第23話 【ACT二】姉弟

 その幼い男の子は、ぼろぼろの服を着ていて、不自然に痩せていて、汚くて、臭くて、おまけに全身、あざと生傷だらけであった。仕方が無いので彼はその男の子を風呂に入れて、傷の手当てをして、それから食事を与えた。貪るように食べながらその男の子は、いきなり泣き出した。

「どうした?」と彼が泣き出した理由を聞くと、

「おいしい、こんなにおいしいものをたべたの、はじめてなんです……」

別に彼はご馳走を作ってやった訳では無い。炊き立てのご飯と熱いみそ汁と漬け物、後は魚の干物を焼いて出しただけである。

「分かった、分かったから、そんなに急いで食べるな、喉に詰まるぞ」

彼が落ち着かせようとした直後、男の子は案の定、食事を喉に詰まらせた。

 「父さん、あの子は……?」彼は父親に聞いてみた。

「……親に売られたのを、買ってきた。 親がバクチ狂いでな、借金の抵当にされたんだ」

「何でまともに育てられないのに子供を作るの? あの子は当たり前の食事さえ与えられた事が無かったみたいなのに」

「……人間も動物の一つだからなァ。 産むだけなら畜生にも出来るさ」

「僕は父さんが父親で本当に良かったよ」

「止せやい、今更お世辞か。 誉めたって小遣いなんざ出さねえぞ。 ……あの子、いや、お前の弟の事、頼んだぜ」

「うん」

 ……酷く懐かしい夢を、見た。

まだ自分が『六道』に所属していて、父親がまだ生きていた時の夢を見た。父親がある日いきなり彼の弟を連れてきたのだ。血縁こそ無かったが、紛れも無く彼の弟になった男の子を。彼の弟は、暗殺者としては優秀なのに、普段の生活ではドジで間抜けで、それももはや怒りを通り越して呆れるほどであった。

彼はぼんやりと目を開けて、周囲を見た。どうしようもない虚無感が彼を覆い尽くしていた。彼は守れなかった。彼を好きだと言ってくれた相手を守れなかった。その無力感が彼を押しつぶして、殺してしまいかけた、時だった。

あんちゃん、久しぶりだね」

彼は驚いたが、直後、体が激痛に襲われてうめくのが精いっぱいだった。

その青年はちょっと悲しそうな顔をして、彼を上から覗き込む。

「兄ちゃんらしいね」と青年は言った。「守りたくて守れなくて、そんな自分が許せなくて壊れてしまうんだ。 それが大事なものであればあるほど、愛おしくて同時に悲しい。 俺もね、兄ちゃんがいなくなってから、それを知ったよ。 思い知らされたよ」

「……」

「暗殺者って嫌な稼業だよね。 殺したくない人まで殺さなきゃいけない。 それもたかが金のために。 腐れ金なんかじゃ換算できない、本当に良い人まで殺さなければいけないんだ」

「……」

「兄ちゃん、帰ろう、みんな待っているから、帰ろう?」青年は、にっこりと笑った。えくぼが出来た。「嫌だと言っても連れて行くよ」


 グゼが病院から誘拐された、と言う情報は即座にマグダレニャンの元に伝えられる。真っ青な顔の院長が、土下座せんばかりに彼女に謝罪する。

「申し訳ございません! 一体誰がどうやってあの重体の患者を連れ出したのか……!」

「彼が自分の意志で失踪した、と言う可能性は?」マグダレニャンが聞くと、

「いえ、それはありえません、彼は意識すらおぼろな状態でした。 そして身体は再生治療をしなければとても動かせないほど損傷していました。 まだ魔族ならばともかく、人間ではとても……」

「そうですか……」マグダレニャンは考え込んだ。「分かりましたわ、こちらでその件は対応しましょう。 しかし最高警備の特別集中治療室から、誰にも見つからずに彼を運び出す……事が可能な相手となると、限られていますわねえ……」

 特務員のニナとフィオナが、その誘拐事件を追う事になった。

「でも、あの有様のグゼを連れて行ってどうするつもりなのかな?」ニナが首をかしげる。「拷問や尋問にはとても耐えられる体じゃないし、精神は壊されたんでしょ? 仮に体が治ったとしても廃人じゃあ……」

「……そもそも、何で危険を冒してまで、あのグゼを病院から連れ出したのか、分からないよね……」フィオナが言う。「もしも情報が得たかったら、他の、街をうろつく特務員をさらえば良いだけなのに……」

「とにかく、徹底的に調べよう!」ニナは言った。「まずは病院に行って、何か手がかりが無いかどうか、調べる事から始めるわよ!」


 「ぎゃはははは!」I・Cはご機嫌そのものであった。「グゼが拉致された、何て素敵なんだ! ざまあみろあのクソ野郎め、もっと酷い目に遭え!」

「人の不幸は蜜の味、か」フー・シャーがうんざりした顔でI・Cを見る。

「止めろよ、自分がモテないからってグゼを妬むな」セシルは真っ当な事を言ったが、すぐさま空の酒瓶が飛んできて、それを避ける羽目になった。

「ぎゃはははは、どうせ今頃はヤツは地獄のどん底にいるぜ! 楽に殺してもらえて死ねたらの話だがな!」

緊急特務員会議の行われている一室にいる、誰も彼もがI・Cを苦々しい顔で見ている。I・Cは基本的に会議には出てこないのだが、何か裏の意図があったり、気分が良いとデカい面をして堂々と出てくるのだ。

(おい)と新入りであるベルトランがシャマイムに耳打ちした。(コイツはいつもこうなのか?)

(是)シャマイムは空気を呼んで、小声で答える。(I・Cは通常からこのような発言をしている)

ベルトランは納得した。(道理で……誰も彼もが、この男についてはありとあらゆる言葉で罵る訳だ……)

『……話を変えよう』立体映像で登場した情報屋の青年レットが言った。『万魔殿の穏健派と過激派の戦争についてなんだけれど……』

「何か進展があったのかい?」フー・シャーが聞いた。

『帝国が穏健派を全面的に支援する直接のきっかけになった、「帝国」最大の商都ジュナイナ・ガルダイアでの女帝暗殺未遂事件は知っているだろう? あれを起こした謀叛者の帝国貴族達の末路なんだけれど……』

「……ジュリアスは連中をどうしたんですか?」アズチェーナが恐る恐る訊ねると、

『一兵卒にして最前線に送り込んだよ』とレットは言って、長いため息をついた。『確かに情報さえ全て得てしまえば、亡命してきた貴族連中なんて何の役にも立たない。 むしろ帝国でぬくぬくと暮らしていた分、ジュリアスにしてみれば邪魔なんだろうね、強制執行部隊が指揮する部隊に強制的に入れられて、前線で死んで来いって往かされた。 気の毒ではあるけれど、これが現実だ』

「しゃぶれるだけしゃぶって、旨みが無くなったら捨てる、まあそれが普通だな。 馬鹿みたいにただただしゃぶられる方が悪いんだ」I・Cが下卑た笑みを浮かべる。「で、他の情報は?」

『……戦況は穏健派が優勢で、帝国もいずれは改革を終えて直に加勢しようとしている。 遅くても来年には友軍として動くだろう。 強硬派のシーザーも回復し次第、過激派を追いつめるだろう。 ちょっと気になるのが……』

「どうした、レット?」セシルが問うと、青年レットは、

『僕ら和平派の幹部がもうすぐ総会を開いて、シーザーの代わりに当面の代理戦争をするかどうかを決めるってのは知っているよね。 それの結果が気になる。 それ次第でこの戦争がどうなるか、この世界がどうなるのか、本当に予想さえ出来ない』

「確かに……」特務員の誰かが言った。「そうだ」

『……そういや、グゼの欠員補充はどうするんだい? 新入りとかいるのかい?』

ふとレットが口にすると、新入りの者やI・Cを除く誰もが暗い顔をした。

「あ、あれ、どうされたんです、皆さん……?」アズチェーナが驚いた。

「あのアマを『ヘルヘイム』から臨時で出す……しか無いだろうな。 グゼに匹敵するような新入りは今の所いないしなあ……」

セシルが忌々しそうに言った。普段は女性の事をアマなどと呼ばない彼が、である。

「あのアマ? 誰だそれは」ベルトランが口にすると、シャマイムが答えた。

「名前はローズマリー・ブラック、別名は『メリー・ウィドウ』だ。 男性を誘惑し性交渉を持ってから殺害する事件を五九件連続で発生させ、異端審問裁判にて禁固一〇〇〇年の判決が下された。 ヘルヘイム特別房に現在は厳重隔離されている」

「……?」ベルトランは不審そうに、「言っては悪いがそれだけなのか? 五九人も殺したのは凄まじいと思うが、それだけならば別に魔族ならば珍しくないと僕は思うのだけれど……」

「殺害相手はいずれも聖教機構特務員、もしくは」シャマイムが言った言葉にベルトランは目を見開いた。「従軍経験の豊富な軍人、傭兵などだった」

「……なるほど、そうか。 どんな女なんだい?」

「見た目はね、美女だよ。 そりゃあもう飛びきりの。 ……でも僕は妻の方を選ぶ。 世界にあのアマと二人きりになれと言われたら首くくって自殺する。 あれは危険が大好きな男じゃないと、とても、もう……」フー・シャーが少し怯えている。

「グゼが大のお気に入りだったんだ、あのアマ。 でもグゼはあのアマに迫られているって言う心労が酷くて、ついには追いつめられてノイローゼで入院したんだよな、この前は……」セシルが苦い顔をしている。

「あのアマは殺す。 犯してから殺してやる」I・Cは会議室のテーブルの上に両足を乗せた。「俺を馬鹿にしたヤツはどんな末路が待っているか、思い知らせてやらねえとな! へへへへ、それが楽しみで今日は特別に会議に出てやったんだ。 ああ楽しみだ、凄く楽しみだ、早く出てこねえかなあ!」

(……どう言う風に馬鹿にされたんだい?)ベルトランがこっそりシャマイムに聞くと、

(I・Cの所持する男性器が平均より小型だと彼女は断言した)

(…………………………馬鹿じゃないのか、I・Cは? 気持ちは分からないでも無いが、自業自得だろうそれは。 何とかならないのか)

(幾度か説得しようと自分も試みたが全て失敗に終わっている)

