第32話 【ACT三】白鳥湖

 和平派、強硬派と完全決裂、過激派と強硬派へ同時宣戦布告。

強硬派、過激派と同盟を締結、帝国セントラル・穏健派・和平派へ同時宣戦布告。

 また世界には激震が走った。

特にそのニュースを受けた列強諸国では、これにどう対応するかで大騒ぎになった。

かつてクリスタニア王国が滅びた時、その最大の原因が王政から立憲君主制への移行の失敗だと知った彼らは、血相を変えて立憲君主制に政治体制を変えた。

そしてつい先日、ゲルマニクスに過激派が行った最低最悪のテロにも、彼らは震え上がった。

 これらの情報を踏まえて、真っ先に決断を下したのはゲルマニクスであった。

和平派・帝国・穏健派に付き、過激派と戦う。

全ての列強諸国が、それに賛同するしか無かった。どの国も王子を拉致して洗脳して変貌させ、祖国に対してテロ行為をさせるような連中と手を組んで、酷い目に遭わないとは思えなかったからだ。

彼らの意思が珍しく一致した。

ここで、それまでいつも対立していた列強諸国の利害も一時的に一致する。

その時、アルバイシンの若き国王イグナティウス八世が、隠密に列強諸国各位にある事を提案したのだ。

『「ネオ・クリスタニア」を結成しないか』と。


 クリスタニア王国。それはかつて列強諸国に君臨した一大世界勢力で、国王の代が変わった途端に滅びた、列強諸国にとっては憧れであり目標である幻の国。

 『ネオ・クリスタニア』とは、その名前を借りた、列強諸国全てを包含する同盟――否、正確には列強諸国全ての勢力を結集した新世界勢力であった。

 「馬鹿げている、とかつての私達ならば一蹴したでしょうが」モンマルトル王国の老女王ライラが考えつつ、首相ベルナールに言った。「一利と一理のある案ですわね。 列強諸国の力は単体ではとても聖教機構や万魔殿には敵わない。 ですが集合し結集すれば――太刀打ちも不可能では無い。 中々、あの若造も小憎い提案をしますこと。 議会の反応はいかがです、ベルナール卿?」

「珍しく与党も野党も同じ反応でございます、陛下。 『ゲルマニクスと同じ事をされるくらいならば、今までの恨みを一時捨てて、手を結んでやっても良い』と」

女王は頷いてから、

「問題はどこで我々が集会を開き、この問題を議論しあうか、ですわね」


 万魔殿穏健派の若き幹部オットーは、自分が何かの精神疾患を発症しているのだ、とついに思った。

この頃の彼はおかしかった。

捕虜収容所で起きていた事件を解決した後、そのまま収容所の所長になる事が決まった彼は、暇さえあればぐるぐると所長室の中を歩き回っていた。とても落ち着いて座ってなどいられないのだ。座っていると、あの顔が脳裏に鮮明に浮かんでしまう。


 オデット。


彼の友達だったJDジェラルディーンを殺したも同然の女の顔が思い出されて、その都度胸が苦しくなり、イライラして、それは寝ようとすると余計に酷くなるので彼はこの数日間微睡んですらいない。魔族の彼の身体的には大した事では無いのだが、胸のざわめきと苦しみが心臓を段々と貫くようになってきたので、ついに彼は自分がとうとう何かの精神病にかかったのだと思った。

この頃の俺はおかしい。

彼は鏡を覗き込んで、頷いた。鏡には彼の顔が映っている、だが、彼に見えているのはオデットの顔であった。

……ついに幻覚が。

俺は狂ったんだ。畜生め!

