第7章 教師たちの話

バウトン教授はそれまで人を殺したことがなかったので、ヘンリー・ヤードリーの割れた頭から噴き出す血に対してまったく心の準備ができていなかった。


『ナイルの猫』 エドワード・D・ホック(木村二郎・訳)



十月二十四日 午後三時三十分


「財布の他に、何か盗られたと思われるものはありませんか?」


 理真の質問に中野なかの刑事は、


「いえ、特にないようですね。他の先生方にも聞き込みをしましたが、形塚かたづか教諭は、常に持ち歩いているものといえば、財布と手帳くらいだったそうで、その手帳は背広のポケットにありましたから」


 そうですか、と答え、少し黙考してからファイルを閉じた理真りまは上を向いた。


「天井には、何もおかしな痕跡などはありませんでしたよ」


 理真の行動を目にして中野刑事が言った。


「ここに照明はありませんよね」

「照明ですか?」と中野刑事も天井を見上げて、「ええ、電気は通していないそうですから。中学校の部活では、日没まで活動することは稀でしょうし、そういう場合は懐中電灯などを用意するんでしょうね……ああ、分かりました安堂あんどうさん。どうして犯人が被害者の書き残したメッセージを消さなかったのか、ということについてですね」


 そうか。朝、事件の第一報を聞いたときにも理真が投げかけていた疑問だ。


丸柴まるしばさんからお聞きしたかもしれませんが、死亡推定時刻にはもう日は暮れていて、ご覧の通りここには照明もありませんから、犯人が気付かなかったのだろうと思われています」


 確かに、丸柴刑事もそんなことを言っていたはずだ。が、理真は納得した顔はせずに、


「そうですね。でも、それは被害者も同じ条件のはずです」

「どういうことですか?」


 理真は再び視線を床に落として、


「であれば……どうして殺された形塚さんは、あんなにはっきりとしたメッセージを残すことが出来たのでしょうか?」

「……それは」


 中野刑事は黙った。朝に理真が疑問に思っていたことだ。形塚の割れた額から流れ出た血で書かれたそのメッセージは、完全に判別可能な書体で〈フユシナ〉と書かれている。資料に添付されている写真では、四つの文字は大きさが均等のうえ、縦一列に並び、字間も適当に取られている。〈フユシナ〉以外の他の読み方を考慮する余地など、まずないように見える。何の明りもない暗闇の中で、これを書き記すことが可能だろうか? まして、砲丸で頭部を殴られた今際の際という状態で。



 現場の検分を終えた私たちは、その脚で職員室にお邪魔した。臨時休校とはいえ、教員はほとんど学校に出て会議をしている。翌日朝に執り行われる、生徒の保護者を対象とした説明会のためだ。私たちが訪れると、ちょうど会議も終わった頃とみえ、教員たちの顔には、緊張の中にも安堵の表情が浮かんでいた。


「ああ、刑事さん」


 職員室の一番奥の机に座る男性が、私たち、というか中野刑事の顔を見て声を掛けてきた。男性は、長身の刑事の後ろに控える私と理真にも顔を向けて、


「もしかして、そちらが?」

「はい」と中野刑事は、ちらとだけ私たちを振り向いて、「事件の捜査に御協力いただいている民間探偵の方です」


 私たちは応接室に通された。男性はここみなみ中学校の教頭で、清水しみずと名乗って名刺をくれた。年齢は五十代半ばくらいだろう。細面で生真面目そうで細身の眼鏡をかけた、いかにも「教師」という外見をしている。担当教科は恐らく数学だろう、という私の当て推量は見事に当たっていた。理真と私も自己紹介をする。


「ははあ、本業は作家さんですか。では、素人探偵さんということですな。そして、そちらのお嬢さんがワトソンですか。お二人ともお若い女性とは、探偵といっても今は随分と様変わりしましたな。私が若い頃などは……」