シャマイムの忍耐強さは、もう表彰しても良いほどの代物ではないか、とベルトランは痛ましく思った。あのI・Cの説得なのだ、シャマイムは相当苦労しただろう。おまけにそれが全て失敗に終わっている……。


 彼女は肩の所で切り揃えられた黒髪がさらさらとしていてとても美しく、たたえる雰囲気は清楚で上品であり、少し高めのソプラノの声はまるで小鳥のさえずりの様であった。しとやかに咲いた一輪の白バラに彼女は似ていて、とてもその本性に外見で気付ける男はいないだろう。

彼女の本性は、人食い蜘蛛である。

 「皆様、こんにちは」と首に黒いチョーカーを付けたローズマリー・ブラックは丁寧な挨拶をした。彼女は通称『棺桶』と呼ばれている囚人移送用の大きな箱から姿を見せて、まずそうした。それから彼女を出迎えた特務員達を見渡して、「あら、グゼさんはいらっしゃらないの?」と不思議そうに言った。

「お前がヤツの欠員補充だ」とセシルが不愛想に言った。

「あらあら、そうなの。 残念だわ……」彼女は目に涙をためたが、フー・シャーは同情するどころか、むしろ気持ち悪そうに、

「良い加減グゼの事は諦めてやれよ。 グゼはお前みたいなのが一番苦手なんだ」

「酷い事をおっしゃるのね、フー・シャーさんは。 本当に、酷い……」そこで彼女はベルトランの姿に目をとめて、「あら、そちらの御方は新入りさん?」

「……ああ」ベルトランはかすかに殺気立っていた。「変身種ライカンスロープか……確かに人を沢山喰らいそうだ」

(おい、俺も変身種だが人を喰った事なんて一度も無いぞ)セシルが悲しそうに耳打ちすると、ベルトランは彼を睨みつけて、

では、変身種と吸血鬼ヴァンパイアの殺人件数がとにかく多かった)

(……分かったよ、分かった)セシルは引っ込んだ。

「んまあ、酷い殿方ね」ローズマリーは悲しそうに、「私はそんな酷い事はしませんわよ」

((嘘つけ))特務員の誰もが似たり寄ったりにそう思った。((『そんな酷い事』が本当は大好きな癖に))

「ところで私が『ヘルヘイム』から出されたと言う事は……一体何が?」

そう訊ねたローズマリーに、

「過激派がテロを予定しているとの情報が入った。 場所はゲルマニクス王国首都ベルリニアだ。 『帝国』と提携した万魔殿穏健派の支持をゲルマニクスは閣議決定した。 そして穏健派を通して『帝国』と親密な関係を構築するべく穏健派への支援を決定した。 同時に我々和平派とも良好な関係の維持を目論み、ゲルマニクスは和平派が過激派との戦争に参入した場合、多額の支援金並びに物資を進呈すると発表。 これを知ったジュリアスが報復行動を取ると声明を発表、強制執行部隊第二班が動員される模様。 ゲルマニクスは和平派に救援を要請した」シャマイムが淡々と説明した。「だがゲルマニクスには穏健派にも救援を要請した可能性もある。 穏健派との対立は現状では好ましくないとボスは判断した。 そのため、殺傷せずに穏健派をけん制でき、テロリストを制圧可能な能力の所有者が必要だとローズマリー・ブラックにも任務を発令した」

「あらあら。 第二班と言いますと、あの市街地戦の得意な……。 分かりましたわ。 精一杯お仕事をさせていただきますわね」ローズマリーはこくんと頷いて、「それにしても、やっぱりお空は青い方が美しいですわね」としみじみと青空を見上げた。

「お前の殺した連中も同じ青い空を見ていたんだ」I・Cがあざけった。「でもその連中の目ン玉えぐって食ったのは、お前だぜ?」

「……相変わらずいやらしい人ね、I・Cさんは」ローズマリーは悲しそうに、「私は反省して罪を償おうと思っているのに……酷い事を……」

((償える罪なら一〇〇〇年間もの禁固刑なんて下されないだろうに……))誰もが、思った。


 「オットー坊やは本当に良くやっている」と穏健派幹部アッシャーが少し嬉しそうに言った。「まだ若いのに、エウドニア前線の指揮官なんて大役をきちんと果たして……。 親父のカールや、可愛がっていたシラノが生きていたらどれほど喜んだか……」

「だったら、坊やって呼ぶのは止めてやりなさい」同じく穏健派幹部エウジェニアが苦笑して言った。「気持ちは分かりますけれど、もうあの子は立派な大人になったのよ?」

「それもそうだ。 でも、どうも私にもあの小さくて負けん気が強くて生意気だったオットー坊やの姿が思い出されてしまう」対過激派戦争総司令官、隻眼の男マルクスが穏やかに笑う。「はははは、いかんな、昔の事ばかりに囚われるのは。 ほどほどにせねば老人はこれだからと若い連中に言われてしまうよ」

彼らは小さな円卓を囲んで、和やかに会話している。昼下がりの食事後の、ささやかな憩いの時だった。

『エウドニア前線からの報告!』そこに、緊急の通信が入った。『先ほど強制執行部隊と交戦、多数の捕虜を獲得、その身柄の処分の判断をお願いしたくとの事です!』

「「えっ」」それを聞いた幹部達が一様に絶句した。

「それは……本当なのか? あの強制執行部隊が捕虜になるだと!?」アッシャーが通信機に向かって吠えるように言った。「それはどう見ても罠だ! 即刻処刑しろ、オットー坊や!」

「賛成です!」エウジェニアが叫んだ。「あの強制執行部隊が捕虜の身分に甘んじるなんてありえません! あれは最後の一人になったとしてもこちらの喉笛に食らいついてくる! 処刑しなければオットー坊やが危険だわ!」

「待て」マルクスが止めた。叩き上げの軍人上がり、かつて「帝国」の『ハルトリャスの魔王』クセルクセス、聖教機構の『覇王』イザークと『獅子心王』アマデウス、亡国クリスタニアの『常勝将軍』オリエルとも渡り合った過去を持ち、『隻眼鴉』と異名を取る彼は流石に冷静だった。「それくらいオットー坊やも分かっているはずだ。 捕虜の素性や態度はどうだ? どんな連中だ? 直に聞きたい、オットー坊やに代わってくれないか?」

『了解』

少し沈黙が流れた後、通信機から若い男の声がした。

『マルクスさん、この、捕虜についてなのですが……』

「所属などは分かるかね?」

『ある程度ならば分かります。 「帝国」に俺が漂着していた時に何名か名前や顔を見聞きしましたから……』

「『帝国』? どう言う事だ? あ」そこまで言ってから、マルクスは事情を悟った。「そうか、そう言う事か!」

『ええ……』通信機の向こうで、が困った顔をして頷くのが見える様だった。『捕虜はいずれも「帝国」の元貴族達で、つい先日強制執行部隊に強制的に配属された者ばかりです』


どうしたものか。マルクス達ですら対応に戸惑っている間、オットーは捕虜の様子を観察していた。

 ……『帝国』が近年大きな戦争をやったのは、数十年前に亡国クリスタニアを撃破した時だ。だから若い帝国貴族には戦争らしい戦争の経験がほとんど無い、と言って良いだろう。捕虜達は軽傷を身に負っていて、本物の強制執行部隊ならば死ぬまで襲いかかってくるのだが、彼らはそれだけで完全に戦意を喪失してしまっていた。つまりは新兵が多い、使い物にならない部隊だったのだ。それが何故このエウドニア戦線に送り込まれたか。その理由は恐らく、時間稼ぎだろうとオットーは思っていた。和平派が戦争に参入するか否かを決断するまでは、強制執行部隊は使いたくないのだ。何しろあれはジュリアスの死札である。死札をいつも行使していたら、いざと言う時に疲弊しているかも知れない、それを避けたいのだろう。そのための便利な捨て駒が帝国元貴族達だった。彼らには戦意が無く、だが故郷に帰る事もオットー達の手によって送り返す事も出来ない。そんな事をすれば『帝国』がこれ以上無く激怒して、穏健派への支援を止める可能性もあるのだ。『帝国』に生きる全ての者の太母たる『女帝』を元帝国貴族達に殺されかけたのだから。とは言え、弱々しい捕虜を虐殺すると言うのも気が引ける。それでオットーは判断を上に仰いだのである。

捕虜達は、いずれも疲れ果てた様子で、もはや反抗らしい反抗でさえ出来ないほどであった。何人かは泣いていたし、何人かは震えていた。現実逃避のために目が虚ろな者、子供返りを起こしている者すらいた。

(貴族は……やはりその多くは貴族では無いのだな。 幸せな世界に住み着いていて、この戦争を、残酷な現実を知らない。 その自己完結した『帝国』の小さな世界が幸せだと気付いていれば、こんな目には遭わずに済んだものを……)

彼は、唯一の友達だった帝国貴族、JDジェラルディーンの事を思い出した。

(JDならば死ぬまで戦っただろう。 JDならば命にみすぼらしくすがりつこうとはしなかっただろう。 JDは貴族だった。 正真正銘の貴族だった。 己の生きる世界に幸せと満足と未知を見出していて……そして、高貴に生きて高貴に死ぬと言う事を知っていた。 なのに……コイツらは……)

オットーは哀れみすら感じた。ある意味ではさげすみつつ。

(自分達から母親のような存在である女帝を裏切った癖に、今更何を……何を己の根幹に据えて生きようと言うのだ? 絶対的に裏切れぬもの無くして、どうやってこれから生きていくのだ? 惨めだ。 あまりにも惨めだ。 その果てが、なれ果てが、なのだから……)

『坊や』通信端末が鳴った。マルクスの声がする。『オットー坊や、済まないがその捕虜達を連れて捕虜収容所へ行ってくれないか? 指揮官である君の代理にアッシャーが到着したら交代してくれ。 捕虜の待遇や返還などは、その後で考えよう』

「分かりました、マルクスさん」

『……それと、これは内々での頼みなのだが』マルクスが無音通信を始めた。『捕虜収容所でどうやら不正が起きているらしい。 大体はこちらも把握しているが、詳細な調査を君に頼みたい。 調査結果次第では、の裁断を必要とするかも知れない』

「……何が起きているのですか?」

『……「帝国」から我々穏健派が色々な金融支援も受けている事は君も知る通りだ。 その金の中でも、捕虜収容所に回された分を、どうやら着服している者がいるらしい。 だが、何のために着服しているか、がいっこうに分からないのだ。 そして……』

