第10章 三毛猫クイーンの葬送
猫は地上に舞い降りた精霊に違いない。猫は、落ちることなく雲の上を歩くことができるだろう。
ジュール・ヴェルヌ
十月二十三日 午後十時十分
初めて訪れた(
目を覚ますと、三毛猫クイーンは見知らぬ部屋にいた。明らかに
「あ、起きた」
隣で声がした。明日奈のものだった。
クイーンは、脚を張り背中を丸めると、両前足を前方に、ぴんと伸ばし、続いて後ろ足を一本ずつ伸ばしてストレッチ。その間に大きなあくびもして脳に十分な酸素を取り入れる。これで寝起きの準備は終了、いつでも活動可能な状態となった。
改めて周囲を見ると、クイーンはベッドの上にいた。ここに寝かされていたらしい。そのすぐ隣には、明日奈が寝間着姿で横になっている。ここは明日奈の自宅。正確には彼女の自室のベッドの上だった。どうやらクイーンが眠っている間、彼女もずっと隣にいたようだ。
「ご飯、食べる?」
ベッドから下りた明日奈は、部屋の隅に置いてあるビニール袋の中から、猫缶を取りだした。
「みゃお」
ひと鳴きしたクイーンは瞳孔を開くと、ぴょんとベッドから跳びおりて、とことこと明日奈の足下に近づいていった。実際はフローリングを踏む肉球(正式名称:
明日奈が、用意した皿に猫缶の中身をあけるまで、クイーンは、その一挙手一投足をじっと見つめていた。「はい」と明日奈が猫缶を盛った皿を差し出すと、待ってましたとばかりにクイーンは皿に襲いかかった。思えば、朝、お母さんにご飯をもらってから、家を出て今まで、何も口にしていなかったのだ。キャットフードには様々な味付けのものがあるが、クイーンはまぐろ派だ。初めて食べる銘柄だが、この猫缶もまぐろ味だった。ありがたい。まぐろの香りと喉ごしが沁みる沁みる……。
「お水も持ってくるね」
三毛猫がご飯を食べるのを嬉しそうに見ながら、明日奈はもう一枚の、液体を満たすのに適した深い皿を手にして部屋を出た。
「え? もう食べたの?」
水を張った皿を手に戻ってきた明日奈は絶句した。彼女が部屋を留守にしたのは、ほんの数十秒だったが、その間に皿は見事に綺麗になっていた。比喩的表現ではない。クイーンは最後に皿までぺろぺろと舐めて、猫缶の痕跡を全て消し去っていた。まるで、この皿には猫缶など最初から盛られていなかったかのように。
猫をはじめとした肉食動物は、基本的に
「トイレはあそこにあるからね」
明日奈が指さした方向には、猫砂を敷き詰めたトイレキットが置かれていた。見るからに新品で、傍らにはそれを梱包していたと思われる段ボールが畳まれている。余った猫砂が入ったビニール袋もある。猫缶を持った皿、水を入れた皿も真新しい。全て、クイーンを部屋に向かい入れるために明日奈が新しく用意したものだった。
食事を終えたクイーンは、ごちそうさま、の意味で「にゃーん」と明日奈の顔を見て鳴いた。すると明日奈は、人差し指を口に当て、
「しー。お父さんとお母さんには内緒なんだから」
小声で言って、部屋のドアに目をやった。
(この家には、〈お父さん〉も〈お母さん〉もちゃんといるのか)
安堂家とは違うんだな。とクイーンは思った。「内緒」というのは、明日奈が部屋に猫を入れていることを言っているのだろう。この家、高宮家は、本来であれば猫の居住は許可されないということだ。その決まりを破り、明日奈はこうして一匹の三毛猫を自室に迎え入れている。
(どうしてなんだろう)
クイーンはまた考える。猫との同居が可能な家と不可能な家がある。何が違うのだろう。かつて外に出ていた時代、クイーンは、自分の縄張りがよその猫のそれと重複している箇所があったことを知っている。かといって、何か揉め事を起こすということはなかった。人間の住宅地に住む猫にとって、縄張りの重複は避けて通れない問題だ。昔、猫の集会に参加していたとき、よそからきた猫に、「田舎のほうの猫は、もっと広い、誰とも重複しない縄張りを持って暮らしている」と聞いたことがある。かといって、クイーンがそれを羨ましいと感じたことはない。自分たちのような人間社会と密接して生活している猫にとって、人間のひとりもいない大自然の中で暮らすなど、考えの及ばないことだ。
(毎日ご飯をくれる人も、あごや頭を撫でてくれる人も、猫じゃらしで遊んでくれる人もいないんでしょ?)