 彼が悶々とした気分のまま鏡を睨みつけていると、不意に彼の背後から、

『どうしたオットー坊や』

鏡にはオットー以外誰も映っていない。だがオットーは振り返らずに、

「アスモデウスさん、俺は狂ったようだ」と言った。

『狂った? そんなにここの仕事が過労だとは知らなかった、今すぐ静養させよう。 ウトガルド島が良いか、それとも風光明媚な――』

「俺がむしろ行くべきは精神病棟だ」オットーはそこでようやく振り返った。

彼の背後には、美しい青年が立っている。青年は困惑しきった声で、

『精神病棟……?』

「そうです、アスモデウスさん。 俺は気が狂った」オットーは不愉快そうに己の頭に手を当てた。

『何だ、幻覚でも見えるのか?』

「見える。 あの女の顔が四六時中ちらついて、俺は眠る事すら出来ない!」

美青年が驚き、それからいきなりにやりと笑ったのでオットーは戸惑った。

『それはな、オットー坊や、恋だ』

オットーも驚いた。

「恋ぃ!?」

『どう考えてもそれは恋だ。 お前はその女が憎いのか?』

「……憎い、も、何も……」

あの女は俺の友達を殺したも同然の行いをした。憎くない訳が無い。だが、今の彼は憎いとはっきり言う事が出来なかった。

『やはり、答えられぬか。 ならば余計に苦しいだろう? 辛いだろう? その治療法を教えてやる。 押し倒してしまえ。 その後は成り行きだ。 まあお前なら拒む女もまずおらぬだろう』

「そんなふしだらな事が、」

出来るか、と怒鳴りかけた彼の肩にぽんと手を置いて、悪魔のように悪魔は言った。

『青春だな、オットー坊や。 万が一責任を取らねばならぬ事態になっても、お前ならば心配は要らないと我は思い込んでいる。 まあ、精々、応援しているぞ』

 そして悪魔は消えてしまった。残ったのは、怒鳴りかけて怒鳴れないオットーだけであった……。


 「恋」

実にふざけた言葉だとオットーは思う。

要は交尾したいのを上手く誤魔化しているだけの代物ではないか!

そんなものに良いように支配されている自分が情けなかった。

恋の結末、結論は何か。そんなものは『妊娠』だと決まっている。

俺自身、母親の一方的な恋の果てに生まれたのだ。

ふざけている。

俺はそんなものに騙されはしない!

 オットーはそれで決心して、オデットに正面対決するべく会いに行った。会って決別するつもりであった。オデットは医療室にいて、ベッドに腰掛けて、火傷した痕からやっと生えた短い金色の髪の毛をとかしていた。

だが、その姿を見た途端に、オットーの頭から決心だの正面対決だのと言った言葉は全て失われてしまい、代わりに彼は何と言葉にするのかさえ分からない困惑と凄まじい混乱を抱え込んだ。

(俺は狂った!)オットーは思わず、頭を抱え込んだ。

『オットー!』

はっと顔を上げると、医療室の窓ガラスにオデットが目を丸くして額を押し付けていた。美しい、青い目をしていた。その目は涙を浮かべて、

『会いたかった、オットー……!』

 オットーはもう自分が理解できなかった。自分も自分のしている事も理解できなかった。彼はいつの間にか医療室の中にいて、オデットのベッドに腰掛けていた。

その隣にはオデットがほほ笑んで座っている。

言葉は邪魔だった、二人は寄り添って座っているだけで破裂しそうなほど満足していた。

 やっと見つけた、己の半分。

 オットーはふと、そう思った。


 『おいアスモデウス、どうなんだ、やったのかやらないのか』

『まだやっていないぞ、ヴァルプ。 早くやれば良いものを。 見ているこっちが段々耐えられなくなってきたぞ!』

『折角カールの孫の顔が見られると思ったのに。 何と言うがっかりだ。 僕は心底から失望している』

『まあまあヘカーテ。 どうせその内くんずほぐれつになるわよ。 何ならアスモデウス、媚薬をオットーに飲ませてしまいなさい』

『……まるでモルモットに注射を打つ研究者のように言う……』

『あら、何か気に障ったかしら、アスモデウス?』

『いや、何も、ルーナ』


 「大変だ大変だ!」と叫びつつ、穏健派幹部のアッシャーが会議中の会議室に遅れて飛び込んできた。

「お前の遅刻の方がよほど大変だ!」と叱った幹部のマルクスに、

「いやいやいやいやいやいやいやいや! オットー坊やがついに恋をしたらしい!」アッシャーは自慢そうに言った。

「何ですって!?」餌にピラニアのように食いついたのは幹部のエウジェニアであった。「どこの誰と!? まさか男と!?」

「安心しろ、どうも捕虜の女と恋に落ちているらしいぞ! アスモデウスさんが愚痴っていた! まだやらないのかそれでも男なのかとブツブツブツブツ……!」かく言うアッシャー自身も『まだなのか』と言う顔をしている。

