第19話 【ACT一】特務員連続失踪事件

 もう俺には何も無い、とセシルは思うのだ。『屠殺屋ブッチャー』セシルなんて酷い異名で呼ばれて誰彼からも恐れられて、彼自身が『俺は聖教機構の中でも指折りのつわものの一人だろう』と自覚していても、彼の中には何の満足も広がらず、ただ寂しさだけが彼を埋め尽くしていた。

 聖教機構ヴァルハルラ。この人間が魔族を支配する組織では、支配下の魔族を己の武器としている。戦闘の才能や、種族上の高い戦闘能力が、わずかでも見出せた魔族は取り立てられて聖教機構の下僕しもべとして働く事になっているのだ。だが戦闘が得意でない魔族は普通の、人間とほぼ同じ暮らしを送る事を許されている。

魔族は生まれつきの本能として人間を食べるため、食べないように聖教機構が無料で合成肉を定期的に配布している。だから、聖教機構支配下の魔族が人間を直に食べる、と言う事件は滅多に起こらない。彼らの人権(?)は認められているし、彼らは法律で保護されている。聖教機構成立当初は人間の魔族に対する差別も、魔族の人間への偏見もあったのだが、今時そんなバカバカしいカビが生えたような事を考えている者は、逆に差別と奇異の目で見られている。

魔族は人間に混じって街を、昼日中を闊歩している。化物と呼ばれてつぶてで追われ罵声を背中に浴びたのはもう大昔の事。

世界も人も時代も、何もかもが変わったのだ。

 この巨大組織に敵対するのが、魔族が人間を支配する万魔殿パンテオンである。両者は何百年となく世界戦争を繰り広げ激突し、だが拮抗状態を保っている。

 セシルは聖教機構の組織員の中でも選び抜かれたエリートの、特務員だった。だが彼は好き好んでなったのでは無い。無我夢中で任務に没頭していたら、いつの間にかなっていたのだ。その中には命がけのものも山ほどあったが、セシルは死を恐れずやってしまった。彼がそこまで無我夢中になった原因が――妻子が万魔殿のテロで死んでしまったから、である。

 「……」

彼は今、ぼう然としている。家族の墓参りに来て、彼は黙り込んだままぼうっと二つの墓の、やや手前の辺りの何も無い空間を見つめている。寂しい風が吹き抜けていく。彼は別にとは思わない。だがとは無意識に考えてしまっている。

彼にはもう守るべきものも、大切なものも何も無いのだ。

万魔殿過激派のテロは容赦ないものだった。あの日、彼の妻子は出かけた。聖教機構の幹部が街でパレードを行う事になっていて、それを見物に行ったのだった。彼はその日仕事で一緒に出かける事は出来なかったが、子供のはしゃぐ顔や妻が化粧する横顔を見て、俺は幸せだなあとぼんやりと思った。行ってきまーす、と言う言葉に、おう、行って来い、と笑顔で返した。パレードの最中に、彼は、何ら罪の無い観客を巻き添えにしてまで大規模な爆破テロ事件が起ころうとは夢にも思っていなかったのだ。幹部は皮肉にもぎりぎりの所で無事だったが、観客は凄まじい被害を受けた。文字通り木っ端微塵にされたのである。

彼が辛うじて家族の遺体だと認められたのは、妻の左手の薬指にはまった結婚指輪のおかげだった。後はもう――他の誰かの肉片と混ざってしまって、何も分からなかった。何も分からなかった。何も分からなかったのだ。

「パパ!」

「!」

セシルは全身が総毛だった。

この声は?この声は!

ばっと彼が振り向くと、墓地の入り口に二人の人影が立っているのが分かった。その姿を見た途端、彼のまともな『理性』がさらわれた。

「嘘だ」

わなわなと震えながら彼はその場に立ち尽くす。

「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ」わななきながら彼は呟く。「これは幻だ、夢だ、俺は幻覚を見ているんだ!」

一体幾夜を絶望と悲嘆の内に過ごしてきたのか。一体幾夜を眠れないままで過ごしてきたのか。街で似た年頃の子供を見ては、今頃あの子は何をしているだろうと考えてからはっと我に返った事か。

だが、その幻覚はゆっくりと近付いてきて、こう言うのである。

「パパー、あのねー、学校のテストで一〇〇点取ったんだよ! 凄いでしょ、凄いでしょ!」

「ねえ貴方、何びっくりした顔をしているの?」

この瞬間、何もかもが彼の頭から消えた。過去も未来も現在も何もかもが消え失せた。自分の務めも最近起こっている特務員連続失踪事件についても消え失せた。彼はただ泣きながら、二人を抱きしめた。

「家へ帰ろう、家へ帰ろう――!」

帰りたい。たとえこれが残酷な朝が来れば滅び去る一夜のまどろみの夢であったとしても、帰りたい!帰りたい!

