第39話 【ACT三】鉄仮面

 最初の記憶ははっきりとしている。何せ子供だった私の上で男が腰を振っていたのだ。思い出す都度、吐き気がして、私は酷い頭痛に今でも悩まされる。私は男のオモチャだった。気まぐれに遊ばれ、気まぐれに虐待された。そう言う不運な子供は一人では無かった。その館の地下室には私のような子供の死体が剥製にされて無数に飾られていたからだった。この間の記憶は、はっきりしない。思い出すと私が壊れてしまう、と言う防衛本能からだろうか、ぼやけている。唯一覚えている事は、痛かった事、苦しかった事、止めて欲しかった事、涙すら出てこない辛さ……とにかく苦痛と負の感情だ。私には最初の記憶以前の記憶は、無い。後で知ったのだが、薬物で記憶が消されてしまったらしい。

 だが、幸い私は剥製にされる前に救われた。あの夜、忘れもしない、月が綺麗な夜だった、私の上でいつものように男が腰を振っていたら、窓ガラスが蹴り破られて、見た事も無い青い男が大剣を振りかざして強襲してきたのだから。

ほぼ同時に、玄関の方から、銃声と怒鳴り声が聞こえてきた。

男は私を人質にして、何か言った。命を助けろとか見逃せとか、そんな事を。

だが青い男はちょっと考えてから、こう言った――「えーと、何だ、こう言う時は何て言うんだ? ああ、そうだ、思い出した!

 死ね」

次の瞬間、青い男が私の目の前に現れて、同時に男の首が刎ねられていた。私は青い男に抱きしめられていた。そして、頭を撫でられて、こう言われた――。

「よく我慢したなあ、でも、もう我慢しなくて良いんだぜ」

私は、とにかく怖くて震えていた。そこに、ドアを蹴破って、紳士の見本のような男が登場する。そして、不満そうに言った、

「何だカール、殺してしまったのか」

「あ、ごめん。 でもシラノ、お前が俺でもあれは殺していたぜ?」

「じわじわとなぶり殺しで、な。 ……地下室に今まで孤児院から金で買収した子供の『残骸』がいくつもあった。 その子も、間に合わなかったら――」

「そうか。 とにかく、俺はこの子を病院に連れて行くよ」

「ああ。 後始末は私に任せておけ」


 病院で、私は、眠った。けれど酷い悪夢を見て、何度も起きた。

けれど、その都度、側に、あの青い男がいて、水を飲ませてくれて、頭を撫でてくれた。そして、私の骨ばった青白い手を握ってくれた。すると、私は悪夢を見ずに眠る事が出来た――。

あの手の温もりは、酷く優しくて、何の代償も求めていなくて、包み込まれるような記憶になって、今でも私の手の中にある。

 それから一〇数年が過ぎて、私は大学を卒業し、奨学金を返済する代わりに、万魔殿の幹部候補生としての道を選んだ。実質は、金の問題では無かった。万魔殿の幹部に、あの青い男がいると、そしてその男は『大帝』と呼ばれるほど名高い男である事も、その時の私は知っていたからだ。

 私は、よく、人から、怖い、と言われていた。何を考えているのか分からないのに、こちらの考えは全て見通しているから、怖い、と言われていた。私が賭博人だったら、さぞ大儲けできただろう。でも、私は、単に、どうやって己の感情を表現したら良いのか、知らなかったし分からなかっただけなのだ。

 怖かったのだ。怖かったのは私だったのだ。己の感情を表現する事で、人からどう扱われるのか、どんな反応が来るのか、分からなかったから、怖かった。かつて私が泣き叫んだ時は、狂った喜悦の笑みが待っていた。だから、私は。

 私は順調に出世して行った。その内に私は、大帝の『歪み』に気付いた。それは誰もが知っていたが、あえて沈黙していた『歪み』であった。

大帝は結婚していた。だが、その妻オディールとの仲は、最悪と言っても過言では無かったのだ。大帝はオディールを徹底的に無視していた。オディールが何をどうしようが、無視を貫いていた。どうも大帝には他に好きな女性がいたらしい、だが彼女を殺してまでオディールは大帝を得ようとした。だが、大帝の心までは得られなかった。当然だろう。殺されてしまった事で彼女との全ては大帝の中で美化され昇華される事はあっても、オディール以下には絶対にならない。むしろ大帝はオディールを憎むだろう。いや、憎しみすら彼は通り越して無視しているのだ。

