第54話 【ACT二】最終決戦(ファイナル・ジャッジメント)
『
オリエルは思う。
神ともあろう者が、何故己の所に人が至るのを恐れにゃならんのだ?
なるほど、どうやらそう言う事らしいな。
彼の全身がまるで獲物を前にした獣のように、気配を研ぎ澄ませ始めた。
老いぼれ参謀達が活き活きと彼に状況報告をする。オリエルは往時のように大声で指令を飛ばす。
『おい、死ぬまでこき使うと言っただろう! もっと働け!』
「「イエス・サー!」」にやりと一様に不敵に笑って、参謀達は我先に働いた。
既に死海や世界各地での軍事的覇権は彼らが掌握しつつあった。だが問題はここからだとオリエルらには分かっていた。人間の軍の倒し方ならオリエルらはいくらでも知っている。だが、彼らには『神』との戦い方など見当も付かないのだ。所詮、これは前戯で小競り合い、本戦はロトのバベル・タワーでの闘争である。
大天使と戦って勝たねば、いくら人間の軍に勝利したところで無意味だ。オリエルはその焦燥感に耐えた。時にはただ待つしかない戦もあると知っていたのだ。
「来る」ヨハンは、暁闇の雨空を睨んだ。
門番たる彼は、一人後に残り、
『マスター、行きましょう!』彼の所持する銀の卵がそう言って、次の瞬間、彼は巨大な白銀の戦乙女達の内部で彼女達を指揮している。
『愚かなものだ』声が響いた。ヨハンの所持する通信端末から声が響いていた。『この聖槍の直撃に耐えられた人間などいないのに』
「あの人は言った。 聖槍を受けても立ち上がった者にしかマグダはやらないと。 だから僕は立ち上がる!」
『嘆かわしいな。 お前の声も意志も何もかも聖王には届きはしない! 私は大天使サンダルフォンだ。 滅べ、人間』
ヨハンは断言した。
「断る」
それからヨハンは迎撃態勢を取った。その時、声が――『接続』していたために漏れ聞こえた。
『む? イリヤか。 よくもまあここにたどり着いたものだ』
イリヤは無人の塔を駆け上っていた。無人の、言うのは正確では無い。屍まみれの塔であった。かつてのイリヤの部下もその中に血まみれで転がっていた。その大半が往時の成りを留めておらず、巨大な獣のようなものに喰われた後があった。
『ミカエル』か『ラファエル』だな。I・Cが呆れたように言っていた。アイツら、最終決戦前に空腹じゃと思ったんだろう。共食いは美味いからなあ。
既にそのミカエルとラファエルとは交戦中だと言う通信が来ている。メタトロン、サンダルフォン、そしてガブリエルとハニエルだけがまだ見つかっていない。
『ガブリエル発見! バベル・タワーの頂点だ!』
レット・アーレツからの緊急通信。それとほぼ同時刻に、
『メタトロン発見。 中央指令室だ』万魔殿からの通信が来た。
どこだ。イリヤは想定しうる可能性の全てを挙げて考えた。どこにサンダルフォンはいる?
サンダルフォンの聖槍は『連中』の乾坤一擲の最強の兵器である。
だが弱点がある。
発動直後に次発を撃てない『連発性』に欠ける事、そして、発動目標を明確に視認、あるいは認識しなければ放てない事、である。やたらめったらに好き放題撃てる、のでは無いのだ。
とすれば、とイリヤはこの一つの可能性を掴んだ。
視界の良い、塔の頂点付近にいる。だがガブリエルが発見された事で、身を潜めている。
イリヤは雷槌ミョルニルを握った。電気信号を感知する事で、サンダルフォンの生体位置を探ろうと言うのだ。
突き止めた。あの人の生体反応が、この上の階からするのだ!
ミョルニルから迸った電流は高温のプラズマとなって、天井に大穴を空けた。そこにイリヤは飛びあがった。
いた!サンダルフォンだ!
優雅に椅子に腰かけて、イリヤには背を向け、外の光景を映す数多の大型モニターを見つめている。そのモニターのど真ん中に映っているのは、夜の闇の中でも白銀にまぶしいヨハンの戦乙女達だ!
だが、モニターの光に照らされる、そこ一帯の光景の方を見て、イリヤは完全に激昂した。
一匹の巨きな、いくつかの獣の形が混ざり合ったおぞましい姿の獣が、そこら中に転がる死体を喰っていたのだ。それは、彼の、かつての、部下達だった。
「見たまえイリヤ」とサンダルフォンが言った。「この男に哀れな小僧の願いなど届きはしない。 全てを浄化する聖槍で、滅ぼすのみだ」
「させん!」
サンダルフォンに襲い掛かろうとしたイリヤの前に、その
「下らんな、やはり人間ごとき。 我らが唯一絶対神のお手にかかれば、どうせ人間ぐらいいくらでも創りだせるのだ。 一度全てを粛正し、そして――我ら大天使のみが最後のこの日を、我らが唯一絶対神の怒りを逃れれば良い」
イリヤの方など見もせずに、サンダルフォンは椅子から立ち上がった。
「さあ! 滅べ!」
イリヤは飛び退った、同時に彼のいた空間は獣のあぎとに薙ぎ払われている。
「聖王よ、目を覚ませ!」イリヤは叫んだ、あの優しかった男の人に届く事を願って、叫んだ。「ここに私はいる!」
「無駄だ無駄だ」サンダルフォンの体がまばゆい光を放った。「お前の祈りも何もかも、届きはしない!」
サンダルフォンに接近したくても、獣がことごとく邪魔をする。
そして――光は凝縮されて、凄まじいエネルギー塊となる。
「さあ死ね、小僧!」
聖槍、発射。
ヨハンが天空から稲妻のように降って来た聖槍と激突した。聖槍は彗星のように尾を引き、本当に天かける槍のようだった。ヨハンは絶叫した。
「聖王、僕の声を聞け! 目を覚ませ!」
巨大な爆発が起き、それにヨハンは飲み込まれた。大地にクレーターが産まれて激震が走り、波がうねった。
その様子を司令室のメインモニターで見ていたオリエルらは、思わず目を覆った。それほどの光量だったのだ。
『何と言う……!』
ぐう、と歴戦不敗の男が呻く。
「戦乙女より全連絡途絶! 直撃により発生した甚大なエネルギー波により、こちらからの一切の接触及び通信の試みが出来ません!」
参謀の一人が、悲鳴を上げた。
『馬鹿者!』だがオリエルは怒鳴りつけた。『ワシのひ孫だ、これでくたばるなどあり得んわ! さあ目ん玉おっ広げて起きんか、ギー坊や!』
『……ああ』
その時、あの声が響いた。
「!?」サンダルフォンが形相を変えてモニターに詰め寄った。「な、何故、」
まだ、立っているのだ!?
