第34話 【ACT五】ノアの箱舟

 「……シャマイムだ」

エルサーレムを囲む高い城壁の守備兵は、シャマイムを発見して、真っ青になってそう呟いた。別の守備兵が血相を変えて城壁の中に飛び込んで行った。中で大騒ぎになっているのがよく分かる。

おかしいな、と人形のまま地面に突っ立っているシャマイムは怪訝に思った。何故攻撃されないのだろう?

直後、城門が内側から爆破されるかのようにこじ開けられ、わあっと特務員が雪崩れ出てきて、唖然としている彼女を胴上げにした。

「帰ってきた!」

「シャマイムが帰ってきた!」

「おかえり、シャマイム!」

「よく帰ってきた!」

わっしょいわっしょいとまるで神輿みこしのように担がれ胴上げされながら、シャマイムは完全に混乱していた。

自分は彼らを裏切り、見殺しにしようとしたのだ。それが何で、こんな扱いを受けているのだ?その間にも特務員達は、

「おい全特務員に連絡だ、武装蜂起の準備だぞ!」

「もうしたわよ! 今度の今度こそシャマイムは処分させないわ!」

「絶対にやってやるぞおおおおおおお!!!!」

「「応!!!!」」

と、とんでもない事をやらかそうとしている。

「朗報だよ!!!!!」とそこに訓練を受けて、正式な諜報員となったドルカスが走ってきた。「あのヨハン様が『シャマイムには一切処分を受けさせない』って断言したのよ!」

だが特務員達は、

「「言葉じゃ駄目だ、書面にしてくれないと!」」

『これですぞ!』と耳障りな声で悪魔のムールムールが叫びながら出現した。署名のある書類をかざして、『「雷帝」ヨハン様直々の一筆、もうじきこれと同じものが各支部の全特務員に複製配布される予定ですぞ!』

「「うおおおおおおおおおおお!!!!!」」

と特務員達は拳を突き上げて歓呼の声を上げた。

シャマイムが混乱の極みに立っていると、今度は空中戦艦がいくつも最高速度で空を突っ切って飛んできた。それらはエルサーレムの飛行場に着陸した途端に、中からまた特務員達を大量放出する。

「「シャマイム!」」と真っ先に駆け寄って来たのはニナとフィオナであった。

彼女達はシャマイムに抱き付いて、わーわーと子供のように泣き出した。

「良かった。 もう二度と戻っては来ないかと……」

その後に来たランドルフが気の抜けた顔で、そう言った。

「これは……」一体どう言う事だ、そう言いかけたシャマイムに、ランドルフが言った。

「全てがシャマイムの人徳なのだ。 シャマイムはいつだって私達のために生きて動いていた。 だから今度は私達がシャマイムのために動く時だ。 それにシャマイム、君はアロンの馬鹿が改造をさせてからおかしくなってしまった。 シャマイムには処分なんか受けさせるべきでは無かったのだよ。 既にそのアロンはヘルヘイムに収監された。 だから、もう大丈夫だ。 みんながそう思っている。 みんながそう信じている。 だってシャマイム、君はね、いつだって誠実で親切で、本当に良いヤツだったから」

「……」

「お帰り、シャマイム」とランドルフは嬉しそうに言った。

「…………ただいま、みんな」

シャマイムは、シャマイムになって初めて、笑った。


 「全特務員が武装蜂起しようとするとは、前代未聞だ……」ジャクセンはそう言って頭を抱えた。「それもたかが兵器一機のために……」

「たかが兵器、されど兵器なのでしょう」マグダレニャンは渾身の力でポーカーフェイスを維持しているが、実は爆笑する寸前であった。既にひくひくと腹筋が引きつっている。「シャマイムに不当な改悪処分を下した事が今回の事件のそもそもの原因だと思われますわ。 ……そうですわねえ、シャマイムはある意味では彼らにとっての神なのでしょう。 親切で誠実で真面目で、しかし適切な配慮を忘れない神。 第一、この一連の事件の収拾者であるヨハンが構わないと言っているのです、我々はもはや余計な意見など言えませんわ」

「それはそうだが……」とカイアファが言いかけて、黙った。

「そうだ。 シャマイムに施された不適切な改造を修正さえすれば、シャマイムは二度と我々に対して背信行為はしない。 第一あの改造は強硬派のシェオルによって行われた。 どう考えても、そのシェオルの所為でシャマイムは暴走した可能性が高い」ヨハンがとうとうとそう語り、「では、僕はビザンティの奪還に向かう」と席を立ちあがった。

「ああ、ヨハン、レオナ姫の即位までは、治安維持部隊も同行させるべきですわ」マグダレニャンはそう進言した。「何しろ今のビザンティでは行政機構も警察機構もまともに機能していませんから、その代役が必要ですわよ」

「分かった。 そうしよう」とヨハンは頷いた。その顔には、もはや気弱であった、かつての臆病な青年の面影などどこにも無かった。


 ――ビザンティの民の内、ある者は感涙にむせび、ある者はバラの花びらを道路に投げ散らしている。ひざまずいて、神に感謝の祈りを捧げる者もいる。

昨日、薄幸であった先王の葬儀と埋葬がようやく行われた。そして今日は、この道路を通って新たな国王が即位儀礼のために大聖堂に向かうのだ。

死んだ者は帰らないし、負った傷の痛みは忘れられない。奪われたものは奪われたきりだ。だが、今の彼らには希望と言う温かい光があった。

車に乗って、レオナ姫が現れると、大地を揺るがすような歓呼の叫びが彼らの口から放たれた。

「ビザンティ万歳!」

「女王陛下万歳!」

物々しく戦車が護衛のために車の後を付いているが、民衆の目にはそれよりも新女王の優しい、けれど毅然とした微笑みが焼き付いた。

 その様子をヴァルキュリーズに乗って天空から見下ろして、ヨハンは、やっと約束が果たせたのだと思った。

『ありがとう、ヨハン』

ふと、亡き友達の嬉しそうな声が聞こえた気がした。

「レオニノス。 僕が――」

もっと早く、あの時以前にこの力を持っていたら!

