第2章 三毛猫クイーンの脱走
猫は、人間に対する意見を持っている。あまり多くを話さないが、全部を聞かないほうがいいのは確かなようだ。
ジェローム・K・ジェローム
~
本章(と、この先にも出てくる「三毛猫クイーンの○○」という名称のパート)は、
これは関係者の証言、供述及び、周辺への聞き込み結果を総括して書かれたものであるため、猫視点とはいえ、事実と著しく違っていることはないはずだ。クイーンの心理描写については、私が想像で記したものだが、彼女(クイーン)をよく知る理真や理真の家族の協力、監修を得ているため、これも事実と大きく乖離することはないはずである。猫という生き物は、我々人間と、それを取り巻く人間社会のことをよく見て観察、理解しているものだ。
なお、この形式のパートは変則的な記述とはなるが、そこに叙述的なトリックが仕掛けられていることは一切ないと断言する。あくまで猫のクイーンの目から、我々人間世界を描写しているだけであるということを約束しておく。
十月二十三日。午後四時十分
窓が開いている。
いつものように、居間のお気に入りの場所で寝転がっていた三毛猫クイーンは、庭へ出るサッシ窓が僅かに開いているのを大きな目に映した。「お母さん」と――彼女と同じくこの家の住人である高校生男子、
クイーンはゆっくりと起き上がると一応、隣室に目をやった。洗濯物を畳む音が一定のリズムで聞こえ続けている。窓に寄る。まだリズムは変わらない。やはり、三毛猫の動きに気付いていないのだ。
(今しかない)
クイーンは意を決した。フローリングの床を歩む猫の足は、肉球(正式名称:
(十分にいける)
クイーンの目算は正しかった。足音と同様、一切の物音を立てないままクイーンは、するりと窓の隙間を抜けた。
(〈
クイーンは、いつも自宅庭をパトロールの経路にしている肥満気味の雄猫のことを思いながら、庭の芝生に下り立った。かさり、と僅かに草を踏む音がしたが、これしきの音、屋内にまで聞こえるはずはない。
(久しぶりの外界だ)
クイーンは、久方ぶりにガラス越しでない直接の陽光を体全体で浴びて、大きく伸びをすると、庭と隣家を隔てるフェンスへと走った。安堂家の狭い庭はクイーンが数歩駆けるだけで終わってしまう。目の前に立ちはだかる高さ一メートルに満たないフェンスなど、猫であるクイーンにとってはないに等しい。後ろ脚で芝生を蹴ると、クイーンの黒、白、茶色、三色が混ざり合った体――三色がはっきりと境界を分けているわけではなく、黒と茶が縞模様に混在している部分が多い、俗に言う「縞三毛」――を跳躍させて、軽々とフェンスを跳び越えた。クイーン自身は軽いステップ程度のつもりだったが、フェンス先端とクイーンの爪先との間には、それでもまだ数十センチもの余裕があった。
膝関節を絶妙のクッションに効かせて隣家の庭に下り立つと、勢いを止めずにクイーンはさらに隣家反対側のフェンスも跳び越え、舗装された公道に躍り出た。
(散歩も久しぶりだ)
アスファルトの上に立ち止まったクイーンは、きょろきょろと周囲を見回していたが、やがて行く先を定め、脱走時のしなやかな動きとは一転、ゆっくりとした足取りで歩き出した。
安堂家から数軒先を越えたところにある、小さな公園の前でクイーンは足を止めた。かつてまだ、彼女が自由に外を出歩くことを許されていた時代、この公園までが彼女の
(あれからもう、何年経ったのか)
今はもう、ここは別の猫の縄張りとして確保されていることだろう。公園の角に生える桜の木の根元に鼻を近づけて、くんくんと嗅ぐ。やはり、彼女の知らない猫の縄張りであることがマーキングと爪研ぎにより主張されていた。
「あ、猫さんだ」
真っ赤なランドセルを背負った女の子が、クイーンを指さして叫んだ。その隣にいる、同じようなランドセルを背負ったもうひとりの女の子も「本当だ」と言いながら、二人そろってとことこと近づいてくる。
(逃げる必要もないか)
一瞬身構えたクイーンだったが、女の子たちの顔を見上げたまま、その場に留まり、彼女らが背中やら顎やらを撫で回すに任せてやった。クイーンは彼女たちの背負ったランドセルと同じ色の首輪をしているのだ、野良猫と思い連れ帰るようなことはしないだろう。まして、野良猫ではこの、つやつやとした見事な毛並みはあり得ないということも理解できているだろうと、クイーンは思った。二人の女の子は、「うわー、もふもふ」「気持ちいい」と縞三毛の三毛猫を撫でながら歓声を発している。