マルクスが一度言葉を切った。

『収容所から捕虜がいなくなる事が相次いでいる。 脱走だとか自殺だとか色々と言われているが、私の勘が妙だと言っている。 金の動きと合わせて君に調べてもらいたい。 頼めるかね?』

「了解しました」オットーは、頷いた。


 捕虜を収容所に移送している時、だった。オットーは捕虜の中にあの顔を見つけた。やつれて、汚れた顔を。

「オデット……?」

彼が呟いたとほぼ同時に、彼女はオットーの方へと視線を動かし、瞠目した。

「あ、貴方は!」

けれど彼らはそれきり沈黙する。今の二人の立場が、仲良く会話できぬほど相容れないものである事を互いに分かっていたから。

オデットは、かつて『帝国』の大貴族クセルクセスの愛娘であったが、『女帝』暗殺クーデターに加担し、故郷には二度とは戻れぬ身になっていた。一方オットーは、女帝の忠臣であったクセルクセスと、その悪友であったJDに、クーデターが起きた時は味方した。クセルクセスもJDもクーデターの所為で死んだ。オットーは一瞬、オデットに激しい憎悪さえ抱いた。彼女達があんな真似をしなければ、JDは寝台の中で穏やかに死ねたはずなのだ。JDの笑みを浮かべた死に顔を思い出して、オットーは思わず背負っていた長刀に手をやった。彼がここで彼女を殺しても、誰も彼を責めはしないし、大した罪にも問われない。

彼が長刀を抜くと、捕虜達が悲鳴を上げた。だがオデットは、涙も流さず声も出さず、ただ唇を噛みしめてオットーを見た。それが彼女の答えだった。

オットーは、彼女の青い目を見つめて、鋭く言った。

「お前達はどうして裏切った」

「……」彼女は朱唇を開いた。「万魔殿からそう侮辱されるのに、私達は耐えられなかったのよ」

「だったらお望み通りにこの戦争で戦って死ねば良かったものを、どうして捕虜になってまで生きようとする? それこそ豚精神だろうに」

「……」

「理想を追いかけたは良いが、何も現実を知らない。 それはな、自殺行為と呼ぶものだ。 お前達はどうせジュリアスにそそのかされたんだろうが、あの男は利用価値が無いものに対して慈悲を与えたりなどしないのだ、絶対に」オットーは冷酷に言う。「お前の父親を裏切った時、お前は楽しかったか? さぞ楽しかっただろうな、自分達に正義があると信じていたから。 だがそれは幻だった。 だから貴様らは肥え太った豚共と呼ばれるんだ。 否、極上のカモ共だ。 それが今ではどうだ? 故郷に帰りたいだろう? だがもはやお前達に故郷は存在しない。 庇護する者も誰一人いない。 お前達は良いように扱われて動いた挙句に捨てられたんだ。 捨て駒でもここまで惨めでは無い」

「……貴方には永遠に分からないでしょうね。 『帝国』とて楽園では無く、とても見てはいられない醜い現実があると言う事を……」

「その醜さを直視できないで、他人の所為にするなら簡単だな」

「……」

「お前達は貴族でも何でもない。 ただの卑怯者だ。 裏切り者だ。 お前達の同朋を裏切り『女帝』を殺害しようとして、心底それが『正しい』と疑いもせずに思っていたのか? とても正しくて楽しかっただろうな、こうなる前は。

 お前達は『女帝』を殺し、その忠臣たる枢密司主席をも殺し、その地位をお前達で簒奪しようとした。 クーデターの計画内容は聞いたぞ、全て。 そうやってから聖教機構を万魔殿過激派と手を組んで抹消しようとした。 だが、聖教機構がその程度で倒れるほど弱い相手だと思っていたのか。 いいや、その後の事を考えた事はあるのか? 何故『帝国』が、『女帝』が聖教機構に宣戦布告しないか、それは聖教機構が倒れた後の問題の方が深刻だからだ。 かつて大国クリスタニア王国が滅びた後、世界各地で『後クリスタニア問題』と呼ばれる重大な危機がいくつも発生した。 あれがまた繰り返されたならば、と誰もが怯えるほどの重大な危機が。 今でも続いている列強諸国アルビオン王国のエリン問題、アルバイシン王国のデバン解放運動など正にそれだ。 だからこそだ、だからこそ戦争では無く平和をと穏健派は必死に動いている。 倒せるものなら倒したい、しかしもはやその時では無いのだ。 過激派は未来を全く考えようとしないただのテロリスト集団だ。 聖教機構の強硬派も大差無いが。 ……大体お前達はを知っていてジュリアスと手を組んだのか?」

「……『あれ』?」

不思議そうな顔をしたオデットらに、オットーは哀れみの視線を向けた。

「『デュナミス』だ。 あの世界最悪の暗殺組織とジュリアスは結託している」

驚く貴族達の顔を見て、オットーはいよいよ彼らに憐憫の情を抱いてしまった。だが、彼らを救ってやりたいとも庇ってやりたいとも、全く思わなかった。

「……知らなかったのか。 そうだろうな、そうだろう。 だがヤツらはお前達の愚かさを利用した。 全く可哀相だな、お前達は」

「そんな……!」オデットの目には、ついに涙が浮かんだ。「私達は、どうして――!」

「知るか」オットーは、現実を突きつけた。長刀はしまったが、より過酷で鋭いその刃を突きつけた。「俺は知りたくも無い。 だがお前達は故郷に戻れずどこにも行けず、ただ今をさ迷うきりだ」


 「あー……」I・Cはいつもの無気力無関心無慈悲な態度で、じっと空中のどこかを睨んで歩いている。「また失敗か……畜生」

「きゃああ!」と女の悲鳴が上がった。哀れな通行人の女性であった。「露出狂が出たわ! 警察ー、誰か警察を呼んでー!!!!」

彼女は本当に哀れであった。その直後にI・Cに殴られるのだから。

「うるせえぞドブス。 殺されたいのか?」

「ヒッ、ヒッ……!」恐怖と痛みのあまりに腰を抜かして悲鳴が出ない女性。

「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」だがその彼女に救いの手を差し伸べた者がいた。「I・Cさんが婦女暴行をしています!!!! 誰でも良いからすぐに化学薬品工場カムパネルラの前に来て下さいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!」

通信端末にそう絶叫したアズチェーナが、駆けよるなり女性を抱きしめて、半泣きで、

「だ、大丈夫ですか、大丈夫ですか!? びびび病院行きましょう、すぐに!」

「アズチェーナ」I・Cは訊ねた。「どうしてここに来た?」

「ど、どうしたも何もありませんよ!」アズチェーナは泣きわめく、「カムパネルラ本社から硫酸のプールにダイブしたのに生きたまま這い上がって来た不審者が、ふ、不審者が不法侵入してきたって、人間じゃないって、魔族だって、聖教機構和平派に通報があって、同時にその不審者を撮った監視カメラの映像が送られてきたんです! そうしたら……それがI・Cさんみたいで……たまたまみんな出払っていて、あ、あたしが駆けつけたんです……!」

「ああ、それは俺だ。 硫酸槽の中に落ちれば死ねるかなあとか思ったんだが……」

「そそそそそそそんな超絶はた迷惑な自殺行為をしないで下さい!!!!!」

「何で死んだ後の事を考えなきゃいけないんだ」

「アズチェーナ!」フー・シャーがやっとそこに駆けつける。「今救急車の手配をした! 病院に着くまで彼女を頼む!」

二人を背中に庇い、フー・シャーは目じりを吊り上げてI・Cを見た。

「貴様は本当に良い性格をしているな! 殴り返せない者を殴って楽しむなんて!」

「あのさ、アリをうっかり踏み潰して何が悪いんだ? 命は命だぜ? だが殺人となるとお前らは血相変える癖に、アリを踏みつぶす事は容認して、いや、『踏み殺しても仕方ない』って暗黙の了解があるじゃないか。 俺にとっての殺人ってのはその程度の事、いや、それ以下の事なんだぜ? だって俺は化物だからな」

『I・C』バイクの形を取ったシャマイムが救急車の先導を務めて、そこに到着した。哀れな女性はアズチェーナに付き添われて病院へ行き、フー・シャーとシャマイムが残った。『現在は任務中だ。 任務以外の騒動を発生させる事は看過できない』

「うぜえ。 俺に何を言っているんだ? この俺に。 殺されたくなかったら大人しくしていろ」

『否。 それは不可能だ。 I・C、何故硫酸槽に意図的に落下した?』

「死にたいんだ。 でも死ねなかった。 服だけ溶けた。 駄目だなあれは。 次は活火山の噴火口に落ちてみる」

「……僕らはI・Cが自殺をしてくれると嬉し」死んでくれたらすごく嬉しい、嬉しがる人間しかいないと言いかけたフー・シャーがちょっと口を滑らせて、「……じゃない、別に驚かないけれどさ、I・Cが噴火口に落ちたら噴火が起こりそうだから、止めてくれと言うよ」

「本音は?」とI・Cは睨みつける。

「いや僕にだって良心はあるから本音は言わないよ」フー・シャーは真顔で言った。「I・Cみたいに良心まで無くしたくは無いんでね」

『何故そこまで自殺を画策するか、理由の説明を要求する』シャマイムが言った。

「どいつもこいつも俺を殺してくれないんだ。 俺を殺す事に成功しないんだ。 しょうがないから俺は自殺しようとしている」

『……I・C』シャマイムは説得しようと、『即刻病院の精神科を受診する事を強く推奨する。 I・Cの現在の精神状態は正常では無い。 適切な投薬治療並びにカウンセリングを受ける事を』そこまで言ったのだが、

「黙れ」I・Cはシャマイムを足蹴にした。「そんなもので治るなら俺は苦労してねえよポンコツ!」

「何でそこまで死にたいんだ?」フー・シャーが怪訝そうに、「生きている事がそんなに辛いのか?」

「辛いに決まっているだろうが、死ぬと言う事は絶対的な救済なのに、俺にはそれが欠片も与えられないんだぞ」

「それは……多分……因果応報だよ」フー・シャーがやや自信が無さそうに、「だってI・Cは今まで沢山人の嫌がる事を進んでしたじゃないか。 大勢人を殺したじゃないか、それも面白半分に。 だからその罰だよ……と僕は思う。 でも懺悔して悔い改めれば……」

