第33話 【ACT四】未来亡き原罪
戦闘機形態のシャマイムは飛んだ。飛んで飛んで、強硬派領土内の無人島に到着した。そこは地図に記載されていない極秘の地であった。元来無人島であったはずが、まるで要塞のようないかつい建造物がいくつもそびえ立っている。
シャマイムはその建造物の一つの屋上に着陸した。着陸したシャマイムは、凍っているI・Cを引きずって、歩き出す。シャマイムの視線の先にはにこにこと笑っているシェオルの姿がある。
「シャマイム『お姉様』、歓迎いたしますわ、ようこそ『セフィラー・ホド』へ!」
「ごたくはいい。 はやくこいつをくるしめろ」
シャマイムはそう言って、出て来た研究員らしき白衣を着た者へI・Cを引き渡した。I・Cは黒い棺桶のような装置に閉じ込められて、運ばれる。
「ええ、苦しめて差し上げますわ、たーっぷりと!」
シェオルはにっこりと笑った。
I・Cの体は地下の恐ろしく深い場所、幾層にも重なる分厚い鉄板と冷凍コンクリートの層の下に埋められた。彼の体は棺桶から取り出され、銀色の大きな子宮のような金属に包まれている。これでは脱出はおろか身動きも取れないだろう。その周囲を数多の謎の機器が取り囲んでいるのは、彼が実験動物になった証だった。
青い翼の大天使がシャマイムの隣にシェオルを連れてやって来て、その光景を転落防止の高い鉄柵の向こうから満足げに見下ろし、観賞する。
「これでようやく『魂』が……!」と大天使は言った。
「はやくはじめろ」シャマイムは憎悪にまみれた声で言った。大天使は気分を害した様子も無く、
「ええ、始めますとも」と手を鳴らした。
装置が動き始めた。
I・Cが埋められている辺りから光銀の柱が立ち上ると同時に、何者かの絶叫が響いた。それは音波では無く、精神に響く声であった。
『――ぐお、あああああああああああああああああああ!』
「くるしめ」シャマイムは嬉々として言った。「もっとくるしめ」
『シャマイム……! どうして……!』
「しぇおるがわたしのきおくを、すべてとりもどしてくれた」そこでまたシャマイムの形相が憎悪に歪み、「わたしがへれなだった。 いのつぇんと、わたしはおまえをゆるさない!」
『俺は、ヘレナ、お前の所に帰りたかったんだ! 悪魔に魂を売り渡して、それでも……!』
「それであくまにわたしをさしだしてくわせたのか。 げすやろうめ」
『ヘレナ、違うんだ、俺は、金だと、お前が喰われるまで、金だと、』
「ふうん、どのみちわたしははしたがねいかのそんざいだったのか」
『ヘレナ……ご、おおおおおおおおおおおおお!』
「順調、順調!」シャマイムの隣で、青い翼の大天使は歌うように呟いている。
「おまえにとってわたしはしょせんははしたがねいかのそんざいだった、だからあんなことができたのだな」
『あんな事って……嫌だ……言うな、ヘレナ!』
「わたしをあくまにくわせたうえに、のうみそだけとりだしてへいきにかえさせた……そこまではまだいい。 だがおまえはあんなことをした!」
『言わないでくれ! ヘレナ! 俺を殺してくれ!』
「わたしはおまえをころさない、それがわたしのふくしゅうだ。
いきてくるしめ。
いきてもがき、ぜつぼうしつづけろ。
おまえには、しというぜったいてききゅうさいなどえいえんにあたえられない!
あたえてなどやらない。
あくむをとわにみつづけろ。
どろぬまでひとりなきさけべ。
だれもかれもがときとともに、おまえのことなどわすれていく。
だれもかれもがときとともに、おまえのしょぎょうなんかわすれていく。
おまえはしょせんはそのていどのどうでもよいものだ。
だがわたしだけはおぼえているぞ。
おまえのうらぎりをえいえんにおぼえつづける。
いきることがおまえのさいだいのくるしみならば、わたしはおまえを、せかいのじょうりをねじまげてでもいかす。
ぜっきょうしろ、せいぜい、のどがやぶれるまで。
だがわたしはおまえをゆるさない!
