FICTION 虚構なる愛

第24話 【ACT一】アズチェーナ・ミラルカ

 ……あたしは少女娼婦でした。でも周りの女の子はほとんど娼婦をやっていたので、あんまり悲壮感なんかは無くて、お客の愚痴を言い合ったり、お化粧の仕方を教えあったり、喧嘩や、もちろんいざこざもあったけれど、自分の将来を悲観している子はほとんどいなかったと思います。

 あたしの住んでいたウェルズリー地方は、いわゆる戦地で、聖教機構ヴァルハルラ万魔殿パンテオンが戦っている前線のすぐ近くだったので、お客の大半が軍人さんでした。軍人さんは終わらない戦争に疲れて癒されたくて娼婦を買うので、そんなに酷い目には遭わされる事は少なくて、お小遣いチップをもらう事だってありました。顔なじみになった軍人さんにはこっちからプレゼントを贈る事だってあって、他の娼婦はお酒とか煙草とか贈っていたんですけれど、私はプリザーブドフラワーをよく贈りました。そうすると、結構、軍人さんの中で涙ぐむ人、いるんですよね。

「……俺の故郷にもさ、これと同じ花が咲いているんだよ。 ああ、ちょうど今の季節に野原一面がこの花で満開になるんだった。 もうそこら中が臭いくらい、この花の匂いでいっぱいでさあ。 畜生、帰りてえなあ、帰りてえ……!」

でも、そう言う軍人さんの多くは、故郷に生きたまま、帰れないんです。あたしはそう言うの、経験上知っていましたから、せめてもと思って、花をずっと贈り続けていました。

 人が魔族を支配する聖教機構と、魔族が人を支配する万魔殿の争いは、もう数百年の間、延々と続いていて、それの功罪が今の世界を作り上げている。そう言っても過言では無いくらいに、誰にもどうしようもないものだと私は思っていました。戦争は仕方ないものだって、何となく、生まれつき、思っていたんです。

 そんなある日の事でした。

「ねえ、アズチェーナ、あたし昨日、隠れスポット的なランジェリーショップ見つけたの! 今日仕事が終わったら突撃しない?」

「ま、マジで!?」あたしは歓喜のあまりに友達の少女娼婦、ゼンタに飛びついて、一緒に手を取り合ってくるくると回りました。「誰が行かないって、い、言うと思ったのよー、もう!」

「やっぱり! 行こう行こう、キュートこそジャスティス、突撃ー!」

それであたし達は仕事が終わったら、ランジェリーショップに行こうって約束をして、仕事に行ったんです。あたし達を雇っている娼婦宿の一室でいつものようにセックスをするんです。相手は顔なじみの軍人さんのベニートさんで、今夜は物凄くご機嫌で、娼婦宿の女将さんにチップをはずみ、娼婦の子にも片っ端からチップをばらまいたので、ああ、これはきっともうすぐ故郷に帰れるんだな、とあたしにも分かりました。

 「俺には息子がいてさあ」夜更け、お酒もたっぷりと飲んで陽気そのもののベニートさんはセックスをする前に語りだしました。きっと、今のベニートさんは幸せなんでしょう。「生意気だけど可愛いんだぜ! いつもは馬鹿とか死ねとかしか言わなかったのに、俺が戦争に行くってなったらさ、これを作ってくれたんだ」とぼろぼろのミサンガを彼は見せびらかしました。「これがずっと俺のお守りだった。 コイツのおかげで俺は今まで無事だったんだ。 帰ったらあのクソガキをうんとハグしてやらねえとな! 何とか金も貯まった、きっと大学まで行かせてやれる。 カミさんもきっと喜ぶぜ、まあ、俺の留守に男作ってなけりゃだがな!」

「お、おめでとうございます!」その様子が、声が、本当に幸せそうだったので、あたしまで幸せになってきました。「そ、それじゃあ今日は奮発して、と……」

あたしがピンクのバラの花束をベッドの下から取り出すと、ベニートさんはさすがにびっくりしたみたいで、

「うお、すげえ! アズちゃんよ、君の力は知っているが、コイツは素敵だぜ!」

「そ、そうでしょう。 でしょうでしょう!」あたしも何だか嬉しくなってきて、くすくすと笑いました。ベニートさんも笑いました。

「あははははは。 あ、それじゃシャワー浴びてくる。 ミサンガここに置いておくぜ、くれぐれもパクるなよー」

そしてベニートさんがシャワールームに姿を消した後の事でした。

遠くから、悲鳴と、断末魔と、銃声と、その他もろもろの、ぞっとするような音が聞こえてきたんです。音は徐々に近づいてきます。あたしがびっくりして部屋を出ると、他の娼婦の子やお客さんも何事だって顔をして廊下に出ていました。

「何だい、この騒ぎは!?」女将さんが血相を変えています。「ちょっと様子を見てくるよ!」

そして夜のネオン輝く闇の中へ駆け出して出て行った女将さんの後ろ姿が、あたしの見た最期の姿でした。

部屋の三階の窓から娼窟通りの様子を見たゼンタが、真っ青な顔で叫びました。彼女も吸血鬼でしたから、夜目が効くんです。

「大変だ! 軍隊がみんなを殺している!」

そんな馬鹿な。誰もが唖然としました。あたし達は民間人です。そして軍隊や軍人さんのおかげで生活している者が大半で、同時に軍隊や軍人さんはあたし達のおかげで維持できているようなもので、つまりあたし達が軍隊に殺される理由なんかどこにも無いのです。

「おい、何の騒ぎだ!?」ベニートさんが腰にタオルだけ巻いた姿で飛んできました。ゼンタがパニックになって繰り返します、

「軍隊がみんなを殺しているんです! 何で!? 何で!?」

「馬鹿な!? そんな馬鹿な! 民間人を殺せなんて命令が下るはずが無い!」

「死にたくない!」叫んだのは少女娼婦の中でも一番生意気で意地悪で、でも幼いリアでした。「あたし死にたくない!」

そこに、重武装した兵士が銃弾をまき散らしながらやって来たので、みんなバタバタと廊下に倒れ、あるいは負傷して呻きました。あたしは咄嗟にゼンタに部屋の中に突き飛ばされて無傷でしたけれど、ゼンタは。ゼンタは!

「殺せ、殺せ!」兵士共は狂ったように喚いています。「どうせ俺達は殺されるんだ、だったら全部殺してやれ!」

あたしは腰が抜けて、ドアから、みんなが何をされるのか、ただ見ている事しか出来ませんでした。殺して犯して辱めて、ぐちゃぐちゃに、肉の塊に、生きているものがただのモノに変えられていく。どす黒い血が一面に飛び散って、肉が飛び散って、眼球が転がって、腸がでろんと伸びて、脳みそが白くて、骨が、脂肪が、妙に黄色くて。

「止めて!」ゼンタの声。あたしははっとして、我に返りました。「痛い、痛い、止めて、お願い!」

「ゼンタ……!」あたしは、ゼンタを助けたくて、助けたい一心で震える足を叱咤して立ち上がりました。そうだ、仕事が終わったら、ランジェリーショップに一緒に突撃するんだって、ゼンタと約束したんだ!

でも次の瞬間あたしはひっくり返ります。ボールが飛んできて顔面に命中したからです。

ボール?

あたしはボールを良く見て、血の気がざあっと引いていくのが分かりました。

ゼンタ。

ゼンタの、頭。

「ぎゃはははははははははは!」

血まみれの肉まみれの狂った連中は笑っています。

「どうせ俺達は死刑なんだ!」

「だったら、なあ? 道連れは多い方が楽しいじゃないか!」

そして銃口が、刃の切っ先が、あたしをついに狙うのです。

その瞬間でした。

あたしの中で何かが壊れました。

 故郷に帰れるよ、ありがとうな、と渡した花を見て言ってくれた軍人さんも、喧嘩したり仲直りしたり、一緒に客の悪口を言ったりした同じ娼婦の友達も、優しくてお化粧を教えてくれた先輩娼婦も、あたしの貧乳を馬鹿にした意地悪な娼婦の子も、みんなみんな殺されました。まるで野草が踏みつぶされるみたいに惨殺されました。

 死にたければ。

 そんなに死にたければ!

 勝手に手首を切っていろ!

 生きたいと叫びながら殺されていったみんなは、何のために殺されたんだ!


 ……『過剰放出オーバードライブ』、と言うのだそうですね。魔族の能力が過剰に酷使された結果、まるで災害レベルの事態が発生する事などをそう呼ぶのだそうですね。

後から脱走兵の連中を追ってきた軍人さん達は、ウェルズリーの有様に真っ青な顔をして、何度もおう吐した後にその言葉を教えてくれました。

あたし、そこまでの力が欲しかったんじゃないんですよ。ゼンタだけは助けたかったんです、でも出来なくて、その無念が爆発しちゃったようなものなんです。

 ……ウェルズリーで生き残った人、たったの数人だったそうですね。

脱走兵が戦況不利だからって勝手に戦線離脱して、そんな事をしたら当然死刑だから、やけになってみんなを、皆殺しにしたんですね。

それで私に殺された。

 ねえ、戦争って何なんですか?

 どうして戦争は終わらないんですか?


