第1章 死体と消えた猫

一匹の猫から次へと広がる。


アーネスト・ヘミングウェイ



十月二十四日 午前八時五分


 私は目を覚ました。こめかみの辺りが冷たい。横になって寝ていたため、涙で枕が濡れていた。

 まぶたが腫れているのが分かる。はなも出ている。枕元のティッシュボックスから一枚抜いて、私は涙を拭って洟をかんだ。

 今日は自分の部屋――管理人室――で寝ていてよかったと思った。理真りまの部屋で寝ていたら、彼女におかしな心配をかけてしまうところだった。「昔飼っていた猫のことを夢に見て泣いていた」なんて、恥ずかしくて言えるわけがない。

 窓のほうを見ると、カーテンを通しても外が陽光に溢れているのが分かる。携帯電話のディスプレイを確認してみると、午前八時を過ぎたところだった。ちょうどいい、このまま起きてしまおう。

 ベッドから出て、洗面所へ行くまでの間に考える。どうしてあんな夢を見てしまったのか。心当たりはある。

 近頃、ここ新潟の町を不快なニュースが賑わせている。公園や人気ひとけのない場所で、猫や鳩など小動物の死骸が連続して見つかったのだ。詳細は公表されていないが、あきらかに人為的に殺害されているという。最近は、こういった動物に対する殺傷行為であっても、警察は徹底して捜査に当たる。得てして、このような行為は次第にエスカレートしていき、最終的に人間がターゲットと化してしまうケースが多いためだ。

 動物好きの理真なども大いに憤慨しており、「自分も捜査に加わりたい」と言い出している。いくら安堂あんどう理真が素人探偵であっても、小動物殺傷事件にまで首を突っ込むわけにはいかないだろう。実際、いつものような警察からの協力要請も来ていない。

 安堂理真は、私――江嶋由宇えじまゆう――が管理人を務めている、このアパートの店子たなこのひとりだ。彼女の職業は作家だが、本業とは他にもうひとつの顔も持っている。それが、先に書いた素人探偵。新潟県警の要請を受けて、県警管轄内で発生した不可能犯罪の捜査に当たったことは数多い。そして、その際には私も理真の助手として、現場に赴くことがほとんどだ。

 理真と私は高校時代の同級生で、店子と大家、探偵とワトソンという関係。


 洗顔と歯磨きを終え、いつもの縁なし丸眼鏡をかけた私は、朝食の準備に取り掛かった。髪の毛にまだ寝癖が残っているように見えるが、そうではない。私が極端に癖っ毛だというだけだ。

 冷蔵庫を覗いてみて、消費期限が昨日までの卵が二個残っていることに気が付いた。何たる失態。しかし、消費期限失効から八時間程度しか経過していない。まだ十分アディショナルタイムの範疇だろう。生はさすがに抵抗があるが、火を通せばいけるはずだ。朝食は卵料理に決まった。二個だと、卵焼きにするのにちょうどいい。と、ここで、他の卵の消費期限も今日に迫っていることに気が付く。ええい、面倒だ。私は卵入れに入っている卵を残らず取り出す。全部で六個あった。さすがに卵焼きにするには多い。こうなったら……。


 フライパンでご飯を炒めていると、玄関のチャイムが鳴った。私は一旦火を止めて応対に出る。インターホンのスイッチを入れると、


「由宇、オムライスを食べに来た」


 安堂理真の声がスピーカーから聞こえた。

 せっかくだから、理真の分も作ってやろうと、彼女の携帯電話にメールを入れたのだ。「朝ごはんのオムライスを作るから、もし起きてたら食べにこい」と。作家などという時間に縛られない(ある意味、二十四時間縛られているとも言えるのだが)商売をしているため私以上に寝坊助で、まだ寝ているのかと思っていたが。私はドアを開けて理真を迎え入れた。


「理真、起きてたの?」

「ううん。寝てた」

「じゃあ、私のメールで起こしちゃったんだね。ごめんね」

「いいの。朝からオムライスが食べられるとなれば、話は別だから」


 理真の部屋からこの管理人室まで来るため、彼女は最低限の身だしなみも整えていた。さすが。食べ物に掛ける理真の執念は眠気をも吹き飛ばすのか。

 理真を座卓の前に座らせて、私は調理を再開する。オムライスの中身はチキンライスというのが定石だが、あいにく鶏肉の買い置きがないため、具は刻んだ玉ねぎだけの鶏肉抜きチキンライス(?)で勘弁してもらおう。そのかわり、ケチャップとバター、醤油、塩胡椒に、みりんも加えて、肉なしでも十分いける味付けにする。

