見ていてくれる人がいれば
相手にされなくなっている部分からの挽回は、相当の気力が必要だ。まず、電話に出ることからはじめたのは、我ながら成功だった。取引先の名前と、誰がどんな仕事をしているかを、否が応でも覚えられる。
「はい、河埜不動産でございます」
コール2回以内で電話に出るうちに、取引先が声を覚えてくれる。30分で済むと言われていた計算も、はじめは2時間近くかけて確認作業をしていたが、右手の指がフルに動くようになってくると、時間は短縮していった。信頼を受けるにはあまりにも短い時間だけれど、学校の友達だってはじめから仲良くはなれないよなー、なんて自分を励まして、表側の愛想の良さだけで人づきあいをする。昼休みに会議室でお弁当を広げる時に、仲間外れにされているわけじゃない。だからこそ、気にならなかったのだ。大人同士の「仕事上のつきあい」と「他人の評価」は別だということに。
その日、彼女は確かに機嫌が悪かったのだと思う。三十路に手が届くかどうかの河合さんは、女子社員の中でも古株で、私にも愛想が良かった。私が手伝える仕事はないと確認して、帰ろうとした矢先だ。急な来客で、お茶を頼まれているのを見た。おりしも月末、河合さんの机の上は紙の山だった。着替えてパンプスを履き替えバッグを持った私でも、お茶出しくらいはできる。私としては、気を遣ったつもりでいたのだ。
「お茶、私が持っていきます」
「あなたもう、制服じゃないでしょう。帰っていいよ」
「でも、お茶出しだけなら」
そう言い返すと、彼女はとても不機嫌な顔になった。
「定時過ぎにいらしたお客さんが、帰り間際の女子社員を使ったって気にするでしょう。そんな気遣いもできないから、使えないって言われるのよ」
言われることは尤もで、善意で申し出たはずのことが非常識だと指摘されたことについて、泣きたくなった。
「おしゃれくらい、他のことも見えればいいのに」
お茶を盆に載せながら、河合さんは背中でそう言った。振り向いて私の顔色を見てから、言い過ぎたと思ったのか、小さく謝罪してくれたけれど、聞いてしまった言葉は耳の中にこだましてしまう。
「ごめん、言い過ぎた。月末で気が立ってるの。気にしないで」
気が立っていたにしても、思っていなければ容易く口からは出ない。普通におつきあいしているつもりの河合さんですら、私を使えないと評価しているのだ。気がつくのが遅すぎたのか、それともはじめから仕事なんて無理だったのか。半分泣きべそで裏口から出ようとしたら、同時に表側からドアを開けた人と鉢合わせになりそうになった。
「お、お疲れさま。最近ずいぶん勤務態度が良くなったね。頑張ってくれよ」
専務がにこやかにそう言ったとき、給湯室から堪えてきたものが俄かに噴出したのは、批判されることに馴れていない、甘やかされた娘だからだ。
「頑張ったって、認めてもらえないかも知れないじゃないですか」
やはり後から考えれば、常識を学べば良いだけの話で、そこまで追い詰められていなかったはずだ。世間知らずの小娘は、一事が万事受け容れられないと考えてしまう。
どうしたどうした、と連れて行かれた裏側の喫茶店で、専務に向かってこぼした愚痴は、未だに赤面ものだ。
私は一生懸命馴染もうとしているんだとか、どうせ使えないと思ってるんなら放っておいて欲しいとか、誰も教えてくれないことが理解できるはずが無いとか、とりとめもなく脈絡もない愚痴を、専務は辛抱強く聞いていた。言葉を切ってアイスコーヒーのストローを咥えてから、一言だけ返しただけだ。
「喋れる相手が、社内でできるといいな」
遊び方の系統の違う同僚たちと、別段仲良くしようとは思っていなかった。
「五十嵐さんは目立つから、みんなそこばっかり見てるからね」
常識知らずで仕事のできない、おしゃればっかりのバカ娘。実際私はその通りで、それを認めたくなかっただけだ。楽しく学生生活を終えた後も、家事手伝いなんて言いながら家でふらふらと遊び、ちやほやしてくれる男がいるのも遊びのうちで、そんな女と結婚したい男と見合いを繰り返していた。
くだらないことを聞かせて申し訳ありませんでした、と頭を下げる。
「社内が円滑に仕事できるように考えるのは、俺の仕事だからね。五十嵐さんが五十嵐部長の娘だって、入社した時からみんな知ってるわけだし、そこで変な気をまわさせちゃったと思ってるんだ」
専務は忙しげに伝票を掴んだ。
「コネ入社だって言われたままでいたくないんなら、もう少し勉強して。せめてワープロでグラフ作れるようにならないと」
