第53話 【ACT一】最終決戦直前
……もう、随分昔の事だ。
安酒場でやけ酒にその日も溺れていたら、隣でも同じように溺れている男がいた。
気分悪く酔っぱらっていたので、男に絡んだ。
「おいアル中、辛気臭い顔しやがって。 おかげで酒がまずくなった」
男は素直に謝り、だが血を吐くように言った。
「それは失礼した。 だがこれが飲まずにいられるか!」
何の理由があるのだろう。気になった。
「お前も何があったんだ」
「上司や同僚と上手く行かない」
「何でだ」
「悉く意見が対立する。 今日は精神病棟に入って来いとまで言われた」
「奇遇だな、ワシも今日そう言われた」
「お前は――」と男は軍服姿の俺を見た。そして、「まさか、『軍隊一の変人オリエル』がお前なのか?」
「そうだ。 だがお前はどこの誰だ」
「私はグレゴワールと言う。 内務大臣補欠補佐官だ」
「平役人だな」
「そうだ。 だが、もうじき私は馘首されるだろうよ」
「ワシだって除隊処分がいつ下るか分からん」
それからは、異常なくらいに意気投合して、愚痴を肴に盛り上がった。
俺達のいる、この国クリスタニアは列強諸国最弱の国だった。それもそう、権力は全て貴族に握られ、国王はその言いなりで、しかも『あれは無理だろう』と言われている赤字国債が山ほどあったのだ。
「ワシに一度で良いから軍を指揮させろ」酔った俺は半泣きで言う。「勝つから。 今度こそ死なせないから」
「戦友が、死んだのか」
「馬鹿の所為で犬死だ。 馬鹿な指揮官があんな状況だったのに突撃命令を出した、だが戦況不利と見た途端にその指揮官が真っ先に逃げやがった! 戦友は必死に持ちこたえた。 だのに増援すらヤツは拒んだ! あの時増援を出していれば戦況は逆転していた! ワシは、単身突撃しようとして営倉にぶち込まれた。 出てきた頃にはもう手遅れだった。 葬式すら間に合わなかった」
「……良いヤツだったんだな」
「ワシと同じで庶民の出だった。 貴族ばかりの士官学校でいつも二人一緒に馬鹿にされた。 だがアイツはワシを認めてくれた。 たった一人だけ認めてくれた。 ああ、本当に良いヤツだったよ! だが無能の馬鹿共に寄って集って殺された!」
「……」
「国王が変わったな。 気の毒だ」
「そうだな。 アルビオン軍が攻めて来ていて、他の戦争でも負け続けだと言うのに。 恐らくこの首都も三カ月後に陥落するだろうよ」
「何故三カ月と分かった?」
「何、アルビオンは完全無条件降伏をクリスタニアに要求している。 流石にこれは、貴族連中も受け入れられないだろう。 だからしばらくは持ちこたえる。 だが、どうせ時間の問題だ。 アルビオンの事だろう、抵抗されると分かった時から貴族の懐柔を始めているに違いない。 全主要貴族の懐柔にかかる時間が三カ月だと判断した。 後は、王族が今次々と他国に逃げているのは知っているか?」
「……どうせそんな事だろうと思っていた」
「残るは国王ただ一人だ。 哀れで孤独な、あの小柄な青年国王だ。 彼だけは逃げないだろう」
「どうしてそう思った?」
「もうこの国は終わりだ。 そんな事は誰の目にも明らかだ。 王族すら逃げる、泥船だ。 既に国王がどこかの国に亡命の算段を立てているのなら、その国が何らかの干渉をしてくるだろう。 アルビオンのみにクリスタニアを奪わせるなんて、黙ってはいられないだろうからな。 だが全くそんな様子が見られないのだ。 だから恐らく、彼はこの国に殉じるつもりだろう」
「可哀相だな。 クリスタニアの連中は貴族も王族もダメ人間のクズばかりだとワシは思っていたが、最後にまともな人間が一人だけ残っていたのか……」
「ああ」
三カ月後。
「おい、約束通り、街は焼いたがアルビオン軍をずたぼろにしてきたぞ。 あれじゃあ、あと五年はアルビオン軍も動けんだろうな」
「そうか。 それは良かった。 クリスタニアンの市街を焼き払った件については、アルビオン軍の仕業と公布しよう。 それで早速だが、アルバイシンがゲルマニクスと手を組んでクリスタニアに宣戦布告してきたのだ。 逃げたクリスタニアの王族の一人を旗印に担ぎ上げて。 総勢五万の軍勢だ」
「アルビオンの敗北した隙を突いて、か……」
「これもどうにか防ぎたい。 出来れば賠償金も分捕れるだけ分捕りたい。 出来るか?」
「幸い自軍の被害は一〇〇名程度だから、動かせるのは九千強の兵だ。 情報次第だな。 しかし賠償金目当ての戦争なのか、まあ不愉快だが分かった。 ワシの命令で焼き払った首都市街を再建する金が確かに要るからな……」
「おい、その半分以上は軍紀違反者という事でお前が処刑したんだろうが」
「そんな事より、敵軍の情報は?」
「彼女が説明してくれる」
そこで出て来た人物を見て、俺はのけ反った。と言うのも、年齢不詳の絶世の美女だが、夫や愛人になった男が全て不審死していて、噂では毒殺したともっぱらのとんでもない女『毒殺貴婦人』マダム・マクレーンだったからだ。
「おおおおおい、グレゴワール、お前、よりにもよってこんなのと」