 最後の仕上げ。卵で鶏肉抜きチキンライスをくるんでいると、居間から〈着信音1〉が聞こえた。聞きなれた音。買ってから一度も変更していない、理真の携帯電話の着信音だ。メロディが途切れると同時に、「もしもし」と理真が応答する声が聞こえた。こんなに早い時間から、誰だろう。

 盛り付けを終えてオムライスを運ぶと、理真はまだ通話をしている。ここに来たときには、まだ寝起きで弛緩していたその表情は、神妙なものに変わっていた。


「……うん……うん、分かった。それじゃあ、またあとで」


 オムライスに加えて、付け合わせの作り溜めしていたポテトサラダと、わかめたっぷりの味噌汁(オムライスと平行して作っていたものだ。インスタントじゃないぞ)を運び終える頃、理真の通話は終わった。


丸姉まるねえから電話があった」


 理真は通話相手を教えてくれた。丸姉とは、新潟県警捜査一課に所属する紅一点の女刑事、丸柴栞まるしばしおり刑事の愛称だ。もっとも、この愛称で彼女を呼ぶのは、旧知である理真だけだが。


「他殺体が発見されたって」


 理真の表情からして恐らくとは思っていたが、やはり、新潟県警捜査一課からの理真への出馬要請だった。ただし、理真に話が来るということは、普通の事件であるはずがない。朝食を食べながら詳しい話を訊かせてもらおう。「いただきます」と理真はオムライスにスプーンを入れながら、


「今朝早くに、中学校屋外にある体育用具倉庫で、死体が発見されたの」

「中学校で? どこの?」

みなみ中学だって」


 ここからそう遠くない。


「で、理真に電話があったってことは、普通の死体じゃないんだね」

「うん。あのね……」


 理真は、事件発覚からの概要を話し出した。

 今朝の午前六時三十分、朝練習のため、早めに登校して来た野球部の生徒数名が、体育用具室のドアが開け放たれているのを見つけた。ドアの開け閉めは体育教師や部活の顧問から厳しく言われており、教師に見つかる前にドアを閉めようと生徒たちは用具室に向かう。幸い、早朝のため教師はまだひとりも出校してきてはいなかった。野球部の生徒たちは直接グラウンドに集まったのだ。用具室に近づいていった生徒たちは、そこに異様なものを目にして足を止めた。薄暗い室内に誰かが俯せに倒れている。ぴくりとも動いておらず、顔を横に向けた頭部には血のようなものがこびりついている。恐怖に駆られた生徒たちは、それ以上用具室には近寄らず、教師もまだいないことから、自分たちの判断で110番通報をした。数分後駆けつけた警察の検分で、死体の身元はすぐに割れた。死んでいたのは、この南中学の国語教師、形塚武生かたづかたけおだった。

 死体の頭は、凝固した血液で髪の毛が固められており、傷口は前頭部にあった。用具室には陸上競技で使用する砲丸の球が数個転がっており、奥にあったひとつに血がこびりついていた。傷口と照らし合わせて、この砲丸が凶器であることは間違いないと見られた。

 現場で算出した死亡推定時刻は、昨日――つまり二十三日――の午後七時を中心に前後三十分を取った、午後六時半から七時半の間。現在司法解剖中だが、昨日から今朝にかけては気温が低く乾燥していたことから、解剖担当の医師(いつもお世話になっている鳴海なるみ医師だ)も、その見立てに間違いはないだろうと、メスを入れる前から太鼓判を押している。

 死んでいた形塚は背広姿で、昨日と同じ姿だということだった。加えて、昨日の放課後に職員室などで姿が確認されていること、自宅アパートは車で数十分走ったところにあることなどの状況から、形塚は学校から帰宅しないまま惨禍に遭ったと見られている。彼の車も駐車場に残されていた。

 二十三日は、運動部はどこも午後五時前には部活を切り上げており、最後に体育用具室を使った陸上部の生徒は、そのときには何も異常はなかったと証言した。形塚は四時半頃まで職員室にいたことは確認されており、それ以降に用具室を訪れて殺されたと見られている。用具室には通常施錠はしていないということだった。陸上競技の砲丸という異様な凶器が使われた状況から、自殺の線はないだろうというのが警察の見解だ。砲丸を持って自分の額を殴っての自殺など、ちょっと考えられない。当然、遺書のたぐいも残されていなかった。


