第5章 三毛猫クイーンの動揺

「かわいい猫を、こんなにむごたらしい殺しかたをした人間は――化けものですわ」


『七匹の黒猫の冒険』 エラリー・クイーン(井上勇・訳)



十月二十三日 午後六時二十分


 目の前に横たわる猫は、ぴくりとも動かない。頭部には傷口が開き、黒い毛と混じり合って見にくくはあるが、間違いなく凝固した赤黒い血がこびりついている。クイーンにも、それが何を意味しているのかは理解できた。

「同胞の死」その事実を眼前に付きつけられ、クイーンは少なからず動揺した。しかも、この死に方は自然死や事故ではありえない。明らかに、殺意を持った何者かが己の意思で成したことだ。

 猫も、ネズミをはじめ「狩り」の対象になった生物を殺す。そのすべてが食べるためだけではない。狩猟は猫の本能のため、特に空腹でなくとも、猫が狩りをするときはある。時には、自分で狩りができない愚鈍な人間のために、自らが仕留めた獲物をくれてやることもある。

 だがそれらは、全てが自分や、自分の仲間たちのための、生きるための行為なのだ。食べなくとも狩りをするのは、いざ本番の狩りに対して備えておくため。猫は本来、狩りをしなければ生きてはいけない生物だ。そのためには、狩りが好きにならなければいけない。猫が遊び感覚で狩りをするのはそのためだ。「狩り、面倒くさい」などと思っている猫がいたなら、その猫は生きていくのに相当な苦労を強いられるだろう。人間への「おみやげ」も、彼ら、彼女らが腹を空かせているだろうという気づかいからの行動だ。

 しかし、目の前の〈それ〉は明らかに違う。この猫の死体からは人間の匂いがする。嗅覚に訴えかけてくる物理的なものだけではない。その様相が、漂う雰囲気が、人間による仕業だと告げている。


(人間は、生きていくうえで猫を狩る必要などないはずなのに)


 クイーンに理解しがたいのはそこだった。食べるものがなくなり、猫に手を出したのでもないことは明らかだ。であれば、こうして死体が五体満足のまま残されるわけがない。正当な命のやりとりの末の死であれば、クイーンにも納得は出来る。そこには何の不合理もない。自分の命を長らえるために他者の命を糧にするというのは、自然界では当たり前に行われていることだから。他には、危機回避のための殺傷というものもある。自分のほうが捕食対象となり、それから逃れるために応戦の末、逆に相手を絶命させてしまうという状況だ。が、今回はそれもあり得ない。猫が人間を捕食などしようとするはずがない。他には何かあるか? 縄張りをめぐるトラブルか? が、人間と猫との間で、そのレベルの諍いが起こるとは、これも考え難い。

 なぜ、この猫は殺された?


(これをやった人間は、殺すことだけが目的だったのだろうか?)


 ますますクイーンは混乱する。


(この猫の死の意味とは、いったい……?)


 思案していたクイーンの意識は、背後からの声に呼び戻された。それは、嗚咽。そして、一歩、また一歩と、鈍い足取りで地面を踏む足音も聞こえる。


「ランタ……ランタなの……?」


 高宮明日奈たかみやあすなという名の少女が、地面に膝を突いた。その双眸からは、滂沱ぼうだの涙が流れている。彼女と黒猫の死体との間に立っていたクイーンは、そっと自分の身を横に退けた。


「……明日奈」


 その後ろから、大林美緒おおばやしみおもゆっくりと歩いてくる。両脚が震えているのが分かる。明日奈は、美緒の呼びかけも耳に入らないかのように、そのまま両手も地面に突いた。もの言わぬ黒猫の死体を見下ろす格好になる。がくがくと震える彼女の右手が差し出され、黒猫の尻尾に触れた。先端だけが白い毛となっている、細い尻尾に。明日奈の隣には美緒も屈み込み、黒猫の背中をそっと撫でる。その両目からも、明日奈と同じように落涙が続いていた。