あんなことをされて、ゆるせるわけがない!」
『嫌だ! 俺はそれだけは、その真実だけは見たくないんだ! ヘレナ! ヘレナ! 俺は俺の罪過も何もかも知っている、でも認識したくないんだッ!』
ヘレナは淡々と、けれどかつてなく激情的に言った。
「……おまえはわたしをころしたくせに、かんじんなことにきづいていないのだな。
そうか、おまえのなかにあるきょうふが、かたくなにそれのにんしきをこばんでいるのか。
ではおしえてやろう。
わたしがここまでおまえをにくむのは、
おまえがわたしごところしたのが、
おまえとわたしのこどもだからだ!」
『あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!』
「しんじつはいつだってむじひでざんにんだ。 そうだろう、いのつぇんと?」
『俺、は……!』
「『全ての人がそれから目を逸らし口をつぐみ耳をふさぐ、だがそれでも直視し叫び聞かねばならないそれ、それこそが真実だ』――おまえがそういったじゃないか。 わすれたとはいわせない。 おまえはおまえのしんじつをみろ! めをそらすな、わたしのあかちゃんをくいころしたことから! ぜったいに!」
『あ、あ……』
……昔、ある男がいました。傭兵をやって暮らしていました。どんな激戦区に放り込まれてもいつも無傷で帰って来る事から、『死なずのイノツェント』と呼ばれていました。でもこの男は、『死なずの』なんて言われながらもいつ死んでも良いや、とか思っていたのです。でもねマグダ、この男はある日、一人の娼婦と知り合ったんだよ。……最初は客とお得意様、それだけの関係でした。娼婦が重い病気にかかって、でもその日暮らしをしていた娼婦には医者にかかるお金も無かったので、娼婦が困り果てた時、可哀相に思った男が引き取って、治療費を出すまでは。
病気が治っても娼婦は男の家に居つきました。掃除を喜んでするようになりました。下手くそな鼻歌を歌いながら、美味しい料理を作るようになりました。愛し合うたびに男の耳元で、愛している、と囁くようになりました。
男は急に、恐ろしくなりました。戦争に行く事が本当に恐ろしくなりました。男は死にたくないと思うようになったのです。
幸い、今までの命知らずの代償に、金はそこそこ貯まっていました。男は思いました。よし、今度が最後だ。今度戦争に行ったら、この金を元手にして、何か商売でも始めよう、と。
そして出かけた最後の戦争で、男はとんでもない目に遭うのです。
敗戦。敵の虐殺宣言。次々に捕まって、嬲り殺されていく戦友達。男は逃げました。必死に逃げました。逃げて逃げて、でも、それでも捕まって、ありとあらゆる拷問を受けてついに殺されると言う時に、悪魔が彼に囁いたのです。
『お前の世界で一番大事なものを俺に喰わせてくれるなら、お前に絶大な力をやろう』
男は絶叫しました。世界で一番大事なもの、それは男にとっては金だと思っていたのです。
『俺は帰りたいんだ!』
……悪魔の力で、敵兵は全滅しました。男は無傷で帰る事が出来ました。
女は帰ってきた男にお帰りなさいと笑顔で言って、抱き付こうとして、怯えました。男の目が黒く輝いていたからです。
『どうしたのイノツェント、そんな怖い目で私を見ないで!』
悪魔が嗤いました。
『これがお前の大事なものか。 これを喰えば愛が分かりそうだ!』
女は首だけ残して、悪魔に食べられてしまいました。男の世界で一番大事なものは女だったのです。金では無かったのです。男はその首を抱きかかえて、絶叫しましたが、もう、何もかも手遅れでした……。
マグダ。
お前は、世界で一番大事なものを、決して見誤ってはいけないよ。
シーザー・エリヤ『サンダルフォン』、ジュリアス・エノク『メタトロン』、ドビエル『ガブリエル』、そして――一匹の巨大な竜が、モニターから「魔王」が魂を吸い取られる光景を嬉々として見つめていた。
「順調、全ては順調。 我らは数千年の間、待った。 その忍耐がようやく実を結ぶ」サンダルフォンが、微笑んだ。「この男を必死に乗っ取っただけの甲斐はあった」
「全ては我らが唯一絶対神のために」メタトロンが言う。
「そう、全ては我らが唯一絶対神のために!」ガブリエルがうっとりとしている。「そしてこの醜い世界は滅びと言う名の浄化を施され、新たに創始される……」
