第8章 捜査会議

私や火村より十年以上年長のこの叩き上げの部長刑事は、犯罪学者や推理作家が捜査に首を突っ込んでくるのを快く思っていないことを隠さなかった。


『ペルシャ猫の謎』 有栖川有栖



十月二十四日 午後六時零分


 会議室の一番後ろの机。私と理真はいつもの場所に陣取った。前方の列には中野なかの刑事、丸柴まるしば刑事を始め、県警顔なじみの警察官の姿がある。こちらに向いた司会席に座っているのは、県警捜査一課の城島じょうしま警部だ。理真りまの、もっとも良き理解者のひとり。素人探偵が事件捜査に介入してくることを歓迎しない警察官たちも、警部のお墨付きとあれば黙ってしまう。中野刑事や丸柴刑事が、若いせいもあるのだろうが、あまり刑事っぽくない見た目をしているのに比べ、城島警部は刑事以外の何者でもない、という外見をしている。刑事ドラマから抜け出てきたかのようだ。その隣に座っているのは、織田おだ刑事。城島警部に次ぐベテラン刑事で、先に言った、素人探偵が捜査介入してくることを嫌う警察官の最右翼的存在だ。嫌いなものほど目につく、というのは本当なのだろう。会議室に入った理真と私を誰よりも先に見つけ、眉をひそめていた。こうして理真が会議に列席したりするのを、城島警部の手前渋々認めている、というのがありありと分かる。

 午後六時を過ぎ、会議の開始が城島警部の口から宣言された。

 まず、所轄の刑事が、被害者である形塚武生かたづかたけおについての情報を話す。死体発見時の状況から、みなみ中学の国語教師で、他人から恨みを買っていた様子はなく、金銭、怨恨関連での容疑者は浮上していないこと。私たちが中野刑事や清水しみず教頭から聞いた通りの内容だった。が、容疑者と呼べる人物は、ひとり俎上そじょうに上がってきている。


「次に、冬科陣平ふゆしなじんぺいについてです」


 ここで話し手は別の所轄の刑事に移った。


「現場から約三キロ離れたアパートに住む、二十八歳の男です。職業はフリーター。実家は関西で、新潟へは大学進学を機にひとりで出てきました。大学卒業後も地元へは帰らず、そのまま定住したようです」

「被害者との関連は浮かんできたのか?」


 城島警部が質問する。


「いえ、今のところはまだです。とはいえ今後の調べで、被害者との繋がりが出てくるかどうかは怪しいですね。死んだ形塚と、この冬科は全く面識がなく、共通項のひとつもない間柄です。形塚は住まいが新潟市北区なので、ご近所ということさえありません」


 新潟市北区は、かつては別の市だったのだが、新潟市が政令指定都市となる際に、合併で新潟市の区のひとつに編入されたのだ。長く広い阿賀野川あがのがわという河川を隔てていることもあり、ここ中央区とは、間にひとつ東区を挟んだ、感覚的には二つ隣町だ。


「アリバイについても、飲食店店主、店員から証言を得ています。午後六時五十分から八時まで、間違いなく店内で食事をしていたと。被害者の死亡推定時刻は午後六時半から七時半のため、冬科に犯行が可能であれば、六時半から店に顔を出す六時五十分までの二十分間が勝負なわけですが、徒歩で現場、飲食店間を移動するとなると、一時間は掛かります。自動車の使用が不可欠ですが、冬科は車を持っていません。タクシーも法人、個人全て聞き込みましたが、当日のその時間、現場近くから飲食店まで冬科らしい人物を乗せたという記録はありませんでした。冬科には、車を所持している友人がひとりいますが、その友人も昨日は昼から夜中まで、車で上越のほうに出かけていたということで、高速道路のETCに記録が残っています。この車を使用することも不可能です」