『良いんだ。 僕の最期の願いは、ちゃんと叶ったのだから。 君も、ちゃんと強くなったのだから。 全ては、これからだよ』

「ああ」

ヨハンは、大聖堂に入っていくレオナ姫の姿が、少しずつぼやけていくのを感じた。けれどもはや彼は、己の無力さを恨んで泣いてはいなかった。


 「あんちゃん」とソーゼは半泣きで言う。

「何だ?」とグゼは真顔で答える。

「本当に……やるの?」

「やってくれ。 俺は女に近寄られないためなら何でもする」

「だからってって、いくらなんでも……!」

「ハゲになるだけじゃダメなんだ。 俺はハゲでワキガ持ちのデブになるんだ」

「俺そんな兄ちゃん嫌だよ!」

「俺は、女に近寄られないためなら何だってやってやるんだ。 さあ、ためらっていないで、除毛剤を俺の頭にかけてくれ、ありったけ」

「嫌だ! 絶対嫌だ! 兄ちゃん何が悲しくてブオトコになろうとするんだよ、兄ちゃん俺の自慢なんだよ、イケメンで強くて頭が良くて……!」

「俺は、そのイケメンの所為で好きな菓子を自由に買えた事が無いし、女に付きまとわれて迷惑ばかりだし、何も利益が無いんだ。 むしろ大損害なんだ。 仕方ないな、お前が嫌なら俺が頑張ってやってみよう」

と言って、グゼは除毛剤の詰め込まれたビニール・パックに手を伸ばしたものの、届く前に、弟がそれをかっさらって窓から捨てた。

「何をする!」グゼは怒った。

「兄ちゃん落ち着いてくれよ!!!!」弟はいよいよ本格的に泣き出しかけている。「兄ちゃんこの頃おかしいよ!」

「おかしくて当たり前だ! 俺は今もローズマリー・ブラックと言う名の恐ろしいストーカーに追い回されているんだぞ!」

「ぎゃあ!」と言う悲鳴が聞こえたのはその時であった。兄弟は窓から悲鳴の聞こえた先を見下ろした。I・Cが頭から除毛剤をかぶってしまっていた。

「見なかった事にするか」とグゼは即座に言った。

「うん」ソーゼは反射的に頷いた。

流石兄弟だけあって、阿吽の呼吸である。

その時、であった。グゼがいきなり天を見上げて、怯えた顔をした。

「どうしたの兄ちゃん!?」ソーゼが驚いて訊ねたら、彼は、

「遥か上空に危険がある、だが、何だ、これは!?」


 「『ノアの箱舟』……」とI・Cは遠い目をして言った。「大洪水で神が人間を一度滅ぼそうとした時に、選民だけ生き残らせようと建造させた飛空船だ。 結局その計画は神が死んだためにとん挫して、箱舟はどこかに打ち捨てられたんだとばかり俺は思っていた」

「それがどうして今になって再動しているのですか?」マグダレニャンが訊ねると、

「目的は同じだろうよ。 選民以外は全滅させる。 だがもう神はいないから、大洪水は起こせない。 ガブリエルが隕石を落としても今の防衛技術では迎撃される。 あの箱舟は丁度雲の上を飛ぶんだ。 となると……」

「シボレテ」マグダレニャンは言った。「あの洗脳ウィルスを雨に混ぜて降らせるつもりなのですわね」

「どうだかな。 あんなもの、海にぶちまけた方が効果的ではある。 だが、連中は天空から全人類を見下ろす事しか考えていないから、恐らくはそうだろう。 もしくは、陽動、だな」

「何を隠すための陽動かしら?」

「分からん。 俺からあれだけ魂を吸い取って、何をしたいんだか。 だが陽動にしてもこのまま放置するには危険すぎる代物だろうな。 シボレテのワクチンは、まだ開発中なんだろう?」

「ええ。 あのエステバンが手こずっているそうですわ」

「あの一二勇将の末裔の一人がなあ。 ……多分あれは高等知性生物の『魂』に反応するんだろうよ。 『聖遺物』同様に、今の科学技術じゃ、介入不能な領域の問題だ」

「それに大天使達は介入できるのですね」

「ああ、出来る。 俺達は腐っても『天使』だからな。 魂くらい扱える」

彼らのいるマグダレニャンの執務室は、猫が餌を食べる音しかしていない。

「ところで、サンダルフォンが、裏切り者が俺達の中に一匹いるって言ったらしいな?」

「ええ。 現在そちらも調査中ですわ」

「おいメフィストフェレス」といきなりI・Cは猫に近づくと、「またお前だろう?」と首根っこを捕まえて持ち上げた。

「I・C、止めなさい!」マグダレニャンの悲鳴が響いた。「私のシュレディンガーに何をするのですか!」

「お嬢様」I・Cは言った。「妙に思った事は無いのか、どうしてこの猫はやたら長生きなんだ?って。 確かお嬢様が三歳の時に道端に捨てられていたこの猫を拾った、それ以来だろう?」

「それが一体――?」

『私は今のこの平和な生活を自らの手でぶち壊すほど馬鹿じゃないよ』

誰かの声がいきなり響いた。マグダレニャンは血相を変えて周囲を見たが、I・Cと自分しかいない。

『そっちじゃない。 こっちこっち、マグダお嬢様』

マグダレニャンはまじまじと視線を猫に向けた。猫は、長いため息をついた。

『そうさ、私だ。 シュレディンガーなんて実に良い名前を付けてもらったが、本名はメフィストフェレスと言う。 この猫に取り憑いた悪魔だ』

「え……」彼女は愕然とした。

『騙すつもりは無かった。 私は一生お嬢様のペットとして膝の上で丸まっていたかった。 どうしてそれの邪魔をするんだい、魔王?』

「だって異教の神々と俺達大天使の大戦争の時、唯一『悪魔』でありながら通敵して、俺達の味方になったのはお前だけじゃないか、メフィストフェレス」

『あれは女帝の指示があったからそうしただけだ。 私自身は享楽主義者だから、今が平和で幸せであればそれ以上の事はしない。 うまい餌と温かい寝床、そしてナデナデしてくれる手を自ら失わせるほど間抜けでも無いしね』

「ようし、腹掻っ捌いて臓器に焼きごて押し付けたら事実を喋るな?」

『止めろ! 去勢手術ならもう受けたんだ!』

「なあ、剥き出しの脳に電流流されると猫はどうなると思う?」

『拷問するな! 私は無実だ!』

「裏切り癖ってのは治らないからなあ」

『神を裏切った貴様にだけは言われたくは無い!』

「I・C、お止めなさい」とマグダレニャンはやっと言えた。「万が一通敵していたとしても、檻の中にシュレディンガーを閉じ込めてしまえば良いだけの話ですわ」

「チッ」I・Cは見るからにつまらなさそうな顔をして、悪魔を手放した。

『お嬢様! お礼に好きなだけ私の肉球をもてあそんでくれ! 今だけは尻尾を引っ張っても良いんだぞ!』

シュレディンガー・メフィストフェレスはご主人様のデスクに駆け上り、ひっくり返って腹を見せた。マグダレニャンは、はあ、と嘆息して、

「まさかお前が悪魔だったとは、意外の意外でしたわ……」

『いや、この猫の望みは幸せに暮らす事、私の望みも幸せに暮らす事、こうして望みが一致したから、ほとんど私は猫として生きて来た。 今までも猫だし、これからも猫だ。 永遠に猫だと思ってくれ、お嬢様。 経験して思ったんだが、私は実際、猫の生活がこれ以上なく性に合っている。 ネズミを見れば燃えるような闘志が湧くし、ねこじゃらしとまたたびには勝てた事は一回も無いしね。 それにサンダルフォンも私がメフィストフェレスである事には気付いていない。 何せ聖王の前でも、文字通り私は猫の皮をかぶっていたから』