「『悪い事をいっぱいしたけれど悔い改めましたから赦して下さい』、それで許すヤツなんかキチガイだろうが。 俺はそんなキチガイを一人しか見かけた事が無いぞ」

いたのかい!?」フー・シャーは驚いた。「……信じられない。 I・Cの所業を知っていて赦すなんて、まるで救世主のような人だねえ……」

「……チッ」I・Cは忌々しそうに舌打ちして、「救世主だったよ、実際に、な」


 ……ゲルマニクス国王ルートヴィヒ八世は、じっと考え込んでいた。首相のユージンが声をかけようかかけるべきか迷うほど、その顔は深刻そうであった。老年のこの国王は、昔からあまり外向的な性格では無く、哲学者の方が己には向いているだろうと口にした事もあった。己の思考に押しつぶされかねないほど、国王は思慮深いのであった。

「……ユージン」その口が開かれた時、ユージンは少しだけほっとした。

「何でございましょうか、陛下?」

「『聖王』と『大帝』亡き後の聖教機構と万魔殿の動向だが……聖教機構に忽然と現れた男をシーザー、万魔殿の方はジュリアス、と言ったな?」

「はい、両者共にいきなり現れ、そしてその神がかったカリスマ性と知性であの世界組織を率いております。 いえ……正確にはあの二つの世界組織の内部分裂を招いたとも言えますが……」

「……そうか」国王は、再び黙りこんだ。

「我々は、これから最善を尽くし、このゲルマニクスが亡国クリスタニアのようにならぬようにします」そこまで言って、ユージンは少し黙った。「……あの国を支えていた一二勇将は、国王が交代した途端に馘首されて実権を失いました。 そして間もなく政治犯として処刑されました。 新国王が絶対王政を維持しようとして、一二勇将が推し進めていたクリスタニアの立憲君主制を阻止するためには邪魔になったとは言え、あの国は一二勇将無くしては維持できなかった。 あの国クリスタニアは政治体制の移行に失敗して滅んだのです。 今でも覚えています、クリスタニアが事実上滅びたあの日、我々列強諸国は王都クリスタニアンへ攻め上った『帝国』軍にこちらの国土まで攻められぬよう決死の覚悟で国境線を守備していた事を……」

「……」国王はまた物思いにふけっている。

国王の間に流れるのは重苦しい雰囲気。

そこに、

「ねえ、おじい様ー! あ、ユージンのおじ様!」と元気そのものの少年が走ってやって来た。その後ろから若い娘が少年を追いかけてくる。

「こら! ロタール、お話の邪魔をしないの!」

彼女は少年を叱ってそのえりくびを掴んだ、けれど少年はもがいて、

「コローナおねえ様、僕はおじい様と遊びたいの!」

思わずユージンは微笑んで、

「これはこれは、コローナ王女様、ロタール王子様、ご無沙汰をしております」

「ユージンさん、すみません」左目が茶色、右目が緑色のオッドアイの王女は恐縮して、「愚弟がまたワガママを言い出して……お仕事のお話の最中だったのでしょう? すぐに連れ出しますから」

「良い良い」と言ったのは老いた国王だった。本当に嬉しそうに微笑んで、「どれロタール、何の遊びがしたい?」

同じくオッドアイの少年は、無邪気に、「あのね、一二勇将ごっこ! 僕オリエル元帥になるんだ!」

「そうか、分かった」と国王はユージンに目で合図した。

ユージンも笑って、「では失礼いたします、陛下」

王女はため息をついたが、ユージンに並んで部屋を出て行った。

 ルートヴィヒ八世には子供がいない。つれ合いも、もう亡くなった。一人息子がいて、結婚して孫が二人産まれた所までは良かったのだが、事故で亡くなった。だからこそ余計に孫が可愛い事をユージンは知っていた。王女のコローナ、王子のロタール。この二人が老いた国王の生きがいである事を、彼は知っていた。あまり雄弁ではなく、言ってしまえば暗い性格のこの国王が、孫と遊ぶ時だけは本当に嬉しそうである事も。

だから彼は会話を王子に邪魔されたと言う不快さよりも、むしろ微笑ましい思いを抱いて、部屋を後にしたのである。

ユージンらが部屋を背中に、廊下を歩きだしてから一〇秒たった時だった。

少年の甲高い絶叫が響いた。同時に銃声。ユージンは咄嗟に王女に叫んだ。

「近衛兵をお呼び下さいまし、王女様!」

「え、ええ!」王女は血相を変えて駆け出した。

そしてユージンは身の危険も問わずに部屋に飛び込んだ。そして立ちすくむ。

国王が、脳天を射抜かれて絶命していた。王子は、どこにもいなかった。

「首相、何事ですか!?」

そう言って近衛兵達が駆け込んできたが、彼らも、同様に立ち尽くした。

最高警備の国王の間で、国王が殺され、そして王子は何者かに拉致された。

「あ、ああ……」ユージンは、ゆっくりと体が震え始めるのを感じた。「陛下……! 王子様……!」

だが返事は無く、音と言えばじわじわと絨毯に染みわたっていく国王の血だまりの、聞こえぬはずのその汚染音が、はっきりと聞こえそうなほどの静けさがあるのみであった。

 ――それから、幾年月が流れたか。

 ユージンは首相を辞めて、王宮や王室の維持・管理を務める宮宰をやっていた。コローナ女王がつい先日結婚したため、彼のやるべき事は沢山あった。もうすぐ結婚式なのである。結婚相手は庶民の出であったが、ゲルマニクス王立音楽劇場で一番と呼ばれるほどのオペラ歌手ハンス・エヴェックであった。

『あれは小鳥の求愛と同じで、鳴き声で口説き落とした』

皮肉が得意な雑誌などはそう書いたが、確かにハンスは美声の持ち主であった。

皮肉を言う者もいたにはいたが、ほとんどのゲルマニクスの国民が、彼らの結婚を祝福していた。先代国王が殺害され、王子が行方不明になってから、幸せと言うものとは遠かった王室に、やっと春がやって来たのである。めでたい事だ、ありがたい事だと誰もが思った。これで後は子供が生まれてくれれば、何の心配も無いのだが……。

 ゲルマニクスが穏健派に味方する事を決めて、その報復にジュリアスが動いたのは、そんな時であった。

 強制執行部隊第二班が動いたと言う情報を得て、ゲルマニクスの保安部や軍部は最高警備体制に移行した。女王だけは殺されてなるものか。誰も口にこそ出さなかったが、そう強く決意していた。


 「御意」と強制執行部隊第二班班長ロイは頭をあげた。きらりとサングラスが光る。まだ若い、青年であった。「全てはジュリアス様、貴方様の意のままに」

「我らに刃向いし愚者を皆殺して来い」ジュリアスは言った。「全て計画通りにやれ。 以上だ」

「はっ」ロイはサングラスをかけたまま、頷いた。

――それから数日後、彼はゲルマニクス王国首都ベルリニアの中央駅にいる。彼は単身では無かった。第二班の工作員であるアルベリッヒが隣にいた。

「それにしてもロイ」アルベリッヒ、通称アルはなれなれしく、とは言ってもそこにあるのは互いに百戦錬磨ゆえの親しさだった、ロイに話しかける。「ジュリアス様も変な命令を下すなあ。 まあ、あの御方に間違いなど無いからな。 これも何かのためなんだろう」

「無駄口を叩くな」ロイは言い捨てて、歩き出す。アルは慌てて後を追う。

「ごめんごめん、怒るなよ、な?」

「不愉快だ。 喋るな」ロイは言い切って、それから足を止めた。バス停がすぐ近くにあった。王宮へ向かうバスに乗るのだ。「行くぞ」

「ああ」アルは、殊勝に頷いた。


 穏健派幹部エウジェニアは、現ゲルマニクス首相ハインリヒと面会していた。

「この度は、女王のご結婚おめでとうございます」

「……社交辞令だと分かっていても、ありがとうございます」ハインリヒは物静かに言った。「先国王陛下が殺され、王子が誘拐された時、せめて何らかの組織などから王子の身代をとの要求があればまだ良かったのですが……ご存じのように無しのつぶて。 それ以来ゲルマニクスには厳冬が訪れました。 やっと、それがやっと春が来てくれました。 ありがとうございます」

「いえいえ。 ところで」とエウジェニアは微笑んだ、だがその迫力たるや相当なもので、ハインリヒはかすかに身構えた。「かつて我らが同朋シラノを聖教機構に売ったアルビオンの真似を、ゲルマニクスもするつもりではありませんわよね?」

「……一切ありませんと、断言しましょう。 我々は貴方を聖教機構に引き渡した場合の利点が何らありません、むしろ過激派の思うつぼですらある。 今のゲルマニクスは、何としてでも、何としてでもコローナ女王陛下をお守りしたいのです」

「なるほど。 それならばこちらも善処しますわね」

エウジェニアがそう言った直後、爆音が響いて、両者の顔が強ばった。

「首相!」近衛兵が駆け込んできた。「強制執行部隊の強襲です!」

首相は立ち上がって、「応戦しろ! その間に女王陛下を安全な場所へ避難させるのだ! エウジェニア殿」ハインリヒは彼女を眼鏡越しに見つめて言った。「どうかご助力いただきたい」

「良いですわ」とエウジェニアも立ち上がった。その姿は、とても優美な肉食の獣に似ていた。「強化改造をした変身種の恐ろしさを強制執行部隊に見せつけてやりましょう」


 「あッ」アズチェーナは修羅場と化している王宮前広場に駆けつけて、息を吞む。軍隊が強制執行部隊と交戦中なのだ。そのさなかに彼女はとんでもない人物を見つけた。いや、正確にはその人物は獣の姿をしていた。白い虎。それがゲルマニクス軍の後方支援を得て、強制執行部隊と対等に渡り合っているのである。その白虎は良くも悪くも有名だった。「あれは、穏健派幹部のエウジェニアです!」

『……ゲルマニクスめ、女王を守るためには手段を捨てたな』とセシルが通信端末の向こうでうんざり気味に呟いた。『やっぱり穏健派にも助力を乞うたか』

「まあ良いさ、まだ穏健派なら話は通じる」アズチェーナの隣のフー・シャーがそう言って、大きな音叉を手にした。「じゃあ、行くぞ!」


 『――貴様らは!』白虎のエウジェニアが駆けてきたフー・シャーとアズチェーナを見て怒鳴った。『ゲルマニクス、やはり穏健派を裏切ったか!』

「まあ裏切った事は裏切ったけれど」フー・シャーは音叉を構えて言う。「生憎ゲルマニクスは貴様を売り飛ばしはしなかった。 加勢する!」

『何だと!?』

「げ、現在のゲルマニクスの至上目的は女王を守る事です!」アズチェーナが叫んだ。「だから、わ、私達をも利用した! でも、こ、この前のアルビオンとは決定的に立場が違います! ほ、本当はあたし達だって貴方を捕まえたいけれど、その命令は出ていません! ――えい!」