そこまで言われていたら、ウェイトレスが会社からの伝言を持って来た。
「和則さん、社長が呼んでるって電話が来ましたよ」
携帯電話は、まだ誰も持っていなかった。人を探すのには、行った先にアタリをつけて伝言していた。
「悪いね、これから接待があるんだ。落ち着いて考えれば、五十嵐さんはバカじゃないから、やっていけると思うよ」
急ぎ足で喫茶店を出て行く専務の後姿を、見た。私の愚痴なんて、本当は聞いている暇なんてなかったのだ。
「ちょっとこれ、打ってくれないかなぁ」
ワープロ清書が増えたのは、専務が直接私に持って来るようになったからだ。簡単そうなものを選んで与えられるのではなく、簡単な図形やグラフを挿入する、技術が必要なものが混ざる。ばさっと置かれたものを上から順に片付けるのではなく、優先順位の指示を仰ぐことも覚えた。
「だめ、ここ訂正」
専務の容赦ないダメ出しに、まわりが少しずつ気がついてくると、環境も変わってくる。トップが客扱いしていないのだから、他の社員たちが客扱いする必要はないのだ。遠巻きだったせいで指導されなかったいくつかの事柄が、付け加えて指導されたりする。
「これ、ちゃんと見直した?タイプミスがふたつもあったぞ」
専務が声を荒らげたとき、間に入ってくれたのは河合さんで、自分が受け容れられつつあることを知った。
「自分のタイプミスは、見つけにくいんですよ。それに五十嵐さんは、今日の朝からワープロの前に座りっぱなしですよ。目も疲れるでしょう」
確かにその日は、朝からワープロに張り付いていた。
「他人のタイプミスなら見つけられるのか」
「違う目って大事なんです」
「じゃ、打ち終わったら誰かに見てもらう習慣をつけさせろ」
専務の小言の結果が、他の人間に仕事を見せて相談する結果を生んだのだ。叱られたときは「こんなに強く言わなくても」と内心反発したのだが、社内に打ち解けるきっかけになったことは、変わりない。そして打ち解ければ女の子たちは、買い物や化粧品の情報交換の場に加えてくれるのだ。地域密着型で野暮ったいその社風に、すべて馴染むつもりはなくとも、気安くお喋りできる間柄は、仕事が円滑に進む上で重要だ。親が運んでくる見合い相手よりも、そちらのほうがエキサイティングに感じるのは、自分が考えていたよりも鬱屈していたからだと思う。
「五十嵐さん、清書できた?」
そう聞かれるたびに、嬉々として打ち出した原稿を見せる私は、自分の仕事に少しずつ自信をつけていった。
「それ、明日でもいいよ」
専務にそう言われたのは、女子社員の最後のひとりが私になったからだと思う。8時過ぎくらいだったろう。
「いえ、最後まで打っちゃいます。明日の朝一でチェックしてもらおうと思って」
「半べそだった時と、別人だな。頑張ってくれるよ、五十嵐さんは」
褒められて、馴染んだきっかけが専務の小言だと思い出した。あの時、闇雲に叱られ続けたら、堪え性の無い私はイヤになっていたろう。河合さんが割って入ってくれなければ、専務を煩わしく思ったかも知れない。
――もしかして、嫌われ役になってくれたんだろうか。
ふとそう思ったのは、普段の彼が他人の非を責め立てるタイプの人ではないからだ。こっそり会議室に呼んで注意する人が、あのときに限って他人の前で声をあげた。
大人なんだ、この人。改めて、専務の顔を見直した。
「ねえ。あの子、こっち見てるよ」
「ちょっと可愛い感じ?でも、センスはイマイチかな」
「男がブランドの紙袋持っててもねえ」
好き勝手な品定めのカフェバーの中で、お嬢さんブランドの華やかな集団は、自分たちの価値を他人の目で決める。9センチでオーダーしたハイヒールは、歩くための靴じゃない。あちらから、とまわってくる皿やグラスを遠慮なく受取っては、その勘定のついたオーダーシートの持ち主に微笑みだけ見せて、近寄らせない。
「こっちのテーブルに来ていい?」
意を決して申し出た男は、冷たい視線で追い返されるのだ。もっと自分を甘やかし、自分を高く買ってくれる男を求めて。三高なんて言葉が、もてはやされていた。高身長・高学歴・高収入。そうでなければ男じゃないと、声高に言う友人もいた。
「この前お見合いした男って、どうだった?」
前の週、釣り書きに興味をひかれた私は、明日は見合いだと踊りに行くのを断ったので、まわりもそれなりに成果を聞きたがったようだ。
「商社マンで、身長は175センチ以上、六大学卒、29歳」
「いいじゃーん。真弓のママ、乗り気だったんじゃない?」
「顔は普通。趣味は仕事」
「ますます、条件いい。趣味が仕事なら、無駄遣いもしないでしょ?」