「聖王の記憶をも、サンダルフォンは乗っ取ったのですか?」

『……それは、分からない』悪魔は困った顔をした。『聖王ほどの精神力を持った人間だ、大天使なんかが自己の精神を侵蝕する際には壮絶な抵抗を見せるだろう。 現に聖王はサンダルフォンの第一次統合体を一瞬とは言え乗っ取り返したそうじゃないか。 だから、記憶も不完全な形でのみサンダルフォンは得られた、と私は思う。 それでも聖王の部分的記憶ともなれば、エルサーレムに強制執行部隊をいきなり来襲させる事も、いきなり聖教機構を分裂させてその片方の頂点に君臨する事も可能だったのだろうね。 そして、一番厄介だなと私が思うのが、聖王が聖槍に適合しちゃっている所だと思う。 だからサンダルフォンも聖槍が扱えるんだ。 いやはや、困ったものだ』

「……お父様は……」

愛していた。愛されていた。いきなり引き裂かれるまでは、本当に幸せだった。いっそ虐待されていたかった。愛想をさっさと尽かせるような親であれば良かった。だが彼女はまだ愛しているし、その愛ゆえに一歩も動けないのだ。

なのに、I・Cは言うのだ、「諦めな、お嬢様。 大天使に体を乗っ取られたって事は、大天使にお父様との分離を望ませるか、大天使ごとお父様を殺すしかないって事さ。 だがお父様ほどの『最高傑作』を大天使が分離して手放すとはとても思えん。 覚悟しな、お嬢様」

「……」決断が、下せない。覚悟なんて決められない。彼女は進退窮まって、黙るしかなかった。

「お嬢様、紅茶でございます」とランドルフが部屋に入って来て、こら、と叱った。「シュレディンガー、デスクの上に上るんじゃない!」

「にゃー」シュレディンガーは追い払われて、ちょこんと猫籠の中に座った。

「全く。 お嬢様、ペットを可愛がるのは良い事ですが、可愛がりとしつけを間違えるのはペットのためになりませんよ」とランドルフは紅茶を置いてから説教した。

「酒は?」とI・Cが言った瞬間、ランドルフはどこからか取り出した大鎌を握る。

「この期に及んで、まだ酒にこだわるのか貴様は!」

「落ち着けよ死神。 俺にしてみれば水が欲しいと同じくらいの気持ちで言ったんだ」

「黙れ外道! 貴様のされこうべを盃に加工してそれで酒を飲んでやる!」

「お前ブチ切れると本性見せるのは全然昔と変わっていないなあ。 お前、確か万魔殿から追放されるくらいの悪事をやっていたんだろ? それで聖王に拾われて、矯正されたんだよなあ、確か」

「それがどうした」とランドルフは片眉を吊り上げた。

「お前が大天使と仲良しな裏切り者なんじゃないかって俺は言っているんだ」

「シャマイムがいる限り私は裏切らないと決めたのだよ」

と、彼も言い切るので、I・Cは呆れてしまった。

「どいつもこいつもシャマイムシャマイムと口を開けば。 シャマイムはお前らの神なのかよ」

「シャマイムが神なら私達は喜んで我先に崇め奉るがね。 偶像はなるべく崇拝したくは無いが、シャマイムならば拝み倒したくもなる」

「キメえ」

「何とでも言え」

「何とでも」

「全人類に土下座しますとも言え」

「ランドルフ、お前がやれ。 俺はやだ。 面倒くせえ」

「ランドルフ」とそこでマグダレニャンが物憂げに声をかけた。「箱舟の様子は、どうですか?」

「現在、メティア海峡の聖教機構領海側の上空に移動し、そこから全く動きません。 まるでこちらの反応を見ているかのようです」

メティア海峡は、帝国と聖教機構和平派のちょうど境界線に位置する。

「そう……ですか。 そこにサンダルフォンもいるようですか?」

「いる訳がねえだろうが、お嬢様よ」驚いた顔でI・Cが言った。「たかが陽動ごときにヤツが動くものかよ。 ……お嬢様、思考力が相当落ちてんな。 全然キレが無い。 いつもの覇気はどこ行った? あれだけ愛したお父様を敵に回すのがそんなに辛いか?」

「……」彼女は俯いた。

「I・C、辛くない訳が無いと分かっているだろう、貴様も!」ランドルフが怒鳴った。「お前もお嬢様と聖王の仲を見ているはずだ!」

「知っている。 だから俺はあえて辛くしているんだ」I・Cはマグダレニャンを見据えて言った。「お嬢様、言え。 『殺しなさい』って言え。 いつものように例のごとくに俺に命令を下せ。 お嬢様の殺意で俺を動かせ! さあ、言え! 言うんだ!」

「嫌!」マグダレニャンは顔を覆った。「お父様だけは、私は!」

「……駄目だこりゃ」I・Cは呆れた様子で、「ファザコンもここまで来ると惨めだなあ。 本当に惨めだぜ、お嬢様。 ただの小娘に戻っちまった。 今やお嬢様は、あの時俺が惚れ惚れした壮絶な覇気も、化物さえ服従させた強烈な意志も無くした、ただのメスガキだ」

「……」マグダレニャンは泣いている。けれど反論の言葉も何も無い。彼女は、本当にただの一人の小娘に戻ってしまったかのようだった。

「……」ランドルフが沈痛な顔をして言った、「お嬢様、とにかく、出撃命令を。 仮にあれが陽動であるならば、我々が動けば敵は何らかの動きを必ず見せます。 それに対処するためにも、どうぞ出撃命令を」

「……ええ」小さな、まるでか弱い少女のような声で、返事が来た。


 イリヤとヨハンは廊下の隅で話している。

「まさか、聖王が望まぬまま大天使に生かされていたとは……!」イリヤは苦い顔をした。彼が大好きだった老いた聖王は、己を殺せと叫んだのだ。

「……これは、下手をすれば大帝も無理やりに……大天使に乗っ取られているかも知れない。 そして、操られている可能性が非常に高い」

ヨハンはそう言って、ふと昔を思い出した。

 ……不思議な男だった。それほど美形では無いのに、酷く魅力的で、自分と何時間でも遊んでくれそうな気配を持っていた。初対面だったのに、気付けば幼いヨハンはオモチャを持って、その男の膝の上に座っていた。ヨハンは人見知りの塊みたいな子だったのに、だ。男は嫌がらずに彼と遊んでくれた。むしろ嫌がったのは近くにいた聖王の方で、「お前、これじゃ仕事の話が進まないじゃないか」と相当不機嫌そうな顔をしていた。