アズチェーナの声と共に地面を突き破って現れた植物の触手が、強制執行部隊の数名を捕えた。その数名は直後、フー・シャーの放った超音波により戦闘不能に陥る。それでも、巨大な振動刃ソニック・ブレードを構えたサングラスの男が植物を切り裂いた。だが、その男はエウジェニアの体当たりで派手に吹っ飛ぶ。男の目を覆っていたサングラスが外れた。形勢不利と見た強制執行部隊が撤退を始め、その男がその殿となって立ちはだかる。ここで下手に容赦すると、深手を逆に追わされる。徹底的に潰さねばならない。絶命するまで安心はできない。それが強制執行部隊の恐ろしい所だった。

だが、それから数秒とせず、ゲルマニクス軍による後方支援が、止んでしまった。

『ゲルマニクス、何をやっている!』エウジェニアが吼えた。『そんなに女王を見殺しにしたいか!』

「貴様らは気が狂ったのか!?」フー・シャーも怒鳴った。「強制執行部隊の恐ろしさを知らないのか!」

『ち、違います!』拡声器を手にした軍人将校が、震える声で言った。『そのオッドアイは……その御目は…………かつて拉致されて行方知れずとなった、ロタール王子のそれなのです!』


 それまではゲルマニクスにいた政府の穏健派支持に反対する勢力が、ほとんどいなくなってしまった。代わりにほとんどのマスメディアが騒ぎ立てた。ロタール王子は過激派に拉致され洗脳され、強制執行部隊の一員にされたと。ジュリアスを悪の化身だと言い、鬼畜だと言い、ゲルマニクスの国民と言う国民が怒り狂った。過激派と戦争だと血の気の多い者は騒ぎ、一方でそれはまだ早い、ここは穏健派の支援に徹するべきだと別の者は主張した。結果として、過激派へ好意的な感情を抱くゲルマニクスの国民が、いなくなってしまった。

ジュリアスはゲルマニクスに対して報復行動を取ると言ったが、もうそれは十分すぎるくらいに取られたのだ。


 「おお、おおお、ロタール王子様……」王子のなれ果ての姿を見たユージンは膝から崩れ落ちて、号泣した。「あの時私があの場にもう少し長くいれば、何かが変わったかも知れなかったのです、申し訳ない、申し訳ない……!」

「……」強制執行部隊の男は黙っている。檻の中、全身を拘束着で束縛され、舌を噛まないように猿ぐつわをされていたと言うのもあるが、何よりその鋭いオッドアイは壮絶な敵意を持っていた。

「ユージン殿」エウジェニアは言った。「これからこの男をどうするつもりですか?」

「勿論ロタール王子様はこちらで預かります、何としてでも洗脳を解いて、元のロタール王子様へ戻さねば!」

「だが良く似た他人と言う事もある」渋い顔をしたフー・シャーが言った。「騙されているかも知れないんだ、貴方達は。 シャマイムが来るまでは最低でもそう言う事は待っていてもらう」

「……でも本物だったとしたら、ジュリアスは血も涙も無い最低人間ですよね……」アズチェーナが呟いた。「I・Cさんに匹敵しますよね。 男の子を誘拐して洗脳して、自分の母国や家族相手にテロ行為をさせるなんて……」

「到着が遅れた事を謝罪する」そこにシャマイムがやって来た。シャマイムはゲルマニクスのメディアが所蔵していたロタール王子の映像を分析していたのだ。その映像の中の虹彩が、この男のものと一致するか、これから検証を始めるのだ。「虹彩認識の開始………………………………」

数秒後、シャマイムは言った。

「一致した。 だが念のために遺伝子鑑定も行う。 ロタール王子もしくはゲルマニクス王族の毛髪等はあるか」

「ええ、ございます!」ユージンは胸のロケットを開けて、毛髪を少し取り出した。それを受け取ってシャマイムは、檻の中の男の髪の毛を採取し、鑑定した。

「………………………………一致した」

それを聞いたゲルマニクスの面々が唇を噛んだ。

愛されて幸せに生きるはずだった一人の少年の人生が、滅茶苦茶にされたのだ。何と、最も的確で最も許しがたい報復行動だろうか。

『ロタール!!!!』

檻の前に立体映像で女性が現れた。可哀想なくらいに泣いていた。彼女を慰めている青年も泣いていて、どちらがどちらを慰めているのか怪しい所であった。

『何て酷い事をされたの、ロタール! もう大丈夫よ、もう大丈夫よ、ここには貴方を害そうなんて人はいないわ!』

「女王陛下……!」ユージンがまた泣き出した。

『ね、コローナ、泣かないで、大丈夫、大丈夫だから』何が大丈夫なのか分からないのに、目を赤くした青年はその言葉を繰り返している。『ロタール君は戻ってきたんだ。 やっと戻ってこられたんだ。 だから、大丈夫だよ』

『ええ、ハンス……!』

「……感情を害するが主張する。 殺害しなければこの男は危険だ」シャマイムが言った。突き刺さるような視線がシャマイムに向く。だがシャマイムは言いきった。「強制執行部隊はジュリアスの切り札だ。 いくら元々が王子であろうと、無関係だ。 危険性は非常に高い。 繰り返す、殺害しなければ危険だ」

「お断りします」ハインリヒがきっぱりと言った。「この御方は、やっと故郷に帰ってくる事が出来たのです。 やっと家族の元へ戻ってこられたのです。 それを殺すなど、とても我々には出来ません!」

「だったら私が」と言いかけたエウジェニアをハインリヒやユージンが殺気立った目で睨んだ。「……本当に愚かですわね。 強制執行部隊は自爆すら恐れぬ連中です。 きっとこの男も体内に爆弾を仕込んでいるでしょう」

「でしたら早急に摘出手術をしなければ!」ハインリヒは叫んだ。

「肉親の情は分かる。 人間の感情も分かる。 だが、強制執行部隊の恐ろしさを貴方達は本当に分かっていないんだ。 アイツらは極限までの身体改造と訓練と実戦経験と洗脳を施されて、もはやまともな人間では無いんだ。 それを故郷だの家族だの……」フー・シャーが説得しようとしたが、ユージンが断固と、

「どうか分かっていただきたい、我々はやっと失われたものを取り戻せたのだと! この御方は強制執行部隊員である以前に、ロタール王子様なのだと!」


 『……想定外の事態ですわね』部下の特務員達から報告を受けたマグダレニャンは、思わずそう言った。『ジュリアスが王子を誘拐した当時からここまで計算済みだったとしたならば、恐ろしい話ですわ。 万が一、過激派に対してゲルマニクスが敵対行動を取った場合の、最悪の報復手段になりますから』

「ボス」シャマイムがモニターに向かって発言する。「あの強制執行部隊員は処分しなければ危険だ。 ボスからゲルマニクスに処分するよう働きかける事は――」

『やりましょう。 ですが上は女王から下は国民の一人に至るまで大反対を受けるでしょうね。 反対で済めばまだ良い、下手をすればゲルマニクスがこちらへの支援予定を中止する可能性もありますわ』主はため息をついた。

「ゲルマニクスの国民って、あまり感情的にならないと言う先入観があったけれど、とんでもない、泣きっぱなしじゃないか……」フー・シャーが小声でベルトランに言うと、

「それだけ衝撃と感動が大きかったのだろう。 全くダメな連中だ。 感情で行動しても、残るものは後悔だけなのに」ベルトランは言い捨てる。

「……でも、本当に可哀想な酷いお話」ローズマリーは目に涙を浮かべて、「王子は誰からも愛されて可愛がられて、すくすくと育つはずだったのに、その幸福をジュリアスが台無しにして……」

「こ、こ、これから、これからあたし達、どうするべきでしょうか……?」アズチェーナが言うと、

『ゲルマニクスの機嫌を損ねない程度に、強制執行部隊員……いえ、王子を尋問なさい。 同時にテロの発生にも注意するように』

「「了解」」


 生きる価値の無い連中だ。ロイはそう思う。彼に泣きながら同情するゲルマニクスの面々を、彼は即座に殺してやりたいと思った。ジュリアス様に刃向った者を殺したい。それは強制執行部隊の誰もが思う事であった。そして彼には殺す事が容易に可能であった。だが、ジュリアスからの命令で、まだ殺してはならないのだ。

「ロタール坊ちゃま!」老婆が檻の前で泣き崩れる。「覚えておいでですか、ばあやのジモーネでございます、覚えておいでですか!?」

「……」ロイは壮絶な殺意の視線で彼女らを睨んだ。

「これから王子は自爆装置の摘出手術を受けられる」ジモーネばあやを慰めるユージンとて、まだ赤い目をしている。「それから、ゆっくりと、時間をかけて、思い出していただければ良いではないか、ジモーネばあ様……」

「ええ、ええ!」老婆はしゃんと立ちあがって、きっとロイの目を見つめた。ロイの目に宿る壮絶な殺意などものともせずに。「ロタール坊ちゃまを、今度こそばあやはお守りいたします!」

いずれ、貴様ら全員を殺してやる。ロイはそう決心した。


 摘出手術は成功した。まだ麻酔がかかっているロイの体を、医師や看護師達が手術室から運び出した時、だった。手術室の前にはジモーネやユージンらが大勢詰めかけていた。

「成功です!」医師が言った時には、歓声すら上がった。

だが、次の瞬間、ロイが動いた。麻酔など彼には最初から効いていなかったのである。動いて、手刀で、不運にも間近にいた老婆ジモーネの体を串刺しにした。彼は、摘出手術を受けた後ならばいくらでもゲルマニクスの連中を殺して良い、とジュリアスに言われていたのである。

ジモーネは吐血し、瞠目した。

誰の口からも、悲鳴が上がった。

「ロタール、坊ちゃま……!」

ジモーネは、しかし、二つの眼に力を込めて、きっ、とロイを見据えた。

「ロタール坊ちゃま。 ばあやは、信じておりますよ、お優しいお坊ちゃまに必ずお戻りになられると……」

何だこの老婆は!?ロイは驚愕した。今まで彼が殺してきた人間共は、殺される時に、皆、断末魔を上げ、苦しみ、絶望と死への恐怖に青ざめて死んでいった。なのに、この老婆は――何ら恐怖の無い眼差しで彼をまっすぐに見据えている!