『俺様達が第一次統合体化現象を起こしただけの――』竜が言いかけて、いきなりぐっと言葉を詰まらせた。『……よくも我らの体を! 貴様らの自由にはさせぬ! 女帝陛下に何としてでもこの事をお伝えし――』
別の声音がそう言いかけて、だが、すぐに元の声に戻る。
『いやはや、ったくコイツはしぶとい。 お前達はどうだ? いや、流石にサンダルフォンやメタトロンにはこんな事は起きないか』
「いやミカエル、それがこの男も、義理の娘のために何度鎮圧しても刃向ってくる」サンダルフォンが言った。「愛とは実に下らぬものだな」
「娘か。 そう言えば、この男にもオットーと言う名の息子が――」メタトロンが次の瞬間ぐうっと呻いた。「テメエら、こんな事をたくらみやがって! 俺は絶対にテメエらのお人形をやるつもりは無い! ぐう、う――!」
だが、その声はあっと言う間に消える。
「……息子の名がきっかけか」
メタトロンが、忌々しげに、言った。
「危険の芽を摘むには早いに越した事は無い。 私は、少し、出かけてくるとしよう」
『ついでに三人の魔女も殺して来たらどうだ?』
竜『ミカエル』が挑発的に言った。
「善処しよう」メタトロンは去っていった。
……とある街のおんぼろアパートの一室は、美味しそうな料理の匂いで満ち溢れていた。
リズミカルだけれど音痴な鼻歌を歌いながら、若い女がことことと煮えている鍋の中身をかき回している。
ふと彼女は手を止めて、鍋の火を止めた後、その手でそっと己の下腹部に手をやって、心底嬉しそうな顔で優しく撫でた。
『まだ二か月目ですから、安静にしていて下さいね』
医者の言葉がよみがえるが、今の彼女は嬉しくて嬉しくて、とても安静になんかしていられなかった。
とにかくじっとしていられないのだ。
じっとなんかしていたら、彼女の中の嬉しさが、どんどんと風船みたいに膨らんでしまって、ついにはぽぽーん!と星屑を散らして弾けてしまいそうで。
「あの人」と愛しい人の顔を思い出してふと口にする。「喜んでくれるかな……?」
その時、だった。ぴんぽんぴんぽんぴんぽん、と連続で三回チャイムが押された。
このアパートのこの部屋のチャイムを三回連続で押すのは、あの人しかいない。
あの人が帰ってきた!
慌てて手を洗い、満面の笑みで彼女はキッチンを離れて、玄関へと走った。
「お帰りなさいイノツェント!」
彼女は何も知らない。
これから彼女を待ち受けるあまりにも絶望的な悲劇も、虚しいだけの惨劇も、暗黒の運命も、今は何も知らない。
……これは私だった。
これが私だった。
馬鹿で間抜けで頭が足りなくて、
でも、それでも、愛していた。
愛していたんだ!
だからヤツの子供が出来た時、本当に嬉しかった。
嬉しくて嬉しくて、ヤツもヤツの子供も本当に愛おしくて。
あの愛おしさと幸せを、ずっとずっと、抱きしめて頬ずりしていたかった。
なのに。
ヤツは最後に私の子宮をわざと喰った。
私の愛情の中であの子が揺らいでいた子宮を、私の目の前であえて喰った。
憎い。
にくい。
にくい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
私が殺されたとか私の脳味噌が取り出されて兵器に使われたとか、そんなのはどうでも良い。
あの子を殺したヤツだけは許さない。
復讐の炎は地獄のように我が心に燃え、死と絶望が我が身を焼き尽くす!
私がヤツを苦しめて永劫に咎を受け続けさせねば、私は私では無くなる。
そうだ、全てが。
私とあの子の亡霊の全てがヤツだけは許すなと絶叫している。
ヤツは私への恐怖から事実認識すら拒んでいた。
要するに逃げていたのだ、ヤツは。
私とあの子を殺して壊して利用して自分だけ生き残った、その現実から。
逃がすものか。
髪を掴んで顔を向けさせ、眼をこじ開けさせてこの現実を見させてやろう。
お前が喰った私の肉は美味かったかい?
甘かったかい?
私の新鮮な肉は脂肪は骨は血液は、旨かったんだろう、さぞや!
だから全部、頭以外は丸ごと生きたまま喰ったのだろう?
そう問い詰めた後に、お前があの子に何をしたか耳元で何千回も囁いてやろう。
お前があの子を殺したんだ、と何千回も優しく言ってやろう。
聞け、復讐の神々よ、母の呪詛を聞け!