「そうね、帰らなきゃね。 早く行きましょう」

三人は仲良く手を繋ぎ、連れ立って墓場を出た。その瞬間、バイクの音がして、セシルはわずかに自我の欠片を取り戻す。そのバイクの音を彼は聞きなれていたから。

『――セシル、そこの二人は誰だ?』と走ってきた無人のバイクが喋った。

「……シャマイム」セシルは柔らかく狂ったような笑みを、このバイク相手に浮かべた。「家族だよ、俺の家族だ」

『家族?』バイクは困惑したような声を、出す。実はこれはセシルの同僚かつ兵器で、色々と変形できるのだ。『自分に記録されている経歴上、セシルは天涯孤独だったはずだ。 新規作成したのか?』

「経歴なんか知るか。 新しくじゃないよ。 戻ってきたんだ。 俺の死んだ家族が戻ってきたんだ!」

「ねえパパ、早く行こうよー」

服の裾を引っ張られて、セシルはにっこりと笑った。

「ああ、行こうな。 じゃあなシャマイム」

彼は穏やかに二人の手を引いて行こうとした。

その瞬間、彼の妻子がかすかににやりと笑ったのをシャマイムは見逃さなかった。その笑みは、とても邪悪なものだった。

『――敵性体と認識し攻撃を開始する』

シャマイムは人型になった。握っている大型拳銃サラピス‐Ⅶが火を吹いた。蜂の巣になって倒れる妻子の姿に、セシルは引き裂けるように絶叫した。変身種ライカンスロープの彼は瞬く間に異形の化け物の姿となって、シャマイムに襲いかかった。シャマイムは飛びすさったが、直前まで立っていた地面に大穴があいた。大型重機の怪力と肉食獣の俊敏さを兼ね備えた化物が突撃してきたのだ。

『俺の家族をよくも殺したな!』セシルは半狂乱で怒鳴った。

「否。 あれはセシルの家族では無い。 ――!?」

今度はシャマイムの顔に困惑に近いものが浮かんだ。その目はセシルではなく彼の背後を見ている。何事だとセシルは背後を振り返って、呆然とした。

何も無かったのである。妻子の死体はおろか、血痕すら無かった。

「え、え、え――!?」セシルはもう何が何だか分からなかった。「お、俺は、白昼夢でも見ていたのか!?」

「否。 自分も確かに認識した。 まだ憶測の範囲を出ないが、これは一連の特務員連続失踪事件の一環ではないかと推測される」

「――」セシルはようやく冷静になった。だとしたら己は危うい所を救われたのだ。「……ところでシャマイム、お前どうしてここに来た?」

「ボスより現在は単独行動を慎めとの命令が下っているはずだ」

淡々と機械的に言う同僚に、ふとセシルは笑いがこみ上げた。

「あは、はは――シャマイム、心配で見に来てくれたのか」

ノー。 『心配』ではなく万が一の可能性を推測して――」

素直じゃないな、とセシルはこそばゆく思ったのだった。


 セシルの件により、緊急特務員会議が開かれた。特務員連続失踪事件はもはや看過できない非常事態となっていた。一般人が行方不明になったのではない。相当な戦闘訓練を積み、実戦経験もある実力者が何人も消えて行ってしまったのだ。

シャマイムがモニターに接続して、セシルが行方不明になろうとした一部始終を映像で流した。

「……これは、キツいね」それを見た後で、同僚の特務員、吸血鬼ヴァンパイアのフー・シャーがぼそりと言った。「僕だってまた昔のようにバイオリンが弾けるようになるなんて夢を見させられたら、この現実世界に戻って来られる自信が無いよ……」

「全くだ」女と言う女が全てを投げ打ってでも恋をしそうな美男子であるグゼが、忌々しそうに言った。「俺だってかつて失ったものが戻ってくる幻覚を見せられたら、この現実の事なんか忘れてしまうだろう」

「……まるで、本物の悪夢ナイトメアのようね」双子の姉であるニナが言った。「失くしたもの、愛していたもの全て。 得られたもの、泥沼の戦いの道。 誰にだって忘れるに忘れられない、失ってもなお恋しいものを持っている。 そこを付け狙うなんて……」