「だって俺、子供好きだし」と男はにっこりと、毒のない不思議な笑みを浮かべる。

「ペドフィリアめ」

「自分が子供にモテないからって僻みやがった。 やーいやーい!」

 ……今、思えば、彼が大帝だったのだろう。真っ青な髪、深く青い目をしていて、聖王と対等に話をしていた。聖王と大帝がいきなり恒久和平条約を締結すると同時に決断したとは考えにくい。以前から何らかの交流があったと思うべきだろう。恐らく彼らは友達だったのだ。友達だったから、聖教機構と万魔殿の長い戦争に終止符を打とうとして、それが可能だった。そして――。

 全てはこれからだと言う時に、大天使に体を奪われた。

 条約を締結して戦争を終わらせても、世界の全ての問題はまだ解決していない。特に後クリスタニア諸問題はいまだに尾を引いている。戦争は驚くほど簡単だが、平和は泣き叫んでも難しい。

 そう、全ては、これからだった。そこを大天使が狙い、滅茶苦茶にしたのだ。

 「我々はあの人達を殺さねばならないのか!」イリヤが、ヨハンと同じ事を考えていたのだろう、少しの沈黙の後にそう言った。

「……大天使があの人達から離れる、その方法を検討しよう」ヨハンは言った。彼とて『あの人達』に懐かしく良い思い出こそあれ、憎くなど無いからだ。

「まだ海辺の砂の中から芥子粒を見つける方が楽な方法だな」そう言って、会話にいきなり割り込んできたのは、I・Cであった。「だって聖槍の適合者と、魔族の希少種『高貴なる血』の男だぜ? 大天使が取り憑くには最高の体だ。 俺だったら死んでも離さないだろうなあ」

「だが諦められるものか!」イリヤが怒鳴った。

「イリヤ、お前、単純馬鹿なのは変わっていないな。 聖槍と高貴なる血が同時に襲ってくるって事なんだよ、聖王と大帝を取り戻そうとしたら。 いくらイリヤでもヨハン様でもあれは厳しいだろうなあ。 大帝はな、触れたものを消失させる能力の持ち主なんだぜ、つまりは『最強の盾』だ。 で、『最強の槍』である聖槍の適合者だ、聖王は。 正しく『世界最強の矛盾』がお前らの前に同時に立ちはだかるのさ。 さあ、どうすんだ?」

「「……」」二人は、黙り込む。

「そう言う事さ。 仕方無いだろう?」とやや挑発的にI・Cは言った。

「仕方が無いで済ませていたら何も変わらない。 僕は、最後まで模索する」ヨハンはそう言い切った。「これ以上マグダを泣かせる訳には行かない」

「あ、もう手遅れだぜ」I・Cは軽蔑気味に、「あのメスガキ、お父様お父様ってぐすぐす泣いてやがる。 あれは駄目だ、俺が惚れた覇気もクソも無くしちまった、ただのバカ女だ」

次の瞬間I・Cは全身を四方八方から銀槍で串刺しにされている。彼は困ったような顔をして、ヨハンを見た。ヨハンは冷酷な表情をして、今や自由自在に大きさを操れるようになったヴァルキュリーズを従えていた。そして彼は威圧そのもので言った。

「マグダをメスガキだと? バカ女だと? 口を慎め、下僕が! マグダは必ず、自分の足で立ち上がる。 貴様はそれまで大人しく這いつくばっていろ!」

I・Cは呆れと驚きの、両方が入り混じった顔をして、

「あー……人格変わったな、ヨハン様。 いや、これこそが本来の『ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』か。 へいへい、下僕は地べたで大人しくしていますよ」


 ヨハンはマグダレニャンを抱きしめている。本当の感情を明かせる人と二人きりになった彼女は泣いていて、本当に無力さと惨めさを凝縮したような有様であった。幼い少女が、親とはぐれて泣いている、それよりももっと哀れであった。彼女が今まで殺してきた全ての感情が完全に暴走してしまって、どうしようもないのだ。まるで赤い靴を履いた少女が、足を切り落とされなければ踊るのを止められなかったように。

「ひとりにしないで」彼女は泣いている。「おねがいだからひとりにしないで」

孤独の中をたった一人で泣き言も言わずに戦ってきた。

「さみしいの、ずっとさみしかったの」

愛してくれた人を喪失して、愛されたいと言う思いを意志で潰してきた。

「おとうさまとたたかいたくなんかない」

ましてや、殺したくなんか無い!

「……僕がやる」ヨハンが、言った。「僕は今まで君に甘えてばかりで、君が本当はこんなにも苦しんでいたなんて気付きもしなかった。 僕がやるから、マグダ、君はもう泣かないで」

「でも」

「僕は君と一緒にいる。 絶対に、どこかに行ったりしない。 だから、ね、泣かないで」

「ヨハン……」

マグダレニャンはヨハンにしがみついた。いつも情けなくて弱虫だった彼が、今では酷く頼もしく思えた。


 ……元々は親が決めた婚約であった。先代ヴィルヘルム・ヴァレンシュタインであった『獅子心王』アマデウスが、『聖王』に頼み込んで、二人は許婚となったのだ。だがマグダレニャンは知らなかった。ヨハンが父アマデウスに懇願して、マグダが欲しいと言った事を。

 アマデウスはいつも何かに怯えている息子に、言った。

「お前はいざとなった時にあの子を守ってやれるのかい?」

「……」ヨハンは案の定黙り込んだ。だから諦めなさいとアマデウスが言いかけた時だった。ヨハンが、じっと、『獅子心王』を睨みつけた。「ぼ、僕でも、じゅ、銃弾の、壁くらいには、なれるから」