「そうか……」と城島警部は腕を組んで、「しかし、被害者は、明らかに〈フユシナ〉と読めるメッセージを書き残しているからな……丸柴、そっちのほうの調べはどうだ?」


 警部に促されて、丸柴刑事が立ち上がる。セミロングの髪を今日は後頭部でまとめている。グレーのスーツが抜群に似合う、相変わらずの美人振りだ。美しき女刑事は手帳を開いて、


「筆跡鑑定を試みましたが、本人が書いたものと判断を下してもよいのではないか、という解答でした」

「歯切れが悪いな」


 警部の不満の声に、丸柴刑事は、


「はい。被害者の普段の筆跡は、几帳面なゴシック体のような字体でした。今回のダイイングメッセージである血文字も、そのような傾向が見られるのですが、一部、差違が見られる箇所もあります。……写真をお願いします」


 丸柴刑事の要請で、最前席に座っていた女性警察官がパソコンを操作すると、前方スクリーンに画像が表示された。〈フユシナ〉とマットに書かれた血文字と、ひと昔前の脅迫状のように、一文字ずつバラバラに構成された、同じ〈フユシナ〉というペン書きの文字が並んで表示された。


「左は現場で撮影された実際の血文字。右は被害者の遺品のノートなどから探しだした、血文字と同じ文字を集めたものです」


 城島警部、織田刑事から見てスクリーンは背面になるため、二人は体を捻って背後を向く。全員の目がそちらに向いたのを確認して、丸柴刑事は、


「まず、一文字目の〈フ〉ですが、これは横棒を引いて左下に抜ける部分、この部分が、被害者本来の筆跡に比べて丸みが足りません。次に二文字目の〈ユ〉ですが、二画目の横棒が、他と比べて若干太く書かれています。三文字目の〈シ〉の一画目と二画目の点ですが、これも通常の筆跡に比べてバランスが悪くなっています。以上の三点に、被害者本来の筆跡との差違が見られるということでした」


 言われてみれば、左右を比較して、丸柴刑事が言ったような特徴は確かに見られる。「ですが」と丸柴刑事は続けて、


「現場に残されていたものが血液を使って指で書かれた特殊なもので、死亡する直前という異常な心理状況、肉体的状態でもあったことを考慮すると、通常とは違う筆跡になってしまった可能性は否定できないそうです。以上です」


 丸柴刑事が着席すると、スクリーンから画像も消え、城島警部、織田刑事は正面に向き直った。


「この〈フユシナ〉というのが、人名以外の何かであるとか、もしくは、他に同じ名字、名前の持ち主が存在する可能性はあるか?」


 警部からのこの質問には、中野刑事が立ち上がる。


「市内、県下の住民名簿を調べていますが、目下のところ、冬科陣平以外に、〈フユシナ〉という姓名を持つ人物は見つかっていません。〈フユシナ〉という名称を持つ何かというのも、全くありません」

「冬科陣平のことを表しているとしか思えん、ということだな」


 城島警部は深い嘆息を漏らした。


「少し、メッセージ自体に振り回されすぎなのではありませんか」


 そう発言したのは、城島警部の隣に座る織田刑事だった。警部が視線を向けて発言を促すと、


「今、我々が冬科陣平なる人物に疑いを掛けているのは、被害者が残したとされる血文字だけが唯一のよりどころなわけですよね」

「それが、そもそもの間違いだということか? 真犯人が残した、ニセの証拠だと?」


〈ニセの証拠〉などという、不可能犯罪特有の専門用語が警部の口から出たためか、織田刑事は一瞬苦い顔をした。これまた一瞬だけ、視線が理真に向けられたような気もした。


「そうです。一番最初に指摘されたではありませんか」と織田刑事は、いつもの渋い表情に戻って、「被害者が今際の際に犯人の名前を書き残したのだとしたら、どうして犯人はそれをそのままにして現場を立ち去ったのか。そんなもの、まず真っ先に犯人にもみ消されてしまうはずです」


