第25章 三毛猫クイーンの対決
猫の愛より素晴らしいギフトがあるのだろうか。
チャールズ・ディケンズ
十月二十七日 午前九時三十分
(何なんだろう、この雰囲気は)
クイーンは自分が膝の上に座っている
敵か? 二人にとって
(でも……)
クイーンは思った。もしかして、すでに戦いは始まっているのか? 爪も牙も使ってはいないが、これが人間同士の戦い方なのだろうか?
「明日奈ちゃん、あなたはクイーンを連れたまま
次に行うのは、死体への工作です。まず、現場にあったマットに血文字を残します。さも被害者である
次に行うのは、犯行時刻、ひいては形塚さんの死亡時刻を確定させることです。明日奈ちゃんが美緒ちゃんから聞いた犯行時刻は五時半。明日奈ちゃんは友達に、その時間における美緒ちゃんのアリバイ証言を頼んでおきました。これをより強固なものとするためには、どうすればいいか。誰の目にも分かるように死亡推定時刻をはっきりと残せばいい。明日奈ちゃんも、こういった殺人事件の死体検案では、死亡推定時刻にある程度の幅が設けられるということは知っていたのでしょう。それにより、美緒ちゃんのアリバイ範疇から死亡推定時刻がはみ出てしまうかもしれない。それを阻止する目的で、明日奈ちゃんは形塚さんのしていた腕時計の針を目的の時間まで動かして、そこで壊してしまうという、ある意味古典的なトリックを思いついたわけです。
ですが、ここでも問題が発生しました。形塚さんのしていた腕時計は電波時計だっため、普通の腕時計のように竜頭を回して針を微調整することが出来ない仕様だったのです。正確には、出来るのですが、それにはボタンをいくつも何回か操作するという複雑な手順を踏まなければなりません。取扱説明書を見ながらでないと、とても行えない操作です。明日奈ちゃんは形塚さんの腕時計を操作するうち、ボタンを押すごとに時刻が一定の条件で変化するという機能をみつけました。この機能を使って何とかするしかない。それは、現在受信しているタイムゾーン――ここでは日本ですね――を基準に、数カ国の時刻に切り替えるというものでした。
明日奈ちゃんがこれを行った時刻が、午後八時です。この腕時計に設定されているタイムゾーンは、時差が一時間単位で切り替わる地域ばかりだったため、美緒ちゃんが犯行を行った五時半に針を合わせることは出来ませんでした。三十分単位で針を動かすことは不可能なのです。明日奈ちゃんはボタンを押していき、せめて五時半に近い時刻に針を持ってくることに成功、つまり、日本の午後八時から見てもっとも五時半に近い時刻のタイムゾーンをみつけたわけです。それは、米国東部標準時-0500です。日本のタイムゾーンは、日本標準時+0900ですから、(-5)-9=-14で、マイナス十四時間の時差があります。日本が午後八時のとき、アメリカ東部は同じ日の午前六時というわけです。形塚さんの腕時計はアナログだったためそこまで分かりませんでしたが、あの時刻は本来なら午後ではなく、午前六時を指していたということですね。ちなみに、米国中部標準時-0600にすると午前五時となり、五時半からは同じ三十分差となるのですが、その時間に設定した場合、日本では午後五時ということになり、まだ学校に人が残っている可能性のある時間ですから、死亡推定時刻として設定するには苦しいと思ったのでしょう。時間を前と後ろ、どちらかにずらすなら、後ろのほうが安全だと思った。
参考までに、形塚さんの腕時計が設定できるタイムゾーンは、以下の九種類です。日本時間である日本標準時+0900が午後八時、つまり20:00のとき、何時に相当するか。米国太平洋標準時-0800は、3:00。米国山岳部標準時-0700は、4:00。米国中部標準時-0600は、5:00。米国東部標準時-0500は、6:00。グリニッジ標準時+0000は、11:00。中央ヨーロッパ時間+0100は、12:00。東ヨーロッパ時間+0200は、13:00。中国標準時+0800は、19:00。です。以上から、五時半に最も近く、安全な時刻となると、米国東部標準時-0500の、6:00にするしかなかったわけです。
