第3章 三毛猫クイーンの戦慄

「……つまり、次々と猫が殺されているということですね」

「ええ、そうなんです。そして次に殺されるのは、うちの子になるかもしれないんです」


『猫の家のアリス』 加納朋子



十月二十三日 午後五時五十分


 大通りの横断を諦めて公園に戻ったクイーンは、今度はベンチの上でなく、生け垣を構成する植え込みの下に入り込んだ。本格的に日没となり、気温が下がってきたためだった。


(久しぶりに外に出て、少し疲れたな)


 クイーンはその場に伏せた。お腹に触れる芝生の感触が心地よい。外灯が灯り始めた公園には、昼間とは打って変わり人の姿は見られない。


(静かでいい環境だ)


 満足げに目を細め、あごまで完全に芝生の上に乗せて、クイーンは眠る体勢に入る。

 時折、車の走る音が聞こえる他は、虫の鳴く声だけが小さく響いている夕暮れの公園。


(でも、静かすぎるかな……)


 数年以上に渡り安堂あんどう家の屋内だけで暮らしているクイーンにとって、屋外で夜を明かそうとする経験は初めてだった。外への出入りが許されていた時代にも外泊経験は一度もない。テレビ、洗い物、廊下を歩く音といった、人間が立てる生活音の中で眠ることが当たり前だった。いい気持ちで眠りに入りかけていたところに、ちょっかいを出されてまぶたを開けたことも何度もある。そんなことをしてくる相手は、ほとんどの場合、理真りまだったが。(何だよ)と思いつつも目の前で猫じゃらしを振られると、つい手を出してしまう自分が悲しい。


(お母さんは、心配しているのかな……)


 クイーンの頭に最初に浮かぶ人間は、いつも理真の母親だ。彼女とは良い関係を築けているとクイーンは思っている。適度に放っておいてくれて、適度に遊んでくれる。向こうから何かしてくることは滅多にないが、こちらからの要求にはほとんど応えてくれる。こういう人間が猫には一番ありがたい。もちろん、ご飯をくれるし、トイレの掃除までしてくれるのもポイントが高い。

 テレビなどを見ると、他の人間の家庭には、お母さんと対を成す「お父さん」と呼称される大人の雄がいる場合もあるようだが、クイーンが住んでいる安堂家には、それに該当する個体は存在しない。たまにお母さんが、「仏壇」と名付けられた黒い縦長で小さい家屋のような物体に向かって、両手を合わせているのを見かけることがある。その仏壇には、人間の大人の雄の写真が立てかけられている。あれが安堂家の「お父さん」なのだろうか。たまに遊びに来る理真も、その弟のそうも、お母さんと同じように静かに手を合わせていることがある。それが何を意味しているのか、クイーンには分からないが。

 安堂家のことを考えながら、気持ちの良いまどろみに入りかけていたクイーンは、閉じられていたまぶたを開くと同時に、がばりと首を起こした。帰る気が固まったからではない。人間の足音が彼女を覚醒させたのだった。小走りのその足音は徐々に近づいてくる。クイーンの目の前に、紺色の服を着た人間が躍り出て、同時に足を止めた。


(この子は……)


 クイーンは見上げ、その人間も芝生の上に座った三毛猫を見下ろし、ひとりと一匹は目を合わせた。


「君……ミケちゃん」


 昼間にこの公園で出会った少女。格好も昼間と同じ、紺色の制服のままだった。


「どうしたの? お家に帰らないの? 飼い猫じゃなかったの――」


 そう話し掛けながらしゃがみ込んだ少女は、ぴくりと体を震わせると、自分が歩いてきた方向に目を向けて、


「ミケちゃん!」


 目の前の三毛猫を抱き上げると、そのまま姿勢を低くして走った。彼女が来たのとは逆方向に。(何だ?)という意味で「にゃー」とひと言鳴いただけで、クイーンは彼女がするに己が身を任せた。

