第2章 カレー専門店カリカリー

 ファイルを丸柴まるしば刑事に返した理真りまは、冷蔵庫に走り、ドアを開ける。


「……ここにもない」


 理真の言った通りだった。私も冷蔵庫を除いたが、そこに水はなく、雑多な食材がしまわれているだけだった。


「テーブルには何もなかったし、ゴミ箱に空の缶やペットボトルが捨てられているというのもなかったわ。当然、冷蔵庫の中身も、いじっていないわよ」


 と丸柴刑事も冷蔵庫の中身を見ながら口にした。理真は尚も、狭い冷蔵庫の中を見回して、


「水道水を入れたピッチャー的なものもないね」

「あ、水道水といえば」と丸柴刑事は、ぽんと手を合わせて、「死体発見の少し前まで、このアパートで工事のための断水があったそうなの」

「断水? 水道水が出なかったってことね」

「そう。水道はもちろん、トイレの水も流れなかったわ。時間はね……」丸柴刑事は再びファイルをめくって、「午後一時から三時の二時間ね」

「死亡推定時刻は?」

「解剖の結果では、一時から二時過ぎの一時間ちょっと」

「一時間……。死体発見が、午後五時頃だよね」

「そうね、救急への通報は……五時五分と記録にあるわね」

「発見の三時間から四時間前に死んだってことか。丸姉まるねえ、死亡推定時刻が、二時過ぎって、二時ジャストに限定していないのは、何か理由があるの?」

「ある。ちょうど二時くらいに、畑山はたやまさんは出前の店員と応対してるから」

「そうなんだ」

「ええ。店員の話では、詳しい時間は把握していなかったけれど、ここに出前を届けたのが、おおよそ二時ちょうどくらいだったそうよ。で、それから畑山さんがカレーを食べるまで、若干の時間がかかるでしょ。だから、解剖所見での死亡推定時刻は一時からと幅を取ってあるけど、実際は二時まで畑山さんは生きていたことが確実視されている」

「そうなると、死亡推定時刻は、二時から数分という、とても限定的な時間に絞られてくるわけね」

「そういうこと。カレーの残量から、畑山さんは、ほんの数口しか食べないうちにアナフィラキシーショックに罹ったと思われる。それくらいの量を食べるのに、数分もかからないでしょうけどね」

「胃の内容物は?」

「当然調べたわよ。残っていたカレーと、胃の中の量、合わせてちょうど一人前の分量だった」


 それを聞くと、理真は改めて台所を見回して、


「丸姉、他に何か変わったところはなかった?」

「そうね……」丸柴刑事は、パラパラとファイルをめくって、「あ、床にカレーをこぼしたと思われる跡があった」

「カレーをこぼした?」

「そう、えっと……」丸柴刑事は、ファイルと台所の床を交互に見回して、「ここ。この辺り」


 床の一部を指さした。そこはテーブルのすぐ横。被害者が突っ伏していた場所の左側の辺から十数センチ程度離れた位置だった。


「よく見ると、完全に拭い切れなかったのか、フローリング板の境目にちょっとだけカレーが残ってる」


 丸柴刑事はしゃがみ、理真は膝と両手を突いてさらに床に顔を寄せた。


「……うん。確かにカレーが残ってる」

「でしょ。これくらいかな。現場で気になったのは。調べた結果、当然だけどこのカレーも、畑山さんが食べていたのと同じ店のカレーだと分かったわ」

「時期は? そのカレーが作られた時間」

「腐敗が全然進んでなかったから、同じくらいの時間に作られたものなんじゃないかと。畑山さんが食べてる最中に、こぼしてしまった可能性が高いと見られてるわ」

「アナフィラキシーショックを発症した苦痛で、スプーンを取り落としたりして?」

「そうそう」

「だとしたら、おかしい」

「どうして?」

「だって、写真ではスプーンは、テーブルの上に置いてあったじゃない」

「ああ! そうか」

「考えられるのは、何者かが落ちたスプーンを拾ってテーブルに戻して、床についたカレーは拭き取った」

「犯人以外に考えられないね。でも、どうしてそんなことを? 何のために?」

「分からない。そして、カレーを拭き取ったとしたら、その拭き取った布なりティッシュなりは、ゴミ箱に捨てられたはず」

「そういったものは……」丸柴刑事は、再びファイルをめくって、「見つかっていないわ。トイレにもそういったものは捨てられていなかった」

「畑山さんがカレーを食べていた時間は断水してたから、洗うことも、トイレに流すことも出来ない。だとしたら、犯人が持ち去ったんだね。激辛カレーを食べるのに、水を用意していなかった。床にこぼれたカレーを拭き取ったものがない……」