私は、あの温かい手が、この歪みに耐えていたからだと知って、苦しくなった。聖教機構の教えでは、人は誰しも己の十字架を背負って歩かねばならないと言う。彼は、だとしたら、何と重たい十字架を背負わされているのか。

 そこで私は、何故私が彼のためにここまで考えているのか、自覚して、はっとした。

冗談、ではない。いっそ気の迷いであって欲しかった。だが、この感情は、そう、あの悪夢のない安らかな眠りから、ずっと――。

私は、その感情を反射的に刺殺した。

この感情を行動にしたならば不倫、不義であるし、何より人として許されるはずのない感情だ。彼だって望まないであろう、この私の感情を、私は完全に邪魔だと判断した。だから、私は、この感情をこの手で殺した。

 私は順調に出世した。異例の出世だ、と人に言われるほどであった。私は、得意だった。人を操作する事にかけては、世界一だったのではないか、それくらいに得意だった。その背後に、人の感情が、人そのものが怖い、と言う思いがある事に気付いていながらも、私は人を操作し続けた。

忘れもしない、二七歳の春。私はついに万魔殿の幹部の一人になった。

そして私は、彼と直に顔を合わせるようになる。

『大帝』

やはり、不思議な男だった。美形では無いのに恐ろしく魅力的で、言う事やる事に絶対的な指導力と説得力があった。私も彼に魅惑されて行ったが、それは誰もがそうだと思っていた。殺したはずのあの感情を、この頃には私は忘れていた。大帝は私を信じてくれた。私と私の実力と私の出す結果を信じてくれた。

私は、怖くなった。この男に嫌われ、信じられなくなる事が怖くなった。私はいつものように、いつも人を操作するように、大帝を操作しようとした。いつまでも私を信じていて欲しい、嫌わないで欲しい、この願いを叶えるために。

途中までは順調だった。大帝ですら、私の手の平の上で踊っているかに見えた。私は必死だった。このまま、どうか、踊っていて下さい。私を、絶対に、捨てないで下さい。

けれど、ある日、それは一瞬で瓦解した。大帝が私と二人きりの時に言ったのだ、

「なあ、俺をこんな操り人形にしてお前は楽しいのか?」

私は真っ青になった。気付かれた。気付かれたからには、捨てられる。私は猛烈な恐怖に襲われた。私は、この手で刺して殺したはずのあの感情から別の感情が芽生えてしまって、見事に育ってしまっていた事にやっと気付いた。

大帝への依存心。

あるいは、大帝への未練、と言い換えても良いのかも知れない。

私は要するに、まだ、大帝の事を――!

「                」

言葉は出なかった。なのに、目が急に熱くなって、私は十数年ぶりに声も無く泣いていた。楽しい訳が無い。だって、怖かったのだから。この人に捨てられる事が、何よりも怖かったのだから。楽しくなど無かった。いつも不安と恐怖と、罪悪感だけがあった。それでも私の依存心は、まるで麻薬に溺れた者のようにこの人を求め続けた。たったそれだけだ。

「そうか。 お前、俺の事、好きだったんだな」

止めて下さい殺して下さい一思いにここで、今ここで私を殺して下さい!

「泣くなよ。 お前は、悲しくて、寂しくて、辛かったんだな。 お前さ、感情を表に出さないから、ちっとも分からなかったよ」

お願いしますお願いしますどんな処刑方法でも構いません即刻私を殺して下さい!

「俺なあ、モニカを殺されちゃったんだ。 アイツ以上に愛せる女なんていないよ。 でもさ、その代替品としてならきっとお前を愛せるんじゃないかと思う」

駄目ですそれは駄目なんです、駄目だとずっと、私は、私が!

「良いんだよ」抱きしめられた瞬間、私は、今まで鉄仮面を被っていた私は、崩壊した。「俺だって誰かを愛したいんだ」


 こんな激痛を伴う幸せがあるなんて、知らなかった。

私は激痛に呆然としつつ、その事に驚いていた。

世界は鮮やかに美しく、そして残酷で、無慈悲な運命は私達を時としてとんでもない方向へと突き動かす。

心臓が痛い。このまま息絶えてしまいそうなほど痛い。なのに、私は、幸せ、なのだ。紛れも無い、純然とした。

「なあ」と彼は私を抱きしめてくれた。それ以上の事が私には出来なかった。やろうとすると、あの忌まわしい悪夢が襲ってきて、私が半狂乱に陥るからだった。でも、彼は、強要する事も無く、ありのままの私を受け入れてくれて、ありのままの依存心を受け止めてくれて、その癖、私と彼の間には適度な、心地よい距離があるのだった。「お前は、今、幸せか?」