「……」今度はアマデウスが黙り込む番であった。

 彼は恋愛結婚で、一二勇将の末裔の一人、『全戦全勝』と言う化物じみた経歴を残した軍人オリエルの孫娘、ルシアと結婚していた。けれど彼らには、不幸にして子供がなかなか出来なかった。ヴィルヘルム、もしくはヴィルヘルミナ『ヴァレンシュタイン』を継がせる子供が、全く産まれなかった。周囲はルシアを特に責めた。何故なら彼女がアマデウスより年上だったからだ。彼女は心を病んだ。必死に庇い、守ろうとしたアマデウスは一族の中から養子を取ろうとさえ思った。彼にとっては『ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』の血統よりも、妻の方がはるかに大事であったからだ。その話を進めている最中に、彼女は病に倒れた。心労がついに体をも侵したのだ。しかし、彼女は希望を抱いた。やっと、やっと待ち望んだ我が子が、己の腹の中にいると知ったのである。だが、それは、己の命を取るか子供の命を取るか、どちらかしか選べない最悪の道を歩くしかない事実を知らされる事でもあった。ルシアは何のためらいも無く子供を選んだ。アマデウスは彼女を選んだが、彼女は強硬に嫌がった。この子を殺したら自殺するとまで言われて、アマデウスは必死に説得したが、無駄であった。膨らんだ腹を抱えた彼女は、鉄の意志を貫いた。

 そして、ルシアが死んでヨハンが生まれた。

 だが、そのヨハンがこれである。弱虫で吃音どもりに悩まされ、臆病で泣き虫だ。よく従兄のアロンに虐められて泣き、マグダレニャンに鼻水をハンカチでぬぐってもらっている。この子はもしかしたら駄目なのかも知れない。アマデウスは日に日に絶望して行った。この子はヴァレンシュタイン家の嫡子として生まれるべきでは無かったのかも知れない。彼は、ただ一人、もはや誰にも言う事が出来ない苦しみを抱え込んだ。

 しかし――今、彼はじっと、己を睨みつける息子の姿を見た。彼は思い切って、拳銃を取り出した。だがそれでも息子は全く怯えた様子も無く彼を睨んでいる。

「……では、試すとしよう。 覚悟はあるか?」

「い、一々、か、覚悟しなきゃマグダを守れないほど、ぼ、僕は、卑怯者じゃない!」

アマデウスはゆっくりと銃弾を拳銃に込めて、息子を狙って引き金を引いた。


 銃声!それも数発!


 外にいた護衛の者が我先に血相を変えて扉を破り、部屋になだれ込んできた。

――彼らが目にしたのは、硝煙をくゆらせる拳銃を放り棄てて、息子を抱きしめて泣きながら笑っているアマデウスの姿だった。

「お前は!」アマデウスはもはや人目など意に介さず、嬉し涙をこぼしている。「お前は、お前だけが、『ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』に相応しい!」


 ヨハンは泣き疲れたマグダを抱きしめて眠った。夜が静かに流れていく。

真夜中に、マグダレニャンはふと目を覚ました。彼女は抱きしめられていた。

 ああ。彼女はようやく気付いた。今も、私は一人きりでは無いのですわ。ちゃんと、愛されているのですわ。

そう思うと、彼女の中で萎えていた何かに力がみなぎって、彼女の鋼の意志が息を吹き返した。

 マグダレニャンは、ヨハンを起こした。少し寝ぼけている様子のヨハンに、彼女は言った、

「ね、と私、まだシャワーを浴びていませんの。 一緒に浴びません事?」

「えっ」と言ったヨハンは顔を赤くしたが、「……婚前交渉?」

「そうですわねえ、そう言う事がこの数年間全く無かったので、いけませんかしら?」

 ヨハンは、やや緊張した顔で、「……責任は、ちゃんと取るよ」


 「まだかなあ」と『白雪姫』は雲海を見下ろしつつ言った。「僕、待ちくたびれてしまったよ」

「うふふふ」『サンドリヨン』は時計を見つめて言う。「一二時の時計が鳴る前に逃げなければ、かかっている魔法は解けてしまうのよ」

「楽しい舞踏会ダンスパーティーの後に?」

「ええ、そうよ」

「じゃあ、楽しく踊ろうね」

「そうね、楽しく踊りましょうね。 意地悪な継母も、鉄の焼けた靴を履かせて死ぬまで踊らせましょう、ね?」

二人は楽しく会話している。

「『七人の小人』もいるし、もう僕はヴァナヘイムみたいなへまはやらかさないよ」

「そうね、私もいるし、きっとドクターに褒めてもらえるわ!」

彼らの背後には化物がいる。化物、であった。人体の数十倍はあろうほど巨大で、醜い容姿をしていた。全身から毛穴が隆起したようなイボまで生えている。それがきっちり七体いた。

「そうだね、褒めてもらえる!」

そして二人はくすくすと、まるで楽しい秘密の話をしているかのように笑うのだった。


 まるで熱砂漠のようだ。枯れ果てて、潤いの全てを捨て、そしてそれを周囲に侵蝕させ拡大させていく。そこにあるものはあり得ないほどの強い日差し、そして――狂気に近い、何か。

咄嗟にそう感じて、少年ルイスはぞっとした。

「……オットーさん、何があったんですか」

彼の知るオットーは、こんな熱砂漠のような男では無かった。ぎらぎらと眼だけが光って、後は殺戮に飢えた死神のような雰囲気をまとうような恐ろしい男では無かった。ちゃんと人の心を持った、青年だった。

「ルイス」だが今や彼の声など、まるで砂漠に棲まう乾燥し切った熱風だ。「それほど大した事じゃない。 ただ俺が弱くて甘かった、それだけだ」

「オットーさん!」ルイスは咄嗟に、『詩謳いホメロス』の能力を使おうとした。だが、オットーは彼の口を手で塞ぎ、

「孤児の世話、全てお前に頼んだ」

それだけ言って、姿を消した……。


 そしてオットーは、今は万魔殿幹部ロットバルドの前にいる。ロットバルドは言った。

「『これ』は、帝国からの要請だ。 だがこの要請を出した帝国の意図が全く読めない。 しかし断る訳にも行かない。 ……オットー、そこでお前を総指揮官として命令する。 だが、くれぐれも、予想外の事態だけは避けてくれたまえ」

「了解した」

「それと」とロットバルドはため息をついて、「大帝の件だが、これは総力戦になるだろう。 私は大帝を知っている。 私は大帝に知られている。 下手な小細工など、彼の前では消失させられるだけだろう」

「だが俺は殺す」オットーは無感情に、だが酷く激情的に言った。「必ず殺す」

「……君は、殺すのだな」ロットバルドはしばらく考えていたが、じっとオットーを見据えて言った。「あの大剣の所有者認証を君へと変えよう。 あの大剣ならば大帝をも、唯一この世で切断できるだろう」

「そんな剣があったのか」

「ある。 大帝自身が作成させていた……もっとも彼は完成を知る前にメタトロンに体を奪われたのだが……『ノートゥング』、と大帝は呼んでいた。 単なる高周波刃ソニック・ブレードでは無く、特殊なプラズマをまとい、触れたものを原子レベルから分解・切断する兵器ウェポンだ」