(お母さんが毎日のようにブラッシングしてくれているからね)
そういった意味を込めてクイーンは、「にゃー」とひと言鳴いたが、女の子たちには伝わるはずもない。
やがて、飽きたのか、それとも学校帰りにあまり道草をくっては家の人に叱られるためか、女の子たちは三毛猫をその小さな手から解放し、「猫さん、ばいばい」と笑顔で手を振って帰路に戻った。もう一度「にゃー」と鳴いて別れの挨拶としたクイーンも、女の子たちとは別の方角に歩き出した。
クイーンは、かつての縄張りを逸脱して遠出をしてみる気になった。というのも、こんなチャンスはもう二度と訪れないであろうことは明白だからだ。
数年前のある日、クイーンが外で
(何が悪かったのか、さっぱり分からない)
かつての縄張りであった公園をあとにして歩きながら、クイーンは首を傾げる。彼女にとってのそれは、狩りの腕自慢というよりも、自宅に同居している人間たちに対しての思いはかりの要素のほうが強かった。(お前たちのその鈍重な動きと、丸まった貧弱な爪では、満足に狩りも出来ないだろう。ましてや、羽を休めた鳥に飛び立つ暇も与えないほどに、電光石火の速さで跳びかかるなど)だからせめて、自分が捕ってきた獲物を分け与えて、少しでも慰みにしてほしいという、彼女なりの親切心からの行動だったのだ。それなのに。
(あのときの、お母さんの慌てよう)
クイーンは当時の記憶を呼び起こす。普段の彼女からは想像もつかないような悲鳴を上げ、半狂乱になってトイレ――クイーンが獲物を置いた居間の窓際から、最も遠い場所のひとつ――に駆け込んだ、いや、逃げ込んだのだった。宗が学校から帰宅して、お母さんの要請により獲物を始末するまで、その籠城は続いた。
(未だに解せない)
クイーンは思っている。お母さんをはじめとした人間たちだって、〈焼き鳥〉やら〈フライドチキン〉なるものを喜んで食べているではないか。あれが鳥の死骸の一部だということは、テレビや人間たちの会話の中からの情報でクイーンも知っている。特に、あの白髭のおっさんのイラストが描かれたフライドチキンに対する、人間たちの執着のしようといったら。たまに顔を出す、お母さんの娘の理真などは、フライドチキンが完全に骨になるまでしゃぶり尽くしている。いつだったかなど、彼女の弟の宗が食べ終えたものに、「まだ食べられるところが残っている!」と半ば怒りながら手を出したことさえある。
思考が脱線してしまった。
(何を考えていたのだったっけ……)
そうだ、人間がどうしてあそこまで自分の捕ってきた〈獲物〉を忌諱するのかということについてだった。
実はクイーンが今までに捕らえたことのある獲物は、スズメだけではない。昆虫などの小さなものに始まって、トカゲ、ネズミなど多岐に渡っている。だが、寡聞にして彼女は、人間が虫やトカゲ、ネズミを食べる習慣があるということを知らない。だから鳥であるスズメならば、と思い、ああして持って来てやったのに。ちなみに、そのほかの獲物は全て、庭から入り込める軒下に隠してある。もうすっかり朽ち果てていることだろう。
そんなことを考えながら歩いているうちに、クイーンは住宅地を抜けて大通りへ出た。安堂家の周囲にある中央線も引かれていない狭い道と違い、片側二車線の広い道路だった。当然、横断歩道が引かれているが、歩行者用信号機を備え付けたそれは、クイーンの立ち位置からはるか向こうに位置している。もっとも、数歩先の近い距離にあったとして、猫が律儀に横断歩道を利用するかは疑問だが。首を振って左右を見回したクイーンは、
(いけるな)
そう判断して、一気に合計四車線の大通りを直角に横断した。