戦乙女は盾と盾を構えていた腕を無残にも蒸発させられていた。聖槍直撃により受けた酷い熱量に、全身からじゅうじゅうと降り注ぐ雨が蒸気に変えられている。
それでも、立っていた。
大地の上に君臨していた。
その時、やっとイリヤが獣を仕留めた。
「貴様ぁッ! ――!?」
すぐにサンダルフォンを倒そうとした彼だったが、サンダルフォンの異変に気付く。
サンダルフォンの右腕が、いきなり奇妙な動きをしたのだ。それは素早くモニターを叩き、通信機器や通信の波長を全開放した。ヨハンの、呻きに近い声が、途切れがちに聞こえた。
『聖王、僕は、ここに、立っているぞ……! だから、』
目を覚ませ。
「……ああ。 こんなに感動的な目覚めは、本当に久しい……」
「聖王!」イリヤは叫んだ。
男が振り返った。
恋しいくらいに懐かしい、老いたあの男の人が、そこにいた。
「イリヤ、今すぐ退避しろ」
彼は微笑んで、言った。イリヤは戸惑う。
「聖王?」
だがその次の瞬間サンダルフォンが出てきて、絶叫した。
「貴様は何を考えているのだ、止めろ、それだけは止めろ!」
だがすぐに支配権は聖王により奪い返されて、
「ハニエルは偽神に抹殺された。 残るは、メタトロン、ミカエル、ガブリエル、ラファエル、そしてこのサンダルフォンだ。 このサンダルフォン以外は、自らが創造した『
「聖王……!」イリヤは聖王の意図を悟った。だから、一礼して、言った。
「どうか貴方に、神の祝福があらん事を!」
「ありがとう、イリヤ。 さあ行くんだ!」
イリヤは泣き出しそうな顔を見せまいと、去って行った。
「馬鹿、それだけは止めろ、止めろと言っている!」
「何をだ? 何を止めて欲しいのだ、大天使? 土下座して私の靴の裏を舐めようがもう遅いぞ。 散々私の娘を痛めつけてくれた
『お父様!?』モニターにマグダレニャンが映された。『お父様!』
今や聖王は、完全にサンダルフォンの強力な情報受信・発信能力を奪い取っていたのだ。
「そうだ、マグダ、私だよ。 大きくなったねえ、本当に嬉しい。 どうか、幸せに――」
『お父様! 私は――!』
貴方を殺せと、私の意志で命令した。
「良いんだよ。 私の可愛い孫まで殺せなどとほざく鬼畜は殺して上等なのだ。 それに、私は今、ようやく本来の私に戻れた……だから言おう、おめでとう、と」
『お父様!』マグダレニャンが目を潤ませた。『ありがとうござい、ました……』
「はは。 何も泣く必要なんか無いんだよマグダ。 これは私の、『聖王』の最後の務めなのだから」
「ば、馬鹿、お前は何を考えているのだ!」サンダルフォンが錯乱した半狂乱の断末魔を上げた。「一体何を考えているのだ!」
「実に単純な事だ。 この私が、聖王とまで呼ばれたこの私がだ。 私の後継者達の手を私の血で汚させるような大失態を犯す訳が無いのだ」
『聖槍』発動。
最大威力まで出力を跳ね上げろ。
「そしてサンダルフォン、貴様はまだ致命的な勘違いをしているようだな」
「止めろ、人間、止めろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「この私に負わせたあれほどの屈辱。 貴様らにびた一文たりとも叩き返さずに逝くと思ったか! さあ、私は我が人生にこの手で幕を下ろすのだ!」
目標は、この俺だ!