現場でやることは、これで終わり。あとは財布と溶解させた血液を持って、冬科さんのアパートに行き、部屋の前に血を垂らし、財布をアパートの裏に投げておく。以上で工作は完了します」
長い話となったためか、理真はここで一度言葉を止める。その間、明日奈は微動だにせず理真の話に聞き入っていた。美緒は、不安そうな、また不思議そうな表情で、理真と明日奈の顔に見比べるように目をやっていた。理真が口を開く。
「ちなみに、明日奈ちゃんが買い物をしたことは、現場近くのドラッグストアの店員へ聞き込みをしたらすぐに分かりました。明日奈ちゃんはここで、炭酸ソーダ、水に加え、猫用のバスケットも購入していましたね。珍しい取り合わせの買い物だったため、レジを打った店員が憶えてくれていました。お客が紺色の制服を着た中学生だったということも。買い物をする間、クイーンは店に入れられないため、外に首輪に紐でも結わえて待たせておいたのですか? もしかしたら、クイーンは寝ていたからその必要もなかったのかもしれませんが」
(そんな記憶は一切ないな)
クイーンは公園で明日奈に連れられ、美緒と別れてから、すぐに眠ってしまった。従って、明日奈が買い物中は店の外の目立たない場所にそっと寝かされていたのだった。その後、バスケットに入れられて明日奈が現場や冬科のアパートで工作を行っている最中も、ずっと夢の中だった。何度かまどろんで起きかけたこともあったのだが、周囲の状況を把握する前に、すぐにまた眠ってしまったのだ。
「まあ」と理真は、「工作を行っている最中、クイーンがずっと起きていたのだとしても、猫は人間の言葉を喋られないので、起きていて何を見られていても、問題はありませんけれどね」
美緒が複雑な顔で、
「明日奈……本当なの? 今、安堂さんが言ったこと……私のために? どうして……」
「美緒……」
明日奈も美緒を見返したが、それ以上は何も口にしなかった。
「さて」
理真が言うと、二人はまた探偵に視線を戻す。二人の視線を受けて、理真は、
「ここで、ずっと棚上げになっていた問題を解決することにしましょう。二人が思っていたものと、警察が調べたものとの現場状況の齟齬についてです。美緒ちゃんが形塚先生を殴ったのが午後五時半。凶器は読書感想文の賞でもらったブロンズ製のトロフィー。ですが、警察による形塚先生の死亡推定持刻は、多く幅を取っても午後六時半から七時半。凶器は用具室にあった砲丸の球です。この齟齬はどうして生まれたのか。ひとつしかありません。美緒ちゃんが殴った段階では、まだ形塚先生は死んでいなかったのです」
「えっ?」
「そんな――?」
美緒と明日奈は同時に声を上げた。その声に驚き、クイーンも耳をぴょこんと立てる。動揺する二人とは対照的に、理真は冷静な態度、口調を崩さず、
「そうです。美緒ちゃんに殴られた形塚先生は、昏倒しただけだった」
「で、でも……」と明日奈が、「わ、私が現場に行ったとき、確かにあの、形塚っていう教師は、死んでいた……」
「それも間違いありません。つまり、美緒ちゃんが殴ってから、明日奈ちゃんが現場を訪れるまでの間に、形塚先生はもう一度同じ傷口を殴られ、今度こそ死亡してしまったのです。そのときに使われた凶器が砲丸というわけです。最初にトロフィーで殴られた傷は、それで消えてしまった。凶器に使われた砲丸は用具室の隅に転がってしまっていましたから、明日奈ちゃんに見つかることはなかったのでしょう。明日奈ちゃんは、美緒ちゃんの使った凶器であるトロフィーの回収と工作のことで頭がいっぱいでしたから、視界に入っていたとしても見過ごされていた可能性も高いですが。全体に錆が浮き出た砲丸に赤黒い血痕が付いていても、一見分かりづらいでしょうからね。特に、携帯電話の明りしかない薄暗い中では」
「誰……」美緒が理真に顔を向けて、「誰なんですか? 形塚先生を殺した人って……」
「それは、まだこれからの捜査で明らかになります。今は、二人の事件への関わりだけを明らかにしました。どうですか、美緒ちゃん、明日奈ちゃん。私の推理に事実と違っていた点は、ありましたか?」
二人は俯いたままだった。見上げたクイーンの目には、少女二人の苦悩するような顔が映っていた。
(二人とも、どうしてそんな顔をしているの? 理真にいじめられたの?)