「犯人の目ぼしはついてるの?」私が訊くと、

「形塚さんは、明るい性格で授業も分かりやすくて、同僚の教師たちからも、生徒たちからも評判がよかったそうよ。年齢は三十三歳で独身。ルックスも悪くなかったから、授業の分かりやすさ以外でも、一部女子生徒から人気があったって。まだ調べ始めたばかりだけど、私生活でも何も問題はなかったみたい」


 理真は、ケチャップをたっぷりとかけたオムライスをスプーンで切り取ってから答えた。


「誰からも恨みを買うような人ではなかった、と。現場に手掛かりとかは?」

「……それが、あったの」

「何? 犯人の遺留品?」

「ダイイングメッセージだって」

「何て書かれてたの?」

「〈フユシナ〉用具室に広がっていた、もう使わなくなって敷物代わりにしている体操用マットの上に、片仮名で、そう書かれていたって。人の苗字っぽいよね」

「うん、確かに。で、マットに書かれてたってことは」

「そう」理真はオムライスの載ったスプーンを口の高さにまで持ってきてから、「指を使って、自分の血で書かれてたの」


 オムライスの上に載った、赤いケチャップがやけに目に入った。

 ダイイングメッセージ。それは、死者が今際の際に残す、犯人を知らせる手掛かり。それを残すのが犯行直後であった場合、被害者は、「まだ犯人が近くにいる」と思うためか、犯人の名前を直接書き記すことは少ない。たいていの場合、犯人が目撃しても、それと分からないように、暗号的な書き方をしたり、迂遠な言い回しを残すことが多い。また、ダイイングメッセージは、文字で書き残すものだけとは限らない。現場にあった物品を握りしめたり、動かしたり、あるいは壊したり、はたまた、自分自身の体を使ったりと、これまで起きた不可能犯罪においても様々な手法が用いられている。


「それが今回は、もろに犯人の名前を書き残したってこと?」


 訊いてから私は味噌汁をすすった。自分の血で犯人の名前を書く。ダイイングメッセージの中でも最もオーソドックスなケースだろう。だが、それが出来たということは。


「うーん」と理真はポテトサラダをつまみながら、「犯人が見たら、放っておかないよね」


 その通りだ。被害者が自分の名前を書き残すなどというのを、犯人が看過するはずがない。


「現場が真っ暗で、犯人がそれに気が付かなかったのか」理真が一例を挙げ、「犯人はそれを目撃していたけれど、あえて放っておいたのか」

「被害者が犯人を誤認していたという場合だね」

「うん。被害者が、わざわざ自分以外の人間の名前を書き残してくれるんなら、犯人にとっては都合がいいものね。あと、犯人がそれをダイイングメッセージだと認識できなかったから放っておいた。というのも考えられるけど、今回それはないでしょ」

「そうだよね。〈フユシナ〉って判読できる程度に書かれているんだもんね」

「だから、丸姉も今回は、現場が暗くて犯人が気付かなかった説が有力だと見ているみたいなんだけど」

「死亡推定時刻も午後七時だそうだからね。今の季節、もう真っ暗だよ」


 今日は十月二十四日。犯行が起きた昨日は十月二十三日。秋も深まり、冬の足音が聞こえてくる時期だ。


「理真は違うんじゃないかと?」

「現場が暗いってことは、被害者の形塚さんにとっても同じだよ。だったら、そんなに判読できるようなはっきりとしたメッセージを残せるものかな?」

「……確かに」

「まあ、〈フユシナ〉ってそんなにある名前じゃないから、該当する人物がいれば、すぐに特定できると思うけどね」


 聞き慣れない音だが、苗字っぽい。冬品、冬科、富湯科、というのも考えられる。


「ところで、由宇」

「何?」

「このオムライス、おいしい」

「ふふ、ありがと」


 そうだろう、そうだろう。と私は心の中で自画自賛する。絶妙な味付けの鶏肉抜きチキンライスはもとより、それを包み込む、この一辺の焦げ目もない黄金色に輝く卵焼きはどうだ。中のライスと一緒に口に入れたときに味の頂点を持ってくるために、卵には過度の味付けをしない。素材本来の風味が鶏肉抜きチキンライスの味を引き立たせるのだ。消費期限切れの卵が三分の二使われていることなど、些細な問題であろう。