 「困ったなあ」とマッドサイエンティストの青年エステバンは言った。「どこにも異常は無いんだよ。 シャマイム、本当に異常を感知したのかい?」

彼のラボの中で白い兵器シャマイムは様々な計器に繋がれていた。モニターにシャマイムの顔が浮かび、

『是』と言った。『自分は変化した』

「いや、でも、どこも……変化なんかしていないんだよ。 もしも変化したとするならば……」とこの奇矯な性格の青年は、珍しく口ごもった。

『エステバン?』

「『聖遺物』の『聖十字架』と言ったね、シャマイム? 今の科学でも先代文明ロスト・タイムの『遺物レリック』、ましてやこの聖教機構が救世主の奇跡の証として崇める『聖遺物』ともなれば、解明できない事の方が多いんだよ。 例えば、どうして『適合者』のみが『聖遺物』を操れるか、とかね。 かの『聖王』が『聖槍』の適合者になった時も、色々僕のパパが調べたんだけれど全く分からなかった。 今じゃ聖槍はシーザーなんかが適合しちゃっているけれどさー。 だから、可能性としては、恐らく心や魂とか言う、科学では手を出しにくい分野の問題なんじゃないかなーと思う」

『自分は兵器だ。 心も魂も無い』

「シャマイムになら、心も魂もあるよ。 だって、ねえ、言っちゃ悪いけれどシャマイムほどの善人を僕は知らない。 否とか言わないでよ、事実なんだから。 後、心なんて薬でどうにでもなるとか言わないでね、まあシャマイムなら絶対言わないって分かっているけど。 とにかくシャマイム、君は異常なしだ。 って事で、無罪放免ー」

『……』

「さ、シャマイム、何かねー、今ね、フー・シャーが書類仕事で忙しいらしいから、手伝ってあげなよ」とエステバンはシャマイムを解放した。


 アズチェーナ・ミラルカはせっせと書類整理を行っている。事務室には今、彼女と、同じ吸血鬼の青年フー・シャーしかいない。フー・シャーは仕事の悪魔のように凄まじい勢いで事務処理を行っていて、彼女はその補佐的な役割を務めていた。

「お、おめでとうございます!」アズチェーナは覆う包帯で日光から顔を隠しているのに、はっきりと分かるほど笑みを浮かべていた。「ええと、そ、それで、男の子ですか、女の子ですか?」

「まだ分からないさ、でもありがとう! 僕も本当に嬉しいんだ!」フー・シャーはにこにこと微笑んで、「ボスも転属届を出したかったら書類の仕事はきっちり片付けなさいって、ありがたい限りだ。 特務員の仕事は、報酬も多いけれど、危険そのものだから……僕はせめてあの子が成人するまでは生存していたい。 でも、その」フー・シャーはそこでちょっと情けない顔をして、「グゼが行方不明の今、僕が抜けるだなんて本当に迷惑をかけてごめんよ……」

特務員の仲間の一人、グゼが今、行方不明になっているのだ。特務員の欠員に重なる欠員、それを彼はやや苦にしていた。

「良いんですよ! あ、あたしも頑張りますから!」アズチェーナは両手を握って、「それに、噂の新人もやって来るそうじゃないですか! ですから、フー・シャーさんは、今は一番、奥さんのお腹の中の子の事を考えてあげて下さい!」

そこに、同僚にして兵器のシャマイムがやって来た。もちろん兵器の癖に気遣いが出来て親切で有名なシャマイムは、コーヒーを二杯持ってきている。

「アズチェーナ、フー・シャー、適度な休憩は仕事の効率を高める」

「ありがとう……」フー・シャーは涙ぐんだ。「本当にありがとう……!」

吸血鬼二人はゆっくりとコーヒーを飲んで、ふう、と一息ついた。

「それにしても、だ……シャマイムももう聞いているよね、例の新人の事……」

フー・シャーがちょっと困った顔をして言った。シャマイムは、是と答える。

「特務員の養成所で、ありとあらゆる特務員適性項目で満点のSSSを取ったあの新人さんの事ですよね」アズチェーナが頷く。「でも、どうしてあの人ともあろう人が特務員になろうとしたんだろう……?」

「理由は単純明快、僕でさえ容易に推測できるさ」フー・シャーが苦い顔をして、「今の僕ら、特務員の総指揮権を掌握しているのは一応は和平派幹部のヨハン様だ。 でもあの人は仕事も何も出来ないから、ボスが代理でその仕事を行っている。 例の新人が特務員として大活躍したと言う既成事実を作れば、他の和平派幹部の心証はとても良くなる。 特務員として成果を上げればヨハン様を幹部と言う地位から更迭させるのに役立つ、それが狙いさ。 あの男はヨハン様の所持する地位も高貴な家柄もその職務も全部奪い取りたいのさ。 ボスが一度言っていたよ、憎々しげに。 あの感情を表に出さないボスが、感情丸出しであの男を罵っていた。 いやはや、もう聞いている僕らの方が怖くなるくらいに嫌っていたよ」

「ええええッ!」アズチェーナは驚いた。「す、凄い野心家なんですね……」

「野心が無い男なんて雑草みたいなものだけれどね。 まあ、卑怯な男なんて雑草以下だけれど」フー・シャーは言った。

「ですねえ」とアズチェーナはまた頷いてから、「まあ、でも、あくまでも扱いは新人ですから、あんまりにも生意気だったらみんなでがっちり説教しちゃいましょう!」とつるぺたの胸を張って言った。

「そうだね、そうしてしまえ。 ……よし」とフー・シャーは仕事を再開した。

今度はシャマイムが加勢した事もあって、更に仕事は順調に進み、数時間後には終了した。

「終わった! ありがとう! 本当にありがとう!」

フー・シャーは万歳をした、つられてアズチェーナも万歳をした、だがシャマイムは冷静に、

「フー・シャー、ボスへの書類の提出が完了するまでは『終わった』と言う表現は不適切だ」

「あ、そうだね! 行ってくる!」もっともだ、とすぐに納得して、フー・シャーは書類の塊を抱えて部屋を飛び出して行った。

彼は間もなく戻ってきて、少し嬉しそうに、

「ボスから聖教機構の管轄下にある聖音楽学院リエンツィに行きなさいって言われたよ。 僕の次の仕事は、どうやら音楽学校の教師らしい。 ありがたいなあ。 本当ボスは公正で公明だ。 僕は確かに上手にはバイオリンは弾けなくなったけれど、演奏技術まで教えられなくなった訳じゃない」ここでちょっと彼はまたしても涙ぐみ、「……今までありがとう、二人とも」

「こちらこそ、ありがとうございました!」アズチェーナはぺこりと頭を下げた。

「送別会の日程と会場が決まり次第、フー・シャーに即時連絡する」シャマイムは淡々と言った。


 「どうして貴様がここにいる!」

フー・シャーの送別会の会場は人気の庶民向けレストラン・ソクラテスを貸し切ったものだった。そこに特務員達が集結して、ワインやビール、飲めないものはソフトドリンクを頼んで、ほかほかの料理も運ばれてきて、さあ宴会が始まろう、と言う瞬間に登場したのだ。

I・Cイー・ツェーが。

アル中で性格が腐っていて存在するだけで場の空気が汚れる男が、呼ばれてもいないのに、否、誰もこの特務員にだけは送別会の会場や日程を教えず秘密を厳守していたのに、のこのこと出てきたのだ!

特務員のセシルが思わずそう怒鳴ったのに、I・Cはけろりとした顔で、

「俺は酒の匂いのする場所には目隠しされたってたどり着けるんだぜ」

特務員達は血相を変えて囁きあう、

「おい誰だよ、情報漏らしたの!?」

「俺じゃねえよ、お前か!?」

「そんな馬鹿な事を私がする訳が無いでしょう!」

その時だった。特務員に持たされている通信端末が、一斉に鳴った。

『ごめんなさい』

聖教機構屈指のマッドサイエンティストの青年エステバンの泣き声が、そこから聞こえる。

『拷問されて、フー・シャーの送別会の事、自白しちゃった……ごめんなさい』

「「……」」

誰もが軽く目の前が真っ黒になった。I・Cが来た事で、楽しくなった宴会など一度も無いのである。誰もの頭に仕切り直し、と言う言葉が浮かんだが、フー・シャーが明日には転属先の音楽学校に出向く事を思い出して、思わず神に祈りたくなった。

「名案がある」言い出したのはベルトラン、正規の特務員では無いが、同等の扱いを受けている青年であった。「少し見苦しい所を見せるが、良いか?」

「こ、この、この状況をどうにか出来るなら、す、少しくらい見苦しくたって全然構わないですよ!」アズチェーナが何度も頷いて、誰もがそうだそうだと言った。

「よし」ベルトランの指先が妖しく動いた。それは『糸』を操って、一瞬でI・Cをぐるぐるに拘束し、喚かれるとうるさいので、唇をも縫い留めてしまった。むーむーと何かを叫んでいる、まるで蜘蛛の巣に引っ掛かり、エサにされた虫のようなI・Cの体を、レストランの柱に特務員が総出でぎっちりと鎖で縛りつけて、完了。

「いやあ、危なかった……」作業を終えてセシルが冷や汗をぬぐった。「フー・シャーの結婚式みたいになるかと思ったぜ」

「その時は何があったんだ」ベルトランが訊ねると、セシルは忌々しそうに、

「招待されてもいないのに勝手に来て、フー・シャーの奥さんを暴行しようとしたり、汚い飲み方をして泥酔した挙句、ウェディングケーキを蹴り倒しやがったんだ! 結婚式も披露宴も危うく滅茶苦茶になるところだったんだ。 シャマイムがいなかったら本当どうなっていたか……」

「それは酷いな……」ベルトランも顔をしかめる。

「ま、まあ、これで一件落着です、フー・シャーさんの送別会、始めましょう!」

アズチェーナが言うと、誰もがそうだそうだと乾杯のグラスを手にした。

 和やかに宴会は進行していく。陽気に酔っぱらった彼らは、様々な余興をやった。

変身種ライカンスロープのセシルは虎から象にまで変身して驚かせたし、アズチェーナは様々な花を咲かせて特に女性陣から脚光を浴び、そしてフー・シャーはバイオリンで色々な曲を弾いた。元々が一流のバイオリニストだっただけあって、本当に巧かった。けれどこれでもフー・シャーに言わせれば、

「駄目になってしまったんだ」と言うレベルらしい。

「何と言うかね、弾いても心に響かなくなってしまったんだ。 でもあの頃の僕は天才と言われて驕り高ぶっていた。 だから、僕は少し無念ではあるけれど、今の僕でいた方が人間としてはまともだと思うんだ」

それからフー・シャーはリクエストに応えて、コマーシャルの曲から映画のテーマソング、今流行っている歌曲まで弾いた。場は大いに盛り上がって、拍手と歓声が飛んだ。誰もがあえて、「これを聞けるのが最後だなんてさみしいなあ」とは言わなかった。さみしいのは、彼が『仲間』だったからにはどうしようもないもので、それでも、フー・シャーの葬式ではないのだから永訣の感情を抱く必要なんてないのだった。