「純愛! きゃあ、素敵!」エウジェニアの秘書のMs.カリスが顔を赤くする。

「……あのこんなに小さかった生意気な小僧が……ああ、私も年を取った……せめて死ぬ前にオットー坊やの息子の顔を……」感慨深そうなマルクス。

 だが、この場にただ一人だけ、冷静で常識的な人物がいた。

「あのう。 捕虜の女とそんな仲になってしまうとは、彼は所長失格だと私は思う」

幹部ロットバルドが、ただ一人、渋い顔をして、そう言った。

「そうよ! 所長なんか今すぐに辞めさせて、どこか湖畔の別荘にでも罰としてその女と監禁するべきよ!」エウジェニアは素でボケた。仕方なくMs.カリスが突っ込んだ。

「違いますよ、オットー坊やの職務怠慢を責めていらっしゃるんです、ロットバルドさんは」

「その通りだ」この理知的で怜悧な顔をした男、ロットバルドは言った。「第一この戦時に呑気に恋などしている余裕は無い! オットーを更迭しよう。 話はそれからだ」

「この石部金吉!」罵ったのもエウジェニアであった。「初恋をそんな形で踏みにじったらオットー坊やは一生貴方を恨むわよ!」

「Ms.カリス」ロットバルドは冷静に、「済まないが彼女をここから連れだしてくれ」

「……非常に不本意ですが、はい」酷すぎると言いたげな、心底嫌そうな顔をして、秘書は抵抗するエウジェニアを会議室から渋々と引きずり出した。残ったのは、エウジェニアと同じかそれ以上に不満げな顔をした幹部達であった。

「貴方がいつも恨まれ役を買って出ている事は知っていますが、これはいくらなんでも……」アッシャーが思わず言った。

「何とでも言いたまえ。 私は大帝が生きていた時からずっとこの立場にいるのだから」ロットバルドはそう言ってから、「さてオットーの処分だが、やはり戦場に行かせるべきだろうな」

「……どこの戦線に?」マルクスが訊ねる。

「激戦区であればあるほど良い。 オットーが行けば自然と士気は高揚するし、彼は優秀な指揮官だ」

「了解、しました」マルクスは明らかにむっとした顔をした。あまりにも処分が厳しすぎないか、そう思ったのだ。それを悟ってかロットバルドは、

「その前にオットーに『彼女達』と会わせる時間を与えよう。 これが私の出来る最大限の配慮だ」


 『アスモデウス、オットーに今すぐ女を押し倒せと伝えてくれないか』

『それじゃ甘い! 婚姻届だよ! この際出来るのが先か結ばれるのが先かなんて構うものか! 脅してでも書かせるんだ!』

『身重の女は私達で預かると言ってみたかったわ……残念よ……』

『いや、もう、手遅れだ』悪魔は柱の陰から泣きじゃくる女と彼女を慰めるオットーを見て、言った。『二人の会話を聞け』

「嫌! 貴方と離れたくない! お願い、せめて連れて行って! 私も戦うから!」

「必ず戻って来るから。 俺は、必ず君の所へ戻って来る。 それまで待っていてくれ。 約束する」

「オットー!」

「……オデット」

『お、やっとキスしたか。 ここまで実に長い道のりだった……』

「じゃあ、俺は行く。 また会おう、オデット」

「ええ……オットー……何年だって待っているわ……!」

 『え!? そ、それで終わるのか!? そこは押し倒すべきだ、坊や!』アスモデウスは嘆いた。『これだから全く童貞は!』

『……どうやら私達は坊やの教育を間違えた』

『間違えたね……大間違いをした……一回はウトガルド島の娼窟にぶち込んで、徹底的にただれた生活を送らせるべきだった……』

『一五歳の時に、目の前で、ベッドの下に隠していた「いやらしい本」を全部焼いたのがいけなかったのかしら?』


 オットーは瞬間転移して、『天翔ける嵐を呼ぶ船』に乗った。そこの甲板には小さな木製の円卓と、可愛らしい椅子がいくつか並べられていた。円卓の上ではクッキーと紅茶が美味しい香りを立てている。