俺は戦場に立たされた時より震え上がった。だが睨まれて、
「国王陛下をたぶらかしかけたのを引き剥がして部下にした。 性的関係は無い」
そう言えばそうだった。この男、やたら貞操観念にうるさくて、俺が娼窟に行こうものなら殴り合いになったのだった……。
「あのぅ」『毒殺貴婦人』は言った。「ねえ、情報が欲しいんじゃなくってぇ?」
「端的に情報の説明を頼む」グレゴワールは言った。
出てきた情報に俺は仰天した。アルバイシンやゲルマニクスの軍議に潜入したってここまで露骨な情報は得られない、生々しいほどの諜報内容だったのだ。
「ねえ、これでよろしくってぇ?」
「……分かった。 勝ってくる」
と言うか、これほどの情報を得ておきながら勝てなかったらその戦争指揮官は銃殺させるべきだ。
「頼んだぞ」とグレゴワールは頷いた。
ケツ毛を毟るように賠償金をふんだくって帰って来ると、また同類が増えていた。今度は何と、あの大金持ちのメディチ家の若当主ユースタスと、有名な女詐欺師アナベラだった。
「なあグレゴワール」俺は言ってみる。「お前、変なのばっかり集めるなあ」
「俺もお前も人の事は言えんだろう」
「そりゃそうだ」
「俺はこれから変人奇人を集めて来る。 とにかく、俺の出来ない事が得意な変人奇人をな」
そこに、ひょこっと顔を出したのが、チビでハゲっぽい青年国王だった。
「グレゴワール、また勝ってくれたのですか!」
「ええ、ですが全ての戦功はこのオリエルとマダム・マクレーンにあります」
国王はいきなり膝を折っておいおいと泣き出した。俺達の方が仰天した。
「もう駄目だと思っていました、もう死ぬしかないと……でも、今や希望を抱いても良いのですね!」
「ええ、陛下」グレゴワールは国王を抱き起した。「どうぞご期待下さい」
誰かに期待される事が嬉しかった。
変だ、邪魔だと言われず、必要とされる事が楽しかった。
認められ、受け入れられ、周りが同類ばかりで違和感を覚える事も無く、仮に違和感を覚えたとしても、ずけずけとそれを言えた。
そしてそんな俺達をにこにこして見ている男がいた。
不揃いな凸凹集団を誰よりも大事にしてくれる男だった。
国王陛下、と呼ばれていた。
だが、その立場がたとえ乞食だろうと、俺達にしてみれば本当に大事な存在だった。
俺達の統率係のグレゴワールなんか、彼に完全に心酔しきっていて、国王侮辱罪は死刑だと決めようとしたくらいだったのだ。
それに、陛下は女好きな所が俺と同じで、中々気があった。
陛下は、欠点だらけの男だ。
駄目な男だ。
兵卒にしたら一分後に営倉にぶち込まねばならなかっただろう。
それでも、何故か、俺達は欠点まみれの陛下が好きだった。
そしてそんな陛下に従う同類が、同類とやっていける事が、好きだった。
だから殉じた。
殉じる、と言うか、処刑される時は、ついに定めが来たのだな、と思った。
この世界に永遠など無い。
だからこそ愉快で楽しい。
そして俺達は、この世界を十分に堪能してやった。
あの銃声が鳴り響いた時、俺達は終わったと思った。
だが世界がまだ俺達を必要としていた。
まあ、そうだろうな、あれだけ俺達の謳歌した世界が、唯一神を名乗る怪物に滅ぼされるとあっては、世界だってたまったもんじゃないだろう。
俺達の処刑された後に待っていたのは、亡き国王と王妃の土下座だった。
泣きすぎて何を謝っているのかさっぱり分からない国王を、あの時のようにグレゴワールは抱き起して、言った。
「これも運命でございます。 陛下、どうぞお泣きなさるな」
……結果として、俺達は国王クレーマンス七世のために生きて、そして死んだ。
だから、神なんぞよりも彼を信じている。
ダメ人間の最高成績合格者の彼を信じている。
その彼からこんな命令が出てしまったら、しょうがない。
「どうか、お願いします。 世界を滅ぼすなんて、いくら神でも許される所業では無い!」
排泄物みたいな悪人を痛めつけるなら意味は分かるんだよ、まだ。
でも善良で敬虔な義人を痛めつけてどうすんのって話だ。
しかも全知全能の神が平然とそれを放置する、ってさ。
神を試すなと言うのなら、人だって試しちゃ駄目だろうが。
おまけに、その放置の原因と来たら不純極まりない、俺との賭けがきっかけだぜ?
俺はただの嫉妬でこう言った、
「神様を信じているあの男の全ての所有物を奪い去れば、あの男だってすぐに信仰なんて捨てて、神様の顔へ向かって、神様を呪うでしょうよ」
そう、そして神様に気に入られているのは俺だけで良い。
こんなくだらない動機のためにあの男は散々に苦しんだ。思いっきり俺が苦しめた。
神様がそれを平然と看過した理由が、俺は後になって分かった。
この神は偽物だ。
偽物だから不完全な世界を創造構築し、無自覚な不完全さの塊の癖に唯一絶対の神として君臨している。
そもそもだ。
唯一絶対の神、ならば何でこう言う必要がある?
たかが多神教で崇拝されて自己を神と僭称する悪魔共と、己をこうやって比べる必要がどこにある?
