第9章 ダイイングメッセージ考

神よ、僕らの使う文字では、あなたの中に「ネコ」がいる。


ながれおとや



十月二十四日 午後六時五十分


 部屋の静寂を破ったのは城島じょうしま警部だった。


「まず、第一の偽物説であれば、犯人は殺された形塚かたづか冬科ふゆしな、二人に同時に恨みを持っていたという可能性が高いな」

「警部」と中野なかの刑事が挙手して、「調べでは、形塚は誰からも恨みを買うような人間ではなかったということでした。犯人は冬科ひとりだけを恨んでいて、形塚は冬科へ冤罪を着せるためだけに殺された、ということはあり得ませんか?」

「ただの生け贄ということか。そこまでするか? それほど恨んでいたのであれば、冬科を直接殺すのが普通じゃないか?」


 警部の言う通り、恨んでいる人間に冤罪を着せるためだけに、無辜の一般市民を手に掛けるというのは、心理的に考えがたい。


「しかもだ」と警部は続けて、「今回、その冬科には、ほぼ完璧なアリバイが出来上がってしまっている。そこまでするからには、罪を着せる冬科のアリバイがない時間を狙って犯行に及ぶべきじゃないのか? 殺人という大罪を犯すに至っては、事前準備があまりに杜撰すぎるぞ」

「おっしゃる通りです……」


 中野刑事は素直に自説を引っ込めた。


「まあ、しかし、冬科に恨みを持っている人間というのは、調べてみてもいいかもな。次に、第二の説、改ざん説だが、これは色々と試してみないことには何とも言えないな」


〈フユシナ〉改ざんの結果、この四文字の片仮名が作られたというのであれば、線をひとつひとつ除けていって、他の意味の言葉になるかどうかを検討しなければならない。


「第三の看過説だが、これは犯人が盲目、もしくはそれに近い状態の可能性があるということだな。そうなると、犯人はかなり限られてくるが。次に、第四の勘違い説だが、俺の考えでは、今のところこれは可能性が薄いと思う。この説を採るならば、被害者の形塚が犯人を冬科だと勘違いしたということになるが、そもそも両者の間に関係性が浮かんできていないからな。真犯人の正体が誰であれ、形塚が冬科のことを知っているという前提がないと成り立たない。第五の書き損じ説。これは、元々どんな名前を書こうとして〈フユシナ〉となってしまったかの考察が必要になる。最後に、第六の僥倖説。これについては、何とも言えないな」


 警部の総括が終わると、再び会議室に静寂が訪れた。


「警部」と挙手をして、今度静寂を破ったのは理真りまだった。「今ほど出た六つの説は、五番目の書き損じ説を例外として、偽物、改ざんの二つと、看過、勘違い、僥倖の三つ、二つのグループに分けて考える必要があると思うのです」

「どういうことですか?」

「看過説、勘違い説、僥倖説は、どれも、メッセージを書いたのは被害者であり、犯人はそれに何も手を加えていない、ということです」

「確かにそうですね。第一の偽物説と、第二の改ざん説は、どちらもメッセージの全部、もしくは一部に犯人の手が加えられている」

「そうです。現場に書き残されていた〈フユシナ〉という言葉が、現在容疑者として上げられている冬科陣平じんぺいさんを間違いなく指すのであれば、彼を知っていたのは、被害者のほうなのか犯人のほうなのか、ということです」

「前者グループであれば、冬科を知っていたのは犯人のほう。後者であれば、被害者が冬科を知っていた、ということですね。となると、現在のところ、被害者と冬科には何の接点も見いだせていないので、前者グループの二説、犯人によるニセのメッセージか、被害者が書いたものに犯人が改ざんを施したものか、この二つに絞られるということですね。五番目の書き損じを例外としたのは、そのためですか。書き損じであれば、被害者と犯人、どちらも冬科のことを知らなかった可能性も出てくる」

「はい。ですが、個人的な見解を述べさせてもらえば、今回の事件で書き損じ説というのは、私は薄いと思います。メッセージを見た限り、あれだけはっきりとした字体で記されていた文字が、何かの書き損じだとは思えません」

「それには私も同意見です」

「はい。それで、残った二つの説では、どちらも冬科さんに罪を着せるという犯人の意図があると思うのですが、偽物説と改ざん説には、その度合いに差があると思うのです」

「度合い? 犯人にですか?」

「そうです。改ざん説であれば、被害者が本来書いたメッセージに何かを付け足すことで〈フユシナ〉と読ませることが出来る。それに気付いた犯人が、これを幸いに彼に罪を被せてしまえ、という、語弊のある言い方かもしれませんが、軽い気持ちが見え隠れします。ですが、偽物説となると、どうでしょう」

「確かに。被害者は何のメッセージも残すことなく息絶えているのに、犯人がわざわざ〈フユシナ〉と書き残したということになる。これは、冬科に対する強烈な恨みの感情がないと出てこない発想に思えますね……」


 警部は組んだ両手で口元を覆うような体勢になった。


「それに加えまして」と続けて理真は、「先ほど、丸柴刑事から筆跡についての話がありましたが、ダイイングメッセージを書いたのが犯人であっても、形塚さんの筆跡を真似ることは可能だったのではないかと思います」