直撃を受けたバベル・タワーが蒸発した。それは世界で最も偉大であった一人の男に相応しい最期を遂げさせると同時に、大天使をも一匹、葬り去った。
そして、バベル・タワーの中から混沌の虚空が姿を見せた。
雨は、まだ降っている。
そこは白い月が美しい雲上の夜世界であった。
「ここは」と言いかけたランドルフが、足元の雲海に淡い影が差したために天空を仰ぐ。
白銀の鎧、緑の翼を生やした大天使が月を背にして夜空に立っていた。
『異端者共がやって来ましたか』
「ここは、どこだ」万魔殿幹部アッシャーが冷静に訊ねた。
『セフィラー・イェソド。 この私、大天使ガブリエルの創造した「世界」ですよ』
「世界、ですって?」同じく万魔殿幹部エウジェニアが眉根を寄せた。「貴様を発見したと同時に我々は総攻撃をかけたはず……」
『ふふ、貴方達は罠にかかったのですよ。 ここは私の力が最大限に活かされる場所、そして直に貴様らの墓場となります』
「だったら何だと言うのだ」
イザベルが漆黒の剣を構えた。
『貴様らは死なねばならないのですよ。 我らが唯一絶対神は貴様ら背信の輩が皆殺しにされればあの地上世界を滅ぼさぬとおっしゃいました。 世界を滅ぼしたくなくば、直ちに自害なさい』
『ふうん、そして貴様らが支配する悪夢のような世界が始まるって訳か』レット・アーレツが言って、『どっちか選べと言われたら、人は僅かでも希望がある方を選ぶんだよ』
『虫けらのように矮小でゴミより利用価値の無い希望ですね』
「与太話はもう良い。 俺達は貴様を殺す」
アッシャーが、そう言った瞬間だった。
『――ふふふふ、あははははははは!』
いきなりけたたましくガブリエルが笑い出した。
『いつだって人類はそうだった。 下らぬ意志と希望とやらでいつも俺達に刃向った。 馬鹿だ馬鹿だ、この俺に、ソドムとゴモラを一夜かからず滅ぼしたこの俺に、数多の貴様ら魔族と人間に神の鉄槌を下してきたこの俺に、「殺す」だと? 憐れ過ぎて涙も出ない。 貴様らはここで死ね、惨めに無残に無様に地べたでのたうち回って死ね!』
――言い終わるが早いか、無数の隕石が彼らに降り注いだ。
「『複動体同時狙撃!』」
だが、それらは全て『狙撃』されて消える。
「やるじゃあねえか」とアッシャーがレットに言った。「この俺の『
『便利な目をお持ちですねえ』レットは荷電粒子砲を天空に向けていた。『複数の動体を同時に認識でき、かつそれに同時に対応できるなんて』
『なッ』とガブリエルが青ざめた。『馬鹿な!』
「行くぞ」
ランドルフが素早く動いた。イザベル、エウジェニアがそれに続く。
咄嗟に体をよじったガブリエルの右翼が大鎌に切断され、胴体を剣が貫き、両脚が食いちぎられた。
『ぐうああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!』
血しぶきと絶叫をぶちまけてガブリエルは地べたに派手に墜落した。
そこにとどめを刺そうとランドルフ達が駆け寄る――が、
『逃げろ!!!!!!!』
いきなりレットが悲鳴を上げた。
『つ、月が!』
咄嗟に天空を見上げたランドルフ達は信じられない光景を目にした。
月が、巨大化していくのである。
いや、違う。
月が彼ら目がけて墜ちてきているのだ!
あまりの事態に、ランドルフ達は青ざめた。
『ぎゃははははははははははは!』ガブリエルが再び天空に舞い上がった。『言っただろう、ここは俺の力が最大限に活かされる世界だと!』
月が、墜ちる。
逃げても逃れられず、攻撃しても破壊しきれない。
『もう遅いぞ、俺を殺そうがどうしようがこの月は貴様らを叩き潰す! 動き出した隕石は俺でも止められないからな!』
「そんな……!」エウジェニアががたがたと震え始めた。
これが大天使の力だと言うのか。
かつて世界を席巻した七体の化物、最悪にして最恐の化物達だと言うのか!
『見ろ! そして震撼しろ! これが
「私達は、もう、死ぬしか無いのですか」
イザベルが、剣を手から落として呟いた。
その瞬間だった。
ランドルフの腹の中で何かが決まった。
それはとても重大で、恐ろしいくらい一途なものだった。
「レット! お前の最大速度はいくつだ?」
『ランドルフさん?』
轟くような力強い声にレット・アーレツは戸惑った。
『そ、そりゃあまあ、エステバンのヤツが化物改造したから、それなりには速度は出るけれど』
「ならば良い。 レット、万魔殿の連中を乗せて逃げろ、イザベルを連れて」
『え!?』
「諦めるなよ! 私も諦めはしない! 死んだってだ!」
『ランドルフさん、一体どう言うつもりなんですか!?』
「私はここで務めを果たす」とランドルフは言い切った。
そこには何の恐れも何の躊躇いも何の未練も無かった。
「おい!」アッシャーが声を荒げた。「死神、お前何を考えている!?」
「いえアッシャー、今は問い詰める時では無いわ!」エウジェニアが言った。「今は不愉快だけれど従いましょう!」
「ランドルフさん!?」イザベルがランドルフへと手を伸ばした。「まさか、貴方は、」
「この化物に引導を渡すには死神が最も適任だろう?」
そう言ってランドルフは不敵極まりない、まるで全世界をたった一人で敵に回しても逆に挑発するかのような笑みをイザベルに向けた。
『おい万魔殿の方々、さっさとしてくれ!』レット・アーレツが叫ぶ。『イザベルを連れて僕に乗れ! 早く!』
「あッ!」
イザベルが両脇をアッシャーとエウジェニアにより拘束されて、レット・アーレツに連れ込まれた。
「ランドルフさん!」
悲痛な叫びに、ランドルフは相変わらずの笑みを浮かべたままで告げた。
「イザベル、さようならだ。 俺はお前を二度も死なせはしない」
急発進して飛び去るレット・アーレツを横目に、ランドルフは唖然としているガブリエルに、牙を剥いた。
「さあ大天使! 死神が相手だ、不足は無いぞ!」
『何、故』
何故だ、この絶望的な何の未来も無い状況で、何故この男は、まだ、抗おうとするのだ!?
「人とはそう言うものだ、いつだろうとどこだろうと生きている限り足掻いてきた! それが泥沼であったとしても! 地獄のど真ん中であったとしても! 人は生きている限り生ききるのだよ!」
『ひッ』ガブリエルは隕石を、ランドルフ目がけて必死に落とす、落とす、落とせる限り、慌てて落とした!