『私は妬む神である、私の他に神はいない』
おかしいじゃないか。
異常じゃないか。
矛盾そのものじゃないか。
何でそれに俺達は気付かなかったのか。
答えは簡単だ。
馬鹿はすぐに宗教を信じて、信じる事で自らを盲目に貶める。信仰を捻じ曲げる。今まで存在した人間の内、一体何人が神様のために神様を信じた事があるんだい?九九%は自分のために神様を信じている。そこから既に信仰は捻じ曲がっているのに気付こうともしないでさ。イリヤくらいなものだ、実際に『神様を信仰している』のは。
だから大事なのって、道理から逸脱しない事、自分で思索し考える力を養う事、思想の値段が勇気で決まるのならば、行動の値段は覚悟で決まるのを忘れない事、大事なものを愛する事、そして、異物、他者を受け止められるだけの寛大さを常に持ち続ける事、そんな『当たり前』で『普通』の事柄じゃないのか?
神様に対してだって、『それは違う』と申し立てるくらいの、強さや覚悟が人にあったって悪くは無いんじゃないか?
本当の神様ならそれを笑って聞き入れるだろう。
だって人間が不完全な生き物だと、だが不完全ゆえに絶大な可能性を秘めている生き物だと、知っているからだ。
完全なものはそこで帰結する。
不完全性こそが進化を求める。
その過程でありとあらゆる罪過を犯そうと、取り返しのつかぬ悲劇を招こうと、よしんば惨劇と無意味の結末しか誕生させられなかったとしても、それでも、この進化の先にある何かを願って、人類の歴史や時間は刻まれてきたんじゃないのか?
知恵の実は食べたが生命の実は食べられなかった人類。
生きる事そのものが不完全の証明だ。死んでしまう命のどこが完全なんだ。
楽園を追放された人類の始祖。
二本の足でこの星の大地に立った時から、人類の不完全ゆえの進化は始まる。不完全ゆえに何かを求め続ける長い数奇な旅が始まったんだ。
なあ偽神。
かつての俺が崇めていた、唯一絶対神を僭称する化物。
アンタだって不完全なんだから、進化とその先を願う事が出来たはずなんだぜ。
だがアンタはそれに目を背けそれを拒絶した。
酷い話だ、俺みたいだ。
アンタはそれの代わりに、暴力と恐怖と贋宗教で全てを片付けようとしてきた。
俺のように。
でも、もう。
それが完璧に失敗だったって事、暴露されて全人類に晒される刻限が来たぜ。
「何か、眠れないね」
ニナはそう言って、窓から夜景を見つめた。雨にぼやけた光が、夜の下で無数に煌めいている。
「……明日だもんね、姉さん」フィオナが彼女に寄り添った。
「うん、明日。 最終決戦とか言われても、多分、戦場に立たされるまでは、実感が出てこないよ。 だって、この星が滅びるとか言われたって……」
「……何で神様って生まれたのかな」
「分からないよ。 ただ……」
「……神様は神様だけじゃ存在できなかった。 私達みたいな、人間が必要だった。 変だよね、姉さん。 神様は神様だけで存在していれば、それで良いのに」
「うん……」
「かつて世界は完全だった。 物質でも無く、認識でも無く、言語すら超越した至高世界『プレローマ』に
「「I・C!?」」
双子が仰天していると、いつの間にか部屋に侵入していたI・Cが呟いた。
「アブラクサス、人間の癖にここまで知っていたとはな。 偽神の体に刻印されたお前の記憶、俺も認識したぜ」
「I・C、アンタ……」
ニナが驚いていると、I・Cはここではないどこか遠くを見つめて言った。
「夢幻の彼岸へ、俺達は渡らねばならないんだ。 夢は醒めた。 そして此岸に俺達がいる。 人類の長い旅、進化のその先を願う俺達が」
そして、完全に消えた。
「我らが唯一絶対神よ」ガブリエルがひざまずき、慈悲を乞うた。「この星を滅ぼすと言うのは真でしょうか、真でしたら、どうかお止め下さい」
『……』彼らの神は、沈黙している。
「ねえ!」あまりにも沈黙しているので、たまりかねたハニエルが叫んだ。「神様! 何で私達まで殺すの!? 私達はいつだって神様のために生きて来た! なのに何で裏切るのよ!?」
「ハニエル、口が過ぎるぞ!」サンダルフォンが叱責した。「我らが唯一絶対神に対して無礼を働くと言うのなら、ただでは済まさん!」
「じゃあアンタは滅ぼされて上等なのね!」ハニエルが形相を歪めた。「私は嫌よ! 死ぬなんて御免だわ! こんな神様の所為でなんてね!」
『……』神が、薄目を開けて、ハニエルを見た。
次の瞬間ハニエルが蒸発した。床に大穴が空いた。大天使達は震撼した。
『お前達が勝利すれば』神の声が轟いた。『星を滅ぼすのは止めてやろう。 我を誰と心得る。 我は唯一絶対の神なるぞ……』
「はっ」メタトロンが
「「我らが唯一絶対神よ、我ら大天使の勝利をどうぞご覧下さい」」
あの光景、忘れる事など出来はしない。
帝都シャングリラ、竜の暴虐により壊滅。
『凶竜の禍』
帝都シャングリラ。
美しくも遥かな歴史の重みを感じさせ、凛然と存在していた、女帝陛下のお膝元。
誇り高き帝国の、雅やかな都。
徹底的な、その都の凌辱。
エンヴェルが難を逃れたのは、他でも無い、妻を亡くしてからふさぎ込んだ彼の父を心配した叔父が、拠点の商都ジュナイナ・ガルダイアに招待して歓待しようとし、それにエンヴェルも同行していた、それだけだったのだ。
彼の姉兄は三人死んだ。親族はもっとだ。彼の父はそれ以来、全ての歯止めを無くしたように、みるみる内におかしくなっていった。
破壊しつくされた建物、煙と火の手が上がっている、人々の悲痛な助けを求める声。
助けてくれ、俺の娘がこの下にいるんだ!