「でも私、アイスクリームを食べるために並ぶ男って、やだ」
それだけの理由で断っても、見合いはまだまだ持ち込まれるのだ。男たちは自分で結婚相手を選ぶ時間がないほど多忙で、好景気に踊らされている企業ほど、働く人間は癒しを求めた。断りの申し出をしたとき、さすがに母は渋い顔をした。
「好きなものを並んで食べるくらい、欠点でもなんでもないでしょう。我儘ばかり言うと、今に相手がいなくなるのよ」
「いくらでもいるよ、人類の半分は男なんだから」
価値観を持っているのは女だけだと、錯覚しかけていたのかも知れない。
理不尽なクレーム電話にしょんぼりして、デスクの上で頬杖をついた。誰かに声をかけてもらいたくて、ポーズをとっていただけだ。誰も声なんてかけてくれなくて、プライベートの華やかさと会社での扱いのギャップに、自分が対応できない。
「ねえ、のんびり仕事するのはいいんだけどさ、場を考えてよ」
そう声をかけてきたのは経理部門にいて、はっきりとモノを言う同僚だ。
「仕事が遅い人がぼんやりしてると、他の人がワリ食うんだからさ」
自分ではもう、一人前近くの仕事をしているつもりだった。拗ねたポーズを同性の目から見ると、ただのサボタージュに見えることにすら、気がつかなかった。どこまでも甘い自分の見極めは、急激に気力を奪う。
下を向いて、仕事をした。落ち込んでいる理由は自分の甘さだけれど、理不尽に傷つけられたような気がしていた。そんなところが子供だったのだと、その頃に理解することはできなかった。お先に失礼します、と次々に同僚が帰って行く。遅れがちになったタイピングに、自分がうんざりする。
「五十嵐さん、まだ残ってたの?」
河合さんがびっくりして、帰り際に声をかけてくれた。
「仕事、遅いですから。一生懸命やってるつもりだったんだけど」
言いながら、つい涙ぐんだ。一生懸命仕事をしているつもりで、一人前に見てもらえない私が、可哀相に思える。一人前になる努力なんて、大してしていなかったのに、言われたことが悔しかっただけだ。
「ちょっと、泣かないでよ。事情を聞いてあげたいけど、今日は時間が無いから、ごめんね。あんまり落ち込んじゃダメよ」
学生時代みたいに、同調して一緒に嘆いてくれたり、慰めてくれたりはしないのだ。自分の子供っぽさにまた落ち込み、ますます遅くなった。
「五十嵐さん、まだ?」
仕事を持ってきた営業に声をかけられて、まだです、と答える。
「いいよ、もう。明日の午前中に持ってくから、朝一で打って」
明らかに不機嫌な営業に、頭を下げた。いつも受取る時に、礼の言葉を言ってくれる人だ。
「急ぎでした?」
「渡す時、明日の午前中に使うって言ったよね?」
言われた。難しい書類じゃなかったから、自分で後回しにしたのだ。
「大丈夫です。終わらせて帰りますから」
「やだよ、俺が残業させてるみたいじゃん。明日でいいよ」
強く言われると、口答えできない。ますます落ち込みながら、ワープロからフロッピーを取り出した。
「やってくって言ってんだから、終わるまでやらせてやれよ」
全然聞いていないと思っていた専務の席から、声が聞こえた。
「俺が最後にチェックしてやるから、松田は帰っていいよ。五十嵐さん、それでいい?」
文章だけのワープロが、本当はそんなに時間を費やすわけじゃない。だらだらと引き延ばしていた自覚はあって、仕事が遅いといわれたのが原因ならば、そこで挽回すれば良いのだと切り替えられたのは、専務がそう指示してくれたからだ。
「終わらせて帰ります。大丈夫です」
もう一度ワープロの電源を入れ、フロッピーを押し込むと、自分の手は普段のスピードで動いた。待たせている人がいて、その人は私が終わらせることができると思っている。30分ほどで専務の席に持って行き、A4に3枚の文章を見直してもらった。
「なんだ、早くなったな。パンチミスもないよ。お疲れさん」
専務のデスクの上はもう片付いていて、社内には何人か残ってはいても、彼がもう帰れる状態だったことがわかる。
「お待たせして、申し訳ありませんでした」
「社員が頑張ろうってときに、見届けるのが俺の仕事だからね。五十嵐さん、成長してるよ。焦んなくていいから」
お先に失礼しますと頭を下げて、自分のデスクを片付けた。成長していると思ってくれる人がいるのなら、もう少し頑張ってみてもいいかな、なんて回復した感情に、自分自身が安心しながら。
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