猫が車に轢かれるという奇禍に見舞われることはたびたびあるが、それは自動車というものが出す速度に対しての、猫側の認識不足によるところが大きい。(まだ、あんなに遠くにいるのだから大丈夫)そう思い道路を横断しようとするが、車は猫の予測を裏切る異常な速度で接近する。彼我の相対速度を完全に見誤った猫は、自身がまだ車道のど真ん中にいるというのに、車に接近を許してしまう。車の運転手が猫にいち早く気付き、ブレーキペダルを踏んでくれることだけが救いとなる。これが夜であれば、さらに危険度は増す。暗い夜の中で精一杯集光しようと、瞳孔を限界まで開けている猫が、急接近する車のヘッドライトの光をもろに目にする。それは、暗視スコープをつけた兵士が閃光弾のまぶしい光を直視するに等しい。目の前が真っ白になり視界は塞がれる。そうなれば猫は本能的に立ち止まってしまうのだ。
が、幸いにもクイーンは自動車というものの速度を十分に理解していた。まだ自由に外に出られていた頃は、住宅地の狭い道路を、場違いな猛スピードで走り抜ける車を何台も目撃している。完全な家猫となってからでも、窓からそれを目にする機会は何度もあった。平日の昼間で、車の通りがそう多くないことも手伝い、クイーンは何の危険に遭遇することもなく大通りを渡り切ることが出来た。
(さて)
ここから先は、クイーンにとって完全に未知未踏の領域となる。とりあえず歩き出したクイーンは、道路脇に見たことのある建物を目にした。
(あれは……)
クイーンの足が思わず緩む。そこは動物病院だった。昔、クイーンが外で怪我をして帰ってきて、この病院に運び込まれたことがあった。雄猫同士の喧嘩に巻き込まれたことによる他愛のないひっかき傷だったのだが、お母さんが異常に心配して連れてきたのだ。そのときのことをクイーンは憶えている。狭いバスケットに無理矢理詰め込まれ、車に乗せられて連れてこられた。道中はずっと車中だったため、この「動物病院」なるものへの道順は全く見当がつかなかったが、こんなに近くにあったとは。
クイーンの脳裏によみがえる記憶。白衣を着た獣医と看護師に無理矢理体を押さえつけられ、傷口にかけられた液体の沁みたこと。こんなもの舐めておけば治る、と主張して、にゃーにゃー鳴いたが、彼女の申し入れが聞き入れられることはなかった。以来、この施設は、クイーンが最も忌諱する場所のひとつとなったのだ。
(あの「先生」と呼ばれる人間に捕まったら、また何をされるか分からない)
クイーンは足早になる。
(窓から誰か覗いていたような? 先生か? また捕まってしまうのか? いや、気にする暇があったら走れ!)
無事、三毛猫は、忌むべき彼女にとっての悪魔の館を通り過ぎた。
そこからさらに歩き、住宅や小さな店舗が軒を連ねる先に、こんもりとした樹木のかたまりがあった。そこは公園だった。それも、かつて自分が縄張りにしていた、安堂家の近くにある猫の額ほどの狭いものとは比較にならない広い公園。クイーンはそこを目指すことにした。
公園内に足を踏み入れたクイーンは、まず、その広さに目を見張った。
(サッカーも出来そうだ)
クイーンはサッカーを知っている。同居人の宗が好きで観ているサッカー中継に付き合うことが多いためだ。知っているというだけではなく、クイーンはサッカー自体も好きだ。緑の芝生の上を転がるボール。走る選手たち。それらを目で追うだけで楽しい。サッカー中継は猫にとって絶好のエンタテインメントなのだ。観るだけでなく、実際にボールや選手に向かってテレビ画面に手を伸ばしたことも一度や二度ではない。クイーンは脳内で、代表も務める日本屈指のストライカーやボランチたちを、何度もその爪で狩ってきたのだ。
平日の、日が西に傾きかけているとはいえ、まだ日中の時間とあってか、公園に人の姿はそれほど見られない。いたとしても、営業途中に休憩している(もしくはサボっている)サラリーマンや、近所の老人が大半で、皆ベンチに腰を下ろしたまま日向ぼっこに興じているのか、ほとんど動かない。クイーンも彼らに倣うことに決めた。適当な場所に寝そべろうと、空いているベンチに向かって歩いていた、そんな中、
「ランター、ランタ―」
という聞きなれない言葉を発しながら公園内を歩き回る人間をみつけた。上下紺色の服を着ている。下はスカートだ。
(これは、宗と同じ高校生か、中学生というやつだな)
クイーンは服装を見て、その人物――少女――の身分を見抜いた。長い髪を揺らして歩いていた少女が足を止めた。クイーンと目が合ったのだ。三毛猫もまた、少女の顔を見返して地面に座り込んだ。
「ねえ」少女はクイーンの手前でしゃがみこみ、「ランタ、知らない?」
(そもそも、ランタ、とは何か?)