お願い、子供だけは、子供だけは!
何でこんな目に遭うんだ、俺達が一体何をした!?
エンヴェルは、友達を探した。帝都にいた、友達を必死に探した。
だが全て彼らの家は潰れて、燃えていた。
彼の叔父クセルクセスは部下が次々と運んでくる被害情報に形相を変えていた。帝都は、ほぼ、『壊滅した』と言って良いだろう。死者被害者の数さえまだ分からないのだ。帝宮のみが、かろうじて無事。
その原因は、竜の激突。
そう、いきなり狂って帝都を滅ぼそうとした弟ファーゾルトを止めるべく、兄ファフナーも竜に変身し、命尽きるまで必死に戦った、その結果がこれ。
兄を殺し帝都を蹂躙しつくしたファーゾルトは、どこかに飛び去ってしまった。
クセルクセスは臨時で枢密司主席となったジェラルディーンに向かって言った、
「……動機に心当たりはありますかな」
「全く。 全く、ありません」ファーゾルトの甥の彼にだって全く分からなかった。ファーゾルトが殺したと思われる者の中には、ファーゾルトの妻も、ファーゾルトが親馬鹿呼ばわりされるほど溺愛していた子供も、仲の良い友人もいたのだ。彼は凡庸な帝国貴族で、だが両手に余るほどの幸せに囲まれて暮らしていた。それらをある日いきなり全破壊した動機など、見当たるはずもない。
まずジェラルディーンは帝国各地の軍支部に向かって、次のように臨時勅令を出した。
『帝国の危機なり。 帝都復興まで、死を覚悟して防備に当たれ』
「叔父上」幼いエンヴェルが、無表情で、テントの中に入って来た。「みんな、お家、潰れて、燃えていました」
「……」クセルクセスはかける言葉が無かった。彼とて愛娘とその乳母と庶子が行方不明なのだ。そして今、帝都は四方八方が炎上していて、その火災を必死でジュナイナ・ガルダイアの軍隊が消し止めている。
「叔父上、お水、どこですか」エンヴェルは言った。
「水の余剰はありません。 帝宮御苑の池の水を今、特別に使わせていただいている所です」
「じゃあ、そのお水、使います」
遠くで地響きが起きた。何事だとクセルクセスは血相を変えた。この惨事に重ねて、何が起きると言うのだ!?
「大変です!」部下が、消火に当たっていた軍隊の一人が駈け込んで来た。「御苑の水が、まるで生き物のように動いて、火を消し止めました! 帝都全域に水は広がり、ほぼ火災は鎮火したものと――!」
「「……」」
クセルクセスもジェラルディーンもエンヴェルを見た。エンヴェルは、クセルクセスに必死にすがり付いて言う、
「ねえ、みんな、助けて下さい!」
ジュナイナ・ガルダイア海軍主動の徹夜の救助が始まった。怪我人の多さのあまりに、テントに入りきらず、露天に亡骸は転がさなければならないほどだった。弔う暇すら無かった。そしてジュナイナ・ガルダイアや帝国各地からの救援物資が届いた。ジェラルディーンが勅令を出したのだ。
『帝国存亡の危機につき、直ちに物資を帝都へ輸送せよ』
そして帝国各地から人手も来た。主に帝都に家族や親族、知人がいた人々であった。彼らは遺体を弔い、あるいは怪我人の手当てや救助に参加した。
そして数日後にようやく、被害の甚大さが数となって分かった。
帝都居住の貴族及び平民の九割が死亡あるいは重傷、残りの一割はまだ軽度な怪我人。無事な人間はいない。特に被害が甚大なのは帝宮周囲、帝都の首都機能の最も大事な行政及び軍事機構の密集地帯であった。
女帝陛下の住まう帝宮だけは護ろうとしたファフナーとの、滅ぼそうとしたファーゾルトとの激突の余波の結末であった。
クセルクセスの家族の行方も分かった。娘達は怪我で済んだが、乳母であった愛人は死んだ。だが彼には弔う時間も残された家族を思いやる余裕すら無かった。クセルクセスは救助隊の総指揮を不眠不休で執っていて、そして指揮を執るのが彼でなければ、大勢の人間が救助が間に合わず死んでいただろう。
そして、平穏に暮らしていた人々に、文字通り天から降り注いだ災難の、凄まじい恨みの矛先は、全てジェラルディーンに向かった。
『お前の叔父の所為で!』
『家族を返して!』
『お前が死ねば良かったんだ!』
ジェラルディーンは己の高貴さ、ただそれだけでこれに耐えた。
そしてやるべき事を全て成し遂げて、引退した。
彼の最晩年、エンヴェルを養子にもらった後、ジェラルディーンは一度だけ言った事がある、
「僕の叔父は、決して、あんな事をする人間ではありませんでした」
凶竜の禍から何年も経って、その原因が分かった。
大天使ミカエルの仕業。
エンヴェルは、決めている。
絶対に大天使ミカエルだけは許すまじと決意している。
彼から友達を奪い、親族や家族を奪い、そしてファーゾルトを乗っ取った大天使だけは、許してはならないのだ。
彼の耳には今でも聞こえている。
建物が燃えて崩れる音、悲鳴、断末魔、そして助けてと痛ましく叫ぶ声が!