 全くの正論だ。


「死亡推定時刻は午後七時だ。あの用具室には照明がなく、現場が暗くて、犯人がメッセージを見逃したという可能性はあるが」


 警部が言った。すると即座に織田刑事は、


「現場が暗かったというのは、何も犯人だけが被る不利ではありません。被害者にとっても同じです。先ほどスクリーンに映った血文字は、実に正確に〈フユシナ〉と書かれていました。暗闇の中で、あれほどきちんとした文字を書き残すことが果たして可能でしょうか?」


 それを聞くと、会議室のそこかしこから、うーむ、と唸るような声が聞かれた。さすが織田刑事。理真が浮かべた疑問に辿り着いていた。これで民間探偵を嫌っていなければ、理真のよき理解者になってくれそうなのだが。現在のところの、その理真の一番の理解者のひとりである城島警部は、


「犯行が計画的なものであれば、懐中電灯なりの照明になるものを当然所持していただろうな。口論の末に起きたような突発的な犯行だったとしても、今どき携帯電話くらいは誰でも持っている。機種搭載のライトで、死体の周辺を照らすくらいは容易に出来ただろう。現場に明りがあったら、犯人は被害者の残したダイイングメッセージに間違いなく気付いて消していた。もし、犯人の携帯電話の充電が切れていてライトが使えないような状態で、現場に明りがなかったら、そもそも被害者があんなに整然とした文字でメッセージを残せたわけがない。どちらにせよ、あの血文字が手つかずの状態で残っていること自体が不自然。ということだな」


 城島警部の総括を聞いた織田刑事は、満足そうに頷いた。


「……安堂あんどうさん」


 と警部は理真の名前を呼んだ。その瞬間、織田刑事は再び眉根を寄せる。「はい」と理真が立ち上がると、


「みんな、今日は、いつも主に殺人事件の捜査でお世話になっている安堂さんにも出席願っている」


 と城島警部は理真のことを皆に紹介した。誰からも疑問の声上がらないことを見ると、素人探偵安堂理真の名前も、新潟県警に随分と浸透してきているようだ。警部は続いて、


「安堂さん、今、織田が言ったようなことに、何か付け加える点や、今までのご経験から、こういったダイイングメッセージの取り扱いについて、何かご意見はありますか?」

「はい」と理真はもう一度返事をして、「まず、たった今、織田刑事が述べられた点は、私も現場で疑問に持ちました。確かに、あのようなメッセージが残っていたからといって、我々はあれを鵜呑みにするべきではないと考えます」


 自分の意見に全面同意を得たのだが、織田刑事は面白くなさそうな顔を変えない。そんなことは気にせず、理真は、


「今、織田刑事が言われたように、もし、あのメッセージが被害者が犯人を告発するつもりで書いたのであれば、間違いなく犯人によってもみ消されていたはずです。にもかかわらず、ああして実際にメッセージは残されていた。どうしてなのか。考えられる可能性は六つあります。まず、メッセージ自体が偽物であるという可能性。犯人が何者かに殺人の罪を被せるために、被害者の手を掴み、血をインクとして、全く無関係な人物の名前を書き記す、という場合です」

「今回の場合は、冬科に罪を着せようとした、ということですね」

「そうです。第三者に罪を着せるという目的以外にも、ただ捜査の撹乱を狙うために、全く意味のない文字や、いかにもなことを書くということもあり得ます」

「なるほど」

「第二に、実際に被害者はメッセージを書いた。犯人は当然、それを知りますが、犯人がそのメッセージを改ざんしてしまう、という場合です。これが行われるのは主に、書かれたメッセージを消すことが不可能であるか、物理的、時間的に非常に困難な場合、もしくは、消してしまうよりも、そのメッセージに何かを付け足して、被害者が本来意図したものとは全く違う意味に書き換えてしまったほうが都合がよいと犯人が判断した、という場合です」