 少女と三毛猫が公園の出入り口に差し掛かるころ、彼女が走ってきた方向から、もうひとりの足音が響いてきた。クイーンの耳には、その足音は少女のように走ってはおらず、大股で歩く大人のもののように聞こえた。


 少女は走る。猫を抱えながら。三毛猫クイーンは後ろ向きに少女に抱かれて、両前足を少女の右肩に乗せている。少女が駆け抜ける景色が視界に遠ざかっていく。少女は、はあ、はあ、と荒い息を吐きながら走る。まるで、何かから逃げるように。

 数分ほど走ると、ようやく少女は足を緩めた。そこは、また別の公園の前だった。先ほどまでクイーンがいた公園よりは小さい。公園に入った少女は、外灯の明りが届くベンチに座り、抱いたままの三毛猫の背中をやさしく撫でる。


「はあ……はあ……突然ごめんね、ミケちゃん」


 呼吸を落ち着かせてから少女は、三毛猫を自分の膝の上に乗せて話し掛けた。


(いったい、何がどうしたっていうんだ?)


 クイーンは見上げて「うにゃー」と鳴いたが、少女はその仕草に笑みを浮かべ、猫の顎の下を指でさするだけだった。それをされると、クイーンも目を細めて、ごろごろと喉を鳴らすしかない。

 公園には、少女と猫の他には誰の姿も見られなかった。


(君は中学生か高校生だろう。こんな時間まで外にいていいのか?)


「にゃーん」と鳴いて、クイーンはそう問いかけた。人間のいう「時刻」なるものの見方はクイーンにはよく分からないが、体感では、安堂家においては夕食が始まる時間くらいにはなっているはずだった。それが通じたのかどうかは分からないが、少女は懐から携帯電話を取りだして、ディスプレイを点灯表示させた。現在時刻は午後六時を回ったところだった。

 しばらく無言のまま、片手で三毛猫の背中を撫で、もう片手は携帯電話を持ち、その画面を見つめていた少女だったが、不意に視線を横に向けた。クイーンが耳を立てて顔を向けたのも同時だった。公園に、ひとりの人間が足を踏み入れていた。少女は体を強ばらせ、膝の上の三毛猫をかばうように両手で覆う。夕暮れのため辺りは暗く、公園への闖入者は、出入り口にある明りが逆光になってシルエットしか判別出来ない。少女はベンチから腰を浮かしかけ、シルエットの人物も一瞬足を止めたが、


「あ、かわいい」


 逆光の中にいる人物がそう言うと、少女は静かに腰をベンチに戻した。その声は少女と同年代程度の女の子のもので、シルエットもそれを裏付けるように小柄なスカート姿だった。声の主は、ゆっくりと歩み寄ってきて、ベンチ近くの外灯の明りの中にその身を入れた。やはり、少女と同年代の女の子で学校制服を着ていた。が、その制服のデザインは少女とは違っている。使われている色も紺色ではなく薄いグレーだった。

 新たに現れた少女が、三毛猫に向けていた視線を上げると、ベンチに座っている少女と目が合った。


「あっ……こ、こんばんは」


 ぺこりと頭を下げたグレーの制服の少女に、紺色の制服の少女も「こ、こんばんは」と同じように小さく挨拶を返した。


みなみ中学校、ね」


 ベンチの少女が訊くと、立っているグレーの制服の少女は、「は、はいっ」と答えて、


「そういうあなたは、西にし中学校ですね」


 紺色の制服を見ながら言った。数秒の間、互いのぽかんとした顔を見つめ合っていた二人は、「ふ、ふふっ」と、どちらからともなく笑いだした。


「変なの」紺色の制服の少女が言うと、

「変ですよね」グレーの制服の少女も言い返して、「あ、あの……」

「何?」

「な、撫でても、いいですか?」


 大きな瞳を膝の上に抱かれた三毛猫に向けた。紺色の制服の少女は笑みを浮かべて頷いた。グレーの制服が、ちょこちょこと近づいてきて屈み込み、三毛猫と視線の高さを同じくして頭を撫でる。猫が喉を鳴らすと少女は、「あは」と嬉しそうな声をだした。そのまま視線をベンチに座った少女に向けて、