エヴィドフ・ツォルネーギンは同性愛者だった。だが異常性癖であった。性行している間、相手を死ぬまで拷問するのが大好きなのだ。今までそれが大事にならなかったのは、哀れな被害者がもっぱら貧民街の男娼で、死体を捨てておいても警察も本気で捜査はしなかったからと、その性癖を抑えられるだけ抑えておいて、爆発させるまでの期間が長かったからである。
だが、今の彼は目をわずかに情欲にぎらつかせていた。
あれほどの美青年、今後現れるかどうかはかなり怪しい。
先日、聖教機構に亡命した、クリスタニア王国のうら若き政治家、ギー・ド・クロワズノワ。
その類まれなる、いや、人類史上にこれほどの麗人は彼以外存在しなかったとさえ思える天使のような美貌に、エヴィドフは抑えつけていた性癖が爆発しそうになるのを堪えられなかった。
幸い、現在のギー・ド・クロワズノワは、誰が保護したとしてもいつ自殺しかねないか分からないほどの酷い精神状態である。
無理も無い、国を追われ家族を殺され、平常でいられる方がおかしいのだ。
だったら俺が、とエヴィドフは邪に思った。殺してやろうじゃないか。
それで聖教機構幹部の彼は、表向きの名目はギー・ド・クロワズノワの慰安と保護のため、ギーが保護されているサンタ・ルチア教会に向かったのである。
教会は厳かに静かで、だが、ギーのすすり泣くような声が聖堂の奥から聞こえた。
「ギー君、失礼する」
そう言って聖堂の扉を開けた瞬間、にやついていたエヴィドフが凍り付いた。
彼の政敵、聖教機構名うての軍人『覇王』イザーク・ヴィルヘルム・ヴァレンシュタインが泣きじゃくるギーを抱きしめて、その背中をさすっていたのである。
イザークの眼が、エヴィドフの姿をみとめて、獣のように光った。一声で数万数十万の軍を指揮した、その声が放たれる。
「これはエヴィドフ。 生憎この若造は貴様のオモチャにするには勿体ないぞ?」
エヴィドフは必死に顔は取り繕ったが、手が震え出すので慌てて握りしめた。
「何の事でしょうかな、イザーク殿?」
「そのままの意味だ。 分からんのなら出て行け」
「……あ、貴方は、ギー君に何をするつもりなのですかな?」
「軍隊指揮官が志願兵を集って何が悪い。 この若造、オリエルの話が事実ならば、俺より余程優れた軍人だ」
決死の思いでエヴィドフは抗議した、それほど目の前の若者はむざむざ奪われるには惜しい甘美な果実であったのである。
「彼は政治家です、軍人なんぞに貶める気か!」
ふん、とイザークが鼻先でせせら笑った。
「拷問好きのエヴィドフ殿、俺に一体何を言う?」
完全に絶句したエヴィドフの脇を、ギーを抱きかかえるようにしてイザークは通り過ぎた。
「俺の軍の諜報部はとても優秀なのだよ」
この日の夜、エヴィドフは自殺した。
イザークはギーを自分の館に連れて行った。彼には息子が二人いた。息子らに彼は言った。
「面倒を見てやれ、そして回復したら軍隊に入れろ。 多分お前達よりは余程使える軍人になるだろうよ」
次男の方はこの言葉に激怒した。目の前のやつれきった青年は、長年軍隊で鍛えられた己と比べたら、青白いモヤシと同じだったのである。それで彼はギーを無視した。
対して長男のアマデウスは違った。彼は軍隊にいても、腰抜けの役立たずだ、あれでヴァレンシュタイン家の長男か、あのイザークの息子かと散々に言われて、周囲のそんな声に委縮しきっていたのである。彼は自分と似て精神的に弱り切っているギーに親近感を抱いた。
彼はギーに本当に良くした。己の服を分けて、食事から何から手配させた。
徐々にギーは回復して行き、アマデウスと親しくなった。
その頃から、であった。アマデウスはこの青年と付き合っている内に、背中がぞっと冷える体験をするようになった。それは、万が一この青年と彼が敵対した場合を考えると、発生するものであった。
単に頭が良い、勉強が出来る、と言うものでは無いのだ。まるで全てを見通されているかのような、鋭い観察眼。アマデウスの靴に付いたわずかな泥でアマデウスが今日どこに行ったのかを見抜いた。大胆で狡猾な行動力。だが露骨にそれを指摘するのではなく、あの地方は今日は冷えただろうとさり気なく口にする。美しい戯言と邪悪な真実を同時に物語れる舌で、軽妙で愉快な詭弁と心臓をえぐり取るような豪傑な演説を使い分ける。何故それをと問い詰めたアマデウスに涼しい顔で、「たまたま天気予報を見ただけだよ」と言ってのける。戦略的思考は恐ろしく的確で、そして敵の致命的箇所を秒内に見抜く。「それよりアマデウス、紅茶でも飲まないか、靴は後で磨けば良いぞ」と優雅に微笑む。寛大と残酷を共生させていて、残忍性に震えが来ると言うのに魅惑的でたまらない不可思議な人間性。「ああ、アマデウス、その茶葉はダメだ、異物が入っている。 混入させた召使いはイザーク卿に既に引き渡したよ。 ん? だってヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン家でこんな不祥事が起きたなどと、知られたくはないだろう?」
つまりは、単なる政治家にしておくも勿体ない、ただの学者でも物足りない、一介の軍人?論外だ、かくなる上は未来の国家組織の元首にするしかない、と人類最高にして最強の騎士達『一二勇将』が嬉々として育てていた青年、それがギー・ド・クロワズノワであった。
アマデウスは恐る恐る軍隊に入らないか、と声をかけた。意外にも、すぐに承諾の返事が返って来た。
そしてアマデウスは、オルトラキ・ヴァウの戦場で度肝を抜かれる経験をする。
ギーを指揮官たる彼の参謀にした所までは、まだ普通だった。
普通の、聖教機構と万魔殿の膠着しているどこにでもある戦線の一つだった。
してからが問題だった。
三日後に敵の戦線崩壊、聖教機構、局地的勝利獲得。
ギーは言った、今仕掛ければ波状に周囲の戦線も崩壊できるが、どうする?