「それじゃ、最後にこの曲を……」とフー・シャーはアンコールに応じて、穏やかなテンポの曲を弾いた。誰もが知らない曲だった。けれど心に染み入る酷く優しい曲で、誰もが思わず目を潤ませた。

「おい、今のは、」セシルが曲名を聞こうとした時、フー・シャーが少しはにかんで言った。

「子供が生まれたら子守唄代わりに聞かせてやりたい曲なんだ。 僕が生まれて初めて自作した」

「そうか……」と誰かがしみじみと、けれど彼の今後の幸せを心底祈って呟いて、送別会は終わった。


 フー・シャーと入れ替わりにやって来た男は、すぐに特務員の誰からも『クソ上司』と呼ばれる事になる、アロン・ヴァレンシュタインであった。この男はヨハン・ヴィルヘルム・ヴァレンシュタインの従兄であったが、性格は全く似ておらず、傲慢で自信過多であった。特務員としては非常に優秀だったかも知れないが、上司としては最悪であった。己の優秀な血脈を事あるごとに自慢し、ヨハンの事を堂々と腰抜けだの臆病者だのと罵った。少しでも己に対して反論した特務員には執念深く眼をつけて苛め抜き、差別した。例えその反論が正論であったとしてもだ。人を褒めると言う事を知らず、部下の手柄は己の手柄、己の失態は部下の所為、であった。

 真っ先に目をつけられたのは不憫にもシャマイムであった。

シャマイムはアロンを制止しただけなのだ。アル中のI・Cから酒瓶を奪い取ろうとした彼を、危険だからと止めたのだ。

「その行為は推奨できない。 貴殿へI・Cが危害を加える恐れがある」

くわっとアロンは目を見開いた。

「たかが兵器の分際で、この俺様に意見しようと言うのか!」

その言葉に特務員の誰もが反感を抱く。シャマイムは兵器であるとは言え、誰からも信頼されていたし、あれは良いヤツだ、誠実なヤツだと非常に人気があったのだ。アロンはシャマイムを蹴り飛ばし、ぼけーっと突っ立っていたI・Cから酒瓶を奪おうとした。直後、I・Cの拳がアロンの顔面にめり込んだ。アロンは吹っ飛び、痛い痛いと喚いた。

「クソうぜえ野郎だな、相変わらず」I・Cは酒を死守しつつ言った。「クソガキ、テメエは学校のテストじゃいつだって百点満点を取る優等生だが、現実ではな、生ゴミを漁るドブネズミ以下なんだよ」

「な、何だとぉ!?」アロンは激怒した。「貴様はあの女狐の狗の分際でこの俺様に何と言う事を言うのだ!」

「なあ」とI・Cは特務員を見渡して言った。「コイツ、今ここでぶっ殺して良いか? 絶対にコイツ、生かしておいたってろくな事無いぜ?」

「止めろ、I・C」シャマイムが止めた。「アロン・ヴァレンシュタインは我々の上官だ。 上官への攻撃は反逆罪に該当する」

特務員達にとって更に不運な事に、アロンは新人扱いでは無かった。彼らの上司であった。

「面倒臭えなあー」とI・Cは酒を飲んだ。

「貴様は異端審問裁判にかけてやる!」アロンは喚く、怒鳴り散らす。「ヘルヘイムにぶち込んでやる!」

「あ?」I・Cはどうでも良さそうだった。「俺がヘルヘイムをぶっ壊しても良いんだな? 俺は酒を飲むためなら破戒の破壊くらい何て事無いぜ?」

「き、貴様ァ!」いきり立つアロンをシャマイムが抑えた、必死に抑えた。

「I・Cは社会常識を完全に持たない。 通常の特務員と同等に考えては貴殿に不利になる事態を招来する可能性が高い。 放任する事が最も適切な対応だと提唱する」

「このクソッタレはッ!」アロンは恨みに恨みを重ねた声で叫ぶ。「この俺様をいつも愚弄してきたッ! ……この恨み、ただで済むと思うなよ?」

「あのなー」とI・Cはひたすら怠そうに言った。「俺は聖王存命時からヨハン様を虐めに虐めぬいてきた貴様を、今や毛虫よりも嫌うお嬢様の従僕なんだ。 大体俺が買ってきた恨みなんかもう相当量で、俺にすら桁が分からん位だ。 それが今更、このドブネズミ一匹の恨みなんか正直どーでも良すぎて……」

「I・C、それは失言だ、アロンに謝罪しろ」シャマイムが言ったが、I・Cは、

「はーい、ちょ~ごめんなさ~い」

物凄く腹の立つ謝罪をした。アロンは額に青筋を浮かべるが、シャマイムが必死に取り成した。

「繰り返す、彼は放置するべきだ、積極的関与は貴殿の不利益になる」

「クソ兵器とクソ野郎が!」吐き捨ててアロンは己のデスクに座った。「こんな茶番よりも仕事だ仕事!」

……と言う訳で、シャマイムを罵った所為で、特務員達のアロンへの第一印象は最悪であった。彼らはこそこそと話し合う。

「何だ、あれ」

「シャマイムを兵器の分際でとかクソ兵器とか……」

「シャマイムがどれほど良いヤツなのか、知らないとは言え、こっちからクソ野郎と呼ばせてもらっても良いよな?」

「それじゃ甘いわよ。 I・Cの言ったドブネズミでも十分すぎるわ」

そしてこの第一印象は、改善するどころか悪化の一途をたどる。


 「どいつもこいつも!」マグダレニャンの機嫌も最悪であった。「何故ヨハンの力に気付かないのです! どいつもこいつもアロンごときを贔屓して、ヨハンを軽んじて!」

彼女の執務室の片隅で気の毒に猫が怯えている。彼女は基本的に冷徹な人間であったから、それが怒ると本当に凄まじいのであった。

「お嬢様」秘書のランドルフも忌々しげに、「アロンには『機動重装歩兵エインヘリヤル』があります。 そしてそれを駆使して戦場で華々しい戦果を挙げてきた。 ですから、和平派幹部の方々も、それに惑わされているのでしょう」

「その華々しい戦果の背景をどいつもこいつも忘れていますわ。 アロンの出撃し指揮した戦場では、決まって自軍の被害も甚大なのですわよ!? アロンは人の上に立つべき器ではありません! アロンは平気で人を踏み台に、捨て石にしますわ!」

「……」ランドルフは沈痛な顔をして、「せめて。 せめてヨハン様が一度でも良い、何らかの功績を挙げられたならば……」

「……『戦女神計画ザ・ライド・オン・ヴァルキュリーズ・プログラム』が成功する事を、願うしかありませんわね……」

マグダレニャンはそう言って、大きなため息をついた。


 「おい! 貴様ら! 任務だ!」

アロンは怒鳴って、一番デスクが近かったアズチェーナに書類の束をぶつけた。

「あいたッ!」アズチェーナは頭に命中したのでひっくり返って、シャマイムに助け起こされた。「な、何の書類ですか……?」

「読みもしないのに聞くな! 魔族の分際で!」

「「……」」特務員の誰もが露骨なまでの嫌悪感をアロンに抱いた。魔族だろうが人間だろうが特務員である限り同僚であり、彼らの仲間である。それを魔族だからと差別するなど、一番やってはならない事だった。魔族とは人間とは別種の特殊能力を持つ存在であり、人体を食べる性質を持っていた。だが、現在では合成肉を食べればその悪癖は回避されるので、今どき魔族だからと差別するような人間はいないだろうと彼らは思い込んでいた。

だが、ここに、いやがった。

嫌悪感と同時にかなりの反感を誰もが抱いたが、辛うじて耐えている。アズチェーナは半べそをかきながら書類を読んだ。

「ええと、ええと……ご、護衛任務ですか?」

「全部読んでから聞け、このクソ吸血鬼ヴァンプ!」

アズチェーナはしくしくと泣きだした。まだ怒り狂っていたボス・マグダレニャンの方がマシだと彼女は思った。だってボスが怒り狂ったのは、それに見合う理由があり、道理があったからだ。こんな理不尽な罵倒など一度もされなかった。ヨハン様が無能だからと代わりに和平派特務員の総指揮権をボスが取っていた、あの過去に戻りたい。

誰が予想しただろう、ある意味ではI・C以上に厄介な、いや、I・Cの方が同僚である分マシだとすら言えてしまうクソ上司が来るなんて。

「任務の発令対象は誰だ?」シャマイムがアロンに訊ねた。

「貴様とそこのクソ吸血鬼と、後はこの俺様だ!」

「は、はい、頑張ります!」とアズチェーナは涙をぬぐって頷いたが、

「貴様が頑張ろうが頑張るまいが知った事か。 結果を出せ、結果を!」

「……はい」また涙目になるアズチェーナだった。

(おい)特務員の間で、こそこそと会話が飛び交った。

(何だよ、あれは)

(酷すぎない?)