「な、名前、何ていうんですか?」

明日奈あすなよ」

「そっかー。かわいいねー、アスナー」


 さらに三毛猫の頭を撫で回した。


「――ああ! 違う、違う」それを聞いた紺色の制服の少女は小さく首を横に振って、「明日奈は、私の名前。高宮たかみや明日奈。西中学二年」

「あっ! ご、ごめんなさい!」


 グレーの制服の少女は、慌てたように立ち上がると頭を下げる。きょとんとしていた紺色の制服の少女、高宮明日奈は、「ぷっ」と吹きだして、


「ううん。私のほうこそ、ごめんね、勘違いさせちゃって」

「い、いえ……私の訊き方が悪かったから……あ、わ、私、南中学二年の大林美緒おおばやしみおです」

 グレーの制服の少女、大林美緒は自己紹介をして、持ち上げた頭をもう一度下げた。


「美緒さん、か。ねえ、座らない?」


 明日奈が自分の隣に腰を下ろすよう促すと、「で、では……」と美緒はベンチに、明日奈のすぐ隣に腰を据えた。


(こっちが明日奈で、向こうが美緒、か)


 クイーンは並んで座る二人の少女の顔を見比べて、名前を頭の中で復唱する。

 高宮明日奈は、ロングヘアで落ち着いた雰囲気をまとっており、大林美緒は、ショートカットの活発そうな見た目をしている。外見では明日奈のほうがずっと年上に見えるが、先ほどの自己紹介だと、二人とも学校こそ違えど、同じ中学二年生だという。


「同じ二年か」と明日奈もそのことを話題に出し、「いくつ?」と年齢を訊いた。

「じゅ、十四です」


 美緒が答えると、明日奈は、


「私は、まだ十三歳よ。誕生日が近いから、すぐに同じ十四になるけれどね」

「そ、そうだったんですか。い、意外です」

「何が?」

「あ、明日奈さんのほうが年下だったから。私、二年って聞いたときもびっくりしたんですけど。す、すみません」

「謝ることないじゃない」と明日奈は笑って、「気にしないで。年上に見られるのには慣れてるから」

「ご、ごめんなさい!」


 美緒は膝の上に両手を乗せたまま頭を下げた。それを見た明日奈は、また笑って、


「もう。普通に喋ろうよ。同学年だし、だいたい美緒さんのほうが年上でしょ」

「そ、そうですよね――」美緒は、あはは、と頭をかくと、「そ、そうだよね」と口調を変えて言い直した。

「そうそう。名前も、呼び捨てで行こ。ね、美緒」

「はい――じゃなかった、うん、明日奈!」


 二人の少女は笑顔を見せて笑い合った。

(不思議なものだな)とクイーンは思う。明らかに初対面の二人が、数分と間を置かずに、もう親しい友人同士のようになっている。だが、クイーンはその理由を薄々感じ取ってはいた。この、明日奈と美緒は、二人とも似たようなものを持っている。それは目には見えないものだ。人間よりもまだ野生に近い感覚を備えている猫は、目に見えない危険を察知することが出来るように、目に見えない〈感覚〉を感じ取ることが可能だ。この二人は心の奥底に、何か空洞とも言うべきものを持っている。「空洞を持っている」というのはおかしな表現かもしれないが、間違ってはいないだろうとクイーンは思った。