「……赤ずきんは狼に食べられてしまって、それでお話はお終い。 でもそれじゃ悲し過ぎる、だから誰もが願って、狼を退治する猟師を生み出した。 これじゃまるで『赤ずきんと狼』だよ……」双子の妹のフィオナが呟いた。

『道理で誰も襲われた時に抵抗したり暴れたりした痕跡が一切無い訳さ』立体映像で情報屋の青年レットが姿を見せた。『だからいくら探っても情報が得られなかった訳だよ。 だって誰もが騙されてとは言え、己の意志で消えてしまったんだから』

「……対策の取りようが無いじゃないですか、これ……」吸血鬼の少女アズチェーナがびくびくしながら発言する。「誰にでもある心の傷を利用されたら、どうしようもないじゃないですか……」

「単独行動を極限まで慎む事が唯一の失踪回避方法だと提案する」映像を流し終えたシャマイムが言った。「単独での行動は現状では危険すぎると推定する」

「そうだな、それしか無いな……」グゼが神妙な顔で頷いてから、はっとして、「そう言えばあのろくでなしのクズ男のアル中の最低野郎のI・Cイー・ツェーは、今どこで何をしているんだ!?」

「「あ」」

誰もが顔を見合わせて、それから同時に、異口同音に答えた。

「「会議をすっぽかして酒場に逃げ込んでいると思う」」

「I・Cが危険だと判断する」シャマイムがモニターとの接続を解除して会議室を走り出た。

「あ、待って下さい、あたしも行きます!」アズチェーナがその後を追った。「た、単独で行動しちゃシャマイムさんも危険ですよ!」

会議室の扉が閉まったのを見て、グゼが小声で言った。

「……俺が勝手に思っているだけだが、I・Cのクソ野郎なんか少しくらい心の傷をえぐられて苦しんでも上等じゃないか?」

「あ、同感」ニナが言いきった。「あの強姦魔の変態の精神異常者の犯罪者に恨みを持っていない和平派特務員なんてシャマイムくらいじゃないの? 私は少なくともアイツにシャワーシーンを覗かれたり散々セクハラされたりしたから、死んでくれると凄く嬉しい」

「僕もだ」フー・シャーが憎しみを露わにして言う、「人生一度の結婚式をアイツの所為で滅茶苦茶にされかけた恨みは、アイツがよしんば焚刑にされたとしても晴れるものじゃない!」

「……でも、一番嫌な事態って、そのI・Cが敵に捕まって洗脳されて私達と敵対する事態じゃない……?」フィオナが暗い声で言う。「アイツ、無駄に戦闘能力、ううん、生命力だけはあるから……」

「恨みつらみをここで言っていても仕方が無いさ。 シャマイムとアズチェーナがヤツを連れ帰るだろうから、それから言いたい放題言おう」セシルがそう言って皆をなだめた。


 いつもひもじくって、暴行を受けた体がきしきしと痛んだ。でも泣く事も出来なくて――泣いている所を見つかったらもっとぶたれるからだった――じっと耐えるしか無かった。貧民街スラムの子供などみんなこんなものだった。他人の顔色を異常にうかがって、常に怯えていて、強い者に権力に媚びへつらう事を真っ先に覚える。

そんな貧民街の子供が、連続で殺される事件が起きていた。だが警察はまともに捜査しなかった。そりゃそうだ、命に値段があると仮定したら、そんな子供のお値段は〇、いやマイナスだった。おまけに貧民街にはマフィアや殺し屋がうごめいているので、下手に突っ込んだ捜査をして手に火傷を負うよりは、放置していた方が余程良いのだった。

 ドルカスはその日一人で遊んでいたら、優しい声で呼びかけられた。

「ねえ、お金を支払うからさ、ちょっと遊んでくれないか」

声をかけてきたのは、優しそうな男だった。

「お金……本当にくれるの?」お金があれば食べ物が買える。ドルカスは酷く飢えていた。

「嘘じゃあない」とその男は大きな財布を見せた。そこから一枚金貨を取り出して見せびらかす。「これが欲しいだろう? だったら、おじさんと遊ぼう」

「いいよ」とドルカスは頷いた。男の言う、『遊ぶ』、がどう言う意味なのかくらい分かっていた。だがもう既に綺麗ではない体に何の未練がある。ドルカスの初体験の相手は、薬漬けで頭が狂っている父親だった。これですらドルカスのいる環境では、珍しい事ではなかったのだ。ドルカスは、とにかく金が欲しかった。腹を満たしたかった。一度で良い、お腹一杯食べたかった。