(酷いと言うか……あんまりだと思うが)

(何か、嫌な印象しか抱けないんだけれど)

(君は優しいな。 俺は既に敵意を抱いている)

「では行くぞ! 付いてこい!」アロンはそう言って、席を立った。

「何か嫌な予感がする」そこに、いきなり言い出したのはI・Cであった。「かなり嫌な予感がする。 おいシャマイムにアズチェーナ、行かない方が嫌な目には遭わない気がするぜ」

「な、何を言っているんですか、I・Cさん?」アズチェーナが怪訝そうな顔をした。「仕事で嫌な目に遭うなんて、あ、当たり前ですよ? ね、ね、シャマイムさん?」

「……」シャマイムは黙っていたが、彼に訊ねた。「I・C、どうして自分達の心配をした?」

「違え。 俺がこんな嫌な予感がするって言ったのはな、俺がわざわざ出る羽目になりそうだって予感がするって事さ。 俺は任務とか本当どうでも良いんだが、面倒事に巻き込まれるのは嫌なんだ」

「それは」アロンが憤怒の形相で怒鳴った。「この俺様の采配に不満や不足があるとでも言いたいのか!」

I・Cは鼻の穴に人差し指を突っ込み、「アロン。 テメエはだ。 それが今度の今度で、本性見せてくれるだろうよ」


 任務内容は、聖教機構和平派と提携している巨大国際軍事企業スピノザ社の社長の箱入り娘マルグリットの護衛であった。何と世界最悪の暗殺組織、『デュナミス』から彼女が見せしめに暗殺されるとの情報が入ったのだと言う。デュナミスと聖教機構は対立関係にあったから、暗殺計画そのものはやむを得ないのかも知れない。しかしながら、それを阻止するために和平派幹部マグダレニャンは特務員を動かした。

「あ」とアズチェーナは驚いた。先ほど投げつけられた書類の内、マルグリットのスケジュールを見て、である。「リエンツィ聖音楽学院にマルグリットさんは通っていらっしゃるんですね!」

「フー・シャーに再会できる可能性は非常に高いと推測する」シャマイムは言った。

「うわあ、楽しみだ!」と無邪気にアズチェーナが喜んだ次の瞬間、怒声が飛んだ。

「真面目に仕事をやれ!」アロンであった。「これだから魔族は駄目なんだ。 人間様にこき使われなきゃ分際と言うものを分かろうともしない。 本当に駄目だな」

「!!!」

瞬く間に涙目になるアズチェーナを庇うかのように、シャマイムが抗議した。

「現和平派教義では魔族と人間は対等、平等の関係にある」

「黙れポンコツ! たかが兵器の癖に俺様に何か言うつもりか!」

「是。 貴殿の発言は特務員の士気を非常に下降させる。 熟慮を重ねた上に発言をする事を」と言ったシャマイムが、横殴りに吹っ飛ばされた。

『敵性体発見、敵性体発見、コレヨリ排除活動ニ移行シマス』

くろがねの機動大型歩兵、殺戮兵器『エインヘリヤル』が一二機、腕の一閃で吹っ飛ばしたシャマイムを取り囲んだ。

流石に見るに見ていられない特務員を代表して、セシルが間に割って入った。

「お待ち下さい! 味方同士で相討ちだなんて、どうかお止め下さい!」

空気を読んだシャマイムが、言った。シャマイムは本当に場の空気が読めるのだ。

「自分の失言を謝罪する」

その場にいた特務員の誰もが思った。どこが失言だ、シャマイムはごくごく普通の事を言っただけだろう!至極まともでもっともな、常識を!

だが上司がクソなので謝らされた。アロンはやっと機嫌を良くして、

「ふん、やっと身の程をわきまえたか。 じゃあ行くぞ!」


 「先生!」と呼ばれてフー・シャーは学院の廊下を振り返る。女学生が楽譜を抱えて走ってきた。

「どうしたんだい、マルグリット君?」

少女はにっこりと笑って、

「先生、確か、以前は和平派の特務員でしたよね? あの、私、その和平派特務員にとある事情で護衛される事になったんです。 ですから、もしかしたら、元同僚の方々に先生もお会いできるんじゃないかって……!」

「ありがとう! そうだね、知らせてくれてありがとう!」フー・シャーは元同僚達の顔を次々と思い浮かべて、「アイツらにもう一度会えるなんて、これは喜ぶべきか嘆くべきか、あはははは!」と笑った。

「あー、ずるーい、マルグリット!」他の女学生達が我先に走ってきた。「先生を独り占めなんてずるーい!」

「早い者勝ちー!」べー、と少女はあかんべーをした。

「こらこら」フー・シャーはなだめて、「先生は我が家の唯一絶対神の奴隷なのさ。 先生を取り合うんじゃない。 我が家の唯一絶対神にバレたら、先生は殺されてしまうからね」

「先生って恐妻家ー!」と女学生達はいっせいに転がるように笑った。

「こら! 愛妻家と呼んでくれたまえ! 恐妻家だなんてバレようものなら……!」フー・シャーは真顔で言った。一度それがバレた時は彼の正妻から苛烈なる制裁を受けたのだ。

「きゃはははは、チクっちゃえー!」と女学生達は我先に逃げ出した。

「うわー、待ってくれ、それだけは止めてくれー!」フー・シャーは必死で追いかける。

 これが、彼の、新たな人生の日常であった。


 (はてさて、誰が来るのやら)残業して教員室でテストの採点をしつつ、フー・シャーは元同僚の顔を思い浮かべては、考える。(シャマイムだと良いなあ。 セシルは相変わらずかなあ。 ベルトランは慣れてきたかな? アズチェーナは頑張っているだろうか。 ……ローズマリーとI・Cだけには会いたくないな……)

その間に、テストの採点が終わった。彼は一息つくためにコーヒーを飲んだ。それから、携帯型の通信機器を取り出して、彼の正妻に連絡を入れる。

「あ、もしもし?」

彼の妻は今、つわりなので、時々心配になって連絡を入れるのだ。

『辛い物が食べたいの!』

妻の第一声は、それであった。

「え、昨日はアイスが食べたいって」フー・シャーは目を丸くする。

『今は辛い物が食べたくてしょうがないの!!!!』

「でも、冷凍庫のアイス、まだ一〇個も」残っているのだ。

『もう食べられない! 辛い物! 辛い物! そうだ、辛いピザが食べたいわ! ね、仕事帰りに買ってきて!』

「……はい。 分かりました。 買ってきます」

連絡が終わった後、フー・シャーは嘆息した。

「今月の僕のお小遣いは、全部彼女の食費で消えるね、これは……」

だが『妊娠中と産後の妻は野生動物と同じ』『妊娠している時に恨みを作ると一生ねちねち責められる』『女は腹を抱えて子供を産む、だったら男は頭を抱えて育てるしかないだろ』と結婚経験のある元同僚達の説教が効いている彼は、今はひたすら我慢しかないと決意するのであった。

「おお、フー・シャー君」

このリエンツィ聖音楽学院の校長であるピエリ老人が、校長室から出てきて、彼を手招きした。子供のような悪戯を常に愛好しているこの老人がフー・シャーは好きだった。聖音楽学院の校長なのにエレキギターに手を出し、髪の毛をピンクに染めて文化祭の日にバンドの真似事をして舞台に乱入し、生徒から大歓声を浴びたり、雪が降った日にはもう大変、生徒と一緒に雪玉をぶつけ合い、教頭のティーテ女史に土下座させられて大説教をくらう。だが、この老人が一度ピアノの『白と黒エボニー&アイボリー』に触れると、まるで音楽の神ですらうっとりするような素晴らしい音色が奏でられるのだ。その色は極彩色であったり、虹色であったり、モノクロであったりセピアであったりと、本当に多彩で、まるで音符が生き物のように跳ねて踊って舞っているようであった。そして、この奇天烈で憎めない天才がフー・シャーを招く時は、決まって新手の悪戯を思いつき、それの協力を要請してくる時なのであった。

「校長先生、何でしょうか、今度は?」

「うむ、ワシは今、猛烈にデスメタルをやりたいのだよ、フー・シャー君」

ほら来た。フー・シャーはワクワクした。

「やりますか!」

「女史からは大説教が来るだろうがやるしか無かろう。 芸術とは表現の限界への挑戦であり命の爆発なのだッ!」

それで彼らはデスメタルバンドを結成するべく密かに工作活動に走る事になった。何の事は無い、有志の生徒を募ってバンドを結成し、朝礼の時間に長々と校長が説教を垂れる代わりに、一発ぶちかまそうと言うのだ。

「先生! これ、デスメタルっぽくないですか?」

その有志の生徒の中には、マルグリットもいた。彼女はデスメタルバンドに相応しい化粧もしていた。彼女の親が見たら卒倒するであろう、顔を白塗りにした上に、髪の毛はメタリックパープルのウィッグ、そして顔面にはでかでかと、『死神』の言葉が……。

「……うん? 甘い!」しかしフー・シャーは振り返って叱った。「これくらいはやりなさい!」

フー・シャーの場合は、もはや人間の顔形をしていなかった。特殊なメークで、化物、死霊の顔をしていたのだ。彼が特務員だった時に、同僚の一人から教わったのだ。

「おお! 先生、私もっと頑張ります!」

マルグリットは気合を入れた。それから、ふと、

「本当、先生達のおかげです」といやにしんみりとした口調で話し出した。

「どうしたんだい?」

「……いえ、私、もう将来が決まっているんです。 結婚相手も、仕事も、何もかも。  私の自由なんてどこにも無くて、この学院に通っている事ですらお父様のご意志なんです。 教養を身に付けなさいって。 でも、校長先生があんな人で、先生達もみーんな変人で、だから私、生まれて初めてありのままの私でいられる気がしているんです。 青春を謳歌するって言葉がありますけれど、きっと今の私は間違いなく全力で青春を謳歌している。 これだけ謳歌したら、後悔も全部飛んじゃうってくらいにです。 既に決められた人生ですけれど、この思い出があったら、私はきっと私の一生を自分の足で歩いて行ける気がするんです。 だから本当、先生達に出会えて良かった、先生達のおかげだ……って、思っているんです」

「そうか」フー・シャーは頷いた。「だったら全力でしなければ後悔でくすぶってしまうぞ。 ハチャメチャに頑張ろう!」

「はい!」とマルグリットは、にいっと笑って、大きく頷いて返した。

「ヒャハハハハハー!」奇声を上げてそこに登場したのがピエリ老人である。「どうだねフー・シャー君! これならば文句の付け処もあるまい!」

老人はミイラの格好をしていた。だがフー・シャーは、

「白い包帯じゃ、衝撃インパクトが弱いと思うんです、ここは目がくらむほど真っ赤に!」

「そうか! では鮮血色にどっぷりと染めてくるとしよう!」老人は羽が生えたように飛んで行った。

「よーし先生、これはどうですか!」と同じデスメタルテロの仲間の男子生徒の一人、オーリンが水泳パンツだけで後は全身を金色に塗りたくった、とんでもない格好を見せびらかして、言った。