アマデウスは頷いた。
この頃には、彼は心底この男を敵にしなくて良かったと思っていた。
そして、オルトラキ・ヴァウ地方は聖教機構の完全支配下に入った。
帰還したアマデウス達をイザークは笑って出迎えた、そしてアマデウスに言った、
「どうだ、俺の言った通りだっただろう」
アマデウスは頷いた。
そして、この体験がアマデウスを変えた。
ギーを敵に回す事に比べたら、己があれほど恐れていた周囲からの風聞ごとき、どうでも良いハエが煩かっただけだ、恐れるには全く値しないものだった、と悟ったのである。
イザークが推薦して、ギーは聖教機構の幹部候補となった。その後は凄まじい勢いでギーは出世し、権力を獲得していった。それには及ばなかったが、着実にアマデウスも戦績を挙げて、あれはイザークの息子で間違いない、次のヴィルヘルム・ヴァレンシュタインに相応しい、と言われるようになっていった。
そう言う訳で、若い頃からギーとアマデウスは盟友であった。
そのギーが酒を飲みながら、アマデウスに語った事がある。
「私はあの人達に生かされた。 だから、いつかは誰かを生かしてやりたいのだ」
実は聖教機構と万魔殿で恒久和平条約を締結したいのだ、とアマデウスに打ち明けた際の言葉であった。そんな事が、この数百年間激突していた組織に可能なのか、と思わずアマデウスは驚いた。いや、この男ならきっと不可能では無いのだろう。だが、
「仮に貴方がそれに成功したとしよう。 だが、貴方の死後はどうなるのだ」
この偉大な男がいなくなった途端に、人類は手の平をひっくり返したように戦争の世界に戻さんとするだろう。それをこの男が予期していないとは思えない。
「すぐに戦争世界に戻るだろう。 だが私は私の全生涯をもって示したいのだ、全人類に全世界に歴史上に、平和な世界の実現は不可能ではないと、俺とアイツが握手できる、そんな世界は確実にあると言う事を!」
「……」
何と言う男だ!アマデウスは震えが来るような感動に満ち溢れた。そうだ。いくら歴史上から抹消されようと後世に都合の良い様に改変されようと、あったものはあったのだ。出来たものは出来たのだ。やるべき事はやり遂げたのだ。ほんの僅かで良い。決して不可能ではないのだと、心に希望を灯すのだ。
「……何が貴方をそこまで……」思わず問うた答えが、先ほどの言葉であった。
雨が降っている。夢魔にうなされる夜の吐息のように降っている。絶望も希望もそこには無い。悲劇も喜劇も、善も悪も、夢も現も。ただ、全てが過ぎて行くだけである。
「
I・Cは、ぽつりと、言葉が零れ落ちるように言った。
『永遠性を表す言葉がこの世界では主に「時間」に関するものだからね』
青年が、彼の背後に立っている。I・Cは窓辺に寄りかかって、滴る夜空を見ていた。
「下らねえ。 時間的永遠性なんかそれこそ『夢』だって事を俺は知っている。 愛だって夢の狭間に消え失せる。 きっと俺のこの不老不死の肉体だって、この宇宙が滅びりゃいい加減滅びるだろうさ。 だのにお前らは永遠を説く。 愛の中に永遠があると信じている。 何でそんなまやかしをほざく?」
『刹那の
「海か。 水の根源、だな。 命の揺籃にして最高の致命毒」
『そう、君達は命の源に進化の果てに至ろうと願っている。 命の胎は等しく毒の杯だ。 それが物質の限界、君達の認識の限界。 だけどね、永遠であるものは完全であるがゆえに、進化も何も望まない。 過去も無ければ、今も未来も無い。 その完全ゆえに停滞した世界をソフィアが変えてしまった。 完全から不完全が誕生した、君にもこれの矛盾は分かるだろう? 完全なものは無かったんだ、最初から。 ただそれが物質だったか否かの認識しか無かったんだ。 でもこの物質的不完全世界、認識が限界の世界を、我らの父プロパトールはお許しになった。 それが
「……」
『だがその可能性は、時として悲劇や惨劇をもたらした。 特にこの世界の言語などは欠陥の塊だ、酷い時には可能性同士を激突させる。 ついには「神と呼ばれるもの」とその被創造物「人類」の激突まで、ね。 僕達救世主が来た理由は、その激突の緩衝材になる事だった。 僕の前に来たバルベーローは人類を滅亡から守って消えた。 愛は言葉を飛び越える。 時間も何も超越する。 君は一人じゃないと孤独を抱きしめる。 愛はバルベーローであり、そして僕ことソーテールだ。 僕らの本質は滅びると言う事が無い。 何故なら、愛の根幹は時間でどうにかなるものでは無いからだ。 愛の根幹は神性、この世界での認識の最高の頂。 僕らの世界とこの世界をつなげる扉の鍵。 ああ、愛と言うこの世界の言語が良くない。 君を少し誤解させてしまった。 けれど類似語に中々良いものも無いのが実情でね』
「だったら黙れよ。 今の俺は憂鬱なんだ」
『明日、彼女が目にするであろうものを考えて、だろう?』
「……」
