新しい仕事は、おつかい
殻から出たばかりのヒヨコが懐くように、専務に懐いたのは言うまでもない。大丈夫、見ててくれるから。そう思うだけで、人間は頑張れるものだ。担当としていくつか振り分けられた仕事は、もう誰の指示も仰がなくて済む。それ以外のメインはワープロ清書だから、認めてもらうためには、早いだけじゃなくてテクニックをプラスしなくてはならない。「ワープロなら五十嵐さん」そう言ってもらおうと心に決め、面倒な清書を進んで引き受けた。
両親がせっせと運んでくるお見合い話は、興味がなくなっていた。見回せば、職場でそんな人はいない。左手にダイヤモンドを煌かせている友人も、結婚するのはまだ先だ。自分を養うこともできない娘が結婚したって、相手に寄生することしかできないのに、両親はそれを幸福だと考えている。高度成長期を経験した両親の価値観は「自由になるお金を持つこと」だし、それによって裕福な生活をしてきた私たちの価値観は「他人と差別化できる裕福さを見せつけること」だ。それが自分自身の価値ではないと気がつくまでに、半年近くかかったのだ。
「冬物の背広、洗濯に出すの忘れてたわ。ひとりだと、後回しになるなあ」
「忘れませんよ、普通。カビ生えるじゃないですか」
専務の席での会話が耳に入り、一瞬疑問に思う。結婚指輪をしているかどうか気にしたこともないけれど、年齢から言っても立場から言っても、当然既婚者だと思っていた。
「専務って独身だったんですか?」
昼休みに河合さんにこっそりと聞くと、曖昧な笑みが戻ってきた。
「独身になったみたいよ」
ふうん、離婚したのか。良い人なんだけどなあ、そう思った記憶はある。
秋になりはじめたばかりだというのに、雑誌は冬のドレスと化粧品の特集だ。分不相応な価格に疑問を抱かずに話題にするのは、足りない分を援助してもらうアテがあるからだ。親の財布から夫の財布に乗り換えるような結婚をした友人もいて、それが羨ましがられたりする。Cを組み合わせたロゴがつく、皮のバッグをデパートで手に取る。ハタチ過ぎたら本物を持たなくちゃねーなんて言い合ったそのバッグは、自分の給料の2か月分よりも高価だった。
「お茶淹れてくれ。沼みたいに濃いヤツ」
「二日酔いにそれって、胃に悪そう。お酒臭いです、専務」
「接待漬けだからなぁ。実際みんなよく飲むよ、他人の金だと思って」
地所の買い上げだとか、それに付随するマージンが、驚く利益率を生み出していた。それに乗じてリゾートや他の事業に手を出す会社も多くて、不動産業界は本業からかけ離れた場所にまで進出していた。河埜不動産は社長が冷静に堅実経営を考えていて、まだ若い社員たちには物足りなかったのだと思う。もっと華やかな会社に移っていく人も少なくはなく、常に求人を出しているような状態だ。女子社員もカタカナ職業に就くための資格取得を考えていたり、もちろん夢見る玉の輿の話ばかり追っている人もいた。
こんな好景気はいつまでも続くものじゃないと、わかっている人はわかっていた。多分専務もその中のひとりで、リゾートのセールスを冷たく追払い、ゴルフの会員権ですら持っている様子はない。これからいくらでも値上がりするのになんて考えている人を尻目に、おかしな成長を続ける経済の波を一歩引いて見れば、会社の基盤を固めるのに絶好のタイミングであったろう。
「胃が気持ち悪いから今日は帰るって、親父に言っておいてくれ」
専務が席を立ったのは、昼前だ。酷い顔色で、胃を抑えながら専務は会社を出て行った。社長宅は歩いて3分の場所だが、専務がどこに住んでいるのかは知らない。ひとりだと言っていたから、どこかに部屋を借りているのだろう。
「あれ、専務は? 一緒に出る予定だったんだけどなあ」
営業さんがきょろきょろする。
「具合が悪いって、帰られましたよ」
「珍しいな、38度の熱があっても仕事する人が」
「胃が気持ち悪いって言ってましたけど」
「ああ、じゃあ胃潰瘍が酷くなったかな。薬飲んでから接待に行くんだもんなあ」
薬を飲みながら酒につきあう不健康さに、思わず顔を顰める。“飲みニュケーション”なんて仕事術が罷り通り、男たちは睡眠の短さすら仕事の内だと思っているみたいだ。
「ま、出る時間に電話してみる。同行してもらわないと、話が進まないところだし」
夕方に件の営業と一緒に帰社した専務は、帰宅せずに席に着いた。私はといえば大量の書類に大苦戦中で、今日は8時コースだと覚悟を決めていた。都心の大きな会社ならいざ知らず、あくまでも地域密着型の会社では、女の子たちはそれほどハードな残業を強いられたりしない。