「及第点だ! だがもっとやりたまえ!」

「はい!」オーリンは胸を張った。それから、「見てろよ、悪魔のデスメタル声でシャウトしてやる! 鼓膜をぶち破って脳みそをシェイクだ!」

「じゃあ私は地獄のパフォーマンスをやるわ!」マルグリットも意気揚々である。「みんなを絶叫マシンに変えてやるんだから!」

 ……朝礼の音楽テロの準備が整った。

準備がひと段落したので、フー・シャーは妻の事を思い出して、連絡を入れた。

『……炭酸!』

ああ今度は。フー・シャーは嘆きたくなったが、妻が怖いのでこらえる。

『炭酸水が飲みたくて死にそうよ! ね、買ってきて!』

「分かったよ……。 他でもない僕の子のためだもの……」

『……私の事はどうでも良いのね?』

「ち、ちが、違、!」

しまった、謎の意味不明な地雷を踏みぬいた!フー・シャーは慌てたが、釈明しようとする前に、連絡は向こうから切られて、かけ直しても無視された……。

 ともあれ、彼は意気消沈してもいられず、音楽テロのために頑張るのである。

 ついに、朝礼の時間がやって来た。

生徒達が、朝から説教だなんて、と憂鬱な顔で講堂に次々詰め寄せて来る。

講堂には朝の光が高い窓から静かに差し込んでいた……。

次の瞬間、全ての照明が落ち、カーテンが閉められて、辺りは真っ暗闇に変わった。

「「!!?」」

生徒の誰もが驚く中、いきなり爆音が響いた。

『ギャハハハハハハハハハー! 生徒の諸君よ、地獄へようこそ!』

血みどろのミイラがスポットライトの光を浴びて登場し、マイクを握ってそう叫んだ。生徒から我先に歓声が上がった。今日は退屈な朝礼では無く、刺激的で興奮する何かを、また校長先生がやってくれるのだ!これに乗じずして何の青春だ!期待のあまりにまだ音楽が始まっていないのに跳ね出す生徒が続出した。そして、舞台にライトが当てられると、既にそこにはデスメタルバンドがいた。

『我々は貴様らを死に至らしめる』

声楽を習っているオーリンの声は、まるで魔王の声のようであった。

『泣き叫ぼうと地獄への道連れにしてやる。 一曲目、「死肉とオオカミ」!!!』

次の瞬間、ベースとドラムとギターが先を争って雄叫びを上げた!


 講堂から出てきた生徒達の顔は、皆晴れ晴れと、生き生きと、あるいは興奮で赤く染まっていた。

「叫びすぎて喉が痛いー」

「チョー最高! サイリウム持ってこなかったのが悔しい!」

「校長先生大好き。 愛してる。 デスメタル風に言うと、我が手で殺したい!」

「やっちまえ!」

「朝からこんなに興奮したら、午後の授業はお昼寝タイムだ!」

……そしてデスメタルバンド決行犯の面々は教頭のティーテ女史に説教をくらっていた。だが誰も内心では反省のハの字もしていないし、後悔もしていない。それどころか、次は何の音楽テロをやろうかと説教そっちのけで考えている。

「全くもう! 由緒正しき我らがリエンツィ聖音楽学院を何だと思っていらっしゃるのですか!」

「だって……普通に説教するだけだなんて……つまらないって思ったのだ……」

ピエリ老人は案の定、正座させられている。

「良いですか! リエンツィ聖音楽学院は、」

一度始まると足がしびれても許してもらえない、長い長い大説教であった。


 「その計画には賛同しかねる。 再考を要請する」

シャマイムが言った。リエンツィ聖音楽学院に向かう移送車の中で、である。シャマイムがそう言った途端にシャマイムは『エインヘリヤル』によって殴り飛ばされた。アズチェーナが悲鳴を上げてシャマイムに駆け寄る。

「大丈夫ですか、シャマイムさん!?」

「俺様の計画が不完全だとでも言いたいのか。 このクソ兵器」アロンは腹立たしげに言った。「俺様は完璧なんだ。 不完全なんかでは無い!」

「否。 貴殿は『デュナミス』の残忍性を認識できていない。 マルグリット嬢を護衛するだけでは不完全だ。 学院の生徒全員を、」シャマイムはまた吹っ飛ばされて、移送車の壁に叩きつけられた。

シャマイムの普段の姿が小柄な人型であるのが災いしていた。

「黙っていろ、壊されたくなかったら」アロンは吐き捨てた。

だがシャマイムは黙らない。この状況で黙る事などシャマイムの性格上、絶対に出来はしない。

「『デュナミス』が学院の生徒並びに教員を皆殺しにする可能性が非常に高い以上、自分は同様の進言を繰り返す」

「おい、やれ」

エインヘリヤル二機がシャマイムの両腕を押さえつけた。

「なッ、何をするんですかッ!?」アズチェーナが悲鳴を上げた。

「こうするんだよ」アロンは親指を下に向けた。

ぼきり。

シャマイムの両腕がもぎ取られた。

「!」アズチェーナが絶叫の形に大きく口を開けたが、もう声が出なかった。

「これで少しは大人しくなるだろ」

アロンがげらげらと笑って言った時、移送車が止まった。リエンツィ聖音楽学院に到着したのだ。

「さてと、『デュナミス』の連中を血祭りに挙げてやろうじゃないか!」

アロンはエインヘリヤルの指揮機に搭乗すると、移送車を降りた。

「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」アズチェーナは真っ青な顔をして、シャマイムの腕を慌てて拾い、シャマイムに近づいた。「シャマイムさん、シャマイムさん!」

「自己修復に時間が必要だと判断。 アズチェーナ」シャマイムは彼女に向かって言った、「アロンの護衛計画では学院の無関係の生徒並びに教員の大規模な被害が予想できる。 フー・シャーに協力を要請し、生徒並びに教員の登校を停止、もしくは緊急下校させなければ危険だ」

「わ、分かりました!」日光を防ぐ包帯の下で、アズチェーナは唇を引き結び、頷いた。「すぐに行ってきますから、シャマイムさんは全力で腕を治してくださいね!」

「了解した」


 「マルグリット様」とアロンはかしずいて従順に言った。「貴女の護衛を任されましたアロンと申します。 全力で守らせていただきますので、どうぞご安心を」

アロンらは今、校長室にいた。事情を知ったピエリ老人が心配そうにマルグリットを見ている。

「……」少女は、何故か、不審そうな顔をしていた。「私の命を狙っているのは、あの『デュナミス』だそうですね?」

「ええ、おっしゃる通りです」とアロンは答える。マルグリットは言った。

「たったの一二機と一人で、この学院全体が守れるとはとても思えないんですけれど」

「どう言う意味だね、マルグリット君?」ピエリ老人が訊ねると、少女は叫んだ。

「私、お父様から聞きました、『デュナミス』は暗殺対象の周囲まで皆殺しにするって! 恐らくこの学院の生徒も先生達もみんな巻き添えにされます! 私、聖教機構はこの学院ごと守ってくれると思っていたのに!」

「なッ」老人は絶句した。「それは本当かね、アロン殿!?」

「ご心配なく、私の『エインヘリヤル』に敵う者はおりません」

「でも、」とマルグリットが何か言おうとしたのを、アロンは睨みつけて黙らせた。

「この私に全てお任せ下さい、心配はご無用ですから!」

 ――ノックも無しにそこに駈け込んで来たのが、フー・シャーであった。

「校長先生! 今すぐ全生徒全職員を一時帰宅させて下さい、さもないと全員が皆殺しにされます!」

「フー・シャー君、『デュナミス』とは一体どんな――!?」老人は問うた。

「一つの事例をお話ししましょう。 ヤツらは一人の標的を殺すために、大型客船を丸ごと海に沈めました。 中には乗客や船員がぎっしりと詰まっていのに、です。 ……『サン・ミリス号沈没事件』、お聞き覚えはあるでしょう?」

それは酷い事件だった。生存者はほんの数名で、数百人が亡くなった。だがその事件は表向きは聖教機構により不運な海難とされていた。だが、実態はそうであった。老人はすぐに事情を察して、

「うむ! 直ちに全職員と生徒を帰宅させる!」

「貴様がフー・シャーか!」アロンは怒鳴りつけた。「俺様のやる事に口を出すな!」

怒鳴られようとフー・シャーは毅然と、

「いくらだって口だろうが手だろうが足だろうが出してやるとも、この学院を守るためならね!」

老人が校内放送で、直ちに全ての職員と生徒に帰宅するように伝えた。理由は学院へテロ予告が入ったと言う嘘だが、この場合は半分事実であろう。

「フー・シャー」そこへ、ようやく腕の修復が終わったシャマイムがやって来た。「協力感謝する」

「こちらこそさ!」フー・シャーは首を激しく横に振った。「知らずにいて生徒や教員のみんなを皆殺しにされたら堪ったものじゃない! アズチェーナから事情は聴いた、たったの三人と一二機でこの学院を『デュナミス』から守ろうなんて無茶苦茶にも程がある! ……I・Cならまだしもね」

「I・Cが奇異にも、今回の案件に対して警告を発していた」シャマイムは淡々と言った。「嫌な予感がする、と言う抽象的だが注意すべき発言をしていた」

「そりゃ、『デュナミス』が出てきて良い予感がするはずが無いよ!」

その時、であった。

シャマイムがいきなり二丁拳銃サラピスを構え、フー・シャーはどこから取り出したのか、巨大な音叉を二本握りしめる。血相を変えて彼は、

「もう来たかッ! マズい、生徒がちょうど下校中だッ!」

「自分とフー・シャーは生徒の安全を確保する。 アロン、貴殿はマルグリット嬢の護衛を」そうシャマイムは言うなり、フー・シャーと駈け出した。その背中に、ピエリ老人とマルグリットが叫んだ。