幸せです、息絶えそうなくらいに。このまま死にたいと祈るくらいに。

私は頷いて、彼の腕の中で眠った。悪夢は一度も見なかった。

 私達の関係に一番に気付いたのは、オディールだった。私は半狂乱の彼女に殺されかけた。無理も無いのだろう、どうしてでも得たい男が、また別の誰かを愛してしまったのだから。私は大怪我を負った。それで彼と私の関係は、周知のものとなってしまった。私は軽蔑されて、オディールは同情された。

この時、私は気付いた。この立場が非常に便利である事を。彼以外の全人類に嫌われている方が、私は仕事がやりやすいのだ。私の仕事は、誰もがやりたがらない、だが組織を維持していくには必要不可欠なものであって、ただ、彼が私を信じていてくれなければとても務まらないものだったから。私は私の鉄仮面がいよいよ堅牢になっていくのを感じた。この鉄仮面を取るのは彼の前だけで、後は徹底して被り続けた。私はもはやそれに恐怖を感じていなかった。彼の腕の中で眠る、この日々が、そして彼の栄達の道が、私の名誉の犠牲の上に成り立っているのならば、それは何と幸せな犠牲なのだろうか。仮に恐怖があるのならば、幸せすぎて怖い、くらいなものだった。優しい彼は嫌がって、私の名誉の犠牲をどうにかしようとした。私は言った、心底幸せを感じつつ、言った――、

「貴方だけが私を分かってくれている。 貴方だけが私を知ってくれている。 これ以上の幸せを求めたら、傲慢と言うものです」

「けれど、」

「私の鉄仮面を外せるのは貴方だけだ。 外して良いのは貴方だけだ。 私の鉄仮面は喜んで敵意を浴び、憎悪の対象になる。 その一方で貴方は燦然と輝く。 鉄仮面を被る私は今、心底から幸せなんですよ」

 オディールに私が殺されかける事、実に五回目。彼は、流石に限界に達したらしく、オディールをどうにかしようとした。私がオディールを『操作』すれば私を殺させるのを止める事など容易だったが、彼女が可哀相で出来なかった。彼女は哀れだ。私は傲慢に、その傲慢さの自覚はあったが、そう思っていた。万が一私が殺されたとして、それはそれで私の幸福が完璧で完全なものになるだけなのだ――彼の中で私は『彼女』のように美化され、昇華されていく。彼の中で愛される事が永遠に確定した瞬間、私は運命の勝利者になれるのだ。

 だが、彼はそうは思わなかったらしい。

「生きてさえいてくれれば、なあ……生きていてさえくれれば……」

彼はオディールを妊娠させた。人工授精だった。オディールは満ち足りた顔で、私を見下した目で見た。私の隣から彼は去り、オディールの所へ帰ったに見えた。でも私にはよく分かっていた。彼は中途半端に優しいのだと言う事を。

案の定、彼女の優位性は、半年も持たなかった。胎児が無事に産まれてくる事が確定した瞬間、彼はオディールへの興味の一切をまた失ったのだ。要は彼はオディールではなくて、何の罪も無い胎児が気になっていたのだ。

オディールは絶望した。絶望して、彼の子供を産んだ後に、ほとんど自殺に近い形で、死んだ。私への風当たりは、露骨なものになった。

当然だろうと分かっていた。むしろ有難いくらいだった。私の鉄仮面は既に完成していた。誰に何を言われそしられ嫌われ忌まれても、平然と、こう言い返せるほどに――「それで結局貴方が言いたい事は私が嫌いだと言う事なのでしょう? 私はそんな些事よりも仕事の話がしたいのですが」

 私は彼の子供にも嫌われようとした。いずれこの子が大人になって全ての事情を知った時、ためらわないように。むしろ喜んで母親を奪った相手に復讐するように。復讐は何も生まないが、復讐をしなければ終わらない事もあるのだ。

 そんな中、だった。彼が長年の目的のために帝国に赴く事になった。帝国商都ジュナイナ・ガルダイアに彼が着いた日の、彼にしてみれば夜の事だった。半泣きの通信がやって来て、私は彼が何か失敗したのかと驚いたのだが――。