 清水教頭がそこまで言ったとき、ドアがノックされ、女性教諭が入室してきた。手にはお茶を乗せたお盆を持っている。全員の前に湯飲みが置かれ、女性教諭が退室すると、


「いや、失敬」と清水教頭は雑談に入りかけたことを詫びて、「で、いかがですか、捜査のほうは」

「まだ始まったばかりですので」と中野刑事はお茶に口を付けてから、「すみませんが、こちらの安堂さんに、亡くなった形塚さんについて、お話いただけるでしょうか」

「分かりました」


 と清水教頭は、警察に一度したであろうことをもう一度、理真のために語ってくれることになった。先ほどの会話から、民間探偵稼業についてよく知っており、こういった話を何度もするということに対して理解があるのかもしれない。


「形塚くんは、国語の担当教師で、元々が明るい性格だったことに加え、冗談なども交えた分かりやすい授業で、生徒たちからも人気の高い先生でした。授業に冗談を挟むなんて、私にはちょっと思いつきませんので、感心していたのですよ。まあ、最近の若い先生には、そういった子供の心を掴むのが上手い方も大勢いらっしゃいますが」

「教師の皆さんの中では、どうでしたか?」


 教頭の話し相手は、中野刑事から理真に代わっている。


「それはもちろん、誰とでも仲良く、何のトラブルも起こさずに仕事をしていました。飲み会なんかでも、あまり酒はたしなまず、酔った他の先生を介抱したりと、若いのに面倒見もよかったですね」

「誰かに恨みを買うなどということは、ありましたか?」

「全然ですよ」と教頭は自分の顔の前でぶんぶんと手を振って、「あの形塚くんに限って、人から恨まれるなんていうことは、ちょっと考えられませんね」

「学校を離れたプライベートに関しては、どうですか?」

「そちらについては、さっぱりです。形塚くんは、飲み会に誘われれば参加しますが、それ以外で、それこそプライベートで他の教師と付き合いがあるというのは、聞いたことがありません。だもので、学校関係者以外での彼の交友関係を知るものはいないのです」

「そうですか……それでは、〈ユフシナ〉という言葉を聞いたことはないですか?」

「いえ、記憶にありません。人名なのでしょうか? だとしたら、どこかで聞いたり目にしたりしていたら、憶えていそうなものなのですが。名前としては珍しいですからね。名前以外でも、聞いたことのない言葉です。刑事さんにも訊かれたのですが、その〈フユシナ〉というのが、形塚くんと何か関係があるのですか?」


 被害者が残したダイイングメッセージであるということは、伏せられている。死体を発見したのはグラウンドに来た野球部の生徒たちだが、メッセージが書かれたマットはちょうど出入り口の陰になっており、外から見ただけではそれがあるとは分からない。通報時刻は早朝で、まだ教師は出校してきておらず、警察が到着するまで発見者の生徒たちは誰も中に入ってはいないということなので、このことは外部に漏れてはいないはずだ。血文字の他にも、凶器が砲丸の球であることも公表されてはいない。


「安堂さん」と、ここで中野刑事が入ってきて、「教頭先生以外の、他の先生方にも訊きましたが、形塚さんに関連すること以外でも、フユシナという言葉に心当たりのある人はいませんでした」


 それを聞くと理真は、「ありがとうございます」と礼を述べてから、清水教頭との話に戻り、


「では、その、死体発見現場となった屋外の体育用具室については、どうでしょう。形塚さんは、そこへは頻繁に行く用事があったのでしょうか?」

「いえ、それについてもさっぱりなんですよ。さっきも言いましたが、形塚くんは国語担当で、部活の顧問もしておらず、図書室の管理担当をしていましたので。体育や運動部とはほとんど縁のない先生でしたから、特にあそこに用事があるとは思えないのですが……」


 清水教頭は首を捻る。中野刑事から聞いていた情報と同じだ。国語教師がグラウンド隅にある体育用具室にいた理由か。理真は沈黙している。私と同じ事を考えているのかもしれない。