「ジモーネばあ様!」ユージンが絶叫した。直後、老婆ジモーネは、倒れて、絶命した。

ロイは驚きで動けないでいた所を、拘束されて、病室に担ぎ込まれた。

 どう言う事だ。ロイは考える。どうしてだ……?彼はらしくもなく戸惑っていた。どうしてあのババアは死の間際に俺をあんな目で見つめた?何故だ。どうしてだ。

『ロタール、それはね……』

悲しみを帯びた優しい声がして、ロイは視線を動かした。

彼らの最優先殲滅対象、ゲルマニクス女王コローナが、いた。だが、立体映像を殺しても無駄だ。それにロイは全身を拘束されていて、とても動ける状態では無かった。それでロイは視線だけで女王を睨んだ。

『……ジモーネばあやも、ロタールの事を愛していたからよ』

はあ?

ロイの率直な感想はそれであった。馬鹿げている、頭がおかしい。けれど女王は続けて言った。

『貴方が何人ゲルマニクスの民を殺そうと、誰も貴方を責めはしない。 それは誰もが貴方を愛しているからよ。 何度でも言うわ。 何人何十人何百人、たとえこの私を殺しても私も貴方を愛している。 ……お帰りなさい、ロタール』

ずきん、とロイの頭が痛んだ。彼には、幼い頃の記憶が無かった。

 それからの日々はロイにとって恐怖の日々であった。彼は隙あらば束縛を振り千切って、看護師を殺し、医師を殺し、病院関係者を次々と殺した。

だが、その誰もが憐みの目でロイを見て、恨み言一つ言わずに死んでいくのだ。その中には神様、どうかお許しください、この御方は何一つ悪くないのです、とまで言って死んでいく者もいた。

何故だ。ロイは恐怖する。これだけ殺したのに、何故誰も俺を責めようとも罰しようともしない?俺は殺しているのに、殺される側がまるで喜んで死んでいくようだ。何でだ。俺は殺しているのだぞ!?

ロイはついに恐ろしくて恐ろしくて、『ゲルマニクスの連中』を殺す事を止めてしまった。殺そうとするとあのジモーネ達の最期の目を思い出して、怖くなってしまうのだ。これが抵抗して死にたくないと足掻く者達であったら、彼はためらいなく殺し続ける事が出来ただろう。だが違うのだ。まるで殉教する信徒のように無抵抗にかつ穏やかに殺されて死んでいくのだ。こんな化物のように恐ろしい連中を相手にするのはロイにとって初めてであった。それも木を切り倒し岩を壊すのとは訳が違う、、と言う事が彼にとっては恐怖の対象であった。俺はキチガイの狂人の異常者に囲まれていると彼は思った。しかもそのキチガイの狂人の異常者達は、同朋の大量殺人者である彼に対して本当に親切に誠実に接するのだ。彼が戻って来てくれて本当に嬉しいと口々に言うのだ。もう、もうロイの理解の範ちゅうを彼らの行為は軽々と飛び越していた。

「何故だ」ロイは怯えながらユージンに訊ねた。ユージンは、ロイが人を殺さなくなったと知って訪れてきたのだった。「何故貴様らは俺を憎まない!?」

「憎むべきはジュリアスであって、貴方様ではちっとも無いのですよ」ユージンは悲しそうに、けれど同時にどこか嬉しそうに言った。「でも、どうか、貴方様が殺した方々の事は忘れないであげて下さい」

「――忘れる事が出来たならば俺はこんなに怖くない! 何でだ、何で貴様らは、平然と殺される事が出来るんだ!」

「……ああ、覚えていらっしゃらないのですか……全くジュリアスめ!」ユージンは納得した顔で、「貴方が殺したこの病院の者は、全て貴方がかつて救った者で、それも自ら志願してやって来た者ばかりだからですよ」

「俺が救った……?」

「……もう十数年も昔になります。 ゲルマニクスのとある原子炉がテロリストによって破壊されて、放射能が周囲を激しく汚染しました。 除染は何とか完了しましたが、風評はそうではない。 その地域は農漁業で経済的に成り立っている地域だったのですが、風評の所為でそれが破たんしかけました。 あの地域のものを食べ、触れると放射能に汚染されて死んでしまう、と。 でもロタール王子様、貴方は食べられたのです。 危険だと言う周囲の反対を押し切って、あの地域で採れた野菜を召し上がった。 たったの一〇にも満たぬ少年が、己の立場と彼らの立場をわきまえて、勇敢な行いをなさったのです。 ……風評は収まりました。 そしてあの地域の者はロタール王子様、貴方を崇拝するようになってしまった。 今回、貴方様を洗脳から解くのは大変に危険な行いでしたから、決死の者を募ったのです。 そうしたら、彼らが大挙してやって来てくれた。 だから、どうか、彼らを忘れないであげて下さい」

「……」ロイは、黙り込む。

「そうだ、ロタール王子様、ミュージカルなどいかがでしょう?」にこやかにユージンは言った。「エヴェック公が是非に観劇してほしいとの事です。 エヴェック公の親友が演出をしているそうで。 王子様が大好きだった、『ジークフリートの竜退治』ですよ。 英雄ジークフリートが活躍するこの痛快劇が王子様は大のお気に入りでいらっしゃった」

「……」そのエヴェック公、その親友ですら無抵抗にロイを哀れんで死んでいくのだろうと思うと、恐ろしくてロイには殺そうとする意志が湧かなかった。


 「だからぶっ殺せっつってるだろ!」I・Cが怒鳴る。「もう何人殺されたか分かっているのか!? 国民全員ぶっ殺させるつもりなのかよ! 馬鹿じゃねえの? 頭に脳みそ入ってますかー?」

「断固としてお断りします」ハインリヒは怒鳴られようと顔色一つ変えない。

「普段のI・Cの言動には賛同しかねるが、こればかりは同意見ですよ」セシルが言った。「下手をすれば女王だって殺しますよ、強制執行部隊はそう言う連中だ。 手遅れになる前に殺すべきです。 ……もう、何十名も病院関係者が殺されているんでしょう?」

「……最近、ロタール王子様は殺さなくなりましたが」

「それは単に一般人の殺戮に飽きただけですよ。 女王が出てくれば即座に牙を剥く。 それが強制執行部隊です」エウジェニアが、特務員達とはやや離れた場所できっぱりと言った。「貴方がたは現実を見ていないだけです」

「……現実を見ていない? 最悪ででしょう? 生憎と私も王子様に殺されるだけならば何にも恐ろしくない人間でしてね」ハインリヒは淡々と言った。「私もあの原子炉テロの時に王子様に救われた人間の一人ですから」

「も、も、もうこちらの進言は一切聞かない、と言う事ですか!? ちょ、ちょっとした尋問すら完全に拒絶して!」アズチェーナがびくびくしている。「貴方達、みんな、気が狂っていますよ!」

「狂人で結構。 狂気の沙汰で上等。 これがゲルマニクスの総意でございます」

……そこに、拘束着を着せられたロイがユージンに連れられて登場したので、エウジェニアや特務員達は皆、身構えた。だが、異変にすぐに気付く。近くにゲルマニクス首相がいると言うのに、その目には何ら殺気が無かったのである。いや、この強制執行部隊の男はハインリヒを怯えた目で見ている。

「おお、王子様、どうぞミュージカルに行ってらっしゃいませ」ハインリヒは一礼した。「きっと楽しい夜になりますよ」

「……」ロイは、うなだれて、連れて行かれた。

特務員達とエウジェニアが何事だと顔を見合わせた。

「他人の空似だよね……?」フー・シャーが思わず言った。

「否」シャマイムが、半信半疑と言った声で、「虹彩が一致した」

「か、歌劇座が血まみれにならなきゃ良いんですけれど……」アズチェーナが呟くと、

「その可能性が非常に高い。 我々の内数名が非常事態に対応するべく歌劇座に向かうべきだと判断する」シャマイムのその言葉に、特務員達は頷いた。


 歌劇座に相応しい正装をしたセシルと、ローズマリーの姿を見て、I・Cがいきなり爆笑した。

「セシル、お前超似合ってねえ! ちんちくりんだぜ!」

セシルは恥ずかしそうに、「……俺、こんな格好をしたの、数年ぶりなんだ……」

「お前、特務員になる前は何やってたんだ」

「建築関係の……」とセシルが言った瞬間、訊ねたI・Cはまた吹き出す。

「ドカタか! お前ドカタだったのか! ドカタ君、ミュージカルは初めてじゃねえのか? 礼儀作法は分かっているか、うん?」

「おいI・C、何だその差別発言は!」フー・シャーが激怒した。「それにセシルの前身は確かに建築関係だったけれど、」

「うるせーな! ドカタの癖にいい気になってんじゃねーよバーカ!」

I・Cはご機嫌で酒を飲みに立ち去って行った。

ベルトランがシャマイムに聞く、

「アイツはいつもああなのか……?」

「是。 意識の改善を幾度も要求したが全て断られた」シャマイムは答えた。「そしてベルトラン、セシルの前職業はドカタ、いわゆる土木建築肉体労働者では無い」

「と言うと?」

「第一級建築士だった」

「そうさ!」フー・シャーがかんかんに怒っている。「それも一流の人気建築デザイナーだったんだ! セシル・ラドクリフと言えば僕ですら知っていたし、セシルが仕事を辞めた時、悲鳴が無数に上がったくらいだった! 大体人を職業で差別するなんて……差別して良いのは殺し屋とマフィアくらいなものだ! そもそもだ、肉体労働者の方がI・Cよりも圧倒的に絶対的にまともじゃないか! I・Cなんか人類失格だと言うのに! 僕はI・Cになるくらいなら喜んで土方になってやるね! 土方の方が圧倒的に生産的で素晴らしい仕事だもの!」