『クセルクセスさんが、良い人過ぎてさあ、女まで手配してくれちゃったんだよ』

「でしたらその女性と性行為を持って下さい」

『少しはためらってから言え!』

「ためらうも何も、クセルクセスの機嫌を損ねたら貴方の夢が失敗に終わる可能性が高いのです。 私は全部分かっていますし、知っていますから、どうか性行為を持って下さい。 クセルクセスが手配するような女性ですから、失態などは起きないでしょう。 ですから、さっさと」

『バカッ! 馬鹿! 馬鹿野郎! 俺は、あのなあ!』

「ああ、手順を知らないのでしたら、ええと、まずは陰茎を勃起させて下さい。 女性の方からして下さるでしょう。 いえ、案外、貴方に主導権を握らせるかも知れない。 次は女性の膣に、」

『いい加減にしろ!』

「いい加減にするのは貴方ですよ。 私は貴方に夢を叶えて欲しい。 そのためにここまで万魔殿一の悪役を演じて来たのです。 私の苦労も貴方の夢も全て、たかが一夜の性行為の有無で台無しにしたいのですか」

『でも……』

「私は貴方がこうやって私のために、ためらって下さった事が心底嬉しい。 私の素直な感情は、それだけですよ」

『……けど……』

「さあ、早く。 ぐずぐずしていると、怪しまれます」

『……うう……』

「何が『うう』ですか、全く、さっさとして下さい。 私は今、貴方が早くしないので少し苛立っているくらいなんですよ」

『……うん』

私はその夜、一人で寝て、けれど、誰にも知られないように、こっそりと笑った。私に彼を操作するつもりは微塵も無かったのに、結果として彼の意に沿わぬ方へ『操縦』してしまったのだ!

 この時。

 この時、もしも私が、『女』の正体を知っていたならば。

 ……不可能だったとは知っているが、連鎖悲劇は、絶対に食い止めただろう。


 大帝がある日、彼の夢のために、私をとある男と極秘に引き合わせた。私は、覚悟はしていたが、この事実が明るみになったならば、今の世界は根幹から崩壊する、とさえ思った。

「うん、コイツが俺の懐刀ジュワユーズ」と男に私を紹介してから、彼は、「ところでギー、そっちの腐った目をしているのって、もしかして……魔王さん?」

万魔殿の宿敵である聖教機構の、最高指導者『聖王』ギー・ド・クロワズノワに随行していた薄汚い男は、よどんだ目を丸くして、

「あの時とは姿形も激変したってのに、良く分かったなあ……。 そうだよ、俺があの時の魔王だ」

彼は言う、「いや、何か気配がさ、何か、独特って言うの? だって魔王さん、もう数千年は生きているだろう? 何か普通の魔族とは違うなあって。 で、ギー、状況はどんな感じだ?」

聖王は答えて、

「もうしばらく、と言った状況だな、チャーリー。 今、私の大きな反対勢力となるであろう存在の弱みを握ったり、懐柔したりしている所だ」

「そっかー、こっちは姉貴達の説得にやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと成功した。 これでこっちはほとんど大丈夫だよ。 俺が頭上がんないのって、姉貴達だけだったし」