「そうか」

「君は今や戦鬼だ」ロットバルドは言った。「最愛の妹を父親に殺されて、君は戦士である事すら捨てた。 もはや君は私が止めようとも私を殺すだけだろう。 生憎私はまだ死ぬ訳には行かない。 大帝の夢を実現させるまでは死ぬ訳には行かない。 だから私は君を止めない。 だがこれだけは覚えていてくれたまえ、今はまだその時では無いのだ。 その時は必ずやって来る。 それまで待つのだ」

「知っている」とオットーはいやに淡泊に繰り返して言った。「知っているとも」


 「対ウィルス装備、及び武装兵装完了しました。 『箱舟』強襲制圧部隊の準備、万端でございます」

ランドルフがそう言って、うやうやしく主の下知を待つ。

「箱舟の制圧、敵対勢力の全処分、命令は以上ですわ」

マグダレニャンはきっぱりと言った。その彼女をにやにやと、心底愉快そうな顔をしてI・Cが見ている。

「何があったかは知らんがお嬢様、かなり良い所まで来たじゃあないか。 それだそれ、俺が気に入ったのはそれだ、その目だ。 例え全世界が敵になり味方が誰もいない、その状況下でも『かかって来やがれ』と敵を挑発するその目だ。 後は『お父様を殺しなさい』と言えば完璧なんだがなあ」

「……それは機が到来しましたら言いますわ」マグダレニャンはそう言ってから、モニターを『箱舟』強襲制圧部隊の指揮官、魔族の変身種ライカンスロープ黒犬バスカヴィル』エッボに繋いだ。彼も完全武装していて、表情が伺えるのは分厚い強化光彩ガラス越しの目だけだ。

『ボス、命令、承知しました。 必ずや成果を挙げて帰還いたします』

「罠とシボレテにくれぐれも注意なさい。 では」

モニターが光を失うと、そこに映っているのは、紛れも無い鋼鉄の女であった。


 それは、箱舟、と言うよりもまるで巨大な岩塊の城のようであった。何の素材で建造されているのか全く外観では分からない。ただ、相当な年月を風や温度の変化や光にさらされて、経年劣化はしているようではあった。だが、それほどの昔に、何故、こんな巨大な構造物を雲海の上に浮かせる技術が存在したのだろうか。先代文明ロスト・タイムの遺物なのだろうか?

いや、とI・Cは言った。

「目ぼしい答えは二つしか無いぜ、神の仕業か、悪魔の奇跡か、だ」と。


 「突入経路は?」エッボは飛翔する空中戦艦の中で作戦を部隊全員で確認する。

「ここ、だ」とセシルが箱舟の模型のとある一点を指さして言った。「外見から想定しうる構造上、ここが最も破壊しやすく侵入しやすい」

「そう言えばお前は元々は一級建築士だったな、なるほど、そうか、建築物の弱点も分かるのか」ベルトランが納得した顔をする。

「だが一点集中も危険だ、分散して侵入した方が良いだろう。 箱船の正面部分から後続部隊は侵入させよう」

エッボがそう言うと、誰もが頷いた。

 彼らは爆弾で箱舟の一部を破壊して、そこから次々に内部に突入した。

そして、はっと息を呑む。中には巨大な空洞が広がっていたのだ。部屋、と言うにはあまりにも自然的な外見で、まるで洞窟の最奥に広がる巨大な丸いドームのようだった。天井からは鍾乳石、地上からは石筍が無数に大きな牙のように生えている。

そして。目視できる限りの突き当りには、広く丸い、まるで何かの劇場の舞台のように、そこにだけは天にも地にも障害物が一切なく、綺麗な天然の台地が宙に浮かんでいるのだ。

「何だ、これは……」誰かが思わずそう言った。

「教えてあげる、数千年の経年劣化で箱舟はこうなっちゃったの。 でもね、それでもまだ稼働するのよ、凄いでしょう?」

誰もが振り向きざまに攻撃した、だが、それは全て跳ね返される。

お姫様の格好をした美女と、あの傭兵都市ヴァナヘイムの中枢部を壊滅させかけた『白雪姫』が王子様の格好をして立っていた。

「んもう、全く品性と教養の無い連中ね! 教えてあげたのに襲ってくるだなんて!」美女はそう言って、右手を横にかざした。「そんな悪ーい連中には魔法をかけてしまいましょう、一二時になったから全ての魔法が解けてしまう、そんな魔法を!」

ばっと突風が吹き抜けた直後に、美女も白雪姫も姿を消した。

「「な……?」」と誰もが事態が呑み込めないで戸惑った時、である。

「おいエッボさん!」とセシルがぎょっとした声を出した。「変身できるか!?」

「!」エッボは体を変異させようとして、出来なかったので、愕然とした。「変身種が変身できないだなんて、そんな馬鹿な事があるか!」

特務員達の間に動揺が走った。

「お、おい! 俺も能力が使えないぞ!?」

「何を言って……本当だわ! 使えない、どうしてよ!?」

『魔族の能力を一時的に封印したんだろうな』通信端末が鳴って、甲板から突入した後続部隊の一人、ベルトランが言った。『そう言う制御術式が昔、あった。 だがそれを化物が我が物にするなんて……』

「どうする、エッボさん。 変身できない変身種なんてただの肉の塊だぜ」セシルが言って、エッボの判断を仰いだ。エッボは忌々しそうに、

「……一時撤退するしか無い。 今の戦力ではとても侵入するには危険すぎる」

「「了解」」


 その時であった。


 『出た!』

後続部隊からの通信が入った。

「何が出た!」エッボが血相を変えた。

『巨大な化物だ! 増援を頼む!』

「クソ、どうする!」

「見捨てる訳にも行かない、かと言って行っても今の私達じゃ戦力外! どうすれば……!」

『あッ!』

「どうした!?」

『の、能力が使えない!?』

「そっちもか!」

『ベルトランとニナとフィオナだけだ、まともに戦えるのは!』

『僕は死人だからね、そして彼女達は聖人……じゃなかった、A.D.アドバンストだ。 どうやら魔族の能力を敵は完全封印するらしいな。 全く面倒になったものだ』

『悠長に!』ベルトランの声にかぶさって、ニナの声がする。

『……喋っている暇があったら』フィオナの声もだ。

『今にもぶっちぎられそうなアンタの糸、どうにかならないの!?』

『だから、ぶっちぎられる前の今の内に撤退、しか無いだろう。 ニナ、フィオナ、急いで――』

――そこで通信がいきなり途絶した。

「おい! おい通信班、何があった!?」

エッボが真っ青になって通信班を問い詰める。

「強力な妨害磁場ジャミングが発生したわ、いきなりよ! でも、この通信端末を通信不能にするなんて、一体どんな機器を使ったのよ!? これは聖教機構最新の――」

 ――GUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!