「で、理真、これから事件の捜査に出るの?」

「ううん。今朝死体が発見されたばかりだから、十分な情報が揃ってからのほうがいいだろうって、丸姉が。その〈フユシナ〉って容疑者がすぐに見つかって、あっさりと証拠が出る場合もあるだろうしね。一応、暇かどうか訊かれただけ」


 それならそれに越したことはない。探偵の出る幕など、ないほうが平和でいいに決まっている。そして、理真は、たいてい、ほとんど、いや、いつも暇なのだ。


 朝食を終え、食後のお茶を飲んでいると、再び理真の携帯電話が鳴った。ディスプレイに表示された発信者名を見て、


「お母さんからだ」


 理真は着信を受けた。「久しぶり」だの挨拶を済ませると、理真は黙り込んだ。どうやら発信者――理真のお母さん――が一方的に何事か喋っているらしい。


「……うん、分かった。じゃあ、これから行くね」


 理真のほうからはほとんど喋らないまま、通話は終了した。


「何かあったの?」私が訊くと、

「うん。クイーンがね、昨日の夕方から帰ってきてないんだって」


 クイーンとは、理真の実家で借っている三毛猫の名前だ。


「お母さん、すごく心配してた。しかも、ほら、最近ニュースになっている、小動物殺傷事件。あれが起きた現場のひとつが、うちの実家からそんなに遠くないんだよね」


 私は今朝見た夢を思い起こした。涙が滲みかけたが、空あくびをして目を擦るふりで、それを誤魔化すと、


「クイーンって、外に出さないことにしたんじゃなかったっけ?」

「そうなんだけどね。お母さん、洗濯物を取り込むときに、うっかりサッシ窓を中途半端に開けたままにしちゃってたらしいんだよ。その隙をついて、クイーンは外に出たみたいなの」

「そうなんだ。それで、朝になっても帰ってきていない、と」

「うん。お母さん、昨夜は窓を開けたままにして、窓のそばにクイーンが好きなご飯を置いて寝たんだけど、それもそのままになってたって」

「一度帰ってきて、また出て行ったわけでもないみたいだね」

「そうなんだよね……」


 理真はお茶をすすった。私も湯飲みを口につけながら、現在行方不明中だという安堂家の飼い猫、クイーンのことに思いを馳せる。数年前に安堂家が、野良猫や迷い猫を保護する慈善団体が主催する里親募集イベントでもらってきたのだ。

 その名を聞いて明らかなように、かのレジェンド探偵、エラリー・クイーンから恐れ多くも名前をいただいた三毛猫だ。これまた有名なレジェンド、三毛猫ホームズの完全なパクリである。こう言うと、いかにも難事件攻略のヒントを与えてくれるような探偵猫、という印象を持ってしまうが、残念ながらクイーンが事件解決の役に立ったことは、これまで一度もない。

 名付け親は当然、理真。彼女が挙げた名前候補は全部で三つあった。「三毛猫クイーン」「三毛猫思考機械しこうきかい」「三毛猫すみ老人ろうじん」の三種類である。どうしてもその中から選ばなきゃダメか。となって、理真、理真のお母さん、理真の弟のそう、に私も加えた四人の多数決でクイーンに決まったのだ。ちなみに理真ひとりだけが他の三人とは違う名前に投票した。恐ろしいことに。それを根に持っている、というのでもないだろうが、クイーンは理真にはあまりなついていない。「オーガスタス・S・F・X・ヴァン・ドゥーゼン、って呼びたかったのに」と理真が不満を漏らすのを、クイーンは細い眼で睨んでいたことがあるので、あながち気のせいでもないのではないかと思う。未だに彼女がたまに実家に帰ってクイーンを抱っこすると、三毛猫の喉の奥からは、不快そうな「うー」という唸り声が必ず聞かれる。かといって理真はそんなことは全然お構いなしに、文字通り猫かわいがりするものだから、クイーンはさらに理真のことを疎ましく思う。こうして両者の想いは、ずっと平行線を辿っているのだ。

 そのクイーンが行方不明。私が今朝見た夢は、何かの暗示だとでもいうのだろうか……。いけない、また目頭が熱くなってきた。そういうことを考えるのはやめ。


「でね」と、湯飲みを座卓に置いて理真は、「私、これから実家に行くんだけど、由宇も来る?」


 当然、同行を願い出た。理真だけでなく、私も、たいてい、ほとんど、いや、いつも暇なのだ。

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