だがそれは、『
そしてランドルフは跳躍し、ガブリエルの眼前に舞い上がった。
血に飢えた大鎌が振りかざされて――、
「さあ、悪夢の世界へようこそ」
(神よ、)
ガブリエルは残った躰を細切れの肉片にされながら、思った。
(神よ、神よ、ああ、俺が信じたたった一人の神よ、俺を、助け、)
それが最後だった。
ガブリエルだったものは地べたに泥雨のように降り注いだ。
――ランドルフが、着地した。だが、よろめいて、横倒しにそのまま倒れた。
「う、ぐ……」
白い巨大な月が彼に迫り来る。
だが、もう彼には逃げる力も無いし泣き叫ぶ事も出来ない。
既に過剰放出の反動が始まっている。体はもう動かないし、意識はゆっくりと点滅を開始した。『セフィラー・イェソド』が静かに崩壊を始めているが、ランドルフには分からなかった。
(やれやれ)とランドルフは訪れた眠気のままに目を閉じた。色々な人の顔が、夢幻のように過ぎていく。(我ながら、破天荒な、人生、だったな。 だが、悪くは――)
そこでランドルフの意識は、穏やかで柔らかな闇の中にゆっくりと堕ちて行った。
ゾーエーは大騒ぎになっていた。
大天使各個撃破目標の遊撃部隊の一部とゾーエーの対偽神軍本営が、交信は出来るのにその位置座標が特定できないと言う怪現象に陥っていたのである。
つまり、状況確認は出来るのにどこにいるか分からないため、後続支援部隊が送り込めない、のだ。
『大天使の創造した異世界……』オリエルは険しい顔をした。『
「大天使もこちらを各個撃破するつもりだったのだな」マルクスが隻眼を吊り上げて、「そして、『この世界』が滅亡しても『異世界』に逃げ込んでいれば何と言う事も無い……連中の避難場所もであると言う訳か」
『死海の軍勢は避難場所を構築するための時間稼ぎでもあった』グレゴワールが忌々しげに、『だが「アレ」は何なのだ?』
そこでレミギウスが怒鳴った。アレとは、バベル・タワーの跡から出て来た『アレ』である。
「分からん! だがアレが出現してから急激な勢いで空気中の全物質濃度が低下している! まるでアレが空気を吸い込んでいるかのようだ! おまけにアレは全ての解析が出来ん! 電波も何も呑みこんでいるようだ!」
『いかんな』オリエルは位置座標が特定できている全遊撃部隊に撤退命令を下した。『嫌な予感しかしない。 戦略的撤退だ!』
『セフィラー・ティファレトへようこそ、と言ってやるか』
その竜は嘲笑たっぷりに彼らに向かって言った。
『いや、貴様らの墓穴と改名した方が良かっただろうか?』
「大天使ミカエル」エンヴェルが淡々と言った。「ここは何処ぞ?」
『
そこは歌声が響く世界であった。
そこには大勢の人間がそれぞれ白い台の上に立っていて、その誰もが白い衣をまとい、彩雲漂う天上を仰ぎ見て同じ歌を同じように歌っていた。
そしてそれ以外の何もしていなかった。
エンヴェル達に視線を向ける事も、竜に驚く事も、何も反応が無かった。
「貴様はこやつらに何をしたのじゃ?」
エンヴェルが訊ねると、
『はははははは! これが神の望む人類の姿なんだよ!』ミカエルが爆笑した。『ただ人類なんか我らが唯一絶対神に祈れば良いんだ。 無力に哀れに惨めに神だけに縋ってその乏しい命を繋ぎゃあ良いんだよ! 下手に脳みそで考えて小細工を弄するからお前達みたいな
「何て気持ち悪いの」帝国貴族のジャスミンが、顔を背けた。「戦争捕虜だってここまで悲惨では無いわ」
響く賛美歌は美しく荘厳で、完璧に虚ろだった。
「あッ!」エンヴェルの部下の一人が顔を真っ青にした。「親父、お袋!」
「どうしたのじゃ!?」エンヴェルが素早く問うと、
「凶竜の禍で死んだはずの俺の親が、そこにいるんです!」
それを皮切りに、次々に悲鳴が上がった。
彼らの弟妹や、兄姉、親戚、親、親友、いずれも帝都壊滅寸前まで陥った大惨事の折に死んだはずの者が、『天国』にいて歌っているのである。
『何だお前ら、コイツらの縁故か』ミカエルが翼を大きく広げて、『俺様が帝都を踏んづけてやった時、出てきた魂もかすめ取ってやったからなあ!』
それでもはや充分であった。エンヴェルの部下の数名が激高し、ミカエルに接近して攻撃した。エンヴェルの制止の声がとどろいた。だが、
『
接近した全員がまるで熟れた果実のように押し潰されて絶命した。
『ふん、ゴミ屑め。 神に抗うと言う事がどれほど恐れ多いか、貴様らの死を代償に教えてやる!』
竜が天空に飛翔した。
『さあ死ね、ゴミ屑共!』
エンヴェルは何も言わない代わりに美しい青色の宝珠を手の平に乗せ、それを握りつぶした。
ぽたり。
塩辛い水が、エンヴェルの手の平から滴る。
ぽたりぽたりぽたりどぷりどくどくどくどくぐばあああああああああああああああああああッ
それは一気に濁流となって辺りを濡らし、そして瞬く間に『海』になった。
「
『海か! はははは! 懐かしいなあ! あの時はアエギュプトゥスの悪魔を踏みつぶしてやった! その目で見るが良い! 俺様が大天使だと言う事を!』
生まれたばかりの海が、真二つに割れた。
「だからどうしたのじゃ。 余はここで貴様を血祭りにし、帝国の無念を、屈辱を、恨みを叩き返すのじゃ」
ふわりとエンヴェルが空中に舞い上がった。足には不思議な形のサンダルを履いていた。『
「ファーゾルト殿。 聞こえるか。 余はジェラルディーン殿の養子じゃ。 ファーゾルト殿の恨み、現ド・ドラグーン家の当主である余が引き受けた」
びくりと竜が震えた。
『おお、頼む、今すぐに私を殺してくれ!』
『愚者が!』だがすぐにミカエルが体を奪い返す。『黙れ!』
そして竜は凄まじい速度でエンヴェルめがけて突撃した。
ひらり、とエンヴェルが回避すると同時に、ジャスミンの放った槍『ブリューナク』が竜の腹部に命中して爆発した。
『ぐおッ!』
竜が一瞬動きを止めた瞬間だった。
「「ぐっ!」」
周辺に凄まじい重力がのしかかった。下では海が歪み、何名もが重力壁にはじき飛ばされた。
『ふん! 俺様を誰だと思った。 俺様こそが大天使ミカエル、