そこには三人の女がいて、椅子に腰かけて円卓を囲んでいた。

若い娘と、成熟した女性、そして老婆。

オットーは彼女達の所へ歩み寄ると、ひざまずいた。

「只今戻りました、『三人の魔女』よ」


 若い娘――破壊の魔女ヴァルプルギスは、返事の代わりにオットーにいきなり蹴りをぶちかました。それは、だが、オットーの右腕によって防がれる。ちっ、と彼女は舌打ちをして、

「おい。 お前は何で童貞を捨てなかった。 捨てるべき時に童貞は捨ててしまえ!」

「え?」とオットーはここでとんでもなく嫌な予感がした。「……まさか、聞かれていましたか!?」

「ああ、全部聞いたさ。 大体アスモデウスがオットーに薬を飲ませないから悪いんだ!」老婆、死の魔女ヘカーテが八つ当たりで怒鳴った。「そうすれば今頃オットーは!」

ヴァルプの影から声がして、仏頂面の顔の美青年が出てきた。

『我は飲ませなくとも放っておけば必ずやると思ったのだ。 やればできる。 それが男女の摂理ゆえに、そう思ったのだ……大体アッシャーの大間抜けがロットバルドに知らせず、ロットバルドの大馬鹿が邪魔さえしなければ、今頃は……!』

「教育をどこで間違ったのかしら。 また一から躾けなおすべきかしら。 その前にもうどこでも良いから娼婦宿に監禁して良く効く媚薬をありったけ飲ませて女まみれの生活を送らせるべきかしら……」さり気なく恐ろしい事を言ったのは成人した女性、再生の魔女ルーナだった。

「俺の恋に口を挟むな!」とオットーは絶叫するように怒鳴った。「余計なお世話だ!」

「「恋路の世話焼きほど楽しい事は無い」」

魔女三人は、口を揃えた。そして揃って邪悪な笑みを浮かべた。オットーは後ずさった。

『と言う事でだオットー』アスモデウスがオットーに向けてにっこりと微笑み、『お前は今から一週間この船の船室から外に出られない、出たらこの女は殺す』

オットーは目をひん剥いた。

「オデット!」

いかにもこの船の船長らしい壮年の男が、拘束着を着せた女――オデットを抱えて来たのだ!

「F・Dさん、遅かったですわね」とルーナがにっこりと笑む。「もう、待ちくたびれちゃいましたわ」

船長F・Dは不器用に笑って、

「申し訳ない。 だが、ちゃんと連れて来たぞ。 ええと、後はこの女を一等船室に放り込んで、足に鎖をつけてから船室に鍵をかければ良いのだったな?」

「そうだよF・D。 絶対に外れないような拘束鎖をかけてくれ」ヘカーテも微笑んだ。

「や、め、」止めろと叫ぼうとしたオットーの頭が、背後からがつんと殴られた。意識を失う前に聞こえたのはヴァルプルギスの声で――。

「黙れ。 さっさと子作りして来い! カールの孫の顔を見せろ!」


 もう、何もかもが滅茶苦茶だと思った。

「……」

「……」

まるで、動物園で飼育されている動物の繁殖のようだと思った。

オットーとオデットは声も無く、ベッドの両端に離れて腰掛けて、うつむいている。

もはや雰囲気も何も無い。

これは何の拷問だろうと彼らは思った。

そんなに交尾が見たいのなら娼婦宿に行けば良いじゃないか。

何でよりにもよって自分達の――!

恋に恋をして夢見心地で幸せだったのがいきなり生々しい現実に突き落とされた気がして、彼らは泣きたくなった。恋愛は自由である。特にそれが結婚もしていない成人男女の恋愛ともなれば、浮気は別として、自由である。そこに世話焼きババア共がいきなり介入してきて、好き放題引っ掻き回して滅茶苦茶にしたのだ。