これが私の復讐だ。
お前を苦しめて苦しめて苦しめぬいてそれでもまだ足りない。
お前を破滅させて破壊してこの世界から全存在を抹消してもまだ足りない。
私の憎しみを晴らすものはもはやこの世界に存在しないのだ。
ぶち殺す、それは何と生易しい復讐なのだろう。
自殺させる、それは何と生ぬるい仕返しなのだろう。
大事なものを全て目の前で犯し殺す、呆れるくらい可愛い所業だ。
私は。
私はお前に一瞬のまどろみすら与えない。
一瞬の現実逃避をも許さない。
ショックで打ちのめさせもしない、打ちのめされる余裕など許さない!
そうだお前は少しの間も少しの刹那も少しの須臾も休めずに、己の罪に押しつぶされるのだ。
未来永劫!
終わらない罪過に苦しめ!
いや、苦しませてやるのだ。
この手で。
この憎悪で!
この激情全てで!
お前の全てを焼き尽くし焼き苦しめ、だが、それでも焼き殺してなどやるものか!
お前は言ったな、自殺したいと。
死にたい、と。
殺してくれ、と叫んだな。
その望みは未来永劫に叶えられる事は無いのだ。
お前の背後にはいつだって私とあの子の亡霊が立っている。
あの子の小さな小さな手が、お前の魂をもバラバラに引きちぎり、八つ裂きにして叩き潰して破滅させても、それでもお前は死ねないのだ。
まだ私は足りない。
私の復讐はまだ、まだ、まだ、まだまだ、おののき震えるお前相手に何千回繰り返そうとも、まだ足りないのだ!
世界を滅ぼしても世界を滅ぼそうとも、私はいつまでもどこまでもお前を執拗に追い回して言ってやる、叫んでやる、絶叫してやる、
――よくも殺したな、あの子を!
「実験、成功」隣で大天使が何か言っている。「これだけの魂があれば……充分すぎるだろう。 我々はこのエネルギーを『セフィラー・マルクト』へ移送し、当施設より撤退する」
「もっとヤツを苦しめろ」私は言った。
「それは君に一存しよう。 ヤツの全ては今や君の掌中にある」
大天使はそう言って、また手を鳴らした。
立ち上っていた光銀の柱が消えて、ヤツの絶叫も終わった。だが、ヤツはそれでも震えているのが私にも分かる。私が恐ろしいのだ。私と私の赤ちゃんを殺した事、己の犯した最大の原罪が恐ろしいのだ。
「では、後はご自由に」
大天使達はそう言って去って行った……。
私は冷凍コンクリートの上に降り立つ。そして、優しい声で言ってやった。
「私と私の赤ちゃんを殺した気分はどうだった、イノツェント?」
『……俺は……。
俺は死にたかった。
ずっとずっと死にたかった。
お前を殺して俺が生き延びて、何て空しい生だろうといつも感じていた。
だけど、それだけじゃなかったんだな。
俺は死ぬことさえ許されないほど、お前に憎まれて当然だったんだな……。
ごめんな、ヘレナ、俺とお前のガキ。
ごめんなあ……。
俺がお前から奪ったものは命だけじゃなかったんだ。
お前の希望、幸福、満足感、そう言うものの一切合財を、俺は……。
そしてお前に悲しみだけを残してさ。
真実ってのはどうしていつも残酷なんだろうな。
いや、俺が現実に有りえない夢を見ていたからだ。
酒におぼれて、真実から逃げて、恐怖から目を背けて、でも、もう、逃げられない。
俺はもう逃げない。
逃げたって、な、ヘレナ、お前から離れたら、俺はもっとお前を傷つける。
俺はこのまま、ここで、お前の復讐を喜んで受け入れるよ。
ああ、そうさ、この世界に神はいない。
救世主など、もう、来やしない……。
俺は救われたいとももう思わない。
そんな甘い考えはもはや俺には許されないんだ。
ヘレナ、さあ俺を苦しめろ、世界が終わっても、永遠に。
お前の望みが叶う事が、今の俺の願いだ。
お前と俺達の子供を殺した俺の、悲願だ』
それを聞いた瞬間、ヘレナの中で感情が爆発した。彼女は拳を冷凍コンクリートに叩きつけた。轟音がして、冷凍コンクリートに深い亀裂が走る。
「何が悲願だ、何が逃げないだ、もう遅い!!! お前があの子を殺した、その瞬間から全てこうなる事が決まっていたんだ! お前はあの子を殺した、喰い殺した! 産声を上げる事すら出来ず名前を付けられる事も無くあの子は死んだんだ!」