「今回のケースは、それにも当てはまると言えますね」

「そうです。メッセージが記されたのは、体育の時間に体操などで使う厚手の布製のマットです。血がマットに染みこんでしまうため、水や洗剤で完全に洗い取ることは無理でしょう。今回の場合、改ざんなどをせず、上から血で塗りつぶしてしまうというのが一番良いように思われますが、犯人がそれをしていなかったということは……」

「塗りつぶして消してしまうよりも、改ざんしたほうが良いと考えたということですね」

「はい。当初のメッセージが改ざんに使えないのであれば、読めなくしてしまうのが最善ですからね」

「メッセージの改ざん、か……」

「そして、第三に、犯人が被害者の書いたメッセージに気付かなかった、という場合です」

「そんなことがあり得ますか?」

「はい。例えば、犯人が盲目だった場合、などです。被害者が四文字の血文字を書く、その音を聞き逃してしまったら、もうメッセージが残されたことを犯人が知るすべはありません。あと、これは今回には当てはまらないと思いますが、被害者の残したメッセージがあまりに奇抜だったり、分かりにくかったりして、犯人自身、確実に目にしていながらも、それがダイイングメッセージだと気付かず、スルーしてしまうというケースもあります」

「確かに、後者については今回は除外してよいでしょうね。あれを目にして、被害者のメッセージだと見抜けない人間がいるとは思えない。……盲目の犯人、か」

「もし、犯人の目が見えなかったのであれば、暗い用具室での犯行も、視界的な障害は犯人にとってはないに等しかったでしょう」

「確かに」

「四番目に、メッセージは間違いなく被害者自身の手で書かれた、犯人もそれを知った。にもかかわらず、犯人はメッセージを消すことも改ざんすることもなく、そのまま放置した」

「どういった場合に、それが起きると?」

「被害者が、犯人を勘違いしてしまった場合です」

「なるほど」

「はい。被害者は今際の際に最後の力を振り絞って、犯人の名前を書き残す。当の犯人もそれに気が付きますが、そこに書かれたのは自分の名前ではなかった。被害者が、自分を殺しめた犯人を誤認してしまったためです」

「それであれば、そのメッセージを残すことで、容疑は全くの別人に掛かり、自分に捜査の手が及ぶことはないかもしれない。そう考えて、犯人は何の手も加えないまま、ダイイングメッセージをそのままにして現場を去る。ということですね」

「そうです。そして、第五の説、これは第四の説の派生バージョンとも言うべきものですが、被害者は勘違いすることなく犯人の正体を知った、そして、その名前を書き残そうとした。ですが、書き損じてしまった。という場合です。例えばですが、被害者は〈シムラ〉と書こうとしたのに、〈ツムラ〉としか読めないような字体で書き残してしまった。などですね。犯人は自分の名前ではないことに安心して、やはり容疑のなすりつけや捜査の撹乱などを目的に、メッセージをそのまま放置して現場を去る。という場合です」

「絶命間近の精神状況と痛みと苦しみの中で書くのだから、それくらいのミスは犯してしまう可能性はありますね」

「はい。で、最後、六番目の説。これは実に単純な話です。犯行時、現場に明りはなく、終始真っ暗闇のままだった。にもかかわらず、被害者が判読可能なメッセージを書き記せたというのは、完全な僥倖ぎょうこうだったということです」

「暗闇の中、当てずっぽうで書いた文字が、たまたま白昼に目視して書くようなバランスに仕上がった、というわけですね」

「そうです。犯行が始まって犯人が立ち去るまで、現場は終始真っ暗だったため、犯人はメッセージに気が付かなかっただけだということです。あと、被害者が即死していなくて、しかし犯人は即死したものと思い込んで現場を離れる。その後にメッセージが書かれたため、犯人が見逃した。という場合もありますが、今回はこれは除外してもよいのではないかと思います」


 確かに、検視、解剖でも、被害者の形塚は、ほぼ即死と判断されている。

 理真の話は終わった。会議室が静まりかえっているのは、誰しもが今回の事件が、今の六つの中の、どの説に該当するかを考えているからだろう。

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