「にゃー」とクイーンは鳴いた。左右から、美緒、明日奈の手が伸びてきて、頭と背中を撫でる。
「ひとつだけ、いい?」
顔を上げて明日奈が口を開いた。「何ですか?」と答えた理真に、
「トロフィーのこと、どうして分かったの? あれは……私が……」
「そうですね。本来であれば、あのトロフィーは絶対に、誰にも発見されない場所に隠し続けられていたはずでした。私も、あのトロフィーを見なかったら、この事件を解決することは出来なかったでしょう。一度は間違った推理で、本当に美緒ちゃんが形塚先生を殺したのだと確信してしまったくらいでしたから。明日奈ちゃんは、これまで私が対峙してきたどんな大人の犯罪者よりも強敵でしたよ」
「そんなこと訊いてるんじゃないの! まさか……安堂さんが、あそこを――」
「違うの!」
美緒が明日奈の腕にすがりついた。
「美緒?」
「私なの……私が……ランタのお墓を……」
「……美緒が? どうして?」
「ご、ごめんね……」
「明日奈ちゃん」と理真が二人に割って入り、「美緒ちゃんを責めないで下さい。美緒ちゃんのおかげで、小動物殺傷犯を捕まえられた。ランタの仇を取ることができたんです」
「え……」明日奈は、理真と美緒を交互に見て、「それじゃあ、あいつは、ランタや、たくさんの動物を殺してきた、あいつは……」
「逮捕は時間の問題です。明日奈ちゃんが危惧しているようなことには、ならないと思いますよ。冬科さんには、罪もない生き物を面白半分に傷つけ、殺したという罪に相応しい罪状が与えられるでしょう。常習性があり悪質なため、執行猶予はつかない可能性もあり得ます」
「そう……そうなの……でも、殺人よりは、ずっと軽い罰ですよね……」
明日奈は放心したような表情になり、深くソファに背中を預けた。
「明日奈……」
美緒が今度は逆に明日奈の肩を抱き、クイーンも明日奈の膝の上に居場所を移した。
「ねえ、どうして……どうしてそんなことをしたの? 明日奈……」
目に涙を溜めて、美緒は尋ねる。明日奈は、わざと美緒から視線を外すようにして、
「ちょうどいいチャンスだと思ったのよ……あいつが、猫を殺すところを目撃して、どうしようかと思っていたところに、死体がひとつ出てきた。あいつを殺人犯として逮捕させる絶好の機会だと思ったの。私は……美緒、あなたを利用したのよ……ランタの仇をとるために」
それを聞くと、美緒は溜めていた涙を頬にこぼし、明日奈の肩に顔をつけた。
「最後に、私は明日奈ちゃんにお礼を言わなければなりません」
「……何よ」
明日奈は涙を溜めた目で理真を見た。
「クイーンのことです。恐らく、明日奈ちゃんは、冬科さんの手からクイーンを守ってくれたんですよね。だから、現場への工作をする大事な作業にも、クイーンを同行させた。そのままクイーンを放してしまったら、冬科さんに見つかって、殺されてしまうかもしれないと思って。クイーンを見捨てていけば、ドラッグストアで猫用バスケットなんていう目立つ買い物をせずに済んで、店員に憶えられることもなかったかもしれませんね。明日奈ちゃん、ありがとう」
理真は頭を下げて微笑んだ。
「何よ……」
唇を噛みしめていた明日奈だったが、
「にゃー」
後ろ足で立ったクイーンが明日奈の胸に前足をかけ、頬を舐めると、その瞬間、堪えきれなくなったように涙をこぼした。明日菜は美緒に抱きよせられ、その胸に顔を埋めると、子供のように泣きじゃくった。
ノックの音がした。「どうぞ」と理真が答えると、静かにドアが開き、
「理真」
「
「……そうか」
安刑事は二人の少女を見て、
「
二人はもう泣いていなかった。真っ赤になった目を少年課刑事に向けて、黙ったまま頷いた。
「すまないが、猫は連れて行けないんだ」
立ち上がった二人についていこうとしたクイーンは、屈み込んだ安刑事に頭を撫でられ、止められた。明日奈と美緒も、クイーンの前に屈んで、
「ミケ、私たちなら大丈夫。ありがとう」
「ミケちゃん……ありがとう……」
二人は交互に三毛猫を抱きしめた。
床に下ろされたクイーンは、明日奈と美緒の顔を見上げて、
「にゃー」
と鳴いた。二人の心には、もう空洞はなくなったんだな、とクイーンは思った。
刑事に連れられて、二人の少女がいなくなった応接室で、理真はクイーンをバスケットに戻しながら、
「さて、由宇、それじゃあ、私たちも行こうか」
「行くって、どこへ?」
「形塚さんを殺した犯人に会いに行くのよ」
バスケットの蓋を閉めた。
クイーンはバスケットに入れられたまま、理真が座るソファの横に置かれていた。理真の隣には由宇が座り、テーブルを挟んでひとりの教師と相対している。
「あなたが、形塚先生を殺したんですね。用具室に転がっていた砲丸を使って」
「……」