「ねえ、改めて」と美緒は、「この子の名前、何て言うの?」


 訊きながら、明日奈の膝の上に座る猫のあごを撫でた。三毛猫が喉を鳴らして目を細めるのを、笑みを浮かべて見る明日奈は、


「分からないの。公園で拾ったんだ。あ、拾ったっていうのは違うね。この子、明らかに飼い猫だもん」

「そうなんだ。言われてみれば首輪をしてるし、毛並みも、つやっつや」


 美緒は納得したように三毛猫の背中を撫でる。


「ミケちゃん、って呼んでる」


 自分のつけた愛称を口にして、明日奈も猫の頬を撫でる。


「あはは、安易だね」


 美緒の意見にクイーンは、そうだろう、そうだろう、と同意を込めて「にゃーん」と鳴いた。


「ミケちゃんの飼い主さん、どこにいるのかな? 今頃、捜してるのかな? それとも……捨てられちゃったのかな?」


 捨てられた、という言葉を口にするとき、美緒はことさら悲しそうな表情を浮かべた。


「にゃーん」


(車の往来が激しくて、帰られなくなっただけだよ)


 だが、クイーンの意図したことは当たり前だが通じなかった。鳴き声を聞くと、美緒は再び顔をほころばせて、


「そうなんだ。お前、ひとりなの?」


 そう言いながら、指で三毛猫の顎をさする。(まあ、いいか)とクイーンは思いながら、目を細めて喉を鳴らした。それを面白そうに眺めていた明日奈は、


「――そうだ、ランタ」


 と顔を上げて公園を見回した。


「ランタ?」


 首を傾げた美緒に、明日奈は野良猫ランタのことを話して聞かせる。尻尾の先端だけが白くなった、黒猫のランタ。そのことを聞くと、美緒も、


「私もね、近所にいる猫と友達なんだ。基本黒混じりの茶色の毛なんだけど、四本全部の脚のとこだけが白くなってるの。靴下履いてるみたいに。だから、『くつした』って名付けたの」


 明日奈は吹きだした。


「ストレートすぎて、あんまりな名前じゃない?」


 なおも笑う明日奈の膝の上で、クイーンは(『ミケ』はいいの?)と思った。


「そうなのかな? 言われてみれば、私が『くつしたー!』って大きな声で呼んでも、全然無視されるし。そういえば最近、くつしたのこと見てないな……。で、そのランタは、どこ? 私もランタに会いたいな」


 美緒は公園を見回した。明日奈も周囲に目をやって、


「ランタは、この公園をねぐらにしてて、私が声を掛けると、ここにいれば、いつもすぐに出てくるんだけど。今日はまだ一度も見ていないの」

「今日、って、今日のいつから?」

「学校帰りから。私、そのときは、どこかに遊びに行ってるんだと思って、ちょっと遠くまで捜しに行ったんだけど、見つからなくって……」


 明日奈は、クイーンを抱えて自分の膝からベンチに降ろすと立ち上がって、


「ランター!」


 黒猫の名前を呼び始めた。美緒も立ち上がって、同じように名前を呼ぶ。

 風が吹いた。公園を吹き抜けたその風は、クイーンのもとに、ある感覚を運んできた。耳を立て、瞳孔を限界まで広げ、鼻をひくつかせる。背中の毛も逆立て、口を開いて舌を出し、五感すべてでクイーンは、その感覚、忌むべき感覚を感じ取った。


「ミケちゃん!」


 クイーンがベンチから飛び降りたのを見て、明日奈が叫んだ。クイーンはそのまま地面を蹴り、走る。〈その感覚〉が発せられている場所まで。明日奈と美緒も三毛猫を追った。


(出来ることならば、来ないでほしい)


 クイーンはそう思いながら走った。土の露出した地面を越え、芝生に足を踏み入れ、さらにその先にある植え込みを跳び越えた。背の低い生け垣と数本の木に囲まれた、狭い空間にクイーンは着地した。そこに、それはあった。背後で、がさがさと草の触れあう音がする。追いかけてきた二人が植え込みを越えて来ているのだ。クイーンに二人の足を止めるすべはなかった。


「ミケちゃん――!」


 明日奈の声が掻き消えた。その後ろから、美緒が息を呑む音も聞かれた。クイーンは振り返らなかったが、二人とも見てしまったであろうことは疑いがなかった。緑の芝生の上に横たわる一匹の猫を。割られた頭部の傷口から、凝固した真っ赤な血を流した、尻尾の先端だけが白い黒猫の無残な姿を。

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