「そうか、では、そろそろ調印場所を正式に決めた方が良いな」

聖王と彼は、旧知の仲だったのだろう、親しいと言うよりも、馴れ馴れしい言葉の応報で、私には察しがついた。

「帝国は、この事は絶対に黙っているけれど、絶対にウチじゃ駄目だって言われたしなあ。 ヴァナヘイムはどう?」

「ヴァナヘイムか……あそこは今、総代が代わったばかりで、しかもまだその総代は幼い双子だと言う。 この機密をその時まで守秘してくれるか、不安だ」

「ああ、そっか……。 一度権力交代が起きると、落ち着くまではアレだもんなあ……とすると……」

「ウトガルドしかないな」

「ウトガルドか……ウトガルドはウトガルドで、後継者問題があるみたいだぜ? 何でも今の王の子が死産だったとかでさ……」

「それでも、王が急死でもしない限り、しばらくは安定しているだろう」

「そりゃそうだな」

「では、公開はいつにする?」

「そっちが片付き次第いつでも。 ……なあ、ギー、お前さ、世界が平和になったら、何をする?」

即答で断言が飛んできた。

「私の世界一可愛いマグダとドライブに行く以外の何をしろと?」

魔王がぼそりと、「娘とドライブ? 暴走親子ジェットコースターの間違いだろ」と言った。聖王は彼を睨みつけた。

「黙れ。 私はとっとと引退してマグダと一緒にあちこちドライブに行きたい。 今まで私の仕事で散々寂しい思いをさせたからな……チャーリー、お前は?」

「んー、秘密。 でも、ちょっとお前のと似ているかな? 俺も、好きなヤツと、ゆっくりするよ」

そして、彼は、毒気の無い、あの無邪気な笑みを浮かべた。


 彼の息子は、どうしてか、私を嫌い、憎まなかった。むしろ私は、懐かれた。私は辛辣に彼に接しているのに、何故。操作方法はこれで良いはずなのに。

その原因を知った時、私はしまったと心底から後悔した。私は致命的に操作を間違えたのだ!

彼の息子は、母親を亡くし父親に育児放棄された可哀相な可愛い子と、誰彼からも溺愛され過ぎて、逆に私みたいなずけずけと毒舌を吐く方がうっとうしくない、のだ。

かと言って私の鉄仮面は、彼を溺愛する真似事をするには重たすぎた。

嫌われるはずが好かれてしまった。私は困った。大帝以外の誰かから好かれるなんて経験が無くて、どうしたものか、本当に分からなかったのだ。

「貴方はいつだって毒舌だ。 辛辣な事しか言わない。 でも、嘘も絶対に言わない」

そう言って、彼の息子は、私の後ろを、まるで鳥のヒナのように付いて回るのだ。

「私は君の父親と不倫関係にあって、そのために君の母親は自殺に近い形で死んだ。 その私を嫌わないとは君は親不孝者で倫理も理解できない子供だな」

ここまで露悪に言ったのに、彼の息子ときたら、

「記憶にすら無い母親よりも無視ばかりする父親よりも、誰彼からも嫌われつつも仕事だけはきっちりやって、万魔殿を陰から支えていると言っても過言じゃない貴方。 どいつもこいつも俺を可哀相だからと甘やかす中でたった一人事実と真実を言う貴方。 あんな無責任で馬鹿な連中よりも、絶対に嘘を言わない貴方の方が余程信頼できますからね」

「……」

畜生、可愛げのないガキだ!また、私は、怖くなってしまったじゃないか!

……だが、この少年に意図的に好かれようと操作する事など、厚かましくてとても私には出来なかった。

「なあ」と大帝がその事を暗に言い出した時、だから私はぎくりとした。「お前さ、オットーに好かれているだろ」

「……嫌われようと善処しましたが、何故か、向こうはこちらを、」

柄にも無く私は言い訳を並べ立てかけた。

「お前もオットーが可愛いんだろう?」

図星、だった。私は、彼の思いもかけぬ鋭さに、息が詰まった。

「良いんだ。 お前さ、俺の代わりにさ、アイツを育ててやってくれよ。 俺はアイツに関われない。 関わったら、いつの日か、憎む日がやって来る。 アイツの半分は俺で、でも残りの半分はオディールの遺伝子が入っている。 子供なんて親の遺伝子なんか無視して育つなんて事は知っているけれど、でも俺は割り切る事が今でも出来ていない。 だからさ、お前が育ててやってくれ」

「貴方は、」まだ『彼女』の事が好きなのですね、愛しているのですね。

私は彼の十字架の重みに、泣きそうになった。せめて私も一緒に支えられたら良いのに、彼は一人で、独りで、一生背負っていく事を決断しているのだ。

「頼んだよ」そう言って、彼は、私を抱きしめた。


 世界中が仰天した。この数百年間、絶えぬ世界戦争を繰り広げていた聖教機構と万魔殿が、ついに恒久和平条約を締結すると発表したからだ。

彼は、そして、そのためにウトガルド島の離島へ向かった。本来ならば私も行くはずだったのだが、オットーのためと、万魔殿内の統制のために残った。

間もなく彼の夢が叶う。私は、それが嬉しかった。

『俺も、好きなヤツと、ゆっくりするよ』

彼の事だ。夢が叶った後は、魔族の長い人生を、好きなように生きるだろう。もしかしたら、と私は思う。魔族の生は人間よりも長い。もしかしたら、数十年かけて、彼は己の息子を愛せるようになるかも知れない。生きていれば、と彼は言った。そうだ、生きている限り可能性はある。何にせよ、これからだ。私は、そう思っていた。