そういう意味を込めて、クイーンは「うにゃ」と鳴いた。それを聞くと少女は笑顔になって、目の前に座る三毛猫の頭をやさしく撫でる。
「ランタってね、猫の名前。私が飼ってるわけじゃなくて、野良猫に勝手に名前をつけてるだけなんだけどね。全身真っ黒なんだけど、尻尾の先っぽだけがちょこんと白いの。初めて会ったときにね、夜だったんだけど、その尻尾の先だけが暗い中にゆらゆら揺れてて、まるでランタンみたいだったから、ランタ」
(猫の名前だったのか。聞いてみれば、案外単純なネーミングだね)
もう一度クイーンは「にゃー」と鳴いた。ここでクイーンは、自分の名前と、その由来を聞かせようと、さらに「にゃーにゃー」鳴いたが、少女にそれが伝わるはずもない。それを、頭を撫でてもらって嬉しいという反応と勘違いしたのか、少女はさらに相好を崩した。それもなくはないけれど。
「君は野良じゃないね。首輪をしてるし、毛もつやつや」
少女は頭だけでなく、あご、背中、お腹と、三毛猫の体中を撫でまわしていく。たまらずクイーンは目を細め、ごろごろと喉を鳴らし始めた。鳴らしながら考える。外に出ていた時代の記憶を探っても、少女の言う「ランタ」なる猫のことは残念ながら憶えがない。既知の黒猫は何匹かいるが、彼女の言うような尻尾の先端だけが白い模様という人物、いや、猫物はいなかったはずだ。
「ランタはね、本当はもっと向こうの」と少女は公園の先、安堂家とは反対の方角に目をやって、「ほうにある公園を寝床にしてるんだけどね。今日は見つからなくって、捜すうちにここまで来ちゃったんだ」
であれば、クイーンが知りようはずもない。猫の縄張り範囲は、強い個体であってもせいぜい寝床から半径二百メートル程度。数町も離れた場所となれば、猫にとっては外国に等しい。ちなみに外に出ていた時代のクイーンの縄張りは、安堂家から半径百メートルにも満たなかった。そのことを伝えようとはしているのだが、猫の悲しさ、クイーンの言葉は少女――彼女だけでなく全ての人間――には、「にゃーにゃー」としか聞こえない。
「ふふ。かわいいね、ミケちゃん」
少女はクイーンを彼女だけの
「さてと」少女は立ち上がって、「ランタのやつ、もしかしたら、いつものところに帰ってきてるかも。それじゃあね、バイバイ」
笑顔で手を振って、少女は歩き去った。クイーンもお別れの挨拶に「にゃーん」と鳴いてやる。
(そろそろ帰るか……)
少女が去ったあと、当初の目的通りベンチでひなたぼっこをしていたクイーンは、西の空が赤く染まりかけてきた頃に起き上がった。クイーンは公園を出て、自分の寝床である安堂家を目指して、ゆっくりと歩きだした。
大通りを目の前にして、クイーンは一歩も動けずにいた。アスファルトの上を走る車が、来たときとは比較にならぬほどに数を増している。それはさながら急流のうねりのよう。どんなに脳内でシミュレートしてみても、自分の脚力でこの四車線道路を走り抜けるには、飛び交う車の間隔が狭すぎる。百メートルほど道路を平行に進めば、信号機を備えた横断歩道があるのだが、今のクイーンにそこまでを考慮する余裕はなかった。
夕暮れはその度合いを増し、視界も効かなくなってきている。猫であるクイーンにとってそれはさしたる問題ではないが、困るのは無灯火の自動車がいることだった。ヘッドライトを灯している車とそうでない車。それらが混じり合うと、距離感を掴むのが非常に困難となる。全車両がきちんと灯火するか、いっそのこと全車ライトを点けないでいてくれ。そんな文句を思っても詮無いこと。クイーンは大通りを横断することを諦め、もといた大きな公園に戻るべく
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