『……そうだ、俺が殺した。 俺の薄汚い命のために殺した。 そしてその事実を拒絶し続けてきた。 俺は「忘れる」事が出来ない。 記憶が美化される事も風化する事も無い。 だから俺はあの瞬間をあの瞬間のまま、お前の望むように見続ける。 俺はあの時死んでいれば良かった。 何かを生かすには何かを殺さねばならないのが世界の条理だとしたら、俺はお前達を生かすために素直に死んでいれば良かったんだ。 悪魔の誘惑に乗って、それを俺が捻じ曲げさえしなければ、お前は、きっと、あの腕であの子を抱きしめていられた』
「そうだ! お前が死んでいれば良かったんだ! あの時、あの時、死んでさえいれば良かったんだ!!! そうすればお前は私の中で美化されて生きていて、あの子にお前の思い出を話していた! 全部全部全部、お前が死んでさえいればお前は今も苦しまずに私もあの子も苦しまなかったんだ!」
『……ヘレナ。 ごめんな。 俺が、お前の、優しい腕の中に帰りたい、あの時そう思った所為で……』
「!!!!」
彼女はただただ、拳を冷凍コンクリートに叩きつける、もはや蜘蛛の巣のように亀裂は広がっていた。それでも彼女は叩きつける。
『お前の今の体でも、もうそれ以上は辛いだろ。 もう止めとけ、俺が言えた事じゃないが、もう、止めとけ』
「黙れ!」
『……』
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!!!!!」
その時だった。彼女らは探知した。彼女らがいる施設へ、戦略核ミサイルが迫ってきている事を。
『……ヘレナ、逃げろよ。 お前の機体でもあれは直撃したら蒸発する』
「黙れと言っている!」
『黙れねえよ。 お前の復讐が終わってしまったら、俺からは「何にも無い事」さえ消えてしまうんだ』
「お前の事など知った事か! 永遠に一人ぼっちになってしまえ!」
『……愛が分からない。 だから俺は数千年を孤独に過ごした。 愛が分かったと思った直後、分からなくて絶望して第一次統合体化現象を起こしてしまった。
でも、お前の事、俺は今でも好きなんだよ。 きっと好きなんだ。 あれだけ酷い事しておいて何を今更って我ながら思うが――それでも、だ』
「じゃあ死ね、地獄に堕ちろ!」
『地獄は、俺の揺りかごみたいなものだから、意味が無いさ。 なあ、俺があの時「聖王」に服従を誓い、お前を兵器に貶めてまでどうして生かしたかったか、それはきっとこの時を待っていたからなんだよ。 お前の復讐を待っていた。 だから、俺は、お前だけは死なさない。 未来永劫に俺の咎に鞭打つ存在を俺は待っていたんだ。 鞭打たれる事で咎が何一つ軽くなる事も微塵も減る事も無い、俺の気持ちもお前の憎しみもどうなる訳じゃない、だが俺は待っていた。 ずっとずっと待っていた。 だから、お前だけは死なせる訳には行かないんだ』
何重もの層となっていた分厚い鉄板と冷凍コンクリートが、その最下部からぶち破られた。大きな穴が開く。
六対の黒翼の天使が、そこからゆっくりと浮上してくる。
「……」
ヘレナは、黙っていたが、やがてその場にくずおれて、顔を手で覆いつつ、言った。
「……帰ろう。 お家に帰ろう、イノツェント」
天使は頷いた。
「ああ、帰ろう。 帰ろうな、俺達の家に」
おんぼろの安アパート、西日が差し込む部屋。
そこは、あの日のまま時が止まっていた。
だが、壁に貼られた色あせた写真や薄っすらと窓辺に積もった埃が、あれから何年も、何年もが過ぎてしまった事を知らせていた。
「――」
ヘレナはソファに腰掛けた。隣にはI・Cがいる。
夜が来て朝が去って、それが何サイクルか繰り返されたが、彼らは動かずにそこにいた。光と闇の他に部屋を訪れる者も無く、時だけが流れた。
……ある日の、夜の事だった。
「過激派の空軍か」戦闘機の飛行音が聞こえて、I・Cがふと言った。爆撃音も同時に聞こえた。どうやら彼らの住んでいた街は、爆撃されて滅びるらしい。