 そこまで言うと、理真は奥の居間に視線を移して、


「荒らされてたっていう場所は、どこ?」

「こっち」


 丸柴刑事の案内で、理真と私は居間へと移動する。居間には、フローリングに敷かれたマットの上に座卓が置いてあり、ベッド、テレビ、パソコン、小振りの棚が置かれている。壁面の一角は作り付けのクローゼットになっていた。


「今は片付けてあるけれど、死体発見時は、この通りだったの」


 丸柴刑事は言いながら、再びファイルを理真に渡す。開かれたページには、この部屋の写真が載せてあった。実際の部屋と見比べてみると一見それは、現状と変わり映えないように思えるが。私の視線の意味を察したのだろうか、丸柴刑事が、


「三課の刑事にも現場を見てもらったんだけど、『これは部屋を荒らした疑いがある』って。さらに、前の会社の横領の話を聞いたものだからね」


 そういうことか。窃盗犯担当である捜査第三課の刑事の見立てならば、かなり信憑性が高いだろう。何かを探すために部屋を漁り、その痕跡を消そうとしたのだろうが、三課刑事の目は誤魔化せなかったというわけか。

 理真が「指紋は?」と尋ねると、


「元彼女の外村そとむらさんと、高校時代の同級生の鶴見つるみさんの指紋は若干出たわ。でも、外村さんはもちろん、鶴見さんもこの部屋に遊びに来ることはあったそうだから、そのときについたんだ、と言われたら黙るしかないわね。実際、その可能性が高いし」

「ベランダがあるのね」


 理真はサッシ窓を開けてベランダに出た。私と丸柴刑事も続いて、三人並んでベランダの手すりに腕を置いた。


「洗濯物を干すのがやっと、っていうくらいのスペースだね」


 理真が狭いベランダを見回す。


「そうね。エアコンの室外機を置くためにある、みたいな場所よね」


 丸柴刑事の言った通り、ベランダの奥行きは、室外機を置いて、そのメンテナンスを行うのにぎりぎり必要な程度しかない。チェアを出してくつろぐなど到底無理だ。その室外機の上には灰皿が置かれており、吸い殻が山を作っていた。丸柴刑事も私の視線を追って、


「畑山さんはスモーカーだったそうだけれど、自宅ではベランダだけで吸ってたみたいね。聞き込みで、畑山さんがベランダで喫煙しながら電話をしている姿を近所の人が何度か目撃してる。部屋で吸うと、壁紙が汚れて、退去するときに張り替え代金を請求されるからなんでしょうね」

「そうか」と理真は、ベランダから部屋に戻って、もう一度、写真と実際の部屋を何度か見比べてからファイルを閉じた。「よし、とりあえず、ここはもういいかな」


 理真からファイルを受け取った丸柴刑事は、


「じゃあ、出よっか。これからどうする? 三人の容疑者に話を訊きに行く?」

「うん。でも、その前に、遅くなったけどお昼にしよう」


 理真の言葉で私は腕時計を見る。現在、午後二時。


「畑山さんが出前を取ったカレー屋に行こうよ。ついでに聞き込みも出来るし」


 理真の提案で、私たちのお昼はカレーに決まった。

 303号室を出て施錠をする。理真は、両隣の部屋のドアを交互に見て、


「畑山さんの死亡時刻、お隣は何か物音を聞いてなかったの?」

「もちろん聞き込みをしたけど、その時間は両隣とも不在だったんだって。一応、訊いてみる?」


 理真が頷いたため、丸柴刑事は左隣304号室の呼び鈴を押した。


「留守じゃなければいいけど」


 丸柴刑事の心配をよそに、お隣は二軒とも在宅していた。

 右隣302号室は若い夫婦住まいで、専業主婦の奥さんが顔を出した。旦那さんは会社に行っているとのこと。奥さんは、犯行時刻には、ちょうどスーパーへ買い物に出ていて不在だったという。さらに左隣304号室の、畑山と同年代のフリーターの男性もコンビニに買い物に出ていたと言った。二人とも、すでに警察に証言済みであるはずだが、嫌な顔ひとつ見せずに答えてくれた。全員女性だったというのが功を奏したのかな。畑山本人との交流については、廊下ですれ違えば挨拶を交わす程度で、部屋を訪れあったりということは一切なかったと、二人は口をそろえた。私たちは礼を言って簡単な聞き込みを終えた。