そんな生活、クイーンには耐えられそうにない。縄張りがある程度重なるくらい、別にいいじゃないか。仲良くやっていけばトラブルになどならない。同時にクイーンは、猫と一緒に暮らすことを嫌がる人間がいることもよく分からない。猫のほうでは、自分の居住範囲に人間が入ってくることくらい、別にいいやと思っているのに。
トイレを済ませたクイーンは、安堂家と高宮家の違いについて考える。
(〈お父さん〉か?)
安堂家とここ、高宮家の違い。それは〈お父さん〉がいるかいないかだ。お父さんなる大人の雄がいると猫は同居できない、というのが人間の決まりなのだろうか?
満腹になり、猫砂の上に座って出すものを出したら眠くなってきた。さっきまでの睡眠程度では全然足りない。どこで寝ることにしようか、と部屋をきょろきょろ見回していると、
「ミケ、ここで寝てていいよ」
明日奈がベッドの布団をまくって手招きしていた。クイーンはベッドの上に、ひょいと跳び乗る。シーツをくんくんと嗅ぎ、二、三回ぐるぐると回って、寝るのに一番いい位置を導き出したクイーンは、その場所にゆっくりと腹を据えて丸くなった。それを確認した明日奈は、顔が出るようにして布団をそっと掛けてやる。
「私、お風呂入ってくるからね。起きて鳴いたりしちゃ駄目だよ」
明日奈は三毛猫の耳元に囁くと、部屋の明りを消して廊下に出て、音を立てないように静かにドアを閉めた。カーテンの隙間から漏れる月明かりだけが、部屋を照らす唯一の光源になった。
いつもとは違う場所、初めて鼻にする匂い。だけど、
(ここも、この匂いも嫌いじゃないな)
クイーンは、そう思いながら目を閉じた。
やがて、廊下を歩く音が聞こえ、ドアが開けられる。明日奈が戻ってきた。部屋の明りを点けないまま、明日奈は静かにベッドに潜り込んだ。丸くなって寝息を立てる三毛猫を、抱きかかえるようにして毛布をかぶる。
「おやすみ、ミケ」
眠りの浅い段階になっていたクイーンは、彼女の言葉を聞いて耳をぴくりと動かした。しばらくの間、ひとりと一匹の呼吸音だけが部屋には聞こえていたが、そこに、小さなすすり泣きが混じるようになった。クイーンは丸まっていた体勢を変え、明日奈にぴたりと寄り添った。少女のか細い腕が三毛猫を抱き、二人はそのまま眠りの世界に落ちていった。
クイーンは夢を見た。生きているあいだは一度も出会うことのなかった、尻尾の先端だけが白い黒猫とじゃれあって遊ぶ夢を。
朝が来て、クイーンは目を覚ました。隣に明日奈の姿はない。柔らかいベッドから跳びおりて、寝起きのストレッチを済ませると、廊下を歩く足音が聞こえてきた。
「あ、ミケ、おはよう」
明日奈だった。彼女はきれいに洗った(クイーンが舐めたあと、きちんと洗剤で洗った)皿に猫缶を盛りつけた。
(朝ごはん)
クイーンは「うみゃあ」と鳴くと、軽快なステップで皿まで近づき朝食にありついた。その様子を笑顔で眺めながら、明日奈は携帯電話を手に取ると、ダイヤルして耳に当てた。
「……もしもし、二年二組の高宮明日奈ですけれど……はい。あの、体調が優れないので、本日は終日欠席させて下さい……。はい、よろしくお願いします。……ありがとうございます。それでは」
明日奈は電話を切った。クイーンは不思議に感じた。明日奈の身振り、口ぶりからは、自身が口にしたような「体調が優れない」様子には全く思えなかったからだ。その証拠に、電話を終えた彼女は、ことさら元気になったように着替えを始める。しかも、昨日着ていた制服ではなく、完全な私服に。
(この時間は、もう)クイーンは時計の見方など分からないが、体感的に時間を察して、(学校なるところへ行く時刻なのではないか?