対面に座る教師は、意味もなく手を何度も組み替えながら、額に汗を浮かべていた。まだ暖房が入ったばかりで、応接室は冷え切ったままだというのに。
「何を根拠に……」
ようやく絞り出したという声を、教師は探偵にぶつけた。
「トロフィーです」
「は……?」
「大林さんが読書感想文の賞でもらったトロフィーのことです。あなたは、あのトロフィーがどういったものか、子細に私に教えてくれましたよね」
「……それが……どうしたと……」
「どこで見たんですか」
「えっ」
「あのトロフィーを、あなたはどこかで見たはずです。でなければ、外観を私に説明できるはずがありません」
「……それは……形塚先生の机の上で……」
「形塚先生は、送られてきた段ボールでの梱包状態のまま、ここでは開封していません」
「はっ?」
「あの段ボールを形塚先生が開封したのは、体育用具室に行ってからです。職員室で見ることが出来たわけはないんです。加えて、あのトロフィーは今回の賞からデザインを一新したもので、まだどこにも公開はしていませんでした。主催団体のホームページにも乗っていません。よって、現物を見る以外に、事前にトロフィーのデザインを知ることは不可能なんです」
「……」
教師の表情に、しまった、という色が浮かんだ。
「あなたがトロフィーを見たのは……まさに体育用具室で、ですね。携帯電話のライトで室内を照らして見たときに。頭を殴られた形塚先生のそばに転がっていたものを。そんなこと、しらばっくれれば済んだ話ですが、あなたは極力、嘘をつくときのセオリーに従おうとしたのですね。大事なただひとつだけ嘘をついたら、あとは包み隠さず知っていることを全て話したほうがいい、という。それが裏目に出てしまいましたね」
「……状況証拠でしかありません」
「おっしゃる通りです。ですから、色々と調査に御協力願えませんか」
「調査……って?」
「まず、十月二十三日午後七時前後の、あなたのアリバイを調べます。加えて、砲丸で人を殴って、返り血の一滴も浴びていないというのは考えがたいですから、当日着ていた衣服を入念に調べさせてもらいます。死体を発見したのは早朝にグラウンドに来た野球部員の生徒たちで、先生方が出校される前に警察が現場を立入禁止にして検分しています。その後に現場を訪れたとて、そこで血が付着するはずはありませんから」
大きく息を吐いてから、
「何があったというんですか。前々から形塚先生に殺意を抱いていたということでもないようですが」
理真の問い質しに、清水教頭は、テーブルの一点を見つめたまま、
「……最初に、形塚くんを殴ったのは、大林くんなのですね」
逆に質問をしてきた。理真は黙ったまま頷く。視界の端でそれを捉えたのだろう、清水教頭は、「やっぱり」と呟いてから。
「では、彼女の口から聞きましたか? 形塚くんが、あの用具室で……大林くんに、何をしようとしていたか……」
理真は返答をしなかったが、清水教頭は、それには構わずに、
「……私が帰ろうとしたとき、廊下の窓から、用具室のドアが開いているのが見えたんです。また運動部の生徒が閉め忘れたんだと思い、私は用具室に向かいました。そこで……俯せに倒れている形塚くんを発見しました。声を掛けると、それで意識を取り戻したのか、形塚くんはふらつきながらも起き上がりました。で……こんなことを言ったんです『美緒、君も僕のことが好きなんだろ。いいじゃないか』と。血が目に入って、何も見えない状態だったのでしょう。思考も錯乱していたのかもしれない。加えて、彼の薄笑いを浮かべた顔を、好色そうな顔を見て、私は……ここで何が起きたのか、起きようとしていたのかを察した。私は……頭に血が上って……。形塚くんを殴ってしまったあと、携帯電話のライトで照らしながら、砲丸から指紋を拭き取りました。そのときです、床にブロンズ像が転がっているのを見たのは。その横に今日送られてきた段ボール箱があったことで、それが何か理解しました。同時に、やはり、ここには形塚くんの他に大林くんもいたのだと……」
清水教頭は、両手で顔を覆った。
「私にも……中学生の娘がいるんです……」
ゆっくりと前屈みになりながら、清水教頭は肩を震わせた。
「清水先生」と理真は、「あなたが持った義憤は、教師として、いえ、人間として至極当然なものだったでしょう。教師職にある人が、そういう義憤を持つということに対して、私は頼もしいとさえ感じます。ですが、その想いの発現のしかたが、そしてそのあと沈黙を貫いていたという行為は、決して許されるものではないと、私は思います」
清水教頭は、顔を覆ったまま何度も頷いた。
「にゃー」
バスケットの中から三人の人間を見上げて、クイーンは小さく鳴いた。
(そろそろ、ご飯の時間じゃない?)
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