「構わない。 何もかも全て、破壊され燃え落ちて滅びれば良い」
ヘレナはそう言って、窓から赤々と見える炎を見つめた。あの炎の下で、数多の命が、そしてそれらの命が築き上げてきたものが焼けて死んで行くのだ。
「ああ」I・Cは何気なく言った。「もしもあの時、俺が敵軍を全滅させてただ一人帰還したって話を聞いた聖王が、ここに来なかったら、俺はきっと全てを破壊して滅ぼしていただろうな」
「聖王は、どうしてどうやってここに来たのだろうな。 ここは、『
それは被差別民の名であった。かつては魔族と同じくらいに、そして今では世界で最も忌み嫌われている民族であった。
「あの男は人間の出自よりも成してきた事でその人間を判断したからな。 ……かつて『救世主』を輩出したがために偽神に呪われて、その所為で『近づくと不幸を招く』運命を背負わされた一族『呪われし民』。 生まれついての運命ゆえに世界中で迫害されてここが俺らの最後の居場所だったって事も、あの男は権力者ゆえに知っていた。 でもな、だからってあの男は己の不幸を恐れるような男じゃなかった。 残酷な運命に立ち向かう勇気と、信念を持っていたからだ」
「そうか」
二人のいる世界が炎に包まれていく。煙が視界を覆い尽くし、何もかも燃やし尽くしていく。だが、それでも二人は『終われない』のだ。
「私達は、どうやったら、この運命から解放されるのだろうな」ヘレナが呟いた。
「死ぬ事ですら俺達の救いにはならないんだ。 運命の手から逃れられる者はいない。 神でさえも例外なく。 ……いや」ここでI・Cは少し黙った。「あの女なら、知っているかも知れない」
「誰だ、それは?」
「帝国開闢以来の唯一絶対君主『女帝』リリス・ソフィアさ」
帝国帝都シャングリラの帝宮御苑。その最深部に彼女はいた。泉の側に立っていて、じっと泉に映る己の顔を見つめていた。辺りが黄昏に包まれてゆく中にも分かる、中年の女の、しわが増えた顔を。彼女は顔を上げた。厳重な、それこそ帝国で最も厳戒態勢で警備されている場所のはずなのに、侵入者が二人もいた。
「きましたね、サタン、そしてヘレナ」
だが、彼女はまるで懐かしい者に会ったかのような、穏やかな微笑みを浮かべた。
「リリス・ソフィア。 どうすれば俺達は――」I・Cが言うと、彼女は首を横に振った。
「この世界の運命から逃げる手段も脱出する力も、今の私にはありません。 ですが、彼ならば可能です」
「ヤツか? だがヤツはいつまで経っても――」I・Cは怪訝そうに言った。
「ごらんなさい」彼女は天空を仰いだ。ゆっくりと夜が空を染めていき、星が美しく輝き始めた。「彼は、必ずもどってきます、それも、もうすぐに。 ですが、それを許さない者も暗躍している」
「ヤツとは誰だ」ヘレナが言った。
「貴方がたの言葉では、そうですね、『救世主』とよばれていました」と女帝が答える。
「……」ヘレナは黙った。
「もしも貴方がたが、救いを望むのならば、彼が
女帝はそう言って、にっこりと笑った。
「……生きているのか」ヘレナは呟いた。
「ええ、ちゃんと。 貴方がたを、今もまっています。 早く戻らないと、しびれをきらしてしまうでしょうね」
女帝の微笑みは不思議なものであった。何と言うか、それを見たが最後、一切彼女の言いなりになってしまいそうな、謎めいた微笑みなのだ。
「リリス、お前は
「今の私には、その力がないのです。 サタンよ、貴方がどれほど願っても、それを叶える力は私にはありません。 ただ、貴方が覚悟を決めた瞬間、運命に立ち向かう事を決めた瞬間、貴方をそうさせた要因が、貴方をきっとかえてくれるでしょう」
「……」I・Cは考え込む。
「おもどりなさい。 そして、実感なさい。 この世界の運命は残酷で無慈悲ですが、温もりもあるのだと」
女帝はそう言って、まばゆい白銀の月に目をやった。
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