「おう」
とエンヴェルが答えていた。ミカエルの真上、上空に陣取って、である。
「海風の動きで分かる。 ここならば常に重力は過剰にかかっていない。 いや、大天使ミカエルよ、お前も過剰な重力には体が耐えられぬのじゃろう? お前の上の空が、貴様の、死角ぞ」
そしてその手中には一槍がある。海水を圧縮させて出来た堅牢な槍であった。
『ぎぃゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!』
凄まじい断末魔が上がったのは、その槍が竜の頸部に命中して顎まで貫通した後であった。
同時に重力圧が解除されて、海が凄まじい勢いで渦を巻き始める。
『お、俺が、俺が、また、また、し、死ぬ、馬鹿な、そんな、馬鹿な』
『死ねや!』
血を吐くような絶叫が響いた。
『貴様は俺の子を俺の妻を俺の友を俺の
ファーゾルトの魂の叫びであった。
『俺は、正しい、強い、だから、何をしても、神、が』
『奪い殺し辱める神など神では無い! 死ねや! 死ね、この悪魔が!』
竜の体がゆっくりと渦潮の中へと堕ちていく。
『止め、や、め、おれ、しぬのは、こわ、い』
『安心しろ、お前だけは地獄の奥底まで私がこの手で引きずり込んでやる! 泣き叫べ、そして死にたくないと喚くが良い! 私が貴様を未来永劫に殺し続けてやる』
『かみ、さ、ま!』
『地獄で死ねや!』
それが最期だった。
竜の巨体が海に堕ちて飲み込まれた。
間も無く、海を、じんわりと奥底から広がる赤色が染め尽くした。
セフィラー・ネツァク。
そこは巨大な研究施設であった。
「な、何、これ……?」
そこに侵入したアズチェーナ達は、目の前の光景が一瞬、理解できなかった。
ぼんやりと朧に光っている、無数の巨大な培養槽。その中に、人間を泥人形にしてぶつけ合わせたような異形の生命体が数多揺らいでいるのである。
「これは……!」
ニナが形相を変えた。
「フィオナ、これって!」
彼女は真っ青になって震え始めた。
だが彼女の双子の妹フィオナはもっと重大なものを見つけていた。
「……フー・シャー!?」
異形の生命体の一角を構成する人間だったものの顔が、彼女達の亡き同僚のそれだったのである。
「どう言う事ですか、これ!? フー・シャーさんはシボレテ・ヴィルスに感染して、やむを得ずシャマイムさんが射殺したはずじゃ……!」
アズチェーナまでがたがたと震えだした。
「……姉さん、私、怖い……!」
フィオナがニナに抱き付いた。
『……これは、大天使ラファエルの仕業だ』悪魔のアスモデウスが、無感情に言った。『ヤツしかこんな芸当はやらん』
『その通りだアスモデウス。 何、強制執行部隊の一人に、撤退間際に彼のDNAを採取させただけだよ』
「「!」」
一同が素早く攻撃態勢に入った。視界の遠い果てに、白衣の青い翼の大天使が立っていた。その声がそこら中に設置された通信機器から聞こえる。
「おい大天使。 貴様らは一体いつからこんな外道じみた真似をしていたんだ」
ベルトランが訊ねると、
『数千年以上前からだが……うん?』ラファエルの様子がおかしくなった。『そうか! そうか! なるほど、道理で記憶を共有させた時に異常値が出た訳だ!』
「何をふざけた事を言っている」ジャンヌが、冷たく言い放つ。「逃げる算段でもしているのか」
『いやいや。 貴様らはここで私の実験素体になるのだよ。 そして実験しつくしたあかつきには、新世界の番人にでもなってもらおう。 どうだい?』
「「断る」」
誰もが拒絶した瞬間、ラファエルは狂ったように笑い出した。
『やはり人間とは下等生物だ、モルモットにも劣る! では』
黒光りする鋼鉄の柩が、ラファエルの背後に浮上した。ゆっくりと蓋を開けていく。
『この娘のように、私の実験素体になってもらおうか』
蓋が開いた中にいたそれは、棺の中、巨大な培養装置の中でがんじがらめにチューブや鎖で拘束された、片腕が義手の一人の少女であった。
「は、はははははははははは!」ラファエルの狂笑が轟いた。「どうだね、これが『
ベルトランの顔に、驚愕と激怒と絶望が入り乱れた。
「な、んで、コルネーリアが、生きて」
彼が異端審問官だった時の後輩は、彼が死んだ後に発生した戦争で行方不明になったと、それでなくてもこの数百年の間に亡くなったものだと、
「何、『魔女を殺した者は魔女の魂を得て魔女になる』、そう、この魔女殺しの娘は魔女の魂と言う魂の
そしてラファエルは手元のコンソールを軽く叩いた。
デュナミス・エンジェルズの出来損ない、異形の生命体達がそれで目覚め、同時に餌を見つけて、培養槽の中で唸った。
「貴様はコルネーリアに何をした」ベルトランは、冷酷に訊ねる。
「ありとあらゆる実験をね。 そしてついには我らが『唯一絶対神』の蘇生にも成功した! まあ、死ななければ良かったから解剖だの臓器の摘出だのはしょっちゅうやったがね」
『なるほど。 貴様はその娘に我のサラにした以上の所業をやったのだな!』
アスモデウスが、吼えた。
「おい」ジャンヌが言った。「特別に協力してやる。 ヤツらを倒すぞ」
「分かっているわよ!」ニナとフィオナが身構える。
「ふ、フー・シャーさんの仇です!」アズチェーナも同じた。
「否!」だがベルトランだけはこう言った。「僕はヤツを殺しコルネーリアを助ける!」
「仕方ないな」ジャンヌは目を閉じた。
ラファエルの手が触れると、装置は蒸気と共にコルネーリアや異形の生命体をむき出しにした。
「許してなどやらない」アズチェーナの目が赤く輝いている。「フー・シャーさんが何をした。 真面目に働いてお子さんが産まれるのを本当に楽しみにしていた。 家族の楽しい団らんをぶち壊す連中は例外なく『悪』だ!」
セフィラー・ネツァクが揺れた。揺れはどんどんと激しくなり――そして壁と言う壁、天井と言う天井、床と言う床をぶち破って樹木が怒涛のようにのた打ち回った。
だがそれらはラファエルに触れる前に木端微塵にされ、その衝撃波をくらったアズチェーナが遥か後方に吹き飛ばされて一撃で戦闘不能に陥った。