「五十嵐さん、まだかかる?」
声をかけてくれた河合さんに、頷く。
「打つのは手伝えるけど、フロッピーから移すのが、手間だしねえ」
「いいですよ、今晩は予定もないから、残業代稼いで行きます」
変わったねと微笑んで、河合さんが帰り間際にコーヒーを淹れていってくれた。砂糖大目のコーヒーを飲みながら、シバシバしてくる目を宥めていると、専務の席からヘンな咳が聞こえた。まだいたのか、大丈夫かななんて、そちらに注意が向いても、別に何かしたわけじゃない。
「車出せ、車!」
「病院に電話しとけよ、先に見てもらえるように」
男子トイレから、慌てた声が聞こえた。
「五十嵐さん、悪いけど中央病院に電話しといて。あと、社長の家に」
「何ですか?」
「専務が血ィ吐いた」
慌てて病院に電話をして、夜間受付をお願いした。その間に誰か、社長宅にも連絡したらしい。
「女の子のほうが、細かいことに気がつく。ワープロ片付けて、一緒に来て!」
なんだかバタバタとわからないまま、顔色を失った専務と一緒に車に乗せられ、総合病院に運ばれた。受付で手配を済ませ、その晩は入院になるというので、必要なものを教えてもらって近くのスーパーで買い揃えた。男の人でも問題なくできることだが、こういうことは女の子じゃなくちゃななんて、結局10時近くまでつきあって、やけに感謝された。
入院中の専務の判断を仰ぐためのお使い役が私になったのは、単純に入院時に居合わせたからだ。書類や相談のためのメモを持って毎日病院に通うと、社長の奥さんからついでを頼まれたりする。洗濯済みの寝巻きや下着を持って行き、洗濯物を社長宅に届ける。公私混同と言うほどの手間ではなくて、社内の仕事を抑えてもらって外出することは、気晴らしの内だ。野暮ったい事務服のままバスに乗って、毎日病院に通ううちに、専務とも親しくなってくる。会社の中では距離のある立場でも、パジャマ姿の上司には威圧感がない。胃の病気だというのに、お見舞いにいただいた食べ物を、社長宅に運ぶ前にご馳走になったりして、なかなか楽しい時間になる。
「旨そうに食うなあ。こっちは流動食だぞ」
「食べていいって言ったの、専務じゃないですか。さすが千疋屋のゼリーですー。しあわせー」
専務が書類に目を通したり必要な印を押したりしている間、私も小さな計算のために電卓を叩いてみたりして、距離感は否が応でも縮まった。
「寝てるだけってのも退屈でなあ。五十嵐さんが来てくれるの、待ってるんだよ」
「それ、胃に悪そうですねえ。退院できなくなりますよ」
過労死なんて記事が、新聞にちらほらしていた。
いつものように社長宅に洗濯したものを受け取りに行くと、着替えとは別の小さな包みを渡された。
「和則に渡してくれれば、わかると思うわ。悪いけど、こっちは冷蔵庫に入れておいてね」
お使い用のトートバッグに入りきらないそれを、紙袋に入れて病院に向かう。見慣れた青系のパジャマと花柄のバスタオルに安心するのは、それを使っている専務が、にこにこと私を迎えてくれるからだ。
「五十嵐さん、毎日来てて、仕事詰まってない?大丈夫?」
「他の仕事を少なくしてもらってるから、大丈夫です。ワープロも多少早くなりましたし」
「ああ、電卓も早くなったよね。最初の時は、どうしようかと思うくらい酷かったから」
あの時に見捨てられていたら、私は会社に居なかったろう。最後まで終わらせろと言ってもらわないとわからないほど、何もしていなかったのだから。
「五十嵐さんは今、戦力になってるよ。だから申し訳ないんだけどね」
「おだてたって、これ以上は働きませんけど。遊ぶ時間がなくなっちゃう」
預かった洗濯物を紙袋に入れ終え、会社に戻ろうとした時に、病室の扉がノックされて母子らしいふたりが入ってきた。
「パパ、びょうき?」
ベッドに走り寄った子供は、利発そうな顔をしている。慌てて片付けて、失礼しますと病室を出た。黙って頭を下げた女の人は綺麗で、いささか不審そうに私を見ていた。
あれが離婚した奥さんなんだろうか。子供までいたのか。意外な場面に出くわしたことにドキドキして、社長宅から預かったものが孫のために用意したものだと気がつくのに、時間を要した。
そうか。専務は専務だってだけじゃなくて、誰かと恋愛したり子供つくったりする人なんだな。そんなことを思いながら、バスに揺られて帰社した。
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