突如、辺りに轟いた奇怪な断末魔に、誰もが一瞬絶句した。それはとても人間の、魔族の上げられる断末魔とは思えなかった。形勢不利なベルトラン達がやったのか?だが、どうやって?

「甲板で何が起きているか、見に行くぞ!」エッボが叫んだ。


 「通信は全て傍受した」そう言ってオットーは、大剣を一閃させた。こびり付いていた体液の残滓が、飛び散る。「貴様らは能力にかまけていて何にも鍛えていなかったのだな」

「お前達は、」と言いかけたエッボは、全てを納得した。

「まあ、馬鹿には無理も無いだろう」そう言って妨害磁場を操っていた男サイモンはサングラスを取った。電子眼エレクトロ・アイだと一目で分かる赤い機械製の眼球が、ぎろりと特務員を睨みつける。「で、貴様らはどうする? 俺達の敵か、味方か?」

「俺達は――」エッボが判断に困った時だった。シャマイムが戦闘機形態で飛空してきて、甲板に着地した。人型に戻るなり、シャマイムは言った。

「緊急事態だ。 つい先刻、帝国が聖教機構に正式に対過激派と対強硬派への全面協力を要請、対応に窮した一三幹部が現在緊急会議を開いている。 帝国からの協力要請の第一弾として、『万魔殿』穏健派と聖教機構和平派の箱舟完全制圧が求められた。 現時点での万魔殿と敵対行動を選択する事は、帝国の激怒を買うと一応の幹部決議が出た。 よって、現在彼らに対して敵対行動を取るべきでは無い」

「帝国は一体何が目的で――」セシルが誰もの頭に浮かんだ疑問を口にした、その時だった。

 ――GUUUUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA

 ――GOUGAAAAAAAAAAAAAAAAAA

「……残り六匹か」箱舟から出てきた化物達を一瞥すると、オットーは大剣を構え直した。「行くぞ、俺に続け!」

「「了解!」」万魔殿穏健派の精鋭はそう言って、突撃する彼に続いた。


 俺には戦いしか無いのだ。

戦って戦って戦い抜いて、その果てを見なければならないのだ!

オットーの口からは大きな雄たけびが放たれた。

 直後、大剣が化物の頭部を切断、続けざまに頸部も叩き切られている。

その隙に先行した仲間が、発煙弾を破裂させて、辺り一面は完全に煙に覆われた。


 視界不良の中、次々と化物の断末魔だけが上がっていく。

その様子を箱舟のてっぺんで聞きながら、

「駄目じゃないの白雪姫」とお姫様は呆れて言う。

「そうだねえサンドリヨン。 これじゃドクターに怒られてしまうよ」

王子様は困った顔をした。

「じゃあ、シボレテを撒いてしまう?」

「ゾンビなんか食べたって美味しくないじゃないか」

「それもそうねえ」

「取りあえず、僕らでやっつけちゃおうじゃないか。 どうせ僕に普通の攻撃は通用しないし、サンドリヨンがいれば、拘束制御術式も効かないしね」

「じゃあ、行きましょう!」

優雅にドレスの裾をつまんで、サンドリヨンは、ふわりと飛び降りた。

――はずが、彼女は真下から飛び上がってきたオットーにより、頭から足まで両断されている。真っ二つになった残骸が落下して行った。

「え、」とそちらに咄嗟に顔を向けた白雪姫に、オットーはこう言った。

「貴様は何でも攻撃を認識し跳ね返すと言ったな。 ではこの一撃を跳ね返して見せろ!」

ぎらりと大剣がきらめいた。首をはねられた白雪姫が、倒れる。

「ふ、ふん!」だが、白雪姫の頭部は、笑った。「貴様の攻撃、認識したぞ!」

胴体が起き上がり、首を掴んで乗せる――が、そこで、首が落ちた。

「!!?」白雪姫は唖然とした。

オットーは無感情に言った。今の彼には勝利感などの感情は無いのである。

「俺の攻撃は確かに認識した、だが貴様は剣に塗られた腐敗毒までは認識しそこなったな」

「ぐ、が、体が、溶け――!」

白雪姫の胴体も倒れ、頭と共に、あっと言う間に腐臭を上げては液状化していく。

「おとぎ話でも白雪姫は毒リンゴで死にかけたが、実際死んだな」

 無機的にオットーは言い捨てた。


 箱舟内のシボレテが全て処理された事を上司マグダレニャンに報告してから、エッボはどうしたものかと思った。まさか数百年来の敵に助けられるとは思ってもいなかったのだ。だが、これから箱舟の所有権争いが起きるであろう事は、明白であったので、あまりエッボも心底から助かったと素直に思えなかった。

「どうしたものでしょうか」マグダレニャンに判断を仰ぐ。「あまり戦いたくはありませんが、かと言って箱舟を穏健派にすんなりと引き渡すのも……」

『帝国の機嫌を損ねず、かつ箱舟を遺恨なく所有する方法は……』

マグダレニャンが通信端末の向こうでしばらく考えていると、不意に男の声がエッボの背後から割って入った。

「ようワンコ。 全世界から戦争を終わらせる方法って知っているか?」

「……」エッボは不快そのものの顔をして振り返った。「何の用で呼ばれもしないのに来たんだ、I・C!」

「だから、全世界から戦争を終わらせる方法を知っているか、と俺は聞いている」

「……恒久和平条約が締結されれば……」

「馬鹿じゃねえの? いいや、馬鹿だって言わないような不正解だ。 ――戦争は素晴らしいものだ。 戦争があれば人類はどこまでも自己研鑽と自己発展を遂げていける。 逆に戦争が無ければ人類は退化しちまう。 全人類がサルに戻っちまう。 言い換えればどんな人間だろうと魔族だろうと、戦争の恩恵を受けて生きているんだ。 赤ん坊だって、例外なく。 なあワンコ、お前は全人類がサルに戻り果ててウッキーと鳴いているのを観察したいのか? ……それにしてもおかしいなあ、あれだけ巨大な鍾乳石なんて万年単位で形成される代物がこの箱舟にわんさかあるんだから」

「……お前は何が言いたいんだ」

「鍾乳石はさておいて……だからだよ、戦争を完全に根源から地上から抹殺したかったら、わずかでも戦争の芽を残す訳には行かないとお前が強く願うのだったら」I・Cはにんまりと笑った。「全ての争いの源、つまりこの場合は全人類を絶滅させるしか無いのさ」

「何を、そんな子供じみた極論を――」

「総員、箱舟から撤退しろ」I・Cはいきなりそう言った。

「は?」エッボは口を開けた。何を言っているのだ、この男は?