「どういうことですか?」

「被害者の懐には、手帳が残されていたと聞きました。その手帳の書き込みの中に、〈フユシナ〉の四文字があったとしたら、それを真似ればいいわけですから」

「どうだ?」


 城島警部は証拠品担当の刑事に確認を取った。声を掛けられた刑事は、「調べてきます」と席を立って会議室を出た。


「よし」と警部は、その間に、「被害者である形塚はもとより、冬科に対して恨みを持っていた人間の捜索も行おう。やつが新潟に出てくる以前の動向も探る必要があるな。冬科の出身地の管轄警察へ協力要請も出すことになる」


 警部や隣の織田刑事と、今後の捜査方針についてのやりとりを始めた。捜査員たちも、隣同士で事件についての考察の声を上げ始める。数分後、廊下を走ってくる足音が聞こえた。


「ありました。形塚の手帳には、〈フユシナ〉を構成する片仮名が全て、どこかしらに書かれていました」


 ううむ、とそこかしこで声が上がった。よし、と城島警部は、


「あの血文字は犯人が書いたものである公算が高まったな……では、今後の捜査分担の割り振りをするので捜査員だけ残ってくれ、会議はこれにて終了とする」


 城島警部の宣言で、捜査会議は終わった。パソコン操作担当や、書記担当の警察官は、すぐに席を立つ。私も立ち上がろうとした、が、


「理真?」


 隣の理真が立とうとしない。鞄から取りだしたメモ帳に、ペンでもってなにやら書き付けている。〈ユフシナ〉という四文字がいくつも書かれており、その横には、なにやら意味不明の、しかし全て片仮名と分かる文字が、やはりいくつも記されてあった。理真のペンが止まった。同時に立ち上がり、


「警部!」と呼んで、そのメモ帳を手に前方の席に走った。私もあとを追う。


安堂あんどうさん、まだ何か?」


 警部をはじめ、残っていた中野刑事、丸柴刑事、織田おだ刑事らの顔が一斉に理真を向く。


「これを見て下さい」理真は今しがたペンを走らせていたメモ帳を、捜査陣の前の机に置いて、「私は、改ざん説であった場合、どんな文字に加工を施したら〈フユシナ〉と読めるようになるのか、色々と試していたんです。で、これです」


 理真の細い人差し指が、メモ帳の一部をさした。そこには、


「……コンノ?」


 城島警部が読み上げたように、〈コンノ〉という片仮名三文字が縦に書かれていた。理真は頷いて、


「この、〈コンノ〉の〈コ〉の下側の横棒を右に伸ばして、〈ン〉に点をひとつ加えて、〈ノ〉の上側に横棒を書き足す、そうすると、〈ユシナ〉になります。そして最後、その上に〈フ〉と書き足したら……」

「……フユシナ……〈コンノ〉が〈フユシナ〉に? 被害者がもともと書いたのは、〈コンノ〉だった?」

「でも、理真」と丸柴刑事が、「これだけじゃないでしょ。他にもっと別の言葉だった可能性はある」

「確かにそう。でもね……中野刑事、今日、私たちはこの〈コンノ〉という名字の持ち主に会いましたよね」

「コンノ……ああ! あの体育教師!」


 私も思い出した。今夜、学校に宿直すると言っていた、筋肉質の体育教師、近野こんの教諭のことを。


「体育教師の近野か……」城島警部は、理真の差し出したメモ帳を睨んだまま唸って、「もし、犯人が、その近野という教師だったとしたら。理真くんの推理通り、被害者のメッセージを改ざんしたのだとしたら、どういうことになる?」


 その言葉に、いち早く反応したのは織田刑事だった。


「昨夜の夜六時半から七時半の間に、近野は形塚を体育用具室に呼び出し、そこで殺害。形塚は死ぬまでの僅かな間に、自分を殺した犯人を名指ししようと、血で〈コンノ〉と片仮名で記す。近野は、犯行後のことで冷静さを失っていたか何かが理由で、被害者が血文字を書き終えたあとで、それに気が付く。その上から血を被せて消してしまおうかと考えたが、そこで一計を思いつく。形塚の残したダイイングメッセージを利用して、自分以外の人間に罪を着せるという計画を。そこで、形塚の書いた文字に上書きをして……」

「〈フユシナ〉と仕立て上げた、と、こういうわけですか?」


 中野刑事が次いだ言葉に、織田刑事は「うむ」と頷いた。どうでもいいが、織田刑事、興奮のためなのか、〈ダイイングメッセージ〉なんていう嫌っているはずの不可能犯罪の専門用語を、しれっと使ってしまっている。


「そうなると」と城島警部は、「近野は冬科陣平のことを知っていたということになるな。咄嗟に〈フユシナ〉なんていう名前を思いつかないだろう。思いついたとしても、そんな希有な名前の持ち主が確実にいるとは限らない」