「フー・シャー君! ど、どうか、生きて戻って来るのだぞ!」

「先生、またバンドやりましょうね!」

「ええ!」フー・シャーはしっかり頷いた。「また一緒に、ティーテ女史に土下座しましょう!」

「待て! この、待て! このクソ共ッ!」とアロンが叫んだが、もう二人は聞かなかった。あっと言う間に、姿を消した。


 アズチェーナはフー・シャーに事情を話した。血相を変えて、フー・シャーは彼女に生徒を頼むと言って、校長室へと飛んで行った。アズチェーナもその後を追おうとしたのだが、そこに、驚いたような声がかけられた。

「アズチェーナ!?」

あれ?アズチェーナは変に思った。この学院にフー・シャー以外で己の名を知っている人などいるはずが無いのである。振り返れば、どこにでもいそうな男子学生が驚きの顔で立っていた。彼は叫ぶ、

「アズチェーナじゃないか! どうしてここに!?」

「あ、貴方は、だ、誰なんですか!」アズチェーナは問い詰めたが、途端に彼は納得した顔をして、

「そうか、知っている訳が無いよな……。 僕はオーリン。 オーリン・リーウズって言う名前だ。 将来は聖ラウレンティヌス大教会の聖歌隊に入る事になっている。 僕を養子にしたのがそこのパイプオルガン奏者のレイって男でね、僕の声に何だか知らないけれどぞっこんなんだ。 ……あー、性的な意味じゃなくてね? 僕は性的な意味じゃなくあの人が好きだし、あの人から性的な意味じゃなく愛されている。 それで、時には『このクソ野郎!』って殴り合いの喧嘩もするけれどさ。 ま、僕はそう言う訳で、今やどこにでもいる普通の少年だ」

「そ、それを聞いているんじゃないんです! な、何であたしの事を――!?」

「それは言えない。 でも、僕は何があろうと君の敵じゃない」

アズチェーナは混乱してきた。この少年は、何故か己の事を知っている、だが、己はこの少年に見覚えすら無いのだ。少年はふと首をかしげて、

「とにかく君がここに来たって事は、一体何があるんだい? もしかして、フー・シャー先生に会いに来たのかい? あの先生も元特務員だったそうだから」

「……」何と言えば良いのかアズチェーナは困ってしまった。だが、そこではっと我に返る。己がどうしてフー・シャーに会いに来て、シャマイムからの要請を伝えたか、その理由を思い出したのだ!

「き、君も今すぐに逃げてください!」

とアズチェーナは叫んだ。

「な、何で?」

「こ、この学院、『デュナミス』に襲撃される可能性が、とても、と、とっても高いんです! に、逃げないと皆殺しにされてしまう!」

「何だって!?」少年は目を見開いた。「あの『デュナミス』が!?」

そこに、校長からの生徒や教員への避難指示が流れた。

『――鞄も何も捨てて逃げなさい! 命さえあればまた取りに戻れます! 良いですね、全速力で、全力で、逃げなさい! 繰り返します、たった今、当学院へ爆破テロ予告がありました、急ぎ生徒と教員は当学院より避難なさい! 鞄も何も――』

「さ、さあ、君も!」アズチェーナは少年の肩を掴んで、引っ張った。「逃げましょう! もう、脱兎のごとく、に、逃げるんです!」

「……君は?」

「あ、あたしは、戦います、でゅ、『デュナミス』と戦うのがこの任務ですから!」

「じゃあ僕も逃げない」

「はあッ!?」アズチェーナは面食らった。「あ、貴方、頭おかしいんですか!?」

「多分おかしくない。 僕は逃げない」

「ししししし死にますよ!?」

「僕はそれでも逃げない」オーリンはきっぱりと言った。「僕にだってできる事はあるはずだ。 僕はそれをやる」

「じゃ、じゃあ逃げて下さいよ!!!」

その時だった。アズチェーナはしまったと言う顔をした。

「もう、来たッ!」

『アズチェーナ』シャマイムからの通信が入る。『フー・シャーは校内の生徒並びに教職員、自分は校外の生徒並びに教職員を護衛し、「デュナミス」を排除する。 アズチェーナに校庭の生徒並びに教職員の護衛の担当を要請する』

「分かりました!」

アズチェーナはそう叫んで、校庭へと走った。だがその後をオーリンが付いてくるので、慌てて立ち止まって彼を止める。

「な、何をやっているんですか?! 逃げるんですよ! 逃げて下さいよ!」

「僕は逃げない。 今逃げたら男がすたる」

「す、すたっても良いから逃げて下さいってば!」

「絶対に嫌だ」

もう仕方ない!アズチェーナは彼を気絶させ、安全だと思われるロッカーの中に彼を隠して、単身校庭に向かった。そこは今まさに、逃げる生徒達を襲おうとしている『デュナミス』の暗殺者達がいた。

「――行けえッ!」

アズチェーナは地面に手を押し当てて、気合の声を放った。

ぐらぐらと地面が揺れたかと思うと、まるで地面から牙が生えるかのように植物のツルが伸び、それは暗殺者達を串刺しにした。遠くでは銃声と破壊音が聞こえる。シャマイムもフー・シャーも戦っているのだろう。ならば。彼女は思う。あたしだって!

……『デュナミス』の増援がやって来たが、一瞬、校庭の有様を見て、立ち止まる。まるで熱帯雨林ジャングルのように樹木や草花が所狭しと生い茂っているのだ。その植物らは、増援の彼らを見て、明らかに敵対行動を取った。我先に襲ってきたのだ!

「く、クソ、ナパームだ!」彼らはナパーム弾で焼き払おうとした。

だが、この熱帯雨林ですら囮であった。

彼らの背後から、静かに這い寄るツルが、彼らの首に巻き付いて、皆殺しにしたのである。

「は、はあ、はあ」アズチェーナは汗をぬぐう。既に生徒達の多くは逃げていて、その生徒達に彼女は熱帯雨林からの安全な脱出路を教えていた。ピンクの花が咲いている枝の方へ逃げれば、安全な場所へ逃げられる、と。だが、彼女も能力をかなり使っていた。広い校庭一面を熱帯雨林にしたのだ。疲労と消耗が激しい。これはいけない、と彼女は錠剤を飲もうとした。合成肉――魔族が本能的に人体を食べる代わりに与えられた代替食――の成分を抽出して錠剤に変えたものだった。これを食べれば、吸血鬼である彼女の体力も、ある程度は回復する。

「あれれー」と能天気な声がしたのは、その時だった。「すごーい。 ジャングルだー!」

アズチェーナはまだ生徒が残っていたのか、と慌てて周囲を探ったが、誰もいない。

「あ、ごめーんごめーん、君の上」

ばっと天を仰ぐと、そこには白い異国風の服を着た少年が、木の枝の上に立っていた。

「お、」お前は誰だ、とアズチェーナが叫ぶ前に、少年は名乗った。

「僕はねー、シンドバッド。 『インドの風シンドバッド』さ。 『デュナミス・エンジェルズ』の『白雪姫』がこの前お世話になったねー。 仲間として、お礼に来たよー」

『デュナミス・エンジェルズ』!?

アズチェーナはぞっとした。それは、『デュナミス』を率いる黒幕、大天使ラファエルが生み出した、とんでもない化物達の総称だと、同僚のI・Cが言っていたのだ。

「えーとねー」とシンドバッドは言った。「まー、取りあえず、死んじゃって?」

突如としてカマイタチが、彼女の体を切り刻んだ。

「ぐ、あ――!?」アズチェーナは何が起きたのか分からなかった。血をまき散らして、うずくまる。妙に間延びする口調で、シンドバッドは言った。

「あはははー、カエルみたいな声を出すんだねー、君って結構、オモチャとしては面白いのかもねー。 ……君の、えーと、何だっけ、おっきな音叉をぶん回す元同僚さんも、今頃は面白半分に虐められて死んじゃっているだろうしねー、君達、中々いじめられっ子の素質があるよー」

何だって。アズチェーナはぞっとした。

「フー・シャー、さんに、何を、し、したんですか!?」

「んー、僕は何にもしていないんだよー。 ただ『シボレテ』に感染しちゃったからねー、もうお終いかなー。 全くあの男の人ってば、えげつなーい!」


 フー・シャーは校内に侵入してきた『デュナミス』を片端から処分していた。それこそ死力を振り絞って、学院を守っていた。彼はこの学院と、この学院にいる全ての人間が好きだった。憎めない奇人の校長、おっかない教頭、彼をからかう一方で慕ってくれている学生達。

――その彼らを誰一人として死なせてなるものか。

それでフー・シャーは、悪鬼阿修羅のように戦っている。

既に彼の後ろには暗殺者共の死体がごろごろと転がっている。彼はそれらをまるで己の足跡のようにして、四方八方の暗殺者を始末しつつ前へと疾走していた。この時も、彼はコウモリのように超音波を放ち、それで学院内の不審人物の存在を走査している。

――いた!

フー・シャーは音楽室の前で立ち止まった。防音壁越しなので少しぼやけているが、この中に、がっしりとした体格の、恐らくは男であろう、暗殺者がいる!

フー・シャーは音楽室の分厚い防音壁を超音波で破壊して、その男の背後から奇襲をかけた。巨大な音叉で、一撃の元に撲殺する――、

ガキィン、と金属同士がぶつかり合う音がした。

「!!?」

フー・シャーは驚愕に目を見張った。

「き、貴様はッ!」

男は心外そうに言った、

「……貴様? 生憎私にはちゃんとした名前がある」

その名前などフー・シャーは耳にタコが出来るくらいに聞いていたし、知っていた。何せ、得物で分かる。あの悪名高い『ソードブレイカー』で己の音叉を受け止めたのだから。

強制執行部隊アクセス・ゼロ副長ヴィクター・エイムズ! く、クソ、やはり過激派と『デュナミス』が結託していたと言うのは事実だったのか!」

聖教機構の敵対組織万魔殿の過激派と、『デュナミス』が通じ合っているらしい。それは未確認の情報であったが、この男が今ここに現れた事で確実な情報となった!

「少し勘違いをしているな。 我らはただジュリアス様の命令に従うのみだ。 全てはジュリアス様の意のままに。 それ以外に我らの行動原理は無い!」

「どうしてここに貴様がいる!?」

「ジュリアス様が少々試してみたい事があるとおっしゃった」

次の瞬間であった。天井のスプリンクラーがいきなり作動して、フー・シャーに水を浴びせかけた。仕掛けられた罠が作動したのだ!

