最終章 猫はいつもそばにいる
どれだけ多くの時間をかけても、猫との良き思い出は消えない。どれだけ多くのテープを使おうと、ソファに残された猫の毛は取り除けない。
レオ・ドウォーケン
十月二十七日 午後三時三十分
すぐ前を走っていた覆面パトが停車すると、理真もブレーキペダルを踏んで愛車を停めた。覆面パトから四人の刑事が降車するのを確認してから、私と理真も車を降りる。クイーンを入れたバスケットは車内に置いておく。
「お二人は、離れていて下さい」
「行くぞ」
中野刑事は、所轄署の刑事と二人でアパートの建物に向かう。私たちも、その数歩後ろから追った。残る二人の刑事は、アパートの裏手に回った。
階段を駆け上がり、二階三つ目の部屋の前で刑事たちは立ち止まった。廊下の床には、相変わらず血痕があるのが見て取れる。中野刑事がチャイムを押して、しばらく経つとドアが開いた。所轄署の刑事が素早く足を入れた。これでドアは完全には閉まらないようになった。
「刑事さん……何ですか?」
「
中野刑事の鋭い声に、顔を出した男、冬科は怪訝そうな顔をしたが、
「動物愛護管理法違反、及び器物損壊罪で逮捕状が出ている。同行してもらうぞ」
所轄署の刑事が広げてみせる書面と、続く中野刑事の声に、
「分かりましたよ……」と一瞬、従順な素振りを見せたが、「――どけ!」
二人の刑事の間にタックルをかますようにして、強行突破を試みた。冬科は、私たちの方向に向かってくる。この場から逃れようとするなら、階段を下りる必要があるため当然の帰結なのだが。
「おら! どけよ!」
冬科は蛮声を浴びせながら、懐から光るものを抜いた。
「理真!」
思わず私は理真にすがりついた。目の前に迫った冬科が、その手に握った銀色のナイフを振り上げる。私は理真に抱きつき、理真は私をかばうように背中に両腕を回した。が、冬科の右手が振り下ろされることはなかった。頭上に振り上げた体勢のまま、後ろから手首を掴まれている。
「公務執行妨害と傷害未遂も付いたな」
中野刑事の声。それとともに冬科の右腕がねじるように背中に回され、くぐもった悲鳴が漏れる。力の限り抵抗しているようだが、中野刑事の腕力は冬科のそれを遙かに凌駕していた。さらに中野刑事が冬科の腕をひねり上げると、痛みに耐えかねたのか、右手が開かれてナイフが離された。所轄署の刑事が、床に落ちたそれをハンカチでくるんで冷静に拾い上げる。中野刑事は冬科の足を払って廊下に俯せに倒し、所轄署の刑事から受け取った手錠を填めた。
「怪我はありませんか?
「はい、大丈夫です」
理真はいつもと変わらぬ口調で答えたが、私は動悸が収まらず、うんうんと頷くしかなかった。
四人の刑事に囲まれて、冬科は覆面パトに押し込められた。
黒猫ランタの血液と、冬科の衣服に付着していた血液が同じ物だと判明したことで、冬科に逮捕状が出ることになった。私と理真は、
理真の車を見る。助手席に置かれたバスケットの中から、野生の殺気を秘めた視線を感じたような気がした。その視線は、冬科に向けられていたことは間違いがない。
私たちは現場を離れた。
殺害に至ってはいないとはいえ、美緒には傷害罪、明日奈には死体損壊罪や、現場を荒らしたことによる捜査妨害など様々な罪が科せられることになるだろう。もっとも、明日奈は十三歳のため、実際に科刑されることはないだろうが、少年院送致などの措置が取られることは間違いないだろう。
理真は本部に向かって車を走らせている。明日奈と美緒に冬科逮捕の報告をするためだ。まだ二人が本部に残っているこの機会を逃せば、今後二人に会うには煩雑な手続きを踏む必要が出てきて、難しくなるだろうから。
「それにしてもさ」と私はバスケットを撫でながら、「今回は、理真もだいぶ苦労したみたいだね。一度は美緒ちゃんと明日奈ちゃんを本気で殺害犯だと思ったり、あのダイイングメッセージにしてもだよ。〈コンノ〉を改ざんして〈フユシナ〉に仕立て上げたんじゃないかとか。
私は笑いをまじえながら言った。
「それはもう勘弁してよ……」
理真はため息を吐く。私は探偵の横顔を見た。終始、泰然自若としているように見えていたが、理真もクイーンがいなくなったことで多少の冷静さを欠いていたのかもしれない。飼い主のペット対する麗しき想い。しかし、だからといって、今回のことで理真とクイーンの仲が進展することはないのではないかな、と私は思った。
「にゃー」
バスケットの中でクイーンが鳴いた。
「どうした?」
私が網目越しに覗くと、なおも「にゃーにゃー」と鳴きながらクイーンは、かりかりとバスケットの網目を爪で引っかく動作をする。
「どうしたんだろう?」
私は理真を見る。
「あの公園が、この近くにあるわね」
明日奈や美緒と会った公園。ランタの死体が発見された公園。確かに今、その近くを走っている。
「……寄ってみようか」
理真は県警に向かう道から、ハンドルを切って公園を目指した。
公園に入ると、クイーンの鳴き声はさらに大きくなった。
「
「分かった」
私はバスケットを地面に置いて蓋を開ける。待ってました、とばかりにクイーンは中から跳び出し、一目散に走り出した。私と理真も三毛猫を追う。
クイーンが立ち止まったのは、公園隅の植え込みの前だった。クイーンはそこで体を反転させると、私と理真の顔を見上げて、しきりに「にゃーにゃー」と鳴く。
「この向こうに、何かあるっていうの?」
私と理真は顔を見合わせてから、ゆっくりと植え込みの向こうを覗き込んだ。
明日奈と美緒は、二人並んで私たちの前に座った。
「それとね、明日奈ちゃんと美緒ちゃんに、もうひとつ報告があって……」
理真は携帯電話を取りだして操作をすると、画面を二人に向ける。二人は、驚いたような顔になって、理真の差し出す画面を食い入るように見つめた。
「……安堂さん、これって……」
「クイーンがみつけてくれたのよ」
明日奈の言葉に、理真は微笑みながら答えた。美緒の目に涙が溢れる。明日奈も瞳を潤ませて、肩を揺すってしゃくりあげた。
理真の向けた携帯電話の画面には、一匹の成猫と、数匹の愛くるしい子猫が動き回る動画が映っている。成猫は母親猫なのだろう、黒混じりの茶色の毛だが、脚が四本とも白くなっており、まるで靴下を履いているようだ。寝そべる母親猫の周りに思い思いに転がり、きょうだい同士じゃれあう小猫たち。その中の一匹は黒猫だったが、尻尾の先端だけが白い毛になっていた。ゆらゆらと揺れるそれは、まるで……。
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