「ヤツが来た。 俺とヤツとの闘争だ、この箱舟なんざ簡単にぶっ壊れるだろうな」

「ヤツとは一体――?」

吸血鬼王アーカードレスタト。 白雪姫やシンデレラの属していた『デュナミス・エンジェルズ』の筆頭で、大天使ラファエルの愛人さ」

「愛人とは言ってくれるね」アルビノの青年が、まるで近所の散歩に来て、知人に出会ったかのような気軽な態度で、いきなり出現して言った。「やれやれサンドリヨンも白雪姫も倒されてしまうなんて。 ラファエル様もさぞやお怒りになるだろうよ」

「ヤツの激怒なんざ知るか。 自分が弱っちいものを作っておいて何を今更喚くんだ。 おいエッボ、今の内に全員逃げさせろ、万魔殿の連中もだ。 時間は無いぞ、コイツの臓腑はらわたを喰い散らかしたくて俺の牙がうずうずしているんだ」

「あ、ああ」エッボは総員に撤退命令を下し、万魔殿にも撤退するよう進言しに行った。


 「『撤退した方が良い』? そんなに貴様らは箱舟が欲しいのか」オットーは冷酷に言った。「貴様らは目先のものに目を取られて、その先の落とし穴に気付けないのだな」

「違う、違うんだ」エッボは青ざめていた。オットーに怯えているのではなく、彼は、「アイツが、I・Cがやる気になった時はとんでもない事態になるんだ」こちらに怯えているのだ。

「何だと?」

「この前はカルバリアを全滅させた。 国一つを喰い散らかして絶滅させた。 アイツはそう言う芸当が出来るんだ。 だから、恐らくこの箱舟くらい簡単に、」

そこまで言いかけた時――轟音と激震が走って、エッボとオットーは思わずよろめいた。

音のした方向を咄嗟に見れば、

「「……ドラゴンだと!?」」

巨大なそれが、吸血鬼王レスタトの前に君臨していた。

「総員急げ! 全速で箱舟から安全圏へ撤退しろ! I・Cが本気を出しやがった! やばい、逃げろ!」

エッボはもはやなりふり構わずに大型の黒犬に変身すると、逃げ出した。

「……」オットーは一瞬だけ考えたが、すぐに万魔殿の総員に退避命令を下した。彼は『竜』の戦闘能力を良く知っていたからだ。


 『竜』。それは古代世界においては魔神として君臨した、魔族の中でも非常に屈強な種族である。単騎で万軍に値し、かつては多神教の魔神として、唯一神ともっとも激しく争った種族でもあった。だがそれゆえに唯一神に呪われ、種族を残す生殖能力を酷く下げられたと言う伝承があるため、今現在では『竜』は滅んだとされている。

 「実際は俺が喰いまくったからなんだけれどな」とI・Cはふざけたように主のマグダレニャンに言った事がある。「何せ百年で最低ン千匹は喰ったからなあ。 凄い時は竜の喰いすぎでマジで胃もたれ起こしたんだぜ」

「単に味に飽きただけでしょう?」マグダレニャンが呆れたように言うと、

「ああ、そうだ、いくら高級肉だって毎日毎晩喰ってりゃなあ、うんざりもするぜ。 でも俺よりも竜を殺したのは、ミッキーなんだ。 『竜殺しドラゴンスレイヤー』って異名が付いたくらいだ」

「……大天使ミカエル。 確かに竜退治の件では有名ですわね」

「うん、脳みそまで筋肉で出来ているような馬鹿だがな」I・Cはさらりと言った。


 その『竜』を目の前にしても、レスタトは涼やかな微笑を浮かべたままだ。

『なあカマ野郎』竜は酷く低俗に言った。『あのマッドのペニスの味はどうだった? どうせ「」とかほざくんだろう? ケツ穴から口までぶっといもので串刺しにしてやれば、淫乱なテメエも満足するだろうよ』

「……本当に魔王、貴様は下品だねえ」赤い目を細めてレスタトは答えた。「私がここに来たのは、この箱舟を破壊するためなんだ。 陽動は成功した。 囮はもう要らないからね」

『あれだけ俺から命を奪っておいて、何をやらかすつもりだ、テメエらは』

「すぐに分かるさ。 でも、もう、その時には貴様らには手遅れなんだけれどね」

『ほー。 じゃあ吐いてもらおう、大天使共の企みの全てを、貴様にな!』

箱舟から巨大な火柱が高々と立ち上った。竜が業火を天に向けて吐いたのだ!

『――さあて。 おっ始めようじゃあないか』

「野蛮だね」とレスタトは微笑んだ。「そうさ、いつだって人は内心では野蛮なものを求めている、どんなに優雅な文化人だってね、知らずに醜い獣を心の奥底で飼っているものなのさ」

『そうだ、お前の脳ミソの奥底にも獣が潜んでいるって事だ! さあ、そいつを解放しろ!』

「じゃあ遠慮なく」

竜の頭部が爆散した。箱舟とその周辺に飛び散る脳漿や体液。

「ほう!」竜が消えて、I・Cが現れた。「攻撃ぶちかまそうとしたらこっちが攻撃された、さて、どんな能力だ?」

「何で肝心かなめのそれを貴様に教えなきゃいけないんだい?」

「ふーん」I・Cの姿が赤き盲目の魔神に変わる。『では行くぞ! ――『遠距離空間爆裂爆散能力カミノアクイ』――BIGBANG!』

巨大な箱舟が空間破壊に巻き込まれて、爆発した。周囲に飛び散る箱舟の破片は、何故か雲海に落ちる事無く、ただふわりふわりと空を漂っている。

「ありゃりゃ。 私が壊すはずがありがとう、代わりに壊してくれて」

レスタトはその破片の一つに立ちながら、妖艶に微笑んだ。

『――BIGBANG!』

そこに、空間破壊攻撃が来た。しかしそれは、レスタトを確実に巻き込んだのに、彼は無傷のまま、ふわりと別の破片の上に立った。

「無駄無駄、無駄だよ。 さてと箱舟もちゃんと壊れた事だし、私は失礼するね」

『逃がすか! ――BANGBANGBANG! ――BIGBANG!!!』

壮絶な攻撃の余波で、ついに雲海がぽっかりと割れて、一面に海が見えた。

けれど、レスタトは赤い盲目の魔神のすぐ背後、その耳元で囁いた。

「貴様は私が必ず殺す。 ――じゃあね」

そして、レスタトの気配が完全に消えた。

赤い魔神が姿を消し、その代わりに黒い六対の翼を背中に生やした幼女が姿を見せて、舌打ちした。

 「チッ。 この俺がまた喰い損ねたなんて、な」

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