北風を、顔で受けても
春野きいろ
結婚するまでの暇潰し
紺色のスーツは膝丈タイトスカート、靴は7センチヒールでね。はじめての出勤の時、私は自分のイメージに、とても満足していた。短大を卒業して一年、家事手伝いって名前の居候に飽き飽きして、気の乗らないお見合いに両親も呆れていた。友達はアルバイトやお勤めで、私よりたくさんのお小遣いを持って遊んでいたし、今時花嫁修業なんてしなくたって、男はちやほやしてくれる。
時代は後に「バブル」と呼ばれた。
退屈しのぎにと父が持ってきた「結婚までのお勤め」は、沿線にいくつか拠点を持つ不動産業の本社だった。週休二日がいいの残業はしたくないのと我儘を言えたのは、他人の仕事を垣間見ることすらしていなかった証拠だ。楽しくお勤めして可愛がってもらって、尚且つお小遣いが手に入ると、そんなに甘いことを考えていたつもりはなくとも、学生時代の延長にしか考えていなかったことも確かで、ワードプロセッサの技術を磨くよりも、通勤着を購入することが先だった。
遊び相手の男に不自由はなく、欲しい物は大層な努力をしなくても手に入り、過剰な欲求が当たり前に通った頃、世間知らずで暢気な小娘は、何も考えずに社会の門を叩いた。退屈なお見合いとも、しばらくお別れできると思いながら。
初っ端の出勤から、自分が浮いていることに気がついてはいた。ドラマに出てくるようなOLなんて、いない。集中する視線の意味がなかなか悟れず、入社一週間で「お嬢さんだから」と溜息を吐かれた。
親掛かりの、ブランドのタグのついたスーツ、歩きにくいピンヒール。名刺の受取り方すら知らない私に、そんなものはなんのステイタスにもならないし、却って反感を呼ぶものだと知ったのは、社長の息子であり直属の上司に当たる、三十代半ばの専務の助言によるものだった。
助言という言葉は、間違っているかも知れない。あれは私が気付くか気付かないかの、皮肉だろうか。
「着ているものが一流なら、一流の仕事をしないとね。見た目とキャリアはイコールじゃないから」
商談以外は作業着で過ごす彼は、社長の息子という以外は、ごくごく普通の中年に手が届きかけた男で、私にとって興味の範囲外だった。遊び相手にも結婚相手にもならず、ただ部屋の隅で社内を見渡す鬱陶しい人、そんな位置づけだったと思う。
専務の河埜さんは、誰よりも早い出勤だった。社長の息子という立場だけじゃなくて、その頃の不動産業はすべからく、羽振りが良かったと思う。遅くまで仕事した後飲みに行き、陽気に金を使っては翌日にまた遅くまで仕事をする。取引先の一つのゼネコンの部長の娘は、なんとなく腫れ物扱いで、女の人たちはそれなりに接してくれてはいたけれど、派手に叱り飛ばされることもなく、コピーとワープロとお茶汲みをメインの仕事とされ、電話を受ける必要も感じなかった。
長い髪を丁寧にブローして会社に行き、社内の灯りはひとつも消えていないのに、定時で帰宅する。私の仕事は残業の必要のないものだったし、誰も何も言わなかった。だから、それで良いのだと思っていた。
「電話、鳴ってるよ」
ワープロを打っている最中に、デスクをとんとんと叩いたのは、専務だ。
「ワープロ、打ってて」
「社内の仕事より、客が先。電話が優先」
そう言われたら、出ないわけに行かない。
「はい、河埜不動産です」
びくびくしながら受話器を取ると、知らない社名を告げられた。聞きなおす間もなく、用事のある社員の名前を告げられたが、生憎留守だ。
「今井さんは、出かけてます」
後ろに立った専務は、黙って聞いていた。
「はい、折り返しお電話ですね。わかりました……ハマサキ様、はい、失礼します」
受話器を置いてほっと一息吐き、電話メモを記入すると、内容はあまりにスカスカだ。
デスクに電話メモを置こうとした瞬間、専務に呼ばれた。
「そのメモ持って、会議室に来て」
「ワープロは」
「今日中に終わればいいから、まず来なさい」
夕方まで時間がかかる程度の分量なのにと不満に思いながら、会議室に入ると、専務はすでに腰掛けて待っていた。