「――ぐあッ!」
アズチェーナ!とニナが駆け寄ったが、あまりの出血量と身体の損傷度に絶句する。彼女が魔族でなかったらこれは即死していた。咄嗟に応急手当をし、ニナはラファエルらを睨み付けた。
『魔女は殺せ』少女はそれだけを、それだけを呟いている。『魔女は殺せ』
「コルネーリア!!!!!!!!!!!!」ベルトランは絶叫した。「僕はここだ、ここにいる!」
『……あ』少女の顔にうつろな笑みが浮かんだ。『ベルトランさん、あのね、』
私、貴方を殺した魔女を殺しますから
「避けろ!」とベルトランを蹴とばしたジャンヌがいなければ、ベルトランは衝撃波の直撃により粉砕されていただろう。それは彼らに襲いかかろうとしていた異形達をもただの肉片に変えてしまう。
「……何、この攻撃力」フィオナが愕然と呟く。「これじゃ……どうやって近付くの?」
「フィオナ、伏せて!」とニナが妹を押し倒した。
その直後、彼女らのいた空間を『滅茶苦茶』に衝撃波が貫いて、全てを砕いた。
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」ラファエルが狂ったように笑っている。「やはりこの実験素体は使えるなァ! 雑魚だ、雑魚だ! 聖槍には劣るが十分に破壊力がある!」
だが、少女は泣いている。涙がぼたぼたと床に落ちている。
『あ……いや……ベルトランさん……わた、し……』
「黙れやモルモット。 そうだな、あの男のクローンくらいなら作ってやっても良いぞ? 勿論、肉骨を断片にまで砕いてからだ!」
『いや……いや……いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!』
一瞬だけ抵抗した様子を見せた少女だったが、ラファエルの手がその頭に触れた途端に、涙は止まる。
『魔女は殺せ』
「……コルネーリア……!」ベルトランが歯噛みした。せめて近付ければ!
『おい異端審問官、ラファエルの両手を切断しろ。 ヤツの「神の手」は最大の武器にして弱点だ。 両手を切断さえしてしまえば、ラファエルはただの化け物だ。 あの小娘を助ける手段もあるだろう』悪魔が言った。
「だがどうやって接近するんだ!」
「「ベルトラン!」」ニナとフィオナの双子がベルトランを見て頷いた。
「やるよ、フィオナ!」
「……うん、姉さん」
彼女達の手が、金属的な光を放った。そして彼女達はその手を床面に押し当てた。
――ドゴン
遠くで大きな音が響いた。
ドゴン、ガゴン、ベキ、ゴシャ、グシャアアアアアアアアアアアアアアアアアア!
――セフィラー・ネツァクが崩壊を始めた。
「何だこれは!?」
ラファエルが手を壁に押し当てて、
「チッ、貴様ら、このセフィラー・ネツァクを砂に変えるつもりか! させん、させんぞ!」
ラファエルの触れたところからセフィラー・ネツァクが再生を始める。
崩壊と再生、その力が拮抗している。この隙をベルトラン達は見逃さなかった。
「――!」
ベルトランが瞬時に『糸』を張り巡らせた。そしてその糸を足場にとんでもない速さでコルネーリアへの接近を試みる。同時にジャンヌも天井を疾駆して、ラファエルの方へと走っている。
『魔女は殺せ』
ベルトランが衝撃波の余波に吹き飛ばされかけて、糸に着地した。そしてまた糸を張り巡らせる。
「あの手を使うぞ!」ジャンヌが叫んだ。
『目くらましだな』アスモデウスが頷いた。
コルネーリアの前方の空間が濃霧で覆い尽くされて、視界がいきなり悪くなった。
『魔女は殺せ』
だが、コルネーリアは目の前の霧をことごとく吹き飛ばした。
「ふん、雑魚の浅知恵、この私に通用などしない!」ラファエルが嘲り、そして片手をコルネーリアの頭部に当てた。コルネーリアの義手が『砲』へと瞬時に変形する。そして、撃った。
「「チィッ!」」
あとわずかだ。あとわずかなんだ!霧ごと衝撃波に吹き飛ばされたベルトランと、回避したもののこれ以上の接近は危険だと判断したジャンヌが舌打ちした。
「おい、どうする、異端審問官」
「もう少しなんだ! もう少しで僕の『糸』は彼女に届くんだ!」
「もう少しか」ジャンヌは少し元異端審問官を見つめていたが、「じゃあ、届かせてやる」と無感情に言った。
「ああ、やれ!」とベルトランは左腕を横に突き出した。
直後ジャンヌのサーベルがベルトランの左腕を切断した。そして、ジャンヌは渾身の力でその左腕を前方へと蹴り飛ばした。それはコルネーリアの手前で落ちる。
「……可哀相に。 貴様らはついに気が狂ったのだな」
ラファエルの憐みの眼差しを、二つの強い意志を持った目が睨み返した。
「気が狂った?」
「とんでもない話だ」
「これでやっと」
「僕の糸は届いた!」
ラファエルが気付いた時にはもう手遅れだった。
切断された左腕がぴくりと動いた。左腕にはベルトランの糸が絡みついていたのだ。糸で操られたその左腕が、素早く糸を操って、ついに『砲』とラファエルの両腕を見事に切断した。
「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
ラファエルが素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「腕が、腕が、私の『神の手』が!!!!!!!!!!!」
ベルトランは、ようやく――、
「……コルネーリア、ごめんよ」
コルネーリアを抱きしめる事が出来た。
『ベルトラン、さん? あのね、私、』
貴方の事、ずっと、好きだったんです。
「……僕もだ」
数百年越しの告白であった。
『さあて、と』悪魔が意気揚々として、出血が止まらないラファエルの前方に出現し、嗤った。『こうして再会するのは数千年ぶりだな、ラファエルよ?』
「あ、あ、」ラファエルの顔が青ざめているのは、出血の所為だけでは無い。
『数千年前のあの夜、俺はただサラの悲鳴と哀願を聞く事だけしか出来なかった。 絶望と激怒と苦痛に気が狂いそうだった。 ……あの夜明けにサラは自殺した。 そして俺はソロモンの宮殿造りに酷使されて、何とか逃げたものの一度は死んだ』