オットーは戦場に行くつもりであった。

行って、帰ってきた後のオデットの笑顔が見たかった。

オデットは待つつもりであった。

いつまでも待って、オットーの無事を信じていたかった。

いわゆる生々しい事はその後で、と二人は口にせずに淡く思っていた。

それがこれである。

シャボン玉のように繊細で美しかった恋は、跡形も無く破壊された。

 見つめあう事すら出来ず、今の彼らはただただ落ち込んでいた。


 『おいアスモデウス、やったのか? やったのか? やったんだろうな?』

『いやそれが全然そんな雰囲気では……変だな?』

『変だねえ。 男女を密室に閉じ込めるといつの間にかやり出すと言うのは嘘だったのかな?』

『それが、むしろ今にも自殺しそうだ』

『発情期の獣みたいにならないのかしら? おかしいわねえ?』

『うわッ!』

『どうしたアスモデウス!』

『坊やが我を見つけるなり絶叫して切りかかってきた、一時撤退するぞ!』

『……つまんないねえ』

『つまらないわねえ』


 帝国貴族の青年が、現在、戦略同盟を組んでいる穏健派と情報を共有しあうべく、使者としてやって来た。彼の名前をエンヴェルと言い、従者の青年を一人連れていた。

彼らはロットバルドらと話し合った後に、思い出したように訊ねた。

「そう言えばオットーは元気にしているか? 実は内々に伝えたい事がある」

このエンヴェルは、オットーが帝国に漂着した時に知り合いになった貴族の一人である。

「私を介して伝えられない内容の事でしょうか?」ロットバルドが言うと、

「……」かなり難しい顔をしてエンヴェルは黙り込み、それから従者とひそひそと話し合った後で、「いずれはオットーの口から貴殿にも伝わる、いや、伝えねばならぬほどの重大な事項じゃ。 だが、まずはオットーに伝えたい」

「……分かりました」


 オットーはエンヴェルに会うなり、その手を握って、

「助けてくれてありがとう!」と感激して言った。

「む? そんな昔の事は気にせずとも良いのじゃ」エンヴェルは変な顔をした。

「いや、今も俺は困っていた、そこをお前が助けてくれた、ありがとう!」

「……良く分からぬが、分かった。 実はな、おぬしにどうしても伝えねばならぬ事がのじゃ」

奇妙な言い回しであった。エンヴェルの顔は、暗く、重い。

「発覚した?」オットーはどうしたのだろうと思いつつ、繰り返した。

「そうじゃ、発覚した。 実は大帝の子供は、オットー、おぬし一人だけでは無いのじゃ」エンヴェルはそう言って、悲しさを噛みしめた顔をした。

「俺に兄弟が!?」オットーは心底驚いた。

「そうじゃ。 叔父上の残した遺書の中でそれが発覚した」

 刹那、ざっと血の気が、全身から引いていくのを、オットーは感じた。

 エンヴェルの叔父とは、オデットの亡き実父だったからである。

「オデットの父親は叔父上では無かった。 大帝だったのじゃ。 ある時大帝は我らが帝国へやって来た。 その時に大帝は自身も知らずに叔父上の妻と寝てしまったのじゃ。 独り寝では寂しかろうと叔父上が手配した女と、大帝に懸想した叔父上の妻が入れ替わったのじゃ。 全ては一度の過ち、ただ一度の恋の過ちであった。 だが、それでオデットは生まれた……」

 ――俺も彼女も、望まぬ恋の果てに生まれた!

オットーは、元々青白い顔が真っ白に近いほど、血相を変えていた。

その様子がおかしいと察したエンヴェルの従者のセルゲイが、はっと顔色を変えてオットーに囁いた。

「まさかオットー、アンタ、姉さんを!?」

このセルゲイは、エンヴェルの叔父の庶子だが実子で、オデットの乳母の子であった。つまり、オデットの義理の弟にあたる。

「……そうだ」オットーは、震える声で言った。「俺は彼女を愛している」

「……ごめんな、姉さんが本当に俺の姉さんだったら、素直に祝福出来たのに。 だが、もう、諦めてくれとしか言えない……」

「あ、ああ……!」オットーは、膝をついた。「俺は、彼女を! 愛している!」

 それは嗚咽のような、悲鳴のような、どうしようもないほどの愛と絶望を抱え込んでしまった者の、生々しい叫びであった。


 オデットは俺の異母妹だった。オットーは彼らの世界が慟哭と共に崩壊するのを感じた。オデットは俺の妹だった。オットーは世界が壊れたのにそれでも壊れようとしない己の思いに苦しんだ。オデットとの恋は絶対的禁忌だった。オットーは、知ったからこそオデットの事が余計に愛おしくてたまらなかった。俺の恋人は俺の妹だったのだ。

この恋は許されざる『禁忌タブー』だ!