「な、何をッ!?」

驚くフー・シャーに、ヴィクター・エイムズは淡々と言った。

「『シボレテ』だ。 『死歌レクイエム』のフー・シャーよ、貴様ほどの精神力を持つ元特務員が、一体何分何時間で完全に『シボレテ』に侵されるか、それを確かめたいとジュリアス様はおっしゃった」

「!」

『シボレテ』――それは高等生物思念反応型ウイルスで、過激派首領ジュリアスに好意を持たぬ者全てに水を媒介にして感染し、一日以内にジュリアスに忠実なゾンビに変えると言う恐ろしい毒性を持つ――。

フー・シャーは、絶叫した。

「嫌だ!」


 アズチェーナは嬲り殺しにされていた。今や彼女は全身が傷だらけで、負傷していない個所は眼球と口腔だけであった。手足を合わせて、残指も三本しかない。

「が、ひゅう、ひゅうぅ――」

力を使い果たして、補給しよう、と言うところを襲われたため、彼女はもはやろくに力を使えない。か細く呼吸をして、まるで芋虫のように地面にはいつくばるだけだった。

「あっれー?」シンドバッドはそんな彼女の頭を踏みにじる。「確かアズチェーナちゃん、君って『ウェルズリーの惨劇』を生み出した張本人なんでしょー? これっぽっちでくたばっちゃうなんて、予想外だったなー」

そして、ぎり、と足に力を込めた。

「あ、が」アズチェーナは己の頭が踏みつぶされていくのを感じた。「が、げぇ――!」

けれど直後、かすかな振動を感じる。それは地面がかすかに、人の体重で振動しているのだった。アズチェーナが這わせた植物の根がそれを感知している。

(も、もしかしたら、シャマイムさんが!)彼女は希望を抱いた。(だったら今、大人しく死ぬもんか!)

地面から生えてきた植物のツルが、シンドバッドの足に弱々しく絡みついた。

「あ、ウザーい」シンドバッドは、あっさりとそれを振りほどく。「最期の悪あがきー? ちょっと何か、可哀相だねー、君ってー」

シンドバッドが次の瞬間、何者かの体当たりでよろめいた。その背中には、カッターナイフが深々と刺さっている。

「痛いッ!」シンドバッドは地面に倒れて、じたばたともがいた。「痛いよー、痛いよー、誰だ、刺したのー!」

「 」アズチェーナは視線を上に向けて唖然とした。だが、喉が切り裂かれているので、まともな声が出なかった。「……!」

オーリンだった。オーリンは何も言わずに彼女を背負うと、脱兎のごとく逃げ出した!

けれど、ただの少年が、おぞましい化物から逃げられるはずが無かった。

「殺してやるー!」

カマイタチが、オーリンの頭に命中して、彼は、血をまき散らして倒れた。

「あ!」アズチェーナも地面に落ちて、ちょうど、オーリンのすぐ隣に倒れる。起き上がる力が辛うじてあったので、彼女はせめてシンドバッドから庇おうと、オーリンの体に覆いかぶさった。

「ああ、」とオーリンが苦笑するのが分かる。「フー・シャー先生、なら、助けられたの、かな……」

喋らないで、今すぐにシャマイムが来てくれるはずだから!アズチェーナは必死にそう伝えたかったのだけれど、オーリンは言う。どうしても言いたいんだ、と目が訴えていた。

「……僕の血を、吸って、君は、生き延びて、くれ」

「!!!」

アズチェーナは死なないでと叫ぼうとした。人の生き血を吸った事なんて彼女は一度も無かった。吸いたいとも思わなかった。けれど声が出なかった。

オーリンはニヤッと笑って、言った。それが最期の言葉になった。

「あのね、僕の、かつての、名前はさ、ロビン、って言ったんだ」

それは、かつて、任務で彼女が救った少年の名前であった。


『ありがとう』


 あ。

 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


 アズチェーナの中で、何かが、今まで彼女を押さえつけていた何かが、割られたガラスのように砕け散った。

 シンドバッドは、奇妙な気配を感じて、今度こそアズチェーナの頭を踏みつぶそうと近づいていた足を止めた。ぐるぐると周囲を見渡す。

「あの白い兵器がもう増援に来たのかなー?」

ごくり。その時、何かを、飲み下す音がした。

「?」

シンドバッドは思わずアズチェーナを見つめた。

アズチェーナは少年の上にシンドバッドに背中を向けてまたがり、をやっていた!

ごくりごくりごきゅごきゅごきゅごきゅどくどくどくどくどく――ごくり!

アズチェーナが、ゆっくりと、うつむきながら振り返った。

「!」

シンドバッドは背筋に冷たいものを感じる。

アズチェーナの口周りが血の色で染まっていて、そして彼女の口腔には、まるで猛獣のような鋭い牙が鮮血にまみれて生え揃っていたから。そして、にょきにょきと切断したはずの指が生えてきて、傷口が塞がり、彼女はゆっくり二本の足で立ち上がった。うつむいていた顔が持ち上げられて、血走った目がシンドバッドを見据える。

「よくも殺したな」と彼女はまるで感情の無い声で言った。

何だよこれは。シンドバッドは怯えた。何が何だか分からないが恐ろしいのだ!咄嗟にカマイタチでアズチェーナを切り裂く――!

けれど、地面から出現した樹木が盾となり、カマイタチを受けた。

「よくもこの人を殺したな」

シンドバッドは自分がその時には独自の生命体としては絶命している事を、後になって理解した。気付いた瞬間には彼は植物の中に取り込まれて、そして寄生されていた。生きた苗床にされていた。暴れようとしたが神経系が全て脳の時点で断絶されていたため、一切の抵抗が出来なかった。舌を噛む事すら出来なかった。

彼の外見は、もはや人型では無い。ぼってりとした、緑の植物らしきものの丸い巨塊である。視力がまず奪われた、次に聴力、触覚、味覚、痛覚、順々に全てが奪われた。そして、じわりじわりと、最後に残された彼の自我に、脳みそに、植物達の根が、触手が、一本一本食い込んできて、少しずつ蝕み、跡形もなくぺちゃぺちゃと舐め、ざりざりと喰らいつくして行った……。

 生徒を襲う『デュナミス』を全て撃退し終えたシャマイムは、拳銃サラピスの残弾を確認しようとしたが、地震が起きたかのように体が上下に揺らぎ、背後から凄まじい地鳴りがしたため、その動作を中断した。

「!?」シャマイムは背後の光景が認識できなかった。

アズチェーナが生徒達の安全のために校庭をジャングルにしたのは知っている。

だが、これは、何だ!?

それは緑の巨大な塔であった。そして塔からは無数の巨大な植物の根が伸びて、それは地鳴りや地震を起こしながら校庭から街へと溢れ出している!

植物の緑が街を侵食する!

シャマイムはもはやこの事態は自分の認識外にあると判断し、この光景をマグダレニャンに中継した。

『これは!』マグダレニャンが息を呑むのが分かった。『「ウェルズリー事件」と同じ事が起きていますわ! アズチェーナが何らかのきっかけで「過剰放出」しています! アズチェーナを説得、それが出来なかったならば冷凍爆弾を投下し、植物のこれ以上の侵食を防ぎなさい!』

「了解した」シャマイムは戦闘機に変形し、塔に上空から近づいた。

『アズチェーナ』拡声器で、シャマイムは呼びかけた。『応答を要求する!』

「……シャマイムさん」

塔のてっぺんに、彼女がいた。血の涙を流しながら、少年の遺体を抱きしめて。シャマイムは彼女がいつもの包帯で体を日光から隠した姿をしていなければ、彼女だと即座には分からなかっただろう。いつもはがりがりに痩せていたのに、今の彼女の体は、成熟した女性の、それであった。

「あたし、また、守れなかった……!」

『……アズチェーナ』

「分かっています、分かっています、でも、今のあたしはあたしをどう止めたら良いのか分からない! ウェルズリーみたいに、体力が尽き果てるまで暴走するしかない! あたし、あたし――!」

『……麻酔を投与する、アズチェーナ』

「そうですね……そうして下さい……あたし、あたしを許せそうに無いんです……だから……今は……無理やりにでも大人しくさせて下さい……」

シャマイムは、彼女の側に降りると、人型に戻り、彼女の腕に注射器を刺した。


 『僕』が『僕』じゃなくなる。

かつては天才と呼ばれて思い上がっていて、でもバイオリンを弾く事だけは大好きだった傲慢な僕。

腕を失い、再生治療は受けたのに、そのバイオリンがまともに弾けなくなって、ショックのあまりに自殺未遂を繰り返した哀れな僕。

それがあまりにも酷かったので、友達を全員無くした愚かな僕。

ウルリカに救われて、恋をして、結婚を申し込んだ、幸せな僕。

仕事も見つけて、同僚が出来て、修羅場も潜ったけれど、充実していた僕。

そして――、

思い出せない!

『ジュリアス』

とても大事な事なのに、最近の記憶から、どんどん書き換えられていく!

嫌だ!

『ジュリアス』

止めろ!

『ジュリアス』

僕は、記憶を忘れたくなくて、肉体に刻み込もうとした。爪で自傷行為をするこの姿はとても滑稽だけれど、でも、僕は、必死に腕に爪で刻み込む、僕の名前と妻の名前と、それから、それから。忘れたくない、だから、お願いだ、

『ジュリアス』

「ふむ、想像以上に早いな」誰かの声がした。でも、僕はそれどころじゃなくて。「そうか、精神力の強さに『シボレテ』が過剰反応し、精神汚染速度もそれに比較して加速的に早まるのか」

……どんどんと思い出せない事が増えていく!記憶は削られた空白で残る!

『ジュリアス』

嫌だ!僕は、僕は、僕は、ぼくは、ぼくは、BBBBBBBBBBBBBBBBOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKう、HA、

『応答を要求する!』

……だれ?