「俺は別にどう言われても良いさ。 それじゃ、行くか、ローズマリー」

セシルがそう言って腕を差し出すと、ローズマリーはご機嫌で彼と腕を組んだ。

「うふふふふ、ミュージカルなんて素敵ですわね」


 ストーリーは簡単そのもの。昔々、邪悪な竜に苦しめられていた王国があった。竜はどんどんと要求をエスカレートさせて、ついには王女を差し出せと言い出した。否と言うならば国土を荒らすぞと脅したのだ。完全に困った国王の所に、武者修行の旅をしていた騎士ジークフリートがやって来る。王女と彼はお互いに一目で恋に落ち、ジークフリートは竜退治を決心する。邪悪な竜を激闘の末に倒す騎士。勝利の証に竜の舌を切るが、彼は疲れてしまって寝てしまう。ここで出てきたのが悪い騎士で王女を前々から狙っていたハゲネ。彼は竜の角を切り取り、持ち帰って竜を倒したのは自分だと主張し、王女と結婚させろと国王に迫る。竜の体を運ばせて、確かに角が切り落とされているのを見て余計に困る国王。そこに事情を知らないジークフリートが帰って来る。ジークフリートとハゲネ、どちらが竜を倒したかで大騒ぎ。そこで王女が言うのだ、ジークフリート、貴方が竜を倒した証を見せてくださいと。ジークフリートは竜の舌を出す。国王はそれを見て、これはジークフリートが倒して舌を切った後でハゲネが嘘のために角を切り落としたと知る。だってハゲネは竜の舌が無い事を知らなかったのだ。追放されるハゲネ。王女とジークフリートの結婚式で、幕。


 勇壮なジークフリートのテーマと、結婚式の祝福のファンファーレが重なって幕が引かれた。アンコールは三回。観客の熱狂と嬉しそうな演者達の顔。何事も、起こらなかった。王族の特等席でロイはぼうっとその光景を見つめていた。そして、考える。俺はこれが好きだったのか?分からない。記憶が無いのだ。だが、『楽しい』と言う感覚を彼は久方ぶりに味わっていた。音楽が楽しくて、物語が楽しい。今までジュリアスの下で活動していた時に味わった楽しさとは根幹から違う、娯楽のための楽しさ。楽しさを求めている観衆に提供される、上質な娯楽。俺は、王子だったら、これを唯唯諾諾と享受できたのか?胸に響く何かがあった。心に訴える何かがあった。それが感動と言うものだと彼は知らなかったが、彼は今、感動していた。

だが、彼に強固に施された洗脳が叫ぶ、これは罠だと。彼を懐柔して強制執行部隊の計画を自白させるつもりなのだと。けれど、けれど、彼は生まれて初めて抱いているこの感情の名前が分からず、戸惑っていた。その名は『幸福感』であった。彼が殺した者達が全て願っていたであろう、彼の幸せ。ロイの混乱と困惑はいよいよ頂点に達した。俺はこれからどうするべきなのだ。決まっている、と洗脳は言う、ジュリアス様の命令に従い計画を実行するべきだ。だが、その計画は、彼に無抵抗で殺される人間を余計に増やすだけの計画であった。止めろ、と恐怖は言う。計画をゲルマニクスの連中に打ち明けて、これ以上俺に無抵抗な人間共を殺させるな。もうこれ以上俺をこの恐怖で震えさせるな!

彼は、昂ぶった感情と混迷を極めた頭を抱えて、歌劇座を後に連れ帰られた……。


 『もうお手上げですわ』とマグダレニャンはため息まじりに言った。『殺されるくらいが何だ、と言われてしまったらこちらには説得する材料が何もありません。 最大の代価である己の命すら惜しくないのですから……』

「それなのですが」ローズマリーが報告する。「歌劇座で、元王子は何の問題も起こしませんでした。 これは計画性があるのか、それとも……」

「計画性に決まってんだろ」I・Cが言った。「だって強制執行部隊だぜ?」

「それがな……」セシルがためらいがちに、「元王子は何か、言葉にならない表情をしていたんだ。 感情的な顔と言えば良いのか? 強制執行部隊が感情的になるだなんてまずありえないだろう? これは、ちょっと、おかしいぜ」

「演技だろ。 化けの皮がいつ剥がれるか楽しみだぜ。 その『いつ』に『何』が起きて『どうなるか』はもっと楽しみだがな!」I・Cはいやらしく哂っている。

「で、でも、でも!」アズチェーナが一生懸命に何か言おうとしたが、それを遮って、

「……一〇〇名以上も強制執行部隊隊員を殺した男の言う事だ、あまり気持ち良くは無いけれど、信ぴょう性はあると僕は思う」フー・シャーが苦々しそうに言う。「でも、僕だって本当は元王子の洗脳が解けかけていると信じたい」

マグダレニャンは命令した、『もしも洗脳が解けたのならば……そのベルリニアで強制執行部隊が計画しているテロの内容を自白するでしょう。 その時には、それを阻止なさい』

「「了解」」


 「全く、ゲルマニクスの者は全員狂っていますわ」

エウジェニアはそう言って、嘆息した。

「狂っているどころか、全員死兵となったも同然ですよ」彼女の秘書であるMs.カリスが呆れ果ててもうものも言えないような顔で言う。「ゲルマニクスの国民は、そんなに王子の事が好きだったんでしょうか?」

「ゲルマニクス原子炉テロの時、王子が大勢の者の命を、生業を、間接的にとは言え救った事は有名です。 幼かった少年が勇気を出した、それだけでゲルマニクスの者でなくとも感動はしてしまうでしょう」

「だからと言って、もう五四名も殺されているのに……」カリスは真紅に塗った己の爪を見て、殺された人間を指折り数えたが、途中で止めた。その数がまだまだ増えていくのは明白であったからだ。

「たとえ皆殺しにされようとも、彼らは喜んで死んでいくでしょうよ」エウジェニアは首を横に振った。「死を覚悟した人間ほど恐ろしいものはありません」

「覚悟、ですか……」カリスは呟いた。「『死ぬ、それが何だ』、確かにこう思われたら最後、もう手の打ちようがありませんよね……」

「……」何か思索していたエウジェニアが、ふと思いついたように口にした。「逆に覚悟の無い人間ほど醜くて無様なものもありませんわね」

「それもそうですね。 何となく生きているだけの人間を私は差別します」

「何となく生きられるのは、平和な時代の平和な時だけですわ」エウジェニアは口にした。「しかし誰でもいずれは覚悟を迫られる。 突然に、致命的なまでに重大な覚悟を」


 頭が痛い。ロイは激痛に苦しんでいる。誰もいない真夜中の病院のベッドの上で、彼はまるで脳髄を抉り出されるかのような頭の痛みに横たわって耐えていた。痛みはまるで波のように押し寄せては引いていく。ぼんやりと、記憶が、蘇る……。

『手術は成功』

これは誰の記憶だ?

『術後も良好、洗脳状態も非常に良い』

俺の、記憶?

『こら! ロタール、またお洋服を汚して! 十二勇将ごっこで「発明狂」アルトゥールになったからって、実験ごっこなんかしちゃ駄目じゃない!』

俺の……過去?

『ロイ。 お前の名前はロイだ。 お前に使命と救済を与えよう』

……………………。

気配を感じて、彼はふと起き上がる。

「よう、ロイ」アルが病院に潜入してきたのだ。「何で殺すのを止めちまったんだ? あんなゴミみたいな連中、殺すのに造作も無いだろうに」

この瞬間ロイの腹は決まった。

「……殺すのを止めて改心したふりをしていれば、いずれは油断したゲルマニクスの上層部をまとめて殺せるからだ」

アルは納得した顔をした。「ああ、そっか、そうか! お前はやっぱり班長だけあって先を見通しているな。 だが俺達の方も依然順調だ。 もうじきこのベルリニアは壊滅する。 勿論、壊滅する前に、ロイ、お前を迎えに来るよ。 ジュリアス様に成果を報告しに行こう」

「お前は口うるさいのが欠点だ。 実行あるのみだ」

「へいへい、了解。 それじゃあ、な」

アルの姿が消えた。それを確認してから、ロイは呟いた。

「……ゴミみたいな連中を殺す事に、俺がここまで怯えるものか」


 穏健派と和平派に用があると言ってゲルマニクス上層部に急きょ呼び出されたので、I・C達とエウジェニアは嫌々ながら一堂に会した。

「で、何だ、呼び出した理由は。 元王子が手に負えませんって今更泣きついたって知るかバーカ」I・Cが開口一番にそう嫌味を言った。

「ベルリニアで予定されている過激派のテロの全貌が判明したからです」嫌味などものともせず、ハインリヒはそう言って、眼鏡を押し上げた。それから恭しく首相自らの手でドアを開けて、「どうぞ、ロタール王子様」

「「!!!」」

I・C達が仰天した、と言うのもあの強制執行部隊の元王子が夢から覚めたような顔をして、ドアから入ってきたからである。即座に彼らは戦闘態勢を取った、が、元王子は言った。

「非常に特殊なウィルスを使ったバイオテロだ」

「非常に特殊なウィルス……?」エウジェニアが繰り返した。

「『シボレテ』と俺達は呼称していた。 生物の、高等知性生物の思念に反応する思念呼応型ウィルスだ。 ジュリアスへ好意的感情を抱いていない者全てに感染し、二四時間以内にジュリアスに忠実なゾンビに変える。 シボレテに侵されたゾンビは接触しただけでゾンビを増やす。 だが常温域の水分を媒介としなければ大元の『シボレテ』は増殖・感染できない。 それゆえ俺達は、女王の結婚式の際に一般人にも振る舞われるビールにそれを仕込む予定だった」

「何だとう!?」セシルが目を剥いた。

その女王の結婚式は、明後日なのである。そしてその時にはベルリニアにいるほぼ全員の人間にビールが無料で振る舞われるのだ。間もなくそのビールがベルリニア中に配られるだろう。それが飲めないとなれば無理やりにでも飲もうとする者も出てくるに違いない。おまけにロタール王子の件で、ゲルマニクスにはジュリアスに対して好意的な人間など今や一人もいないのだ。そして、その者が最初の感染者となって――。

だが、彼らの頭にはある疑問が真っ先に浮かんだ。

「どうして急に洗脳が解けたんだ……?」ベルトランが言った。「あれだけ暴れていたのに」

ロイは少し黙っていたが、「……己の意志で無抵抗に俺に殺される人間が、何よりも恐ろしかったからだ。 その彼らをゴミだと言われた時、それは違うと俺はやっと気付いた。 彼らはゴミでは無かった。 覚悟を決めた人間だった。 恐怖から逃れようとして、感情が揺さぶられて、全ての真意を知った時、俺は疑うと言う事を知った。 疑ったから、俺は今ここにいる」

「信じがたいが……あまたの犠牲者がついに奇跡を起こしたんだね……」フー・シャーがぽつんと呟いた。彼らの犠牲は、無駄では無かったのだ!