『それは君の考えだ。 君は、やや独善的に考えている』
「じゃあどうしろってんだよ!」I・Cは振り返って怒鳴った。「偽神の『可能性』を叩き潰す事にヘレナが傷つかないとでも思うのか!」
青年は、悲しそうに言った。
『君はその理由で、彼女を盲目にしてしまえば安心だと思っているのだろう。 だが、彼女は優しい腕で抱きしめる。 全てを、抱擁する。 死すら彼女の愛なのだよ』
「……俺は」
青年は首を横に振った。
『君は、これ以上彼女に甘えるべきでは無い』
「!」
『彼女は優しさゆえに今まで君の甘えを全て受け止めて来た。 君はそしてその甘えを愛情だと錯覚している。 魔王、目を覚ませ、そして彼女をも愛せ』
マグダレニャンは目の前の重力車を見つめている。父が作って、彼女も一緒に乗った、楽しい思い出ばかりが詰まった車である。I・Cやランドルフも一度だけ護衛のためにこの車に乗った事があるのだが、『もう一度これに乗せられるくらいなら異端審問弾劾裁判で死刑にして下さいお願いします』と降りた途端に土下座して、結局二度と近づこうとさえしなかった。ノンブレーキのフルアクセルで音速に限りなく近い速さで道路を突っ走っただけなのに何と言う虚弱な精神だ、それでも精鋭の特務員なのか、と父が呆れかえったのにマグダレニャンも心底同意した思い出がある。
マグダレニャンは運転席に座ってみた。助手席からこの席に座っていた父を見つめていた、懐かしい過去が思い出される。
あの恋しい横顔をこれ以上穢させないために。
彼女の中で決意が鋭い刃となった。
私の意志で貴方を殺しますわ。
彼女は車を降りた。
車庫の出口に、ヨハンが立っていた。
「あらヨハン、こんな夜中にどうしましたの?」
「君こそ、妊娠中なのに無理をしたらいけないよ。 ……実を言うと第一次奇襲作戦がもうすぐ開始される。 それに伴い、遊撃精鋭部隊の招集がかかったんだ」
「!」
「僕も往く。 イリヤもだ。 僕らの攻撃目標はサンダルフォン。 だから、一言、君に謝ろうと思って」
君の父親と戦うしか無い事を、謝りたい。それを察したマグダレニャンはヨハンに駆け寄って、
「……死んだら許しませんわよ。 私は既に覚悟しています。 ですが貴方達が死んだら、絶対に許しませんわ!」
一瞬驚いた顔をしたヨハンだったが、すぐに、しっかりとマグダレニャンの手を握って、頷いた。
それはとても奇妙な光景であった。大天使達に因縁のある者やえりすぐりの強者を世界中から勢力を問わずにかき集めた所為だった。
普段ならばこの面々の内部で激闘が起きてもおかしくないのだが、今は非常時だったので、それは辛うじて抑えられていた。
「うわあ、睨みあうのは止めて!」ニナが思わず間に割って入った。アズチェーナはその背後でもう完全に縮み上がっている。「ジャンヌさんとベルトラン、眼が怖いよ! 本気で睨みあわないで!」
だがベルトランは、
「この魔女に僕は……!」
一方ジャンヌも、眼を赤く光らせて、
「いつだって焼き殺してやる」
『諦めろ、娘。 この二人を仲良しにしようなどと気苦労が溜まるだけだ』
「うん……」
悪魔のアスモデウスに慰められるニナだった。
『おう、ワシのひ孫! ワシのひ孫だけあって自慢のひ孫だ!』
対偽神軍総司令官オリエルがヨハンを見つけて、意気揚々と声をかけた。
「無神経で厚顔無恥で有名な人にいきなりひ孫とか自慢だとか言われても全く嬉しくないです」
だがヨハンは一撃でオリエルを沈めた。落ち込んでいるオリエルは、『中々言う小僧だ、見どころがある』と思ったグレゴワールに引きずられて行った。
「良いか、オットー」ロットバルドが無感情なオットーに、いつになく冷たい声をかけた。「ためらったら全てが台無しだ。 くどいようだが、分かっているな?」
「……ああ」オットーの乾ききっているのに妙に熱っぽい眼に、一瞬だけ何かの色がよぎった。
「よし、ならば良い」
「大将」エンヴェルの部下の一人が、こっそりと耳打ちした。「例のものですが、完成しました。 使われますか?」
「使う」とエンヴェルが答えた。
「……死ぬなよ」セルゲイが小声で言った。
「寂しん坊のお前を一人ぼっちには出来んぞ」
エンヴェルはセルゲイの背中を叩いた。
「……うるせえ」
『レット、大丈夫?』
「大丈夫、現在異常なしさ、エステバン」
『我ながら張り切って色々と機能を詰め込んじゃったけれど、使いこなせる?』
「どうだろうなあ。 元々僕は戦闘職じゃなかったしねえ。 ただ、僕は安易に死ねないからね。 安易に死んだらジョニーがどうなるか。 散々説教されたから、もう懲り懲りなんだ。 だから、必死に足掻いてみるよ」
『シャマイムの戦闘経験、入れようか?』
「自己犠牲は僕の性分じゃないよ」
『そりゃそうだ』
「じゃ、そろそろ時間みたいだ。 またね、エステバン」
『うん、またね、レット』