クイーンが食事を終え、明日奈も着替え終わった頃、メールの着信音が鳴った。明日奈は携帯電話を確認して、
「ミケ、お出かけするよ」
部屋の隅に置いてあったものを持ち上げた。それは、真新しい猫用バスケットだった。クイーンは一瞬たじろぐ。あれに似たものは安堂家にもある。あれを使うとき、それはすなわち、動物病院に連れて行かれるときだ。
結局クイーンは、明日奈の手によってバスケットに詰め込まれた。さして抵抗はしなかった。「ランタのところに一緒に行って」明日奈のその言葉を聞いたためだった。
明日奈はクイーンを入れたバスケットの他に、大きな紙袋も持って家を出た。一階にも、どこにも他の人間の気配は感じられなかった。
(明日奈のお母さんとお父さんは、もう家を出たのかもしれない)
安堂家のお母さんも、週に何度かは〈パート〉なるものに行くため家を出る。明日奈のお母さんとお父さんも、似たようなものなのかな、とクイーンは思った。
右手にバスケット、左手に紙袋を提げて、明日奈は歩く。家の門を出てしばらくするうち、クイーンは明日奈がどこを目指しているのか見当がついた。「ランタのところに行く」部屋で聞いたその言葉と合わせて考えるに、間違いはなかった。明日奈とクイーンは、昨日の公園に辿り着いた。昨日と同じベンチに座って少し経つと、
「お待たせー」
手を振りながら、ひとりの少女が走ってきた。大林美緒だった。
「美緒」と明日奈は立ち上がって、「どうして制服なの? 休校になるって分かってたでしょ」
明日奈の言葉通り、美緒は昨日とまったく同じ制服姿だった。
「うん。朝早く家を出て、登校途中で休校になるっていう電話連絡をもらって引き返した、っていう設定にしたから」
「なにそれ」
明日奈は笑った。
「それに……」美緒は表情を暗くして、「学校が、どうなってるか、ちょっと見ておきたかったんだ」
それを聞くと、明日奈も神妙な顔になって、
「どうだった?」
「もう、警察が来てた。パトカーがいっぱい駐まって、お巡りさんも大勢いて。刑事っぽい人も何人かいた。ねえ、明日奈、やっぱり……私……」
「駄目!」明日奈は美緒の肩に両手を乗せて、「大丈夫、大丈夫だから、絶対に」
「……ねえ、どうして、そんなことが分かるの?」
「……とにかく」と明日奈は美緒の両肩を、軽く叩いて、「大丈夫なの。私のこと、信用してくれるんでしょ?」
「……もちろん」
美緒は笑顔を作った。そして、明日奈の肩越しに、ベンチに置いてあるバスケットを目にすると、
「あ、ミケちゃん!」
美緒は明日奈から離れてバスケットの前に屈み込んだ。
「ミケちゃん、おはよう」
「にゃーん」
美緒は、バスケットの網目越しに三毛猫と挨拶を交わした。
「お前も来てくれたんだね、ランタの……お葬式に……」
喋るうち、美緒の声は小さくなって消え入った。それを聞いた明日奈は、公園の隅、植え込みの向こうに目をやった。悲しそうな顔をして。
「美緒」
名前を呼ばれた美緒も同じ方向に、また、同じような表情で視線を向けた。二人は目を合わせて頷いた。ベンチの下に置いてあった大きな紙袋を明日奈が持ち上げ、
「ミケちゃんは、私が持つね」
三毛猫が入ったバスケットは、美緒が手に取った。
植え込みをかき分けて、背の低い生け垣と数本の木に囲まれた狭い空間に出ると、二人は立ち止まった。視線は、植え込みの下に横たえられた、尻尾の先端だけが白くなった黒猫に向いた。亡骸のそばに屈み込んだ二人は、明日奈が持って来た紙袋から濡れタオルとティッシュを取りだし、黒猫の体を拭いていく。明日奈は、猫の頭に開いた傷口付近を丁寧に拭った、黒い毛に紛れて視認しずらかったが、拭くたびにタオルには赤黒い血が付着した。黒猫の体を清めていくうち、二人はすすり泣きを始める。
