第4章 猫はどこだ

「ラッキー さわれる! うへへへ… ねこ ねこ ねこ ひょ――――!!」


『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』「喪18:モテないし夏が終わる」 谷川ニコ



十月二十四日 午前十時零分


 食後のお茶を済ませた私と理真りまは、安堂あんどう家へお邪魔するために出かける準備を始めた。準備の出来た私たちは、理真の愛車、真っ赤なスバルR1に乗り込み、一路安堂家を目指す。


 私たちのアパートから安堂家までは、車で十五分もかからない。閑静な住宅街の中、安堂家の家屋が見えてくる。玄関前の駐車スペースには、理真のお母さんの愛車である、シルバーのインプレッサが駐まっていた。理真のお母さんのようなおっとりとした女性には不似合いの車だが、何でも、亡くなった理真のお父さんの愛車で、それを引き継いで乗っているという話だった。

 理真が玄関の呼び鈴を押す。「はーい」という声がドア越しに聞こえ、ぱたぱたとスリッパで廊下を歩く音が続く。カメラと居間で見られるモニター付きのインターホンがあるのに、理真のお母さんはいつも玄関まで来客の応対に顔を出す。最初は律儀だからなのかと思ったが、どうやらモニターの使い方を知らないだけのようだ。


「理真。由宇ゆうちゃんも、いらっしゃい」


 ドアが開けられて、理真のお母さんが私たちを出迎えてくれた。


「クイーンは、まだ帰ってきてない?」

「……そうなの」


 廊下を歩きながら、理真が消えた飼い猫の話題を出すと、理真のお母さんは声のトーンを落とした。私と理真は居間に通される。まず目が行くのは、テレビの横のスペースだ。そこには理真がホームセンターで買ってきた猫ハウスが設えられている。いつもであれば中で一匹の三毛猫が寝ており、「誰が来たのか」と顔を上げて来客の確認をするところなのだが、今はその猫ハウスはからっぽだ。隣で理真のため息が聞こえた。


 理真のお母さんに紅茶を一杯ごちそうしてもらってから、私と理真は徒歩で安堂家を出た。


「記憶では、かつてのクイーンの縄張りテリトリーは、うちから半径百メートルもなかったと思うの」


 玄関前の公道に立って、理真は言った。私は道の左右を見回して、


「ここから百メートルというと……あの公園の辺りまでだね」


 道路の先に見える小さな公園を指さした。その反対側はずっと住宅が並んでいるため、百メートル先にこれといった目印は見つけられない。


「よし、とりあえず、ざっと捜索してみよう」


 理真の声で、私たち二人は公園を目指した。

 公園はもとより、安堂家から半径百メートル圏内にある、猫が潜んでいそうなところを片っ端から当たったが、猫の子一匹(実際に捜しているのは猫そのものなのだが)見つけることは出来なかった。

 私たちは一旦安堂家に戻り、お昼ご飯をいただいていた。もちろん理真のお母さんが作ってくれたものだ。食べたらすぐに捜索を再開するため、簡単なもので良いという私たちの要望で、インスタントラーメンにしてもらった。しかし、理真のお母さんの手に掛かると、どういうわけだかインスタントラーメンでも美味しくなるから不思議だ。

 昼食を食べ終えた私と理真は、クイーンの捜索を再開するべく座卓の前から立ち上がった。居間を出るとき、私は一度振り返った。テレビ脇のからっぽの猫ハウスが、やけにその存在を主張しているように感じた。



 安堂家を出た私と理真は、捜索範囲を広げるべく、かつてクイーンが縄張りにしていたという、午前中も訪れた小さな公園の前を通り過ぎようとしていた。そこで理真が足を止めた。視線の先には、ランドセルを担いだ幼い女の子が二人。背丈からして、小学校一年、二年といったところか。時間からいって学校帰りだろう。理真は「ねえ」と声を掛けて、