 公園の片隅には、少女二人のすすり泣きだけが聞こえていた。クイーンも、ランタという名を与えられた黒猫の死体に近づき、その背中を舐め、傍らに座り込んだ。日はとうに没し、天を覆う薄闇が、二人の少女と一匹の猫、そしてひとつの亡骸を包み込んでいた。

 粛然たる何かの儀式のようなその場面は、十分ほど続いた。やがて、泣き声は聞こえなくなった。二人はハンカチを取りだして、真っ赤になった鼻に当てる。それから少しの間、洟をすする音がしていたが、それもやむと、


「……あいつだ。あいつがやったんだ」


 明日奈が口にした。ベンチでクイーンや美緒を話していたときとは、全く違う冷たい声だった。


「あいつ、って……知ってるの? 明日奈、この猫さん……ランタをこんなにした人を?」


 美緒に訊かれたが、明日奈は質問には答えないまま、


「……殺してやる――」

「駄目!」


 美緒の声がすぐに被さった。黒猫の死体を発見してから、初めて二人は目を合わせた。


「……そんなことしちゃ、駄目」


 一度、目をぬぐってから美緒は改めて言った。


「どうして?」 明日奈は刺すような目を美緒に向けて、「ランタだけじゃない。あいつは、猫や他の動物を、もう何匹も殺してる。何の必要もないのに、弱いものいじめを楽しむためだけによ。あんなやつ、死んで当然よ」

「そうだとしても……駄目よ」

「どうしてよ! あなたに何が分かるのよ――」

「分かるの!」


 美緒の強い言葉に、明日奈は黙った。


「……ごめんね、大きな声出して」美緒は、やさしい笑みを浮かべると、「あのね……聞いて、明日奈……」


 二人はその場に座り込んで何事かを話し始めた。誰にも聞かれまいとするかのように、声を顰めて。その声は、そばにいるクイーンの耳にも入ってはこなかった。


 明日奈と美緒、二人の話は数分も続いていただろうか。その間、クイーンはずっとランタの亡骸の横に伏せ、もう二度と動くことはない、その顔、耳、脚、尻尾を眺めていた。ときおり吹くそよ風が黒猫の体を撫で、毛やひげを揺らす。


「……いい? 分かった?」


 明日奈は美緒の両肩に手を乗せて、自分の言ったことが飲み込めたか、確認するようにしっかりと両目を見つめた。美緒も、すでに明日奈の言葉に抵抗するのはやめており、黙ったまま頷く。二人が話すうち、会話の主導権は次第に明日奈のほうに移っていった。明日奈が言うことについて、最初は美緒は首を横に振って、否定、拒否の意味合いの言葉を口にしていたが、最後には、明日菜の説得を聞き入れたかのように頷いた。


 二人の会話が終わると、明日奈は携帯電話を取りだしてダイヤルした。ディスプレイに表示された時刻は午後六時三十分だった。


「……もしもし、私。ねえ、ちょっと、お願いがあるんだけど……」


 明日奈が電話をしている間、美緒は、しゃがみ込んでクイーンの背中をゆっくりと撫でていた。


「……うん、じゃあ、よろしく」


 明日奈は電話を終えた。携帯電話をしまうと、明日奈の目が地面に、猫の亡骸に向く。明日奈は黒猫の体をそっと持ち上げて、


「あとで、きちんとお葬式するからね。今は、ちょっとここで我慢していて」


 もう動かなくなった耳に口元を近づけて、やさしく囁くと、植え込みの下、人目につかない場所にそっと横たえた。手前には落ち枝や葉っぱを置いて、さらに少しでも見えなくする。


「明日奈、ミケちゃんは、どうしよう……」


 美緒は自分が抱いている三毛猫を明日奈に向けた。


「ここに置いていくなんて出来ないし、美緒に預けるわけにもいかないわね。私が連れていく」


 言いながら明日奈は美緒から三毛猫を受け取った。目の高さまで三毛猫を持ち上げた明日奈は、黒、茶、白、三色に彩られた顔の上、黒々と輝くまん丸な目を見つめて、


「ミケ、ちょっとの間だけ、私と一緒にいてね」


 そう言って猫を、ぎゅっと抱きしめた。「みゃあ」とクイーンは小さく鳴いた。

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