じゃあもうすぐ2年になるわ、懐かし〜」
当時のあれやこれやに思わずトリップ。
あの頃は誰も『サクラ』なんて呼ばなかった。髪もこんなに長くなかったっけ。
懐かしいけど、戻りたくはない。ゴタゴタばかりだった。本当に。
だから余計に彼ら二人が神聖に見えて、姫とか王子とか呼んじゃうんだよね……。
「えと……あの、外。クローズの札が出ていましたが」
「うん、今日は閉めたの。誰かに聞かれたりとか、あんまりしたくないでしょ?」
「すみません、まだ夕方なのに」
そう言って苦笑するエリーゼ。
苦笑? どうもしっくりこない。不思議な表情だった。唇は上弦の三日月のように笑っているのに、瞳の水面は今にも泣きそうに揺らめいている。
「『ゆっくり話したい』なーんて、姫からの仰せなんだもの。それくらいするわよ」
「……ありがとうございます。………あの」
「?」
「『姫』は、さすがに……私、もう17になりますし」
「現役バリバリじゃないの」
いったい何の現役だというのか。
ちなみに姫とは王族の血統という意味はない、単なる呼称だ。幼い時には合っていたかもしれないが、年々抵抗が強くなる。
「ふうん、17歳。こーんな小さかった姫がねえ。あたしも歳をとるわけだ」
こーんな、と示されたのはサクラの膝くらいの位置だった。彼女は中腰の態勢をとっている。床からの高さは50センチくらいしかなさそうだ。
「そこまで小さい時は知り合っていません」
「融通がきかな、真っ直ぐでいいわね」
「……融通がきかない、とは」
「そういう所を言ってんの、よっ」
でこぴーん。エリーゼは「ふゃ」と気の抜けた声を上げた。可愛らしいではないか。
「……前にお会いしたのだって15の時ですから、すでにロリではなかったです」
「ちびっこい頃のが印象は強いでしょーが」
両手で額を押さえる仕草、痛みに潤んだ大きな瞳。うーん、やはり仔犬っぽいし、まだまだ子供っぽい。呼び方の話をはぐらかされたのにも、気付いているやら、いないやら。
子供の頃の方が印象深い。自分で言っておいてなんだけど、本当にそれが理由なのだろうか。
危なっかしい。手を貸したくなる。見ていると、なんとなく……不安になる。
「それで、話って?」
「あ……えっと、はい」
エリーゼの白いおでこがほんのり赤くなっていた。強く弾いたつもりはなかったのだけど。女として生きる身としては、腕力? 指力? の強さも考えものだ。
「………………えっと、……その……」
いくら姫でも不自然な詰まり方だ、と思ったところでようやく気付いた。エリーゼがテーブルの上で重ねた両手。見ると、小刻みにふるえている。本人に自覚はないらしい。
ああ、なるほどね。挨拶がやたら事務的だったのは、緊張のせいか。
サクラは短くため息をついてから、コトリ。エリーゼの前にマグカップを置いた。注文の品である。
「はい、おまちどおさま。カフェラテというより『エリーゼブレンド』ね、もはや」
差し出されたカップを、エリーゼは両手で受けとる。じんわり温かい。自分の手が冷たくなっていたことを、同時に知った。
「……ありがとうございます」
ふぅ、ふぅ。息を吹きかけると湯気が拡がり、目の前を白く染めた。
カップに口をつける。ほろ苦いカフェラテにふわふわのミルク、特製のトッピングが効いて、ピリッとアクセント。
「おいしいです」
「そう、よかった」
「もう少し辛くてもよいですが」
「カフェラテの感想とは思えないわね」
人の、まして客の味覚にとやかく言えはしない。エリーゼがおいしいと言うならそれが全てである。あたしは飲みたくないけどね、とだけ心の中で付け加えた。
カウンターから出ると、サクラはエリーゼの隣の席に腰を下ろした。座ると決まって脚を組むのも、右足が上になるのもサクラの癖だ。一口ごとに息を継ぐ猫舌娘を頬杖ごしに眺める。
「少しは落ち着いた?」
「……はい。すみません」
サクラが視点を下ろして見たところ、手のふるえは治まっている。よかった。好物を前にすれば気持ちもいくらか和らぐだろう、というのはサクラの算段。大人の余裕ってやつよ、なんちゃって。
実際、余裕があるのは間違いない。エリーゼが何を話しにきたのかも、察しはついていることだし。
ていうか姫の悩みなんて、一択でしょ。
「お話、なのですが……えと……カノンを、ご存知ありませんか」
ほらね、思った通り。
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