「五十嵐さんの連絡メモと、これ。見比べてごらん。何が足りない?」
相手の社名ははっきりせず、コールバックの電話番号も確認していない、用件のざっくりした内容も伺っていない自分のメモが不備なのだと、そう言われても気がつかないほど、私は何もしていない。
「五十嵐さんに電話の作法も教えなかったのは、俺のミスだね。これから指導するから、ちゃんと覚えてください」
専務は穏やかにそう言った。
「君も、ずうっとお嬢さん芸とか言われたくないだろう?」
そんな風に思われていたことも、その時に知ったのだ。
「誰に乗せてってもらうー?」
「多田君でいいんじゃない?暇そうだもん」
「え? でもあの子、シビックだよ。岩下君ならBMWだって」
「岩下君って、その後に着いて来そうで。どの面下げて一緒に歩けると思ってんだって感じ」
「帰りの迎えも手配しないと。遅くても文句言わない男」
「あ、ウチの彼が来るよ。みんなの家まで送るわ」
たかだか踊りにいく前の会話だ。自分で電車移動なんて、考えもしなかった。目一杯おしゃれすれば、男に送られて楽しみに行くのは当然で、どれだけ足代わりに使える男を持っているかは、ステイタスだった。手も握らせずに使えるだけ使って、それに不服を申し立てる男はあっさり疎遠にした。ステディな関係の男がいたとしても、それとは扱いが別なのだ。
いかに金持ちの娘に見えるか、自分を高く売りつけることができるか。「お嬢さんブランド」を身に纏い、知識だけの上流階級に近付いてもいない癖に、自分がそこに在るかのような錯覚を抱く。
「真弓、仕事はどう?」
同じ短大を出て、先に勤めていた寛子は少し先輩の表情だ。
「やっぱり都心に出れば良かったかなあ。全体的に野暮ったい感じ。うるさい専務がいるよ、話し方とか誤字とかいちいち言ってくるの」
「そりゃ、言うでしょう。かっこいい人、いる?」
「いないよー。地元密着企業だもん。お金はありそうだけどね。そっちは?」
「貧乏ったらしい男ばっかり。いいじゃん、お金があれば」
オードリー・ヘプバーンがショウウインドウを眺めながらコーヒーを飲んでいた宝飾店の、シルバーのペンダントを胸元にキラキラさせながら、ウェーブを施した髪を揺らして寛子は笑う。自分の稼ぎはすべて小遣いで、もしも結婚するのならば、結婚資金はすべて親が出してくれるものだと思っていた。親がそれまでにどんな大変な思いをして、生活の基盤を作ってきたのかなんて、見定めもしない世代であったのだ。
「縁故入社ってのも、困りもんだよねえ。どこまで注意していいのか、わかんない」
「いいんじゃない? すぐに辞めるでしょ、飽きっぽそうだし」
ロッカールームから聞こえてきたのは、多分私の陰口だ。私自身がまだ、仕事ができないのだとは思っていなかった時、先輩たちはとっくに私に評価を下していた。
「せめて帰る前に、手伝うことはないか、くらいの確認は常識でしょう」
「ダメだって。A4のチラシ一枚レイアウトするのに、半日かかるんだから」
専務がうるさいのではなく、言われて当然のことを私がしていなかっただけなの?誰もそれを指摘しないのは、私が取引先のエライさんの娘だからなのか。衝撃を受けたまま、ロッカールームのドアをノックする。
「おはようございます」
「あ、おはよう。今日も可愛いカッコしてるね」
取り繕った笑顔の先輩たちは、それきり口を噤んだ。
「何かお手伝いできることは、ありますか」
妙な顔をされたのは、今までにない言葉だったからか。誰が何時に帰るのかなんて気にもならなかったけれども、顔を上げて見回すと、確かに定時に帰り支度している人は皆無だった。空前の不動産ブームで、ニュースでまで土地の価格が取り上げられる時代に、暇なわけなんてない。ふうん、と顔を上げた同僚は、帳簿を出した後に早口に説明しようとしてから、少し考える顔をした。
「ゆっくりでいいから、これの縦計と横計、出しておいてくれる?」
まだパソコンの操作は一般的ではなくて、EDPと呼ばれるシステムも、会社の計算のすべてをカバーしていたわけじゃない。デスクに戻って電卓を叩き始めると、後ろを通る人たちが少しずつ覗き込んでいる気がした。