「理真、ちなみに、今の二人とも、買い物先のスーパーとコンビニの店員から、アリバイ証言が取れてるわ」

「畑山さんに他殺の疑いがあるってことは、発表してるの?」

「まさか。あくまで強盗事件として聞き込みに回っているって伝えてあるわ」

「そっか」


 私たちは鍵を返すため管理人室を訪れたが、管理人は不在だった。その姿を私たちはアパートのゴミ置き場で見つけた。老境に差し掛かった小柄な管理人は、ゴミを入れる鉄製のかごにモップを掛けているところだった。今日は比較的出される量の少ない、瓶と缶の日のため、これを機会に掃除をしていたのだという。

 管理人に鍵を返した私たちは、お昼を食べるため、プラス、聞き込みのためにカレー店へ向かった。



「ここよ」

「〈カリカリー〉変な名前」


 駐車場に覆面パトを停めて、私たちはくだんのカレー店の看板を見上げた。理真が言ったように、看板には大きく〈カリカリー〉という店名が書かれている。なかなかにサイケデリックというか、自由な発想でデザインされた看板とロゴだ。

 とりあえずは普通の客として昼食を食べて、そのあとに聞き込みをしようということで話がまとまった。


「いらっしゃいマセー」


 自動ドアをくぐると、すぐに妙なイントネーションの声が掛けられ、その声の主がカウンターの向こうから出てきた。彫りが深く色黒で口髭を生やした男性で、綺麗な刺繍の入った白い上下を着ている。インドの民族衣装だという記憶がある。確か、〈クルター〉っていうんだっけ。頭には当然のようにターバンを巻いている。私たちの前で立ち止まったその男性は、


「ナマステー」


 そう言いながら両手を合わせて頭を下げてきた。私と丸柴刑事も、ちょこんとお辞儀をする。理真ひとりだけが、「ナマステー」と全く同じように挨拶を返していた。


「ようこそ、カリカリーへ」男性は両手を合わせたまま、「ワタシ、店長のダルシムデース」とスライドさせるように首を左右に揺り動かした。


「ダルシム?」


 思わず聞き返してしまった。腕でも伸びるのか? このおっさん。まあ、本場の人がやっているのだから、味は保証されているのだと思う。というか、ダルシムっていう名前、本当にあるんだ。

 私たちはテーブル席に案内された。お昼時を過ぎているためだろう、店内には私たち以外にお客の姿はない。ゆっくりと話を聞くにはもってこいの環境だ。理真はさっそく、壁に掛かったメニューを見上げて、


「ここのカレーって、辛いんですよね」

「その通りデース」ダルシム店長は、また両手を合わせて、「当店では、全カレーメニューの辛さを五段階からお選びいただけるシステムとなっておりマース」と言いながら首を左右に動かす。


 その動き、気持ち悪いからやめてくれ。どうでもいいけど、イントネーションは変だけど日本語流暢だな、ダルシム店長。

 ほうほう、と理真は興味深げに、壁のメニューと辛さの段階表に目をやっている。私も見てみると……。何だこれ。ビーフ、ポーク、チキン、など、カレーのメニューは別段普通だけれども、辛さを表した表が独特だ。下のレベル1から、〈ヨガスマッシュ〉〈ヨガストライク〉〈ヨガファイヤー〉〈ヨガフレイム〉ときて、最高段位の辛さ、レベル5には〈ヨガインフェルノ〉と名付けられている。


「この〈ヨガスマッシュ〉が、当店における辛さの基準。つまり、辛さ一倍ということデース。その上の〈ヨガストライク〉は辛さ五倍。レベル3の〈ヨガファイヤー〉は辛さ十倍デース」

