インド激辛伽哩の謎

庵字

第1章 激辛カレーに死す

「えっ? 激辛カレーを食べてショック死した?」


 安堂理真あんどうりまは携帯電話に向かって叫んだ。


「違うわよ」


 と、スピーカーモードにした電話からは、丸柴栞まるしばしおり刑事の、呆れたような声がする。

 新潟県新潟市の、あるアパートの一室。ここで、部屋の借り主である安堂理真と、私、江嶋由宇えじまゆうは、新潟県警捜査一課の丸柴栞刑事からの電話を受けていた。

 この安堂理真なる女性は、恋愛小説を得意分野とする作家なのだが、小説家のほかにもうひとつの顔を持っている。それは、素人探偵。常軌を逸した不可能犯罪が発生した際、警察に協力して事件の捜査に当たるというやつだ。実際にこうして今、新たな事件が起きて、県警の刑事から連絡をもらっている。電話をくれた丸柴刑事は、理真と親しい付き合いのある刑事で、警察から理真に協力要請がある場合は、彼女から連絡をもらうことがほとんどだ。

 探偵と刑事、となると、探偵の相棒となるワトソンも当然いる。それがこの私、江嶋由宇だ。私は、理真が居住するアパートの管理人であると同時に、いざ理真が素人探偵として事件に乗り込む段になると、ワトソン役として一緒についていくのだ。私と理真は高校時代の同級生でもあり、以来、お互いに気が置けない友人同士として付き合いが続いている。探偵とワトソン、加えて懇意にしている刑事までもが全員女性(しかも全員二十代)というのは、なかなか珍しい取り合わせなのではないかと思っている。

 理真と丸柴刑事の話に耳を戻そう。


「カレーが辛すぎてショック死したんじゃないの?」

「そんなエキセントリックな死因があるか。ショック死するくらい辛いカレーを出す店なんて、あるわけないでしょ。即刻営業停止よ」


 丸柴刑事は、ため息をついてから、


「まあでも、ショック死というのは当たってると言えるわね。ショックはショックでもね、死因は、アナフィラキシーショックなの」

「アナフィラキシー。じゃあ、食べたカレーの中に、死亡者のアレルギー食品が入っていたってこと?」

「さすがに察しがいいわね、理真。そう、死亡者はカシューナッツに強いアレルギーを持つ体質で、食べたカレーがカシューナッツペーストを使ったものだったの」

「その人は、自分がカシューナッツのアレルギー体質だって知らなかったの?」

「そうじゃないみたい。知人に聞き込みしたら、彼自身もそれは小さい頃から分かっていて、だから、酒を飲むときのおつまみでも、カシューナッツは一切口にしていなかったって。カシューナッツと同じ袋に入っていた他のナッツ類なんかも、当然手をつけなかったそうよ」

「当然の処置だね。アナフィラキシーショックって怖いもんね。死に直結するくらい、って、実際に亡くなっちゃってるものね。でも、それだけ気をつけていたのに、カシューナッツペースト入りのカレーを食べた?」

「そうみたいなの。カレーにカシューナッツペーストを入れることって確かにあるけれども、メジャーな調理法じゃないからね」

「まさか、カレーに入っているとは思わなかった、と」

「そうかもしれない」

「歯切れが悪いね、丸姉まるねえ。それに、私に電話してきたってことは、何かあるのね」

「そうなの。それだけであれば、不幸な事故として処理されてもおかしくないんだけれどね。死亡者の部屋に荒らされた形跡があったの」

「じゃあ、物取りの犯行? 他殺の疑いがあると」

「それも含めて、知恵を貸して欲しいの。亡くなったのは、アパート住まいのフリーター、畑山洋はたやまようさん。男、二十九歳。死体発見の経緯はね……」



 死体が発見されたのは昨日の午後五時頃。新潟市中心部に近い三階建てアパート。その三階の一室303号室を訪れた宅配ドライバーは、呼び鈴を押しても返事がなかったため、不在通知を郵便受けに入れて引き返そうとした。そこへ、


「あれ? 畑山さん、不在ですか?」


 そう声を掛けられた。声の主は、廊下の掃除をしていた老人。仕事を定年退職して、住み込みでアパートの管理人をしている男性だった。管理人によると、303号室の畑山は夕方から夜間にかけてのバイトをしているため、この時間は毎日在室しているはずだという。「どれ」と管理人は、ほうきを壁に立てかけて303号室の前まで来ると、「畑山さん」と声を掛けながらドアノブを握った。


「……開いてます」


 管理人が握ったドアノブは難なく回り、ドアも開いた。施錠はされていなかった。管理人はドアを細めに開けて、


「畑山さん」


 室内に声を掛けた。が、返事は返ってこない。そこで管理人は、さらにドアを開いた。室内からは、冷房で冷やされた、ひんやりとした空気が流れてきた。このアパートは玄関を越えると、数歩で越えられる短い廊下の先がダイニングキッチンになっており、その向こうに部屋がある1DKだった。廊下と台所は室内ドアで隔てられているが、そのドアが開いていた。キッチンの中央にはテーブルが置かれており、


「畑山さん……?」


 管理人は、もう一度声を掛けた。その口調は先ほどよりもトーンダウンしていた。部屋の主である畑山洋は、上体をテーブルに突っ伏してた体勢で椅子に座っていた。異変を感じ取った管理人は、三和土たたきにサンダルを脱ぎ捨てて廊下に上がり、畑山の真横に屈み込んで、さらに声を掛ける。その間、畑山は微動だにしていなかった。肩を揺すり、首筋に手を当てた管理人は、「ひっ」と息を漏らして、


「救急車を……」


 玄関ドアを押さえたまま立ち尽くす配送ドライバーに119番通報を要請した。

 駆けつけた救急隊員により、畑山洋はすでに死亡していることが確認された。面積の狭いテーブルの上には、食べかけのカレーライスが置いてあり、その横にはスプーンが転がっていた。外傷は見当たらない。畑山は変死体のため司法解剖されることとなった。



「畑山さんは、アナフィラキシーショックによる死亡である疑いが持たれたの。そこで、携帯電話を通じて友人、知人に話を聞いたところ……」

「カシューナッツにアレルギーを持っていたことが分かった、と」

「そういうこと。で、調べた結果、テーブルにあったカレーからカシューナッツの成分が検出された」

「そのカレーって、自分で作ったものなの?」

「違うわ。出前で取ったカレーよ。店も分かっていて、確かにそのカレーにはカシューナッツペーストを材料として使っていると、店から証言も取れているわ。だから、通常であれば、さっき理真も言ったように、アレルギー食材が入っていたとは知らずにそれを食べたことによる、不幸な事故として終わっていた可能性があったんだけれどね」

「部屋に荒らされていた形跡があった」

「そう。加えて、亡くなった畑山さんはフリーターなんだけれど、半年くらい前までは証券会社の社員だったの。そこを辞めた理由っていうのが、横領の疑いを掛けられたからなんだって」

「横領、か。でも、疑いだけ?」

「そうなの、その会社では半年ほど前、どうも不透明なお金の流れがあるらしい、ってことで、役員が帳簿と実際にある現金を調べ上げてみたの。そこで、横領が行われているらしいことが発覚して、会社のお金の出入りを管理出来る立場にいる人物全員が調べ上げられたの。その中に畑山さんも含まれていて、しかも、畑山さんは、横領が始まったと思われる時期から何回かに渡って、ギャンブルで結構な大勝負をしていたことが判明した。実際にもらっている給料以上のね。そんな怪しいお金の使い方をしているのは、畑山さんだけだったの」

「それは疑われても仕方ないね」

「うん。でも、証拠がなかった。会社としては、畑山さんが犯人だと確実視していたらしいんだけどね。で、当の畑山さんのほうから、『痛くもない腹を探られて不快な思いをした』と自主退職したの」

「本当に潔白だったら、むしろ会社側を訴えてもいいくらいじゃない?」

「でしょ。でも、それをしなかったということは」

「いたずらに突っ込んで、何か証拠が出てくる藪蛇を嫌った、と」

「そう見られているわね」

「そこへ来て、その畑山さんが亡くなった。しかも、部屋に荒らされた形跡もあった。横領したお金を部屋に隠し持っていて、それが奪われた可能性。さらには、それを目的とした強盗殺人の疑いまであると」

「そういうことなの。会社ではね、畑山さんは、横領したお金を全部使い切っていなかったんじゃないかって思ってたの。消えたお金から、畑山さんがギャンブルにつぎ込んだと見られる金額をさっ引いても、まだ数百万くらいの差があったんだって。本人の口座を見ても、怪しいお金の出入りはなかったわ。だから、もし横領が事実だとして――まあ、これは関係者の証言からほぼ間違いないと思われてるんだけれどね――まだ使い切っていなかったら、この部屋に隠し持っていたに違いないと見ているの。そんな状況だからさ、理真、暇だったら、ちょっと手伝ってくれない?」


 理真は丸柴刑事、ひいては新潟県警からの捜査協力要請を承諾した。現在のところ、作家として抱えている急ぎの仕事はない。理真の仕事が薄いのは、今に限ったことではないのだけれど。


「でも、カレーを食べさせて殺すなんて、そんな犯行、あり?」


 理真が言ったそれが、この事件最大の疑問だろう。



 さっそく私と理真は、迎えに来てくれた丸柴刑事の覆面パトに乗って、現場であるアパートに向かった。その車中で、丸柴刑事は事件(単なる強盗か、強盗殺人かは不明だが)の容疑者について教えてくれた。全部で三人の名前が挙がっているという。


「まず、ひとり目。浪江荒太なみえあらた、男、三十歳。被害者――まだ他殺と決まったわけじゃないけれど、便宜上こう呼ぶわね――畑山さんのバイトの同僚。一週間くらい前に、バイト先で些細なことから喧嘩になって、『殺してやる』みたいな物騒な言葉を吐いていたそうよ。実際、この浪江さんは、執行猶予付きだけど傷害の前科があるわ。強面で筋肉質の大男よ。浪江さんは、畑山さんがカシューナッツにアレルギーがあるということは知らなかったと供述してるわね」

「じゃあ、カレーを食べさせて殺すという発想には至らないわけね。まあ、嘘をついている可能性もあるけれど」


 助手席の乗った理真が言った。私は後部座席で二人の話を聞いている。


「そうね」と丸柴刑事は続けて、「浪江さんには、というか、容疑者全員になんだけれど、畑山さん死亡推定時刻のアリバイがないわ。町をぶらぶらしていたと供述してる。畑山さんが横領したお金を隠し持っているかもしれない、ということについても知らないと言ってるけれど、これも本当のことを言っているとは限らないからね。

 次に二人目。外村そとむらみさき、女、二十八歳。被害者の別れた彼女よ。派遣社員として働いてる。畑山さんが会社を辞めたことをきっかけに別れたそうよ。外村さんは、畑山さんのアレルギーのことを知っていたわ。付き合ってるなら、料理を作るときに知っていないとまずいもんね。彼女にもアリバイはない。派遣先の会社が、取引先との都合上、土曜日に仕事をしないといけないから、平日を一日休みにしてるんだって。犯行のあった日が、その休みの日で、彼女もひとりで町で買い物をしていたと言ってる」

「畑山さんの横領については?」

「薄々感じ取ってはいたみたい。というのも、畑山さんの羽振りが急によくなって、鞄やらアクセサリーやら買ってもらってたんだって。でも外村さんは素直に喜んだりしないで、これは怪しい、って思ってたらしいわ。その疑いもあって、別れることにしたそうよ。でも、畑山さんがしつこく復縁を迫っていて辟易していたと。派遣先に電話をしてくることも何回かあって、会社でも、外村さんには、しつこい元彼がいる、って知られてたみたい」

「それは迷惑だね」

「でしょ。で、最後の三人目。鶴見伸之つるみのぶゆき、男、二十九歳。被害者の高校時代の同級生。この鶴見さんは、畑山さんの横領を知っていたみたいなの。この夏に二人で競馬に行ったときに、畑山さんが尋常じゃない額の勝負をしていて、びっくりしたそうよ。それを怪しんでたみたいね。カシューナッツアレルギーのことも、高校在学中に聞いていたと。こちらもアリバイはなし。営業職なので、市内のあちこちを回っていたそうよ。畑山さんのアパートも営業範囲に含まれてる。ひとり目の容疑者の浪江さんとは逆で、背が低くて、ちょっと太めの体型よ。

 浪江さんは、畑山さんとの付き合いは浅いけれども、バイト先で直近に畑山さんとトラブルを起こしていて、しかもアリバイがない。死亡状況から、他殺であれば、犯人は畑山さんのアレルギーを知っていたと思われるから、そっち方面から外村さんと鶴見さんをピックアップしたの。高校時代にまで遡れば、アレルギーのことを知っていた人は、もっといるかもしれないけれど、携帯電話の電話帳を見るに、被害者は高校の同級生は鶴見さん以外とは付き合いがなかったらしいわ」

「なるほど。元カノと同級生の証言を聞くと、確かに丸姉が言ってた通り、畑山さんが横領に手を染めていたのは間違いないみたいね。アレルギーのことと、横領したお金が部屋にあることを知っていたか。それに加えて、アリバイがポイント、ってことね」

「そういうこと……着いたわ」


 丸柴刑事はハンドルを切って、アパートの前に覆面パトを停めた。



「鑑識や実況見分は終わってるから、部屋の中では、何を触っても、動かしてもいいわよ」


 丸柴刑事からはそう言われたが、一応理真も私も、愛用の手袋をはめて、被害者の居住していた、そして死体発見現場にもなった303号室の前に立つ。理真はまず、玄関ドアを開けて中を覗いた。


「あの」と理真は短い廊下とダイニングキッチンを隔てる室内ドアを指さして、「ドアも開いていたのね」

「そうね。だから管理人さんは、台所のテーブルに突っ伏している畑山さんをすぐに発見出来たの。見ての通り、室内ドアにはまっているガラスは磨りガラスだから、閉まっていたら台所の様子は分からなかったでしょうね」

「施錠もしないで不用心だとは思いながらも、寝てるのかと思って、そのまま引き返した可能性はあるね」

「もしそうなっていたら、死体の発見はもっと遅れていたはずね」

「そうだよね」


 と言いながら、理真は玄関に入って靴を脱ぎ、廊下に上がった。


「発見当時、冷房が入っていたのよね」


 台所を抜けて部屋、つまり1DKの〈1〉に入った理真は、天井近くに設置されたエアコンに目をやる。丸柴刑事も視線を同じく向けて、


「そうね。冷たい空気が流れてきたそうだから。実際、駆けつけた救急隊員も冷房がついたままだったと証言してるわ」

「だとしたら、変よね」

「室内ドアが開いていたことね」


 理真は頷いて、


「冷房を入れていたなら、室内ドアは閉めるでしょ、普通」

「会議でも疑問視はされたわ」

「答えは出たの?」

「間取り自体がご覧の通り狭いから、室内ドアを開けていても問題はないと、住人、畑山さんが判断したのではないか、と。この廊下の横にはトイレがあるから、トイレを使うときも涼しくしようと考えてたのかもね」

「まあ、冷房を効かせる範囲がちょっと広がるくらいだもんね。確かに、真夏のトイレって地獄だもんね。大きいほうをしようとしてるときなんて、ただでさえ力を込めるから暑くなるっていうのに」


 大きいほうをするときに力を入れる必要があるということは、便秘の兆候があるということだぞ。何の話をしてんだ。まあいい。確かに、廊下にトイレを加えても、その広さは一畳程度だろう。室内ドアを開けて、部屋のついでに廊下とトイレも冷やしてしまおうと考えてもおかしくはない。


「トイレのドアは閉まっていたけれど、さすがにそこまで開けっ放しにするのは抵抗があったんでしょ。トイレくらいの狭い空間なら、ドアを開けたらすぐに冷房の空気と交換されるだろうしね」

「丸姉、亡くなった畑山さんが食べていたカレーは、出前だったそうだけれど」


 理真の丸柴刑事に対する呼び方を聞いても、二人が親密な関係にあることが分かる。二人は、理真が素人探偵として活躍を始める前からの知り合いなのだ。


「そう。出前といっても、変わったデリバリーサービスの店でね、カレーを盛るお皿は客が用意するの。そこに、出張してきた出前の店員が、ライスとカレールゥを盛るってわけ。ご飯はお客が用意して、カレールゥだけの出前もオーケーなんだって」

「それは珍しいね」

「結構好評みたいよ。その場で盛りつけるから、カレーとご飯が変に混ざっちゃうこともないし。カレーがご飯に浸食してくるのにこだわる人っているもんね。それと当然、輸送時の振動でこぼれてしまう心配もない。店の側からしても、容器を回収に行く手間が省かれるしね」

「なるほど。ちなみに、畑山さんが注文したカレーは、激辛だったのよね」

「そう。実際現場に残されていたカレーがそうだし、店員も証言してる。その店では、メニューにあるカレーを五段階に分けた辛さの中から選べるようになってるんだけど、畑山さんが注文したのは、チキンマサラカレーで、最高位の辛さのものだったと」

「最高に辛いカレーか……」


 理真は、ダイニングキッチンのぐるりを見回して、


「丸姉、現場の写真、見せて」


 理真の要請に応えて、丸柴刑事は脇に抱えていたファイルを手渡した。礼を言って受け取った理真は、ページをめくる指を止めると、


「……ない」

「何が?」


 丸柴刑事も理真の右隣に立って、ファイルを覗き込む。私は左隣から窺う。理真が開いているのは、現場で死体を写した写真だった。無論、発見時そのままの状態のものだ。死亡している畑山は、グレーのジャージ姿で上半身をテーブルに突っ伏している。二人分の食事を載せたらもう満杯、といった面積のテーブルには、食べかけのカレーライスが盛られた容器と、その脇には被害者が取り落としたスプーンが転がっているだけ。


「……ない。死体発見時、テーブルの上にあった料理は、カレーライスだけ」

「理真、だから、ないって、何が?」

「水よ」

「水? そっか」

「でしょ。カレーライスを食べるときには、水が欠かせないじゃない」

「うーん。でも、人によるんじゃない? 必ずしもそうとは限らないと思うけど」

「えー、だって、畑山さんは最高に辛いカレーを食べてたんでしょ。水なしでいける?」

「あ、確かに」

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