『フー・シャー、応答を要求する!』

わからないよ、わからないんだ!

「おや、増援がもう来るか。 だがまあ良い。 ジュリアス様へ報告するには十分だ」

だれかのけはいがきえた。ぼくはもう、うでにきざみこんだもじがよめなくて、ぼけーっとそのきずあとを、みつめていた。あかいみずがたらたらながれている。

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』


 ぼくのあたまは、そのことばで、いっぱいで、はちきれそうなくらい、ぱんぱんだった。


 「フー・シャー!」

ええと、だれ?

あ、ぼくは、でも、そのとき、おもいだした。

そう、そうだ。

けりたおされて、たおれるうぇでぃんぐけーき、とびかうひめい、でもそれをすんでのところでささえてくれた、だれよりもしんせつな、あいつのことを。

「しゃまいむ」ぼくは、さいごのぼくは、いった。「ぼくをころしてくれ」


 「フー・シャー!?」

応答が無いため、急ぎ駆けつけたシャマイムは、元同僚の言葉に仰天した。元同僚は、まるで子供に戻ってしまったようだった。

「ぼく、しぼれて、にかんせんした、ぼくが、ぼくで、あるうちに、ころしてくれ……」

「……」

「はやく、ころして……あ、ああ!」だが、その時、一瞬だけ、その目に理性と知性が戻った。「みんなに……ごめんねって……あと、うるりかに、たんさんすいを……」

そして、フー・シャーは、狂ったように次の言葉だけを、シャマイムが何を呼びかけても繰り返すようになった。

「じゅりあす」

シャマイムは、マグダレニャンに判断を仰がなかった。その時間が無いと理解したのだ。

イエス。 ……了解した、フー・シャー」

シャマイムは拳銃サラピスの照準をフー・シャーの心臓に定めて、引き金を引いた。


 「……そうですか」

マグダレニャンはシャマイムから報告を受けて、この手で殴れるものならアロンを殴り飛ばしたいとすら思った。シャマイム達は取った行動こそ適切であったが、上官アロンの命令に違反してしまったのである。しかも民間人の被害も出してしまった。アロンは間違いなくその責任をシャマイムとアズチェーナに押し付けて、自分は責任逃れをするだろう。だがシャマイム達は何ら悪くないのだ。破綻している計画を立てたアロンが全て悪いのだ。

だが、他の聖教機構幹部がどう思うかなど、今の時点で分かりきっている!

それに、フー・シャー。

身重の妻を残して死んだ、音楽学院の教師にして、彼女の元部下。

彼の無念を思うと、マグダレニャンはアロンへの怒りがますます激しくなった。

「フー・シャーの遺体を回収なさい。 『シボレテ』のワクチンを開発するためにも。 シャマイム、それから、貴方にはしばらく自由行動の時間を与えます」

『ボス?』シャマイムは不思議そうな声を出した。いつもの無機的な機械音声ではあったものの。

「シャマイム、アズチェーナ共に命令違反の処分が下るでしょう。 それまでの……執行猶予ですわ。 フー・シャーの配偶者に、知人に、彼の最期について伝えに行くには辛うじて足りるでしょう」

『……了解した』


 ウルリカは呆然としていた。夫が死んだと言う知らせが来て、葬儀やら何やらで目も回るほど忙しかった。彼女は泣く事も出来なかった。あまりにも突然だったからだ。忙しさに追われていたから、では無い。

つわりで苦しんでいた事すら忘れて、全てが終わった後の彼女は、ただ、空虚の中にいる。

やけに広く感じる家の中に彼女が一人きりでいた時だった。

玄関のベルが鳴らされた。

彼女はふらふらと玄関に向かい、ドアを開けた。

「あら、貴方は……確か……シャマイムさん?」

忘れもしない、倒れかけたウェディングケーキを必死で支えてくれた、夫曰く、人生で出会った中で一番の善人、の人型兵器がそこにはいた。

「是」と玄関前に立っているシャマイムは答えた。「譲渡するべき物品と伝達事項のために来た」

応接室にシャマイムを通して、彼女はシャマイムと対面して座った。

シャマイムは真っ先に言った。

「フー・シャーを殺害したのは自分だ」

ウルリカはその言葉がよく飲み込めなかった、今の彼女は正気の中にいなかったのだ。

「フー・シャーは敵の生体兵器に感染し、治療方法が一切無かったため、殺害するのが最も適切だと判断した」

「そう、なの……」

つまり、シャマイムも夫を殺したくて殺したのではない、と言う事だけ、分かった。けれどそれには感情がともなわなかった。どうしても、他人事だった。

「そして、これが譲渡品だ」とシャマイムは小さな電子オルゴールを取り出した。「フー・シャーが演奏した自作の曲を自分の記憶媒体から抽出した」

「え……?」

オルゴールが鳴りだした。素朴だけれどとても優しい、心にしみる曲だった。ウルリカはいつの間にか泣いていた。彼女を空虚から現実に引き戻したのは、音楽であった。

「フー・シャーはこの曲についてこう発言していた、『自分の子供が生まれたら、子守唄代わりに聞かせてやりたい』と」シャマイムは言った。

ウルリカの返事は号泣であった。

「……彼の遺言は、謝罪と、貴女にこれを届けるようにと自分への依頼だった」

ウルリカは炭酸水の瓶の詰まったプラスチックの箱を見て、もはや、わあわあと子供のように泣いた。

何もかもがもう遅かった。彼女の優しかった夫は死んでしまったのだ。悲しかった。さみしかった。けれど、オルゴールの音が、彼女を辛うじて負の感情から救っていた。その音色は、彼女の心にそっと入り込み、囁くのだ、僕はまだ生きているよ、と。どうか君も生きてくれ、と。

彼女は決心した。何が何でもこのお腹の子だけは産んで、育ててみせる!と。

「……ありがとう」

真っ赤な目をして、彼女はシャマイムにお礼を言った。


 いつも子供のように元気であったピエリ老人はまるで死にかけの病人のよう、マルグリットの方は泣きじゃくって手が付けられない状態であった。

リエンツィ聖音楽学院の校舎はアズチェーナの『過剰放出』の直撃を受けて半壊状態で、しばらくはとても講義など出来ない有様であった。更にシボレテを消毒するまでは完全に立ち入り禁止にされていた。仕方なく生徒らは姉妹校のローエングリン聖音楽大学の講義室などを間借りする事になっていた。

ピエリ老人達は、そこでシャマイムと会って、フー・シャーの死を知らされた。

「せんせい」マルグリットはその言葉ばかり繰り返している。「せんせい、せんせい、せんせい、せんせい!」

「本当に嫌なものじゃのう……」ピエリ老人は、呟いた。「未来ある若者が死んで、死んでも良いような老いぼれが生き延びてしまうなど……」

「……」シャマイムは何も言わない。

老人は、やがて、一度だけ言った。

「もう一度だけ、女史に一緒に土下座するような事をしでかしたかったなあ、フー・シャー君よ……」


 アズチェーナはヘルヘイムに一週間の禁固刑、シャマイムは兵器として不全で不適切な思考回路を改良するためにラボ入り。彼女らに下された処分はそれであった。

 だが特務員達からの猛反発が発生した。特にシャマイムの思考回路を変えると言う処分命令には、もはや和平派特務員が総集結しての大反乱が起きかねないほどの抗議が殺到した。

「アイツに限ってそんなのはおかしい!」

「そうよ、シャマイムに限って命令違反だなんて余程の何かがあったのよ!」

「アイツの思考回路を変えるな! アイツは良いヤツなんだ!」

「本当に良いヤツなんだよ、それを改悪するな! しないでくれ!」

 ――「減刑嘆願の署名、こっちは三〇〇。 そっちは?」

セシルが血相を変えて訊ねた。ベルトランは無言で分厚い紙の束を突き出し、

「七〇〇名だ。 貴様はもっと仕事をしろ!」

「おう、やってくる!」セシルは特務員の会議室を飛び出して行った。

和平派特務員は、今、会議室に緊急集合して、シャマイムを助けるために必死に活動している。署名を集めたり、聖教機構の幹部らに減刑嘆願のために直訴に行ったり、とにかく必死に、自分達にやれる事をやろうとしている。

 けれど、一人だけ、何もしていない男がいた。


 ……I・Cは、例のごとく酒場で酒を飲んでいる。

彼の影から、耳障りな声がした。咎めるような口調で、である。

『I・C殿。 貴方様はお仲間が処分されるのに何もなさらないのですか!』

「ムールムール」I・Cはどうでも良さそうに、「俺、今、祝杯を挙げてんだぞ?」

『何の祝杯ですぞ?』声の主、悪魔のムールムールは怪訝そうに訊ねる。

「フー・シャー死亡記念、乾杯ー!」

『……』声は、黙り込む。

「大体俺は警告したじゃねえか、『行くな』って。 それなのに今更どうしろと言われてもな、ぎゃははははははははは!」

『とは言えですぞ……個人的にも、あの優しいシャマイム殿が人格改造されるのを、黙って見ているのはとても堪えられない事ですぞ……』

「ヤツはもっと攻撃的になった方が良いんだ」I・Cは言った。「否、凶悪になるべきだ、兵器なんだからな!」

『そんなシャマイム殿はシャマイム殿では無いですぞ!』

「それこそが本来の、そして俺の理想とするシャマイムなのさ」

I・Cは何か、夢を見ているように憧れを含んだ、熱狂的な口調で言う。

「殺して殺して殺して殺して死なせ、そして俺をも殺して死なせてくれれば、俺はこの終わらない悪夢からようやく……」

『I・C殿……!』

「救世主なんか二度と来ない。 この世界に救いようなど微塵もありはしない。 全人類が滅亡し、全生命が絶滅し、そしてこの星が破壊され無限の宇宙に消えて、その宇宙すら遠い未来に終わる……俺はその日が恋しい。 俺はその日が待ち遠しい。 この物質世界に終止符が打たれれば、なあ? 全ての罪過は消える。 死と終わりと絶望のどん底こそが、真実の、唯一の救いだ」

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