「ちょっと訊きたいことがあるんだけどさ」二人の女の子の前に屈み込んで視線の高さを合わせると、「昨日か今日、この辺りで猫を見なかった? 首輪をした三毛猫なんだけれど」


 女の子たちは互いに顔を向け合ってから、「見たよ」「うん」と同時に答えた。これは僥倖ぎょうこうだ。目撃者がいてくれたら、捜索はかなり楽になる。


「本当に? いつ?」

「えっとね、昨日」

「そう、今よりもちょっと遅いくらいの時間。昨日は五時間目まであったから」

「あの猫さん、お姉さんが飼ってるの?」


 そうよ、と理真が笑顔で答えると、


「あの猫さん、とってもかわいかった」

「うん。すっごいもふもふだったよ」


 女の子たちは目を輝かせた。理真はご満悦の表情で、


「ありがとう。ねえ、その猫さん、どこに行ったか分かる?」

「えっとね……あっちに行った」


 女の子のひとりが指をさした。それは、安堂家とは反対の方向だった。クイーンは、かつての縄張り範囲を超えて移動していたのか。


「……そっか。どうもありがとう」


 理真が礼を言うと、「どういたしまして」と二人の女の子が返した。小さいのに礼儀正しい子たちだ。

 女の子たちに手を振って別れた理真と私は、彼女たちが指さした方向に向かって歩く。数軒の民家を通り過ぎると、片側二車線の大通りに出た。


「この道路を越えたとは思えないけど……」


 歩道に立って広い道路を眺めながら、理真は腕を組んだ。


「さっきの公園から、この道路までの間にいるのかな?」私は訊いた。

「うーん。でも、そこまでの間は民家ばかりで、猫が安心して隠れらるような場所はなかったし」

「誰かの家で保護されてるとか?」

「それもあり得るね。ポスター作って張り出してみようか? いや、いっそのこと、戸別訪問して聞き込みをかけたほうが早いかも……」

「ポスターか、動物病院とかに、そういう張り紙がしてあること多いよね」

「動物病院? そうだ!」


 理真は、大通りを越えた先にある、クイーンかかりつけの動物病院で聞き込みをすることにした。訪れる患者(正確には患者の飼い主だが)から、何か情報がもたらされていることに期待して。


 お昼休みの診療時間外だったが、受付の若い女性看護師は理真の訪問を受け付けてくれた。近くに住んでいる安堂だと名乗ると、「クイーンちゃんの飼い主さんですね」とその看護師は安堂家のことを記憶してくれていた。これには理真も舌を巻いた。余程動物好きなのだろう、「うちに来てくれた動物さんのことは、全員憶えてますよ」と看護師は笑みを浮かべた。さっそく、昨日、この病院前の道路で三毛猫を見かけなかったか? と訊いてみたら、


「あ、やっぱり、あれはクイーンちゃんだったんですか?」


 ビンゴだった。看護師は、昨日、確かに三毛猫が病院前の道路を歩いているのを目撃したと証言してくれた。私たちが来たのと同じ、大通りの方向から。歩いているというよりは、若干急ぎ足で、まるでこの病院の前を早く通りすぎてしまおうというふうに見えたという。


「この先といったら……」

「大きな公園がありますね」


 理真と看護師は、そろって窓の外に目を向けた。建物の向こうに、こんもりとした木々の先端が見えていた。ちなみに、同じ猫が復路を歩いているのを見たかとの問いには、それから午後の診察時間が始まって病院が忙しくなったため、窓の外を眺めている暇もなくなり、分からない。というのが彼女の答えだった。


 私と理真は礼を言って動物病院を出て、公園に向かった。

 広い公園だ。かつてクイーンが縄張りにしていたという安堂家近所の公園とは規模が全然違う。これだけの公園となれば、ここをねぐらにしている野良猫の数匹もいておかしくない。クイーンがこの公園に来ており、、その猫たちと友達になって一緒に過ごしている。というのであれば何の心配もないのだが。私と理真は、手分けして公園内を捜索することにした。

