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その少女と初めて会ったのは十一ヶ月前だった。一年前ではなく、十一ヶ月前である。
「初めまして、鈴木ひかるって言います。よろしくね」
僕は白衣――これが僕のバイト先の塾の制服だ――の胸ポケットに安全ピンで留められた名札を見せながら、少女に笑顔を向ける。
三月の最後の週の月曜日。今日から塾では春期講習が始まっていた。うちの塾に通っているのはほとんどが中学生で、特にこの時期はこの春中学三年生――すなわち受験学年となる子たちが多く入塾してくる。僕の目の前にいる少女も今日が初めての塾ということで少し緊張しているようだった。
ちらりと、彼女用のファイルを一瞥する。この塾では生徒一人一人に対してファイルが用意されており、そのファイルには生徒の教材や、生徒の名前や家の電話番号などが書いた紙などが入っている。
『桜井あゆみ』
もちろん、名前は授業前にも確認しているが、念のため。
「あゆみちゃんは中学三年生の数学でいいんだよね?」
それも生徒ファイルに書いてはあるのだが、一応本人に確認し、塾で使っているテキストを渡す。
うちの塾は先生一人に対して生徒が二人付く。机を二つ、間を開けて並べてその隙間に先生が椅子だけ持って座る形だ。あゆみちゃんは僕の左側の机に座っていた。
テキストに名前を書くように指示してから今度は右の生徒の方を向く。こちらは去年の秋から教えているこの春に中学二年生になる男子生徒で、自己紹介の必要もない。軽く春休みの話なんかをしてからテキストを進めるように指示をする。
大学四年になってからこの塾でバイトを始め、もうそろそろ一年だ。授業の進め方に関しては随分と慣れてきた。
左を向くと、あゆみちゃんは既にテキストに名前を書き終わっていて、中身を読み始めていた。
「どう? 中三の数学は?」
横からテキストを覗き込む。中三の最初は多項式の展開からだ。すぐに展開公式をいくつか覚えなければならず、慣れるまでに少し苦労する。
「なんか、計算めんどくさそうですね」
「あー、まあそんなもんよ。慣れたらぱっぱとできるようになる……っていうか、ぱっぱとできるようになるまで慣れなきゃいけないんだけど……。まあとりあえずやってみようか」
それからまずは解き方を教え、その後にあゆみちゃんに目の前で解かせる。うん、特に問題なさそうだ。
「じゃあ次はこの問題をやってみて。分かんなかったら呼んでくださいな」
といっても、恐らくこの調子なら分からないということもないだろう。計算も中々速い。
この子は結構数学ができそうだ。
◇◆◇◆◇◆
「……ぷっ」
「あー、今笑いましたよね! まあ笑われるようなミスしたんですけど……」
あゆみちゃんが問題を解き終わり、答え合わせをしてもらうと一問だけ間違えていた。しかも凄くもったいないミス。
「詰めが甘いねぇ」
「うー、次からは気をつけますから」
「じゃあ楽しみにしてるよ。そういえばあゆみちゃんは部活とかは入ってるの?」
少し唐突感も否めないが、そこは僕のコミュニケーション能力が少ないから仕方がない。
この塾では勉強と同じぐらい生徒とのコミュニケーションを大事にしており、授業の報告書にはその日どんなコミュニケーションをしたのかを書く欄まで設けられている。
「吹奏楽部に入ってます」
「マジ!? 僕も中学のとき吹部だったよ! なんの楽器?」
「先生もですか! あたし、バスクラやってるんですよ」
バスクラというのはバスクラリネットのことで木管楽器の低音パートを担う楽器だ。木特有の優しくて落ち着きのある音が僕は大好きだった。
「先生はなんの楽器やってたんですか?」
「僕は君のお仲間だよ」
「ってことはチューバですか? なんか見えないです」
「ふーんだ、どうせ僕のことひょろいとか力なさそうとか言いたいんでしょ」
「別にそういうわけじゃないですってー」
チューバというのはバスクラと同じく低音パートだが、金管楽器だ。打楽器を除けばトップクラスで大きく、重い楽器である。正直、コンクールのときとかにあれを運ぶのはきつかった。
「しかも、僕の学校音楽室が一番上の階にあってさぁ」
「あ、うちもそうですよ。打楽器とか運ぶの大変ですよね」
おっと、いけない。あんまり喋ってると勉強の時間がなくなっちゃうな。
吹奏楽談義をいつまでも続けたいという気持ちに駆られながら、適当なところで切り上げてテキストの次の単元を教え始める。
うん、上手くコミュニケーションが取れなかったらどうしようかと心配してたけど、なんとか上手くいったみたいだ。よかった、よかった。
◇◆◇◆◇◆
その後、いくつか単元を進め、そのたびにあゆみちゃんは詰まらないミスをしていた。
「わざとですかー? ねぇ、わざとですかー?」
「わざとじゃないですよぉ」
あゆみちゃんは少し恥ずかしげに、目を逸らしていた。
◇◆◇◆◇◆
「先生、見てください! これ」
あゆみちゃんは来て早々、興奮した声を上げながら僕に一枚の紙を突きつけてくる。それは数学の解答用紙だった。ついこの間、あゆみちゃんの学校では中間テストがあり、この数週間はテストに向けて頑張っていたのだ。
この様子だとかなりいい点数だったのだろうか。僕も期待を膨らませながら点数を見てみると「92」の文字が見える。おお、確かにかなりいい点数だ。最後の応用問題が分からなかったらしい。確かにこれは中学三年生にはキツいだろう。下手すれば高校生だって解けない人がいるかもしれない。
「間違いはこれと……」
「あと、こっちです」
それは単純な計算問題。
「あゆみちゃん?」
「言わないでください」
僕とあゆみちゃんの目が合う。僕は笑顔、あゆみちゃんも笑顔。ただし彼女の笑みは若干引きつっていた。
「この問題」
「言わないでください」
もう僕が教え始めてから数ヶ月。こういうとき、僕がどういう反応をするかは分かってきたようで、
「な~んで間違えたのかな~?」
「うう、先生なんでそっちに目がいっちゃうんですかぁ。点数をもっと見ましょうよ」
もちろん点数は大満足だ。そこは全力で褒めよう。なんなら頭をなでなでしてやりたい気分だが、流石にそれをやるとセクハラになりかねないので止めておく。
「ま、今回はこの点数に免じて見逃してあげましょう。よく頑張ったね。偉い偉い。それじゃあまずは最後の応用問題を教えようか。これはね――」
◇◆◇◆◇◆
「そういや宿題はどう? 公式覚えてこられた?」
先週、二次方程式の解の公式まで行き着き、その公式を覚えてくるように言ったのだ。解の公式は少し形が複雑で、流石のあゆみちゃんも初めて見たときは目を丸くしていた。
「バッチリですよ。ほら」
そう言ってノートにすらすらと公式を書いていく。本人の言うとおり、公式を書く手は止まることなく複雑な式をノートに書き上げた。
「うん、いいね」
それからはニヤリと口の端を上げる。あゆみちゃんが少しだけ笑みを引きつらせた。
「じゃあ次は、これの証明をしてみようか」
「え――」
解の公式の証明はこのテキストには出てこない。解の公式を証明するのに用いる考え方自体は書いてあるのだが、やり方を教えるだけで詳しいことは載っていない。
僕はまずその考え方――平方完成というのだが――を具体的な数を使って教え、問題を解かせる。次に少し意地悪な数字の問題、そして最後に解の公式の証明だ。
「いや、無理……絶対無理ですって」
「いけるいける。案外なんとかなるもんだって」
実際あゆみちゃんのレベルだったらこれぐらいの計算は何回か書いていればできるようになるはずだ。
「先生応援の仕方が雑じゃないですか?」
「じゃあどういう風に応援すりゃいいのさ。情熱的に?」
「ぷっ」
「じゃあクールな感じで?」
「ぷぷっ」
「ほら、やっぱりテキトーな感じがいいんじゃん」
「そうですけどー」
そんなことを言うあゆみちゃんは言葉だけ見れば不満そうだったが、顔は笑っていた。
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