「できた?」
数分前にようやく終わったつもりのそれを差し出すと、同僚は累計を計算して、違うと呟いた。その電卓を叩くスピードは、今迄見たこともない速さだ。
「確認した? これ」
「いえ、今一通り終わったところで」
はあ、と溜息を吐きながら私から帳簿を引き上げようとする同僚に、専務がストップをかけた。
「五十嵐さんが一度引き受けたことなら、責任を持って最後までやらせてよ」
50人もいない本社の中で、専務とはいっても別に、役員然としているわけじゃない。
「でも、私はこれが終わらないと、帰れないんです」
「これで終わりなの? いいよ、後は俺がチェックするから」
定時なんて、もう2時間も過ぎていた。私が渡された帳簿は、彼女の仕事の中では残業の一部の「ちょっと片付けなくちゃならない」程度の仕事だったのだ。
人が減り始めた社内で、黙々と電卓を叩く。落ちてくる髪が鬱陶しくなって、机の中にあったボールペンで、髪を纏めた。空腹を感じて、余計なことを言って仕事を増やしたことに腹が立った。なんだか理不尽に辱めを受けているようで、何度やり直しても合わない縦と横の数字が、よれよれする。
「はい、どーぞ」
差し出された缶コーヒーを、思わず一息で飲んだ。
「一回ずつ縦と横を合わせるんじゃなくて、まず一行ごとに確かめ算して。それで数字が変わって来る場所が読み違え易いところだから」
今から考えれば、小学生を指導する教師のようだ。こくこくと頷き、もう一度電卓を叩く。一本の缶コーヒーと、話しかけられたことによって、煮詰まり気味の頭が解消されるとは思わなかった。
「縦横、合いました」
専務に帳簿を見せたのは、それから30分も経った頃で、さすがに女子社員はひとりも残っていなかった。受取って、件の同僚の席から別の帳票と見比べた後、やっとお許しが出る。
「お疲れさん。一度引き受けた仕事は、できないからって放り出しちゃいけないからね。それは社会人としての責任。五十嵐さんも、そろそろ実務に参加してもらうから」
「ワープロしか、できません」
「社員として、できることを増やすのは義務だよ。数字に弱いみたいだから、何か簡単な帳票作成から渡すように言っとく」
自分の仕事の拙さを指摘し、矯正するように言われているのだと、それには気がついた。
「終わるところまで放り出さないのは、第一歩目。腹減ったろう。気をつけて帰れよ」
「お先に失礼します」
駅までの道で一番近いアメリカンダイナーに飛び込み、ハンバーガーとコーラを注文する。太るなと思いながら、つけあわせのポテトまで綺麗に平らげて髪に手をやると、ボールペンで纏めたままだった。仕事をしてお金を稼ぐということを、甘く見すぎていたのだ。私の何倍も早く電卓を叩けるあの人は、本当は私の何倍も所得があって然るべきだ。それを基本給の括りで一緒にされたら、私が嫌われるのは当然だ。
どきん、と胸が鳴った。学生時代みたいに、表立って注意なんかされない。できなくて辞めて行く人間なんて、どうでもいい人間なのだから、見捨てることしかされない。今の私は、そんな立場だ。
翌日会社に行くと、同僚のひとりから小さな仕事を引き継いだ。前日の経費の集計で、朝30分程度で終わるからと微妙な笑顔で渡され、緊張する。彼女も多分、私がそんなに早く終わらせることができないと、理解している。前日に私に残業を分けた同僚から、話は聞いているだろう。人並みな仕事がこなせない女の烙印は、もうべったりと押されているのだ。それを取って欲しいと上司に言ったところで、意味は無い。自分が蒔いた種を刈り取るのは、自分しかいない。取引先の部長の娘でなければ、お払い箱に入れられていたのかも知れない。
せめて、他人と同じ分量の仕事を任されるようにならなくてはならない。学生時代には、赤点なんてプライドが許さなかったじゃないか。赤点どころか放校処分ばりの立ち居地に、ようやく気がついたのだった。
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