 『BB事件』


 全てが暗転した。聖王も大帝もその取り巻きの誰もが調印場所で行方不明となり、彼らの恒久和平条約はご破算になった。その直後に万魔殿に現れたジュリアス・エノクと言う謎の男が、元々私達に反対していた勢力を一気に統括し、私の、そして『彼女達』の反対組織となって、同時期に聖教機構に登場したシーザー・エリヤと言う男が率いる聖王の反対勢力と激しく争い、すぐさま第一一九次世界大戦を勃発させたのだ。

私は、必死にジュリアスを操ろうとした。醜い政権闘争を起こしてまで、この危険すぎる男を万魔殿から追放しようとした。この男は、私と『彼女達』の敵対者だったし、何よりその行動理念が不可解で、得体が知れない癖に、恐ろしいまでのカリスマ性があって――一気に勢力を拡大させたのだ。

私は、彼の死を、認識できず、そして、その時の私には彼がいなくなった事を悲しむ余裕すら無かった。全力で戦わねばこちらが崖っぷちから突き落とされる、ジュリアスはそれほどの危険分子だった。だが、皮肉な事に、この危険分子が私の名誉を挽回させた。ジュリアスと必死で戦い、その一方で彼の夢を捨てきれない私は、『彼女達』から認められて、そしてその認知は盟友の間にも広がって行ったのだ。彼の夢を捨てたら、彼は本当に私の側からいなくなってしまう。私はそれを知っていた。否。彼の夢の残骸を必死に取り戻そうとしていなければ、私は気が狂ってしまう。幸い、私の鉄仮面は、その弱さをも、良い具合に隠してくれた。だが、人が分厚い鎧で身構えるのは、背後にある恐怖からなのだ。

「どうやら君は……」シラノが、今までは蔑んだ目で私を見ていたのだが、ふと違った目で私を見、そして言った。「私が思っていたよりはまともな人間らしいな」

「まともも何も、私はただ彼の残した仕事をやっているだけですが」

「ジュリアスよりはと言う事だよ。 あの男は確実に狂っている。 聞いただろう、まだ七歳の児童に聖教機構幹部相手の自爆テロをやらせたと言うのは」

「……」

聞いていた。第一一九次大戦が勃発した要因の一つだったからだ。

「アッシャーもマルクスもエウジェニアもアルセナールも私と同意見だ、とだけ今は伝えておこう」

そう言って、シラノは、去って行った。


 私は貴方の事を愛していました。

貴方は優しくて、私の狂った依存心を受け止めてくれて、かつ、私と貴方が共依存にならないよう、支えてくれた。

貴方のために私の全てが奪われ失われるとしても、それは私の喜びでしかなかった。

貴方が言っていた言葉の意味が、やっと分かりました。この世で貴方以上に愛せる人などもはや存在しない。その言葉の意味、背負う十字架の重さ、悲しみが、やっと私にも分かりました。

貴方が側にいた、私が側にいられた、それだけで恐ろしいまでに満たされていた。

あの幸福から、貴方を喪って十数年が過ぎました。

太陽が無いために月も輝かない、その暗黒の夜が幾夜も続きました。

その挙句に、ようやく、貴方が生きていて、けれど、それはもはや望まぬ生である事が知れました。

私は、本来ならば貴方を生かしたい。

ありとあらゆる非道な手段を使い、全ての人倫を破滅させてでも貴方を生かしたい。

でも、貴方が、貴方の夢のために、そして私が愛した貴方として死ぬためには、私の命令で殺すよう言わねばならないのです。

いえ、かつて私が貴方との和解を夢見た貴方の息子が、今や貴方を殺さんとしている。

彼は貴方に復讐し、貴方を殺さねばもはや生きていく事が出来ない。

復讐は何も生み出しません。けれど、復讐しなければ終わらない事もある。

更なる悲劇を私が、私達が食い止められなかったばかりに、悲劇は連鎖したのです。

この世界に神がいるならば、それは間違いなく残酷な神なのでしょう。

 ――ただ。

貴方を殺すよう命令は下せても、私は、まだ、貴方を愛しています。

愛しくて哀しくて、鉄仮面の向こうで、私は、泣いています。

誰か、この愛を殺して下さい。

刺殺なり絞殺なり、殺し方は何でも構いません。

一刻も早く、この愛を殺して下さい。

さもないと私は、この鉄仮面を、今にも脱ぎ捨ててしまいそうだ……!

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