 恋なんか。

恋なんか、いくらロマンを唱えようと、結末は妊娠だと決まっている。

 だがオットーはその恋のど真ん中に墜落して、そして溺れるように沈んでいくのだった。


 船に戻ったオットーは、打ちひしがれている三人の魔女と、彼と目を合わせようともしないアスモデウスや船長を見た。

その気まずさが異常なので、オットーは船長にゆっくりと話しかけた。

「もう、ご存じなのですね」

「あ、ああ、うむ……」船長は視線を泳がせて、「まさか、また起こるとは」と口を滑らせた。

「馬鹿! 言うな!」ヴァルプルギスのハイキックで船長は吹っ飛ぶ。

「言って下さい」だが、もうオットーは覚悟を決めていたし、何より諦めなければならないと強い意志を持って動いていた。感情がそれに伴っていないだけだった。「二度目なんですね、『高貴なる血ブルーブラッド』同士でこう言う事になったのは」

「……そうだよ、二度目だ」ヘカーテが遠い目をして言った。「お前の親父である大帝は兄妹の近親相姦の果てに生まれた。 当事者も僕達も知らなくて、全てを知ったのは大帝が腹の中にいる時、何気に遺伝病が無いか遺伝子検査をしてみよう、と僕達が言い出して、そのついでで発覚した。 何の事は無い、嫡子と浮気の隠し子同士が愛し合ってしまったんだ。 せめて全ての原因であるあのバカ男がその時まで生きていれば……だが、もう、手遅れだった。 嫡子の方はあんまり体が丈夫じゃない男だったんだが、ほとんどその所為で大帝が生まれる前に死んだ。 隠し子の方も、その後を追うように大帝を産んですぐに――。 残ったのは何にも知らない赤ん坊の大帝と、どうしようもない運命の無慈悲さに絶望した僕らだった」

「どうして、オデットは血が青くないのですか」オットーは問うた。

「『高貴なる血』の遺伝は劣性なの。 両親ともに高貴なる血ならばオットーのように血は青いわ。 でも、片親だけ、となると、出てくる可能性は極度に下がる。 彼女の場合、それが幸いして、帝国でも育てられたんでしょうけれど」ルーナがハンカチで目元を押さえた。

「お前はこれからどうしたい」ヴァルプルギスが、オットーに訊ねた。

「予定通りに、戦場に行きます」

「死ぬつもりか」

「分からない、んです」オットーは笑ったが、まるで泣き顔であった。「今の俺には何も分からない。 でも、戦場に行けば答えは見つかるような――そんな気がする。 だから、行かせて下さい」

「オットー!」オデットが走ってきた。走ってきて、オットーの足元にうずくまった。とてもオットーの顔は見られない、そんな顔をして、俯き、「話は全て聞いたわ」と言った。

「そうか」オットーは、短く、そう言った。

「私は殺されるべきだわ」オデットは言った。「実子で無かったのに慈しんで下さったお父様を、あんな形で裏切って殺すなんて! お願い、せめて貴方の手で殺して……!」

「それは甘えだ。 それに、俺は、まだ、」オットーはそこまで言いかけて、こみ上げてくる激情に気が狂いそうになった。「オデット。 ――オデット!」

「この世界に神なんかいない!」オデットが、絹が引き裂かれるように叫んだ時だった。

 船長が血相を変えた。直後、船の警報が鳴り響いた。

「何が起きた、F・D!」ヴァルプルギスがサーベルを抜きつつ訊ねる。

「何者かが、私の許可なく、この船に入ってきた!」

船長が、そう叫んだすぐ後に背後から切り倒されて血をぶちまけて倒れた。

「……この世界に神はおわす。 確実に絶対的にあそばされる」

血の滴る大剣を下げた仮面の男が、船長の背後に立っていた。

「貴様は、ジュリアス・メタトロン!」ヘカーテが叫んだ。「くッ、どうやってこの船に入って来られたんだ!?」

「全ての謎の答えは一つ。 ――過去、だ」

過激派首領ジュリアスは、謎めいた口調で、そう言った。

オットーは長刀を抜いた。オデットや三人の魔女を背後に庇い、ジュリアスと対峙する。三人の魔女は安全な所へオデットを連れて逃げていく。

「丁度良い、ここでこの前の雪辱を果たし、アルセナールの無念を晴らす!」

オットーの目が青く、青く獰猛に輝いた。ジュリアスの口上は続く。

「恐るべき事が起きた。 この男がついさっき私を一時乗っ取ったのだ。 それもオットー、貴様の名を耳にした途端に。 ただの魔族に我ら大天使の第一次統合体を乗っ取られるとは、不覚。 よってその要因を排除するべく私はここへ来た」