 植え込みや木々の間を縫うように進み、私はクイーンを捜す。捜索対象は小さな猫ではあるが、視線を下にばかり向けているわけにもいかない。猫の行動範囲は立体的だ。木の上や塀の上といった、人の視点よりも高い場所にいる可能性も大いにある。


 あ、猫発見。しかし、クイーンではない。全身が茶色の濃淡で構成された縞になっている。通称「茶トラ」と呼ばれる模様の猫だ。植え込み近くのベンチの上に、だらしなく寝そべっている。あまりに堂々としたこの居住まい。間違いなくこの公園に住み着いている猫だろう。私の気配に気付いたのか、猫が首を回し顔を向けてきた。「うにゃ」と鳴かれる。「何か用があるのか?」そう言っているように聞こえた。私が近づいていっても、逃げる素振りも見せない。それどころか、尻尾をゆらゆらと振ってベンチの上を撫でており、それが「まあ、座れ」という意味の仕草に見えたので、お言葉に甘えて茶トラさん――あまりに堂々として余裕のある佇まいに、敬称を付けて呼ばざるを得ない――の横に腰を下ろすことにした。そっと手を近づける。猫に警戒の色はなく、少し目を動かすだけ。……これは触らせてもらえる! 私は嬉々として猫のあごやら頭を撫でまくった。


「ねえ、三毛猫見なかった?」


 私は(周囲の目があるといけないので小声で)尋ねてみた。が、茶トラさんは答えることなく(当たり前だが)、目を細めて喉をごろごろ鳴らすばかり。

「ほい」と私は、懐に入れていたチャック付きポリ袋から、かにかまをひと切れ出して、茶トラさんの目の前に置いてやる。クイーンを発見したときにおびき寄せる用に持ってきているものだ。茶トラさんは遠慮する素振りなど微塵も見せずに(当たり前だが)、かにかまにかぶりついた。

 野良猫に餌をやらないでくれ、という人をたまに見かける。人間が餌を与えるから、野良猫がいつまでも死なないで元気でいて、結果、交尾をして数が増える。ということらしいが、それは猫という生き物をなめすぎた意見だと思う。人間に頼らずとも、彼ら、彼女らは自力でいくらでも獲物を捕らえるすべを持っている。人間がくれるというなら、もらってやろう。猫たちのスタンスはその程度でしかない。人間は猫を邪魔者扱いするかもしれないが、猫にとって人間は、同じエリアに共存している、(たまに食べ物をくれる)無害な生物。という認識しかないだろう。ある意味、猫は人間を信用しているともいえる。でなければ、こうして一見いちげんで見ず知らずの私などの接近を、ここまで許すはずがない。猫は猫なりに人間世界で立派に生きている。本気で野良猫を減らしたいのであれば、保健所に来てもらうしかないだろう。

「もっとくれよ」という意味か、かにかまを食べ終えた茶トラさんが私を見て「にゃお」と鳴いたが、


「あとはクイーンの分」


 と私はおかわりを拒否した。それを感じ取ったのか、茶トラさんは急に、ぷいと横を向き、不機嫌そうに尻尾をせわしなく振る。それでも私の隣から離れないのがかわいい。いや、「ここは自分の場所だから、離れるのはお前だ」ということなのかもしれないが。

 はいはい、お望み通り退散しますよ。と腰を浮かしかけた、そのとき、となりの植え込みがガサガサと鳴った。次いで、「にゃー」という鳴き声が。植え込みをかき分けて出てきたのは、全身が黒と茶色の縞で覆われたキジトラと呼ばれる模様の猫。キジトラさんのご登場だ。ベンチの前まで歩いてきたキジトラさんは、茶トラさんと目を合わせて、「にゃー」「にゃー」と何事かコンタクトを取り合っている。「この眼鏡のお姉さん、かにかまをくれるよ」「そうなの?」そんなふうに聞こえるぞ。と思っていると、キジトラさんが私を見て、「うにゃー」と鳴いた。明らかに期待を込めた、まん丸い目で。