男はドルカスを安宿に連れて行った。そこで彼らは行為をした。それが終わってドルカスがお金をせびった時だった。男の腕が蛇のようにドルカスの首に巻きついたのは。

「ぐ、え――!?」潰れた悲鳴をドルカスはあげる。

「はははははははははッ!」男は邪悪に笑った。「やっぱりこの瞬間が一番興奮する! くびり殺す、この瞬間が!」

しまったとドルカスは思った。何て相手に捕まってしまったんだろう。必死に抵抗したが、大人と子供の力では敵うはずも無く、頭がガンガンと痛む。視界がぼやけて、体から力が抜けていく。

死にたくない。ドルカスはそれでも絶叫するかのように思った。どれほど惨めでみっともない人生でも、まだ諦めたくは無い!毎日をひもじさと絶望の中で過ごしていても、まだ死にたくない!死ぬのだけは嫌だ!

『ワタシと契約するんですな』

その時、脳裏に酷く耳障りな声が響いた。

『ワタシと契約すれば生かしてしんぜましょう』

たとえそれが悪魔の誘惑であったとしても、ドルカスは生きたかった。

(……死にたく、無い。 生きたい!)

『よろしい、ならば生きましょう!』

どしんと衝撃があって、男の手が急に離れた。ドルカスは激しくせきこむ。

涙でにじむ視界で周囲を見渡すと、背中に刃物が突き刺さった男と、小さなトランクの中に消えていく人間の後姿、そして腕を組んで立っている別の男がいた。

「けほ、けほ――アンタ、誰?」

『まあそれは後でじっくりと話しましょう。 今は早々にここから立ち去るべきですな』

「う、うん――分かった」

安宿から身一つで逃げ出して、ドルカスはこれからどうしようと思った。自分が生きるためとは言え、人が死んだのだ。それも金持ちそうな男が。きっと今度こそ警察は動くだろう。いずれドルカスまで至るに違いない。

「これから、どこに行けば良い――? 家にももう帰れないし、どこに行くアテも全然無いんだけど……」

『そうですな』と姿は見せずに、ドルカスの影の中から声だけが返ってきた。相変わらず耳障りな。『いっそ旅にでも出ましょうか。 幸せ探しの旅に。 何、ワタシがいる限り飢え死にはさせませんぞ』

幸せ探しの旅。その言葉は酷くドルカスの琴線に触れて、明るい音を立てた。そうだ、どこに行ってもこれ以上悪くなる事など無いのだから、どこにでも行こう。どこかにきっと、幸せがあるはずなのだから。

「うん、分かった! 行こう!」

小さなトランク一つ提げて、こうしてドルカスは放浪を始めたのだった。


 通信端末が鳴って、不気味な蓬髪の男は舌打ちしてそれのスイッチを入れた。夜の場末の酒場は、酔っ払いと騒音の巣窟になっていた。

「何だボス」と彼は不快感丸出しに言う。

『緊急特務員会議に貴様はいつもいつも不出席ですわね』と若い女の声が威圧的に言う。彼女は何も意図して声を威圧的にしているのでは無いのだが、自然と受け止める方は威圧だと受け取ってしまう、不思議な声であった。『会議が開かれた理由は、セシルが行方不明になりかけた事件が起きたからですわ』

「あっそ。 で、葬式はいつだ? 借金がチャラになるから凄くありがたい」

『生憎彼はちゃんと生きていましてよ。 それにしてもI・C、貴様はセシルを相手に借金まで作っていたとは……』と声はため息をまじえた。

「うぜえ。 どうせアイツ扶養家族いねーんだし金を使う趣味も無いんだし、だったら俺が貯まるきりの金を有効活用してやったって何が悪い?」

『飲み代に全てつぎ込んでおきながら、よくもまあ……。 とにかく単独行動を今すぐに止めなさい。 セシルほどの者が簡単に騙されたのです、貴様ではもっと耐えがたいでしょう』

「どうやって騙されたんだ?」

『死んだはずの妻子が確かに目の前に現れたそうです。 ですからI・C、貴様の前にも最悪「彼女」が現れるかも知れません』

男の顔が真っ青になった。

「……ヘレナが……俺の前に?」

『ええ。 I・C、貴様の最大にして最悪の弱点がよみがえる、かも知れないのです。 ――あら?』

ちょっと通信にノイズが走って、それからまた女の声が響いた。

『……シャマイムは本当に親切ですわ、単独行動を取っている貴様を迎えにアズチェーナと共に出立したそうです。 丁度良い、シャマイム達に合流して帰還なさい』

「……分かったよ。 ああ、そうだ」男はふと思い