「あの……探偵さん、刑事さんも」と、この沈黙を利用してか、清水教頭が話し掛けてきた。「形塚くんは他殺、何者かに殺されたと考えて間違いないんでしょうか」

「どういうことですか?」と理真も黙考を止めて、「形塚さんに、自殺する動機あったということですか?」


 いえいえ、と清水教頭は、顔の高さに上げた両手と首を振って、


「今、申し上げた通りなのですが、彼に限って、誰かに恨みを買うなどということが想像できないものでしたから……」


 また後日、他の先生方や、可能であれば生徒にも話を伺いに来ることにして、今日のところは聴取を切り上げた。

 廊下に出ると、職員室のドアが開いて、


「教頭、お帰りですか?」


 ジャージ姿の男性が顔を出した。私たちと一緒に応接室を出た清水教頭は、


「ああ、近野こんのくん、今夜は頼むよ」

「ええ、任せておいて下さい」


 近野、と呼ばれた男性は自分の胸を叩いた。厚い大胸筋の持ち主であることがジャージ越しにも分かる。短髪に清閑な顔つきで、年齢は三十歳前後といったところ。どこからどう見ても体育教師であることが窺える。推定体育教師の近野は、私たちにも顔を向けて、


「遅くまで、お疲れ様です」


 と両手を腰につけて、前方四十五度の角度でお辞儀をした。私たちも、ぺこりと頭を下げたが、まだ頭を上げていない向こうには、それは見えていないだろう。


「体育担当の近野くんです」


 と清水教頭が紹介してくれたことで、私の中で近野教諭の肩書きから「推定」が外された。


「彼には今夜、学校に泊まり込んでもらうことになっています」


 清水教頭が彼の任務を口にすると、近野教諭は上げた頭をもう一度短く下げた。


「こんなことがあった直後ですからね。会議の席で、誰か泊まり込んだほうがよいのではないか、という意見が出まして、それなら、と、この近野くんが立候補してくれたわけです」

「興味本位で怪しい奴や、もしかしたらうちの生徒が忍び込まないとも限りませんから」


 近野は腕を組んだ。大胸筋に劣らず、腕の筋肉も発達している。


「警察も、今夜は学校周辺を重点的にパトロールすることにしています」


 中野刑事が言った。内と外、両面から現場を警戒することになる。


「そちら、探偵さんですね?」


 と近野は理真と私に目を向けた。理真が、「よろしくお願いします」と答えると、


「こんなにお若い女性だったとは。全くの予想外でした。そちらの方は……ワトソンさんですか? 両名とも女性で、しかも美人というのは珍しいですね」


 近野の言葉を、理真と私は、「ええ、ええ」と笑みを浮かべながら頷くことで聞き流した。こういう場面になると、私たちはいつもこうする。面倒くさい話題をスルーするとともに、「美人」と言われたことを否定しない効果もある。


「よろしくお願いします。形塚は立派な教師だったのに……どうしてこんなことになったのか……」


 体育教師は沈痛な面持ちになって唇を噛んだ。

 近野教諭に見送られて、帰宅する清水教頭と玄関で別れた私たちは、駐車場で立ち話をした。


「安堂さん、江嶋えじまさん、今夜、帳場(捜査本部)が立った上所かみところ署で捜査会議が行われるのですが、ご出席願えますか?」


 中野刑事の申し出を理真は快諾した。開始は午後六時から。腕時計を見ると、まだ一時間少し時間がある。署で合流することにして、私たちは一旦、それぞれの車で校門を出た。


「お母さんからの連絡はなかったわ」


 ハンドルを握る理真が言った。彼女は車に乗り込む前に携帯電話を確認していた。もし私たちが不在の間にクイーンが帰ってきていたら、理真のお母さんが真っ先に知らせてくれるはすだ。それがないということは……。


「とりあえず、捜査会議が終わって、帰ったらポスターを作ろうよ。で、今日行った公園やらに貼りだそう」

「それがいいね」


 助手席で私は頷いた。不特定多数の目撃情報に賭けるしかない。

 私と理真は、ファミリーレストランで軽く夕食を食べてから、上所署へ向かった。

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