「そうですね。〈コンノ〉を改ざんするのであれば、〈コシノ〉や〈ヨシダ〉とか、もっとメジャーな名字に変えた方が捜査の撹乱目的を果たしますからね」


 織田刑事が言うと、警部は、


「よし、近野と殺された形塚との間に何かトラブルがなかったかと、近野と冬科に繋がりがあるか、明日はそれも調べることになるな」

「警部」と中野刑事が、「これから、近野に話を訊きに行きましょうか? あいつ、今日は宿直だから、学校にいるはずです」

「……いや」と警部は掛け時計を、ちらと見てから、「この場で出た突発的な推理で、状況証拠でしかない。近野の周辺を洗ってからでもいいだろう」


 私も腕時計を見ると、時刻は午後七時を回っていた。


「それであれば、明日、私と由宇ゆうの二人で学校に行ってきてもいいでしょうか」


 理真が申し出た。が、それを聞いた警部は、


「いや、明日は保護者会が開かれるため、休校だと聞いたぞ。先生たちも、そっちの対応で手一杯だろうな」

「そうですか……でも、現場を見るだけですから。今日の会議の内容を踏まえて、もう一度色々と観察してみたいんです」

「……そういうことなら。よし、明日の朝にこちらから学校に連絡を入れておこう」

「ありがとうございます」


 理真と、それに倣って私も頭を下げた。視界の隅で、織田刑事の苦虫をかみつぶしたような表情が見え隠れしていた。



 上所かみところ署を出ると、理真はもう一度携帯電話を確認した。会議中は電源を落としていたためだ。


「何もないみたい」


 理真のお母さんからの連絡はなかった。そのまま理真は電話発信する。相手は、


「もしもし、お母さん……うん、今、会議が終わったところ……」


 理真とお母さんとの通話は数分続いた。電話を切ると理真は、


「由宇にもよろしくだって。さて、帰ってポスターを作ろう」


 私たちはアパートへの帰路に就いた。



~迷い猫を捜しています~

名前:クイーン

性別:メス

体重:四キロと少し

柄:三毛(縞三毛)

好物:かにかま

特徴:人を警戒しません。名前を呼びかけると大抵鳴いて返事をします。あごの下と頭を撫でられるのが好きです。

十月二十三日の昼間に家出しました。赤い首輪(鈴なし)をしています。見かけた方、ご連絡をお願いします。



「よし、出来た」


 理真は、プリントアウトされたA4サイズの紙を満足そうに眺めた。クイーンの写真(全身と顔のアップ)の下に、各種情報を書き込み、最後に理真、理真のお母さん、私と三人分の携帯電話の番号を入れてある。いつ何どき電話があっても、誰かしらが出られるであろう。使用したクイーンの写真は、理真と私の携帯電話の中から写りのいいものを選択した。余白には理真が描いた下手くそな猫のイラストも添えてある。あとは必要枚数分を印刷して、屋外に張り出すものにはラミネート加工をする(ここは私の管理人室で、アパートに関する連絡事項を玄関に張り出すため、ラミネート機械を購入してある)。

 時計を見ると、もう十一時を回ってしまっていた。

 私と理真は明日の予定を確認する。午前中はみなみ中学校へ。もう一度現場を見にいき、可能であれば、疑惑の近野教諭と会って話をする。余裕があれば、学校にもクイーンのポスターを提示させてもらえないか交渉もすることにした。そして午後は、動物病院をはじめ、今日出かけた公園にポスターを貼らせてもらう。事件については、警察からの情報が集まり次第動くつもりだ。

 部屋まで戻るのが億劫だと、理真が今夜は私の部屋に泊まると言い出した。まあいい。よくあることだ。夜も遅いので、時間節約のために二人でお風呂に入ることにする。このクラスのアパートとしては、浴室は広い方だと思うのだが、さすがに大人二人が湯船に浸かるのは無理だ。ひとりが湯船、ひとりが体を洗う、と居場所を分担しなければならない。


「理真、ダイイングメッセージの件、ナイスアシストだったね」


 湯船の中から私は探偵に声を掛けた。理真は、手で体を洗いながら(そのほうが肌にいいとかいう情報を仕入れてきて、理真は最近、タオルやスポンジを使わずに素手で体を洗っている)、


「色々と試しているうちに出来ちゃったからね。発表せずにいられなかったわ。でも、あんなのただのパズルみたいなものだからね、あれが正解とは当然だけど、限らない」

「いやいや、あの織田刑事まで、理真の説に乗ってきてたじゃない」

「織田さん、『ダイイングメッセージ』って言ってたよね。凄い真面目な顔で、私、吹き出すのを堪えるのに大変だったわ。何だか、かわいかったわよね――おっと、私がこんなこと言ってたなんて、内緒だよ」

「当たり前じゃん」


 やはり、理真も気付いていたのか。私も思い出して、にやにやとしてしまう。が、その笑みもすぐに引っ込んだ。


「クイーン、今頃、どこで何をしてるんだろ」


 私の呟きが、浴室の天井に反響した。今朝見た夢を思い出す。天井がぼやけてよく見えないのは、私が裸眼なのと、湯気のせいと、そして、もうひとつ……。私はお湯をすくって顔にかけた。


「由宇、交代」


 理真の声で私は湯船から上がり、洗髪を始めた。目を閉じていられるのは幸いだった。

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