「美緒、ランタのこと、任せてもいい? 私、ランタを入れる箱を作るから」
「うん」
美緒が返事をすると、明日奈は美緒の背中側に回って、紙袋から取り出した段ボールを組み立てて箱にした。
「美緒、もう、いいよ。ありがとう」
肩越しに声を掛けられ、美緒は猫を拭く手を止めた。
「ランタ……行こう」
明日奈が黒猫の体を丁寧に持ち上げた。段ボール箱の中にはタオル何本か四辺に敷かれ、中央に猫が一匹収まる程度のスペースが設けられていた。そこに黒猫の体を横たえさせると、蓋を閉めて紙袋にそっと入れる。バスケットの中からクイーンは、黙ったまま、その厳粛に思える作業を見つめていた。
明日菜が段ボールの入った紙袋を、美緒が三毛猫の入ったバスケットをそれぞれ持ちながら、二人は公園をあとにした。
二人は、住宅地の端に建つ邸宅、明日奈とクイーンが出てきた高宮家の前に来て門扉を開けた。門から玄関までの間には、数メートルのアプローチがある。明日菜が先導する形で門をくぐった二人は、玄関へは向かわず、途中でアプローチを逸れて広い庭に足を踏み入れた。
明日菜は、庭の隅に生える木の根元に、持ってきたスコップを刺して穴を掘り始めた。その間、美緒は段ボール箱を取り出し、庭に生えている花を摘み、黒猫の周りに並べる。途中からは美緒も手伝い、二人は段ボール箱が入る大きさの、深さ数十センチ程度の穴を掘りあげた。
「さあ、ランタ」
スコップを木に立てかけた明日菜は、額に浮かぶ汗を拭って段ボール箱のそばに屈みこむ。
「奇麗にしてくれたのね」
明日菜は箱の中を見て微笑んだ。美緒の手により、ランタの周りには花が並べられ、大好きだったかにかまのパックも添えられていた。花のひとつはランタの額に掛かり、傷口を見えなくしている。段ボールに蓋をして、二人が一緒に箱を持ち上げようとしたとき、
「にゃあ」
置いてあるバスケットの中から鳴き声がした。
「うにゃあ」
と、もう一度。爪がバスケットを掻く、かりかりという音も聞こえる。
「ミケちゃんも、ランタに最後のお別れしてくれるの?」
顔を見合わせ、明日菜が頷いたのを見ると、美緒はバスケットの蓋を開けた。中から三毛猫が、ぴょんと跳びだし、段ボールのそばに寄った。明日菜が段ボールの蓋を開けると、クイーンは、もの言わぬ黒猫の顔に鼻先を近づけ、匂いをかいだあとに顔をぺろぺろと舐めた。
「ありがとう……ミケ」
それを見て明日菜は涙を拭う。クイーンは供えられたかにかまに少し興味を引かれたが、
どさり、どさりと土がかぶる音がするたび、段ボール箱が見えなくなっていく。地面に滴が落ちて小さな染みを作った。美緒の頬から流れ伝った涙だった。明日菜の足下にも、同じ染みが次々と作られていった。
(ランタ、天寿を全うすることは出来なかったが、身勝手な人間の手で命を奪われるという、不本意な最期を迎えてしまったが、君の一生は幸せだっただろう。君は意識が途絶える瞬間、明日菜のことを思い浮かべたはずだ。そういう人間と出会えたということは、猫にとって幸せなことだから)
泣きながら穴を埋めていく二人の少女を見上げながら、クイーンは思った。
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