「何を言っているか分からんが、要は俺と戦うために来たのだな!」

「そうだ、戦士よ、貴様を敗死させるべく私は今ここにいる」

「生憎だが俺の頭には貴様をここで打倒し、その首を挙げる事しか無い!」

両者は、一瞬で間合いを詰めて、激しく打ち合った。

(負けるものか)オットーは勝つ事しか考えていない。(コイツに殺された盟友アルセナールのためにも、俺は勝つ!)

オットーの猛攻にジュリアスは後ずさった、その瞬間をオットーは見逃さない。

ジュリアスの背後に瞬間転移し、一気に長刀を振り下ろした!

「なッ」オットーは瞠目した。「刀、が!」

刀身の大半が、ジュリアスに触れた途端に蒸発したのである。

ゆっくりとジュリアスは振り返った。仮面の向こうで、ジュリアスが嗤っているのが分かった。

「戦士よ、貴様は若く、そして愚かだ」

 大剣が振り下ろされた。オットーは瞬間転移しようとして――間に合わなかった。

 (俺は死ぬのか)走馬灯のように彼の頭の中をその言葉がよぎる。

 (ここで、死ぬ、の、か)


「オットー!」


彼は括目した、いきなり若い女が出現し、オットーを庇ってジュリアスに切られたのだ。赤い血が吹き上がる。

「オデットぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

オットーは咄嗟に残っていた長刀の残骸をジュリアスの仮面めがけて投げつけ、倒れたオデットを抱き起こす。まだ息があった、急いで手当てしなければ!

パキィン、と仮面が割れる音がした。

オットーはその音のした方を見て、凍り付いた。


 「親、父……?」


「オットー! 加勢する!」いきなり消えたオデットを追いかけてきたヴァルプルギスがサーベルを手に駆け寄って来ていたのだが、オットーと同じく凍り付いた。「カール!? ど、どうしてお前が生きている!?」

BBブルーブラッド事件』で死んだと認定されたはずの、大帝カール・フォン・ホーエンフルトがその在りし日の顔のまま、立っていたのだ。大帝は言った。

「私はメタトロン。 神の忠実なる下僕である」

『まさか』ジャンヌの背後のアスモデウスが白くなった。『メタトロン、貴様、カールを乗っ取ったのか!』

「その通りだ」と言った途端、カール・メタトロンの様子がおかしくなった。顔に苦しみが浮かび、

「あ、姉貴、俺を、今の内に、殺してくれ」

「カール!」

「俺はもう俺じゃない、俺を殺さないと、俺は、みんなを、」

そこで顔は無表情と嘲笑が入り混じった邪悪な顔に戻り、

「愚者め。 支配率を覆したとは言え、それは一時の事、この私を軽んじたな」

そう、言った。

「今すぐにカールを返せ。 さもなくば焼き殺す」

そう告げて、恐ろしく冷酷な表情を浮かべたヴァルプルギスの目が赤く光った。

するとメタトロンは、

「ふむ、では撤退するとしよう」

そう言うなり、船の甲板から飛び降りて、姿を消した。

 オットーはここに至って、やっと直感した。帝国を離れる時にエンヴェルの言った謎の男の正体に、ようやく。

『叔父上が亡くなられる時――「あの男が生きている」とおっしゃったのじゃが、「あの男」とやら――そちは知らぬか?』

それは、彼の父親『大帝』だったのだ!

身体を乗っ取られた彼の父親は、生きていたのだ!

そして、知らぬとは言え、己の娘を――!

「オデット!」

ルーナが治癒のために駆け寄って来るのを横目に見つつ、オットーはオデットを抱きしめた。彼女の体はもう、ほとんど冷たい。

「オットー、これが、わたし、の……罰なのよ」オデットは血を吐きつつ言った。「父を殺し、帝国を裏切り、そして兄を愛してしまった……」

「俺は、そんな君が、今でも好きだ、好きなんだ!」

ふっとオデットは笑った。そして、そのままこと切れた。


 オットーは辺りを揺るがすような怒号を上げた。

 それは咆哮で、絶叫で、慟哭だった。

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