「早急に対策を講じてベルリニア・バイオテロを阻止するべきだと提言する」シャマイムが言った。

 ――その莫大な量のビール保冷庫に集結するであろう強制執行部隊第二班に強襲をかけるべく、全方面から穏健派と和平派は接近する事となった。


 「ロタール!」

名前を呼ばれてロイは振り返った。振り返ると同時に抱き付かれて抱きしめられた。甘い女性の香りに、彼は一瞬戸惑うが、ややあって、抱きしめ返した。

「……コローナ女王……」

「おねえ様でしょう、ロタール?」にっこりと笑って女王は言った。

「……おねえ、様」ロイは、言った。

「ありがとう。 さぞ辛かったでしょう、洗脳されていたとはいえ、仲間を裏切るなんて……本当にありがとう」

「いえ、別に……」

ここで彼はこの世の終わりが来たかのように彼らの様子を見て号泣している若い男を見る。ハンス・エヴェックであった。

「良かったねえ、本当に良かったねえ、洗脳が解けるなんて、本当に……!」

「こらハンス、声が嗄れてしまうわ! 貴方、披露宴の余興でカンツォーネを歌うんでしょう? それが台無しになってしまうわ!」コローナは泣きながらも笑って言った。

「うん、うん……!」ハンスは嬉し泣きを、かろうじて抑えている。

「おねえ様」ロイは、じっとコローナの眼を見つめて言った。「俺もバイオテロの阻止に行かせて下さい」

「駄目よ!」コローナは血相を変えた。「もう貴方が傷つく必要も危険を冒す必要もどこにも無いのよ!」

「そうだよ! もう君は幸せになって良いんだ!」ハンスも叫んだ。

「……ああ、そう言ってくれるんですか」ロイは生まれて初めて微笑んだ。心底嬉しくて微笑んだ。彼は、彼の幸せを何よりも願ってくれる人間達に囲まれていたのだ。それは何と稀有な事で、何と素晴らしい事だろうか。「のに、そう言ってくれるんですか……」

「何を言っているのロタール、貴方は紛れもなく私の弟よ!」女王は叫んだ。

「俺は」ロイは真実を言った。彼が覚悟を決めたあの夜、一切の記憶も蘇ったのだ。「体こそロタールですが、脳髄はどこかの貧民街の孤児から生体移植したなんですよ。 んですよ」

「嫌! 嫌よ! ロタール!」コローナは行こうとするロタールにすがった。「たとえそうであったとしても、貴方は私の大事な、たった一人の――!」

「駄目だ、行っちゃ駄目だ!」ハンスは彼を止めるために近衛兵を呼ぼうとした。「誰か、誰か来てくれッ! ロタール君を止めるんだ!」

近衛兵達が我先に駆けつけてきたが、ロタールは彼らにも微笑みを向けて言った。

「もう良い。 もう良いんです。 俺は幸せだった。 これがかりそめのものであったとしても、俺は本当に幸せだった。 一時とは言え、貴方の弟になれて本当に良かった。 ……どうかロタール亡王子のために祈ってあげて下さい。 挽歌を、哀歌を、葬送歌を歌ってあげて下さい。

俺は、行きます」

そして次の瞬間、全ての制止を振り切って、ロイは走り出した。


 保冷庫は大した警備もされていなかった。ビール泥棒を防ぐ最低限の警備員しかいなかった。彼らは皆、首をへし折られて悲鳴も上げられずに絶命していた。

『ローズマリー、能力の最大行使を許可しましょう』通信端末の向こうでマグダレニャンが冷酷な声で言った。『皆殺しで構いませんわ』

「はい、マグダレニャン様」ローズマリーはにっこりと優しく微笑んで、『分裂』した。彼女の体が分裂して、次々と黒い蜘蛛に変身していく。ぞわぞわと無数の黒い肉食蜘蛛が文字通り蜘蛛の子を散らして保冷庫に侵入していった。

『おぞましい力ですわね』白虎の姿のエウジェニアが呟いた。『同じ変身種ですが、本来ならば変身種一体につき一個しか無い「核」を無数に分裂させる事が出来る突然変異系は、どうも生理的に受け付けませんわよ』

『同感したくないが同感だ』やはり化物の姿になったセシルが言った。

ぎゃあ、と悲鳴が上がったのを合図に、特務員とエウジェニアは分かれて全方位から突入した。

黒い蜘蛛に全身を覆われてのたうち回る強制執行部隊隊員を、彼らは次々と処分して行った。その間I・Cは任務なんか放置して、ビールの樽を片っ端から空にしていた。そして何気なく嬉しそうに、

「こんな任務なら毎日やりたいぜ!」

――そのI・Cが吹っ飛ばされて、樽を弾き飛ばして床に転がった。強制執行部隊の一人がアンプルを懐に、そして全身の体温が一〇〇〇度を超える高熱で覆ってローズマリーをも寄せ付けず、ただ一人で撤退を始めたのである。

「あッ!」アズチェーナが植物のつるでその男を捕縛しようとして、失敗した。つるが一瞬で蒸発したからである。

「この!」と放たれたフー・シャーの超音波をかわして、その男は包囲網をも突破し、逃げて行った。

『マズいぞ! 追え!』セシルが駆け出した。

「ここの後始末は僕に任せろ! みんなで追いかけるんだ!」ベルトランが叫び、誰もがそれに従った。


 (何でだ)ただ一人撤退しつつ、アルは混乱していた。(何でこの計画が露呈した!?)

彼はとある場所を目指してまっしぐらに、ところどころに罠や妨害装置を仕掛けつつ、疾走していた。

その場所に到着するなり、『炎の魔人イフリート』アルは手にしていたアンプルの蓋を開けて、ぶちまけた。だが、背後の気配に気づいて戦闘態勢に移りつつ振り返る。

「お前か」とアルは一瞬安堵したが、次の瞬間全てに気づいて血相を変えた。「お前、まさか!」

「そのまさかだ」ロイは言った。「お前達が計画の遂行に失敗した場合、ここに来るだろう事は俺くらいしか予測できない事だ。 待っていたぞ、アル」

「裏切り者め!」アルは叫んで、表皮の温度を最高温度にまで跳ね上げてロイに突貫した。ロイに体当たりすればその体が蒸発してしまう事は間違いない超高温度であった。だが、ロイはそれをかわした。かわして、ベルリニアの市民の上水道を支える地下貯水槽の上に立ち、アルを挑発した。

「相も変わらずお前は無能だな。 口だけで、実行性が無い」

「黙れ、裏切り者!」とアルはまた突進した。

直後。

アルの姿が消えた。

ロイが仕掛けた罠は単純明快、落とし穴であった。それに、アルは見事にはまったのだ。落とし穴の下はアルのアンプルより放たれたシボレテが増殖しつつあった、水をたっぷりと溜めた貯水タンクであった。アルの断末魔が聞こえた。超高温の塊が冷たい大量の水の中に落ちたのだ。瞬間沸騰した熱湯の中で、アルは温度差に耐え切れずに体が崩壊し、更に溺れて死んだ。シボレテも、高温に耐えきれずに死滅した。同時に、大量の高温の蒸気が発生し、それは辺りを一瞬で焼きながら舐めつくして行った……。


 アルを追いかけて貯水タンクに駆けつけた特務員とエウジェニアは、はっと息を飲んだ。既に満ち溢れていた蒸気は温度を下げていて、そこは人が活動できる温度の範囲内にある。

一人の男が、貯水タンクの側でうずくまっていた。焼けただれたその顔にはかすかに勝利の微笑みが浮かび、そして、その目は――。

「ロタール王子!」シャマイムがすぐさま駆け寄って、応急治療をしようとしたが、もはやそれは彼の苦痛を長引かせるだけだとすぐに判断を終える。

「みんなに、」と男はオッドアイを細めて言った。「伝えてくれ、ありがとう、と」

こと切れた。

誰もが絶句して、何と言えば良いのか分からないでいたが、シャマイムだけが動いて、変形するなり男の体を収納した。

「どうするつもりだい、シャマイム……?」フー・シャーが訊ねると、

『遺体を現状のままゲルマニクス側に返還した場合、ゲルマニクス側の狂乱状態が予測される。 よって、最も衝撃を与えない形に遺体を変換する』

「……そうか」と人間の形に戻ったセシルが頷いた。

「そ、そうだ、シボレテ、シボレテは!?」アズチェーナがはっと気づいた。エウジェニアが穴から下を覗き込み、中で死んでいる男とぐらぐらに煮え立った水の有様を見て、

『……ほぼ死滅した、と言って良いでしょうね。 これでどうやらバイオテロは終結したようですわ』


 ダイアモンドであった。永遠に輝き続ける砕けぬ金剛石。ロタール王子の体は、それに変えられて遺言と共にコローナ女王の手の中に戻った。

「……」女王はもう泣かなかった。彼女の弟は、もう誰にも害されはしないし、どこにも拉致されて連れても行かれない。ずっと、ずっと彼女と一緒にいる。「ありがとうございました」と彼女は優雅に、特務員とエウジェニアに向かって一礼した。


 『任務完了を確認、ご苦労様でしたわ』マグダレニャンは通信端末の向こうで言って、特務員達をねぎらった。それからふと、「それにしても、今回は強制執行部隊隊員が一人だけとは言え洗脳から解かれた事はともかく……特に穏健派と共闘した事は本当に珍しい事態でしたわね」と側に控えるランドルフにこぼした。

「マグダ様」ランドルフは少し考えてから、「穏健派と共闘できた、と言う事は、もしかしたら――」

「まだ可能性の段階ですわ」と彼女は首を横に振った。「ですが、いずれは、と信じたいのも確かです」

「ええ」ランドルフはしっかりと首を縦に振った。そして、「信じましょう」と答えた。


 オットーは書類を調べていた。捕虜収容所に来てからと言うもの、彼はその作業を延々と飽きずにやっていた。もう時は深夜であった。彼の背後に、双子と思しき謎の人物の小さな影が現れた。それは徐々にオットーに忍び寄る――。

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