「あれは! 俺の所為じゃない! 神が、そう、神が、」
『お前と一緒に俺達を嘲笑っていた神か』
「違う、俺は、違うんだ、データを、データを集めるために、」
『今更何だ、ぐだぐだと煩い。 黙って死ね』
悪魔の腕がラファエルの喉に絡みついた。
「あ、が」ラファエルの体が宙に浮く。「ご、げ、え!」
骨の砕ける音、肉が引きちぎられる音。ジャンヌが片眉を上げたが、それ以上は何もしなかった。青い羽根が飛び散った。
『俺はこの瞬間を数千年間待ち焦がれていた!』
ラファエルの首が引きちぎられた。
地に落ちたラファエルの頭を踏み潰して、悪魔はようやく清々しく笑った。
「終わったのか」とジャンヌは言った。
『ああ。 これでやっと始められる』
「何をだ」
アスモデウスは微笑んだ。
『お前を、だ』
「そんなものは数百年前から知っている」と不愛想にジャンヌは答えた。
セフィラー・ケテル。
白亜の大神殿は既に血にまみれ、死体の山で埋め尽くされていた。
「……随分と残忍な男になったものだな、オットー」
く、く、と低く笑いながらメタトロンはまるで誘うように囁いた。
「俺が洗脳したがためにお前に刃向った同胞を、何の躊躇いも無く殺傷するとは」
「……」オットーは無言である。メタトロンの言葉など心底どうでも良さそうだった。
「知ってはいるだろうが、お前達に増援は来ないのだぞ。 そして単騎で俺に勝てる相手では無いのだ、お前は!」
「……」
「怖いか? 後悔しているか? 懺悔の時間だぞ? だが既に遅い! 貴様はのた打ち回って泣き叫んで失禁して死んでいくのだ」
「……」
「そもそもたかが魔族の分際で、この大天使メタトロンを打倒しようなどと考えるのが大罪の始まりであったな」
「……」
オットーはまだ黙っている。だが、その時、
「う、うう……」と小さな呻き声がした。
「!」オットーがしゃがみこんで、血まみれで倒れているロットバルドに触れた。意識を、取り戻していた。
「……オットー……」か細い声は、ほとんど断末魔だった。必死に何かを伝えようと、喘いでいた。それでオットーはロットバルドを抱き起こした。
――どすり。
「!」
オットーが、崩れた。胸に短剣が柄まで突き刺さっていた。代わりにロットバルドがよろよろと起き上っていた。
「……か、カール」ロットバルドは必死に、まるで母親の愛を求める子供の様にメタトロンに近づく。「カール、カール……!」
「よくぞやった、ロットバルド」メタトロンは穏やかに微笑みながらロットバルドの熱い抱擁を受け入れた。「お前は特別に生かしてやろう」
「は?」ぎゅうっとメタトロンに抱き着いている相手が、酷く冷たい声を出した。「何をたわ言を。 貴様はここで死ぬのだよ、私と共に! 大天使!」
「!?」
誕生して数千年、メタトロンは初めてぞっとした。恐怖と言うものを知った。
何故ならロットバルドの背後で何かが立ち上がる気配がし、そして己は回避行動を取るために動きたくても、ロットバルドに抱きしめられている所為でろくに動けないのだ。
そして。
そして、ロットバルドを抹消して今動いたとしても、もはや、間に合わない!
『私の能力ですか? 攻撃回避能力ですよ。 でもろくに使った事は無いですね。 私がもっぱら使うのは、ここ、頭ですから』
乗っ取った大帝の過去の記憶が、その刹那、脳裏をよぎった。
仮に、刺す瞬間に回避能力を駆使して、肝心の臓器に全くの損傷を与えず、ただ肉だけを刺し通したとしたら。
そして、今や、その回避能力を一切使う気が無いとしたら。
直後、メタトロンはロットバルドごと、刺殺されていた。
「がああ、ああ!」血反吐を吐き、メタトロンは同時に断末魔を上げていた。「な、ぜ、」
ロットバルドは笑っていた。心底嬉しそうに、笑っていた。勝利者の笑みであった。メタトロンごと、胸部を大剣に刺し貫かれていても。
「戻るのだ! 私の愛した貴方へ! 私が愛したあの貴方へ!」
死がどうした。苦痛がどうした。それが何だと言うのだ。この愛の前では!
「なぜ、ひとは、愛、など、に」
それが限界であった。大剣が抜かれた瞬間に、メタトロンは絶命した。
どさり、と二人は倒れた。
ロットバルドは、目だけ何とか動かして、ただ一人この場に立っている男の姿を見た。
オットーの燃え飢えているような目には、まだ憎悪があった。殺してもまだ殺し足りない、激しい情動があった。死体を切り刻み踏み潰しても、まだ尽きないであろう。
「 」
何か言葉を言いたかった。何かを伝えたかった。だが、もうロットバルドの命は尽きようとしている。
おきて、ください
ロットバルドは最後の力で、目の前の、愛しい人の顔に触れた。
おきて、あの子を、おねがいします
オットーは死体を破壊しようと、大剣を振り上げた。だが、気配を感じて、飛び退った。
「まだ生きていたか」忌々しさに反吐が出そうになる。ならば死ぬまで切り刻む。
「……」死体が、青い血を吹き出しつつ起き上がった。オットーに背を向けて、ロットバルドの死に顔にそっと触れた。「……ごめんなあロットバルド、分かっているだろうけれど、俺、一度寝ちゃうと爆睡しちゃうんだよ」
「!!!!!!!!」
オットーは驚愕した。
「でも、分かったから、ちゃんと伝わったから、心配すんな」
大帝が、大剣をかざし、振り返った。
「さあ来い!」大帝は致命傷を負っているとは思えぬ、大咆哮をとどろかせた。「オットー、俺を超えて見せろ!」
オットーは、眼を閉じ、すぐに開けた。青い目だった。
そして一気に、迫った。
二人は交錯した。
……やがて、世界をぐらつかせそうなくらいに楽しそうな笑い声が、静かに辺りを満たした。
「は、はは……!」大剣が、折れて、落ちた。「そうだ、オットー、それで、良い。 ……じゃあな、俺も、先に、いく」
どさりと、大帝が斃れた。
勝った。
俺は、戦い抜いて、その果てにたどり着いた。
オットーはそれを知った。
そこには――。
何も無かった
何も無かった!