「仕方がないな」


 私は懐から、もう一度かにかま袋を取り出した。するとキジトラさん、余程かにかま好きなのか、「待ちきれん」とばかりに「にゃ」と短く鳴いて立ち上がり、私の膝の上に両手を置いた。デニム越しなので肉球の感触を直接味わえないのが残念だ。私がかにかまを摘まんで頭上で揺らしてやると、キジトラさん、かにかまを捉えようとして片手をぶんぶん振り回す。首尾よく爪を引っかけてかにかまを手中に収めると、もう片手も私の膝から離して、地面の上で戦利品をはぐはぐ噛み始めた。それを見た茶トラさん、ベンチから飛び降りて、あろうことか、キジトラさんのかにかまに手を出そうとする。キジトラさんは当然のように激しく抵抗。「しゃー!」「うしゃー!」と互いに威嚇しあうような声を上げる。仕方がないな、と私は茶トラさんに、もうひと切れかにかまを与えてやる。すると茶トラさんは、「にゃおん」とそれに跳びつき、二人仲良くかにかまを口にして無言となった。うしうし、という、猫がかにかまをむ音だけが午後の公園に聞こえる。かわいいな、猫は。

 さてと。私は二匹に手を振って(彼らは私のことなど無視していたが)、クイーンの捜索を再開した。


 理真は公園を時計回りに、私は反時計回りにと分担して捜索に当たっていたのだが、公園をほぼ半周したところで私は理真と顔を合わせた。つまりは公園内を捜索し終えたということだ。二人とも成果はなし。理真も途中、何匹かの猫に出会ったという。そのいずれもが場慣れして公園に馴染んでおり、私が遭遇した子たちも含めると、少なくとも数匹の猫がこの公園で暮らしているらしい。

 私と理真は、公園の自販機で飲み物を買ってベンチで休んでいた。猫が好んで潜り込みそうなところも重点的に捜したのだが、それでも見つからないということは、クイーンはこの公園にはいないのだろうか。


「でも、看護師さんの目撃情報だと、この公園に来たとしか思えないんだよね」


 理真の言うことも、もっともだ。


「それか」と理真はペットボトルのお茶をひと口飲んでから、「何者かに連れ去られたのかな? クイーンはかわいいから」

「それもなくはないかも……猫好きの人が保護してくれているんだったら、安心なんだけどね」

「そうだね……これは、本格的にポスターの制作も視野にいれないとかも――」


〈着信音1〉が鳴った。理真の携帯電話からだ。ペットボトルをベンチに置き、理真は電話に応答する。


「もしもし、丸姉まるねえ


 県警捜査一課の丸柴まるしば刑事からだ。事件に関する情報がまとまったのか? 「うん……うん」と、ほぼ頷きながら通話を続ける理真の表情が、段々とシリアスになっていく。


「……分かった。夜になると思うけど、本部に寄らせてもらうわ」


 それを最後に通話は終わった。


「事件のことね。何かあった?」私が訊くと、

「うん。〈フユシナ〉という名字の人物が見つかった。二十八歳の男性で、現場となった中学校の近くのアパートにひとり暮らしで住んでるって」

「容疑者発見か」

「うん、でもね。話を訊くと、そのフユシナさんと被害者の教師、形塚かたづかさんとは、知り合いでも何でもなくて、何の繋がりもないみたいなの。しかも、被害者の死亡推定時刻に、そのフユシナさんには完璧なアリバイがある」

「アリバイ……」

「そう。とりあえず家に戻ろう。クイーンのことは……お母さんと相談することにする」


 クイーン。今頃、どこで何をしているのか。こんなにみんなに心配をかけて。

 連続小動物殺傷事件。……思わず頭をよぎる。いけない。そんなことを考えていても仕方がない。私はペットボトルの紅茶を飲み干すと、理真に続いてベンチを立った。

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