「えっ? レベル3でもうそんなに?」


 私は驚愕した。それでは、と私は、


「じゃあ、レベル4の〈ヨガフレイム〉は? 二十倍くらい?」

「ノン。〈ヨガフレイム〉は辛さ百倍になりマース」

「インフレしすぎだろ! レベル1から2が五倍、2から3が二倍、なのに3から4で一気に十倍だぞ! 十倍! 等比や等倍を考えろよ!」


 思わず私は立ち上がった。同時に戦慄が走る。ダルシム店長は続けて、


「そして、最高段階レベル5〈ヨガインフェルノ〉の辛さは、何と千倍! インド人もビックリ!」

「おい!」


 インド人もビックリでも、インド人を右にでも、どうでもいいけどやりすぎだろ!


「で、ご注文は?」


 と、ダルシムのやつ、素知らぬ顔で伝票とペンを構えている。


「ビーフ」「ポーク」「……チ、チキン」


 理真、丸柴刑事、私は順に注文を口にした。


「辛さはいかがなさいますカー?」

「全部インフェルノで」

「承知いたしましター」

「待てこら」


 私は、理真の言葉を聞くや否や、即座にカウンターの向こうに戻ろうとしたダルシムの首根っこを引っ掴む。が、


「おーい、ビーフ、ポーク、チキン、全部インフェルノでー」

「アリガトー」


 ダルシムはそれにも構わず奥に注文を届け、厨房から返事が聞こえた。だから、待てって!


「サガット――じゃなくてダルシム! 今の注文取り消し! せめてチキンだけは、ヨガスマッシュで」

「えー、由宇ー、せっかくだから挑戦しようよー」


 理真が不満そうな声を上げる。


「ソウダヨー」


 ダルシムは黙ってろ。私は頑として首を縦に振らない。自慢じゃないけれど、辛いものにはあまり強くないのだ。


「理真も。不用意に千倍カレーなんて頼まないほうがいいよ! それこそショック死しても知らんぞ。丸柴さんだってですよ」


 私が言うと、「うーん」と二人は考え直したように小首を傾げる。


「じゃあ、こうしようよ」と理真は、「みんながそれぞれ、辛さレベル1のカレーを注文してさ、別でひと皿インフェルノを頼もうよ。で、それを三等分して食べる」


 いいじゃない。と丸柴刑事も理真の案に乗ってきた。うーん、それならいいか。私たちは三人とも、辛さ一倍のヨガスマッシュカレーをそれぞれ好みの具材で頼み、最強辛さ千倍、ヨガインフェルノカレーを追加した。辛さを味わうのが目的のため、これは具なしカレーとした。

 改めて注文をカウンター奥の厨房に伝えると、調理担当の、やはり彫りが深く色黒で口髭を生やした(ダルシムとほとんど見分けがつかない)男性が再び、「アリガトー」と声を出した。


「ふう……」寸でのところで、激辛カレー地獄に陥ることを回避した私は、額の汗を拭い、コップの水を煽った。

 入店してからようやく私は落ち着いて店内を見回した。看板もだったが、店内の装飾も独特の味がある店だ。出入り口すぐには、あぐらをかいた四本腕の象の像が鎮座ましている。確か、ガネーシャっていう神様だっけ。インドの国旗がたなびいているのはもちろん、中央の壁には大型モニターが掛かっており、派手な衣装を着た大勢の男女が躍る映像が流されている。インド映画のワンシーンらしい。ボリュームはかなり抑えられているため、何を言っているのかは分からない。というか、そもそも言葉が分からないのだから、音声があっても内容が不明なのは同じか。その前の床は一段高く、ステージのようになっている。ディナータイムや休日などは、あそこでダンサーが躍りを披露でもしてくれるのだろうか。水のお代わりを持って来てくれたダルシムに訊いてみると、


「躍りたくなったら、いつでもドーゾ。あそこはお客様専用ダンスステージデース」


 客に踊らせるのかよ! 何て店だ。

 丸柴刑事が、注文を待つ間に聞き込みを済ませたらどうか、と提案してきたため、理真はその案に頷いた。すると、丸柴刑事、


田中たなかさーん」


 と突然純日本人の名前を呼び出した。日本人の支配人でもいるのか? と思っていたら。


「はい」


 と姿を現したのは先ほどの、彫深、色黒、ターバンのダルシムだった。お前、本名、田中なのかよ!

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