「ランドルフさん」その女は、漆黒の剣を手に不思議そうな、やや少女じみた顔をする。「どうか、しましたか?」
ランドルフは少しの間何も言わなかったが、すぐに苦笑して言った。
「イザベル、いや、何でも無いんだ。 どうも私は緊張しているようだ」
「それは……そうでしょうね。 大天使達が相手なのですから」
「そうだ。 君の方こそ大丈夫かい?」
「ええ。 少し怖いですが、すぐに消えるでしょう」
「無理はしない方が良いよ」
とランドルフは優しく言ってから、顔を壁の方に向けて、一度だけ、ぎい、と歯を噛んだ。だがそれも刹那、すぐに元の温和な紳士の顔に戻る。
『で、アルトゥール、その輪っかがさっき言っていたアレか?』
落胆から回復したオリエルが、同類を見て、言った。同類アルトゥールはフラフープのような、大きな輪っかを掴んで興奮のあまりに飛び跳ねている。
『その通りだオリエル! これが
『まーた爆発するのか、どかーんと』
『するか! いいか、この天才アルトゥール様がこれの説明をしてやる! これはな、物質の長距離転送を可能とする装置だ! 万魔殿から引ったくった……ゲフンゲフン、万魔殿から借りた遺物「アリアドネの糸」を改造した発明品だ。 元のアリアドネの糸は付着した物質を安全に近距離転移する遺物だった。 だがこの天才にかかればこの通り、この輪をくぐった者は安全に遠距離を行き来できる! まあ現時点での問題は、転移点が二つしか指定できん所だがな!』
『つまり、一度使ったら、出口と入口が固定されてしまう、と』グレゴワールが険しい顔をした。『それは重大な問題だ。 大天使達には聖槍がある。 あれで出口の方を破壊されれば、その破壊力は同時にこちらの入口をも破壊するだろう。 当然、周辺に甚大な被害をもたらしつつ、だ。 だが聖骸布を展開する訳にも行かない。 こちらも戦えなくなってしまう。 どうするのだ?』
『精兵を送り込み次第、閉じるしか無いだろう』とアルトゥールは平然と言ってのけた。
『!』グレゴワールが瞬時に憤怒の形相を浮かべ、だが彼が怒鳴る前にオリエルが言った。
『アルトゥール、お前な、ワシの鉄則を忘れたとは言わせんぞ。 「軍紀違反者以外は何があっても助ける」、送り込んだ精兵が増援無きがゆえに全滅したらどうするのだ』
『うーむ……』アルトゥールはようやく困った顔をする。
そこに、名乗り出た者がいた。
「僕が門番をやる」
ヨハンだった。オリエルがワシのひ孫と言う前に彼は振り返って、
「イリヤ、聖王の攻撃は僕が食い止めるから、聖王を頼む」
「……勝算は?」イリヤはいつになく静かに訊ねた。
「彼が言っていた。 あの時に、彼が」ヨハンは答える。
……「『聖槍』のさー、あの破壊力の源って何なの?」青髪の男が、ヨハンやイリヤと遊びつつ、何気なく言った。「お前、ランドルフあんま虐めんなよ。 可哀相だろうが。 また入院させやがって……」
「精神力としか答えようが無いな。 破壊すると言う思念が凝縮されて発射され、そして実際に破壊する。 あれの唯一の盾となる『聖骸布』だが、あれは一切合財の攻撃を無力化する。 だから、俺の破壊思念も消されてしまうのだろうな。 後」聖王は目を吊り上げて、「あの馬鹿は私の可愛いマグダにまた色目を使ったんだ!」
「使うも何もお前の娘はまだ二歳じゃねえか! どこに色目を使うんだよ!」
「まだ二歳とは何だ、まだ二歳だと! もう二歳なんだぞ! 本当に可愛いんだ! 私の小さな天使なんだ! そのマグダに色目を使ったんだぞあの馬鹿は! 殺さなかっただけ、まだ慈悲があったと思え!」
「超弩級のアホだ……お前、親馬鹿の極みだな……娘が絡むと途端に馬鹿になっちまう……将来世界最悪のモンペになっている姿が克明に見えるぜ……」
「モンスターペアレントが何だ! 私のマグダを虐めたヤツは殺すだけだ」
「……駄目だこれは。 俺でもどうにもならん……こんなつもりじゃ無かったんだ、ごめんな、ランドルフよ……」
「そうか、オリハルコンは人の精神に呼応する。 唯一の盾になれるかも知れない、という事か」イリヤはそう言って、頷いた。
「ああ。 僕は、やる」ヨハンも頷き返して、「それで良いですか?」とオリエル達に確かめた。
『おう!』
ご機嫌なオリエルと、やや安どした顔のグレゴワールがそれを認めたのは、明白であった。
『排出支点の固定化開始……座標特定完了。 ロトのバベル・タワー間近に空いたぞ!』アルトゥールはそう言って穴から離れた。『さあ往け!』
「ああ、行くぜ、シャマイム!」I・Cがその穴に一番に飲み込まれた。
穴が向こう側の景色を映し出した。実際には何の建築資材で構築されたのかも分からぬ巨大な黄金の塔が、夜のさなかに異様に輝きつつ、そびえ立っていた。
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