お題:『火』『糸』『過去』

 夜が、おそろしい。

 だって眠ったら、またあの夢を見てしまう。


 彼は、震えながらそう言った。



 炎が、燃え盛っている情景。


 最初は、一軒の家の、たった一部屋だった。


 しかし、その家の人が異変に気付いた時には、もう遅かった。


 業火は真っ赤な舌を伸ばし、街中の家、木々、店を舐めまわし始めていたのだ。


 逃げ惑う人々。押し合い。悲鳴。慟哭。昂ぶる熱。燃えるような、緋色の空。


 炎の悪魔はしたり顔で紅蓮の腕をふるいつづけ、一瞬にして、その小さな街を呑み込んだ。哀れな人々を嘲笑うかのように。


 逃げ切れたうちの何人もの人々が、一生の火傷をその身体におった。不運にも逃げ切れず、自分の家と一緒に燃えてしまった人もいた。


 彼の故郷は、あの日、一瞬にして灰になったのだ。


 家族の中で、炎の魔の手から逃げ切れたのは幸か不幸か、彼だけだった。

 まるで、悪い夢のようだった。



 もう十年も前のこと。

 他国の人々はとっくに忘れ去った、昔の話。


 いまでは彼は、隣国で静かに暮らしているけれども、その夢を見なかった日はないという。


 彼は今もその凄惨な緋色の過去に、いまも繋がれつづけている。見えない糸に縛られている。


 いつか、彼が玉のような寝汗で身体中をびっしょりにして、そのじっとりとした嫌な感触で起きてしまうことのない日がくるのだろうか。


 彼が安らかに眠れる日がくることを痛いほどに祈りながら、わたしは彼を抱きしめた。

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