酔いしれるような勝利感はおろか、愛する女も尊敬すべき人も仲間も友も宿敵さえも、何も無かったのだ!
だが、彼にはまだすべき事があった。
『万魔殿の統制』
彼にしか出来ない事であった。
彼だけに許された事であった。
彼は、孤独な権力者になったのだ。
オットーは吼えた。大神殿を揺るがすほどに咆哮した。
そこが、彼のたどり着いた『果て』であった。
なあ神様、偽者の神様。
本当の神様って何だと思う?
どんな存在だと思う?
何をすると思う?
何を思考し何を望み何を意図していると思う?
……ふざけるな、か。
俺はいつになく真面目な話をしているんだがな。
だが、偽者の神様、アンタについてなら俺は確信をもってこう言える。
アンタは一人ぼっちだった。
産まれてすぐに母親に捨てられて、その代償に物質世界を創造しなければならないほど寂しかったんだろ。
アンタが人類を創ったのだってそうだ、アンタを人類に崇めさせようとしたのだってそうだ、アンタは結局は寂しかったんだよ。
誰かに抱きしめて欲しかったんだよ。
寂しくて寂しくてたまらなくて、だから己を囲んでくれる玩具が欲しくて世界を創造し、人類を創造し、色んなものを創っては壊し、壊しては創った。
――人類が、己に叛逆するのをアンタが断じて許さなかったのはそう言う理由だろ?
そりゃそうだ、玩具が叛逆なんてしたらアンタの望んだ世界が狂っちまう。
だがなー、その玩具はついに己の不完全さゆえの可能性でアンタを超えて、その先へ行こうとしているんだよ。
アンタはこの星に幽閉されちまったからもう実感できんのだろうが、世界は呆れるほど広いんだ。
世界ってのは残忍なくらいに大きいんだよ。
それでも人類はそこに行こうとしている。
まるで大海に漕ぎ出す一艘の小舟みたいに、な。
道化だろう?愚かしさと言い無謀さと言い。
だが道化の方がアンタより真実を分かっているんだ。
『人類は不完全だ』って事をな。
さあ、紛い物の神様。
かかって来いよ、これが最初で最後の果し合いだ。
アンタは俺が憎い。
俺はアンタが邪魔だ。
これ以上の戦う理由なんてどこにある?
――さあ来い、ヤルダバオト・デミウルゴス!
I・Cの体が軽く吹っ飛んだ。吹っ飛んで巨大な空洞を突っ切って壁に激突する。ガラガラと瓦礫が落ちた。
まるで子宮の中のような、不思議な温もりと広さを持った空洞であった。
そこに、巨大な機械仕掛けの体を持った偽神とI・Cだけがいるのである。
「あー……」I・Cが瓦礫の中から起き上がる。「駄目駄目、全然駄目。 ヤルダバオト・デミウルゴス、俺に物理攻撃が効かねえ事くらい分かってんだろうが。 それとも」
I・Cの体が溶けた。そして、次の瞬間混沌の闇が急騰した。
「――『サタン』発動、Ver.『遍く神々』」
混沌の闇から人が飛び出してくる。今まで彼が『喰った』もの達が我先に偽神へと襲いかかったのだ。怒涛、津波の様であった。
『我らが昔年の積年の恨み! その身で思い知れ!』
巨大な爆発と閃光が無数に舞い散った。
――偽神の
「やれやれ、アンタもか。 こりゃ泥仕合になりそうだ」
I・Cが軽くそう言って、彼らの先頭に立った。
『……』
神が薄目を開けた。
直撃を受けた『もの』が跡形もなく消し飛ばされる。
『我が目は破邪の光を放ち、口よりは滅びの風を吐き、』
「で?」
I・Cは、無傷で立っていた。
「だから、それで?」
『――我が怒りは死の怒りなり!』
I・Cに集中砲火が浴びせられた。
I・Cの体が光の渦に巻き込まれて消えた。
「――『サタン』発動、Ver.『魔王』」
だが、圧倒的であったその光が、喰われていく。
「きゃっはははー!」
そして現れたのは、黒い六対の翼を生やした少女の姿の魔王であった。
魔王の右手に凄まじい熱量が集中していく。次元が歪むようなエネルギー塊であった。
「前略カミサマへ。 頂戴したエネルギー、そっくりそのまま返却しまーす!」
君臨していた偽神の体が吹き飛ばされた。巨大で耳障りな金属音を立てて、ぐしゃりと壊れる。そこを魔王は挑発した。
「おい、この程度でへたばるなよ。 折角俺が本気出したんだ、そっちも本気出せ」
『……』
金属の体から光輪を背負った威厳ある『神』が登場する。
『滅べ!』
それが目を開いた瞬間、空洞が暗黒に飲み込まれた。次元が、破壊されたのだ。
どすりと無礼な音が響いた。『神』の頭上に魔王が胡坐をかいていた。
「何やってんのカミサマ? 次元間跳躍くらい俺でも出来るって」
『浄化!』
空洞の全てをまばゆい光が覆い尽くした。
その時にバベル・タワーに『聖槍』が最大級の破壊力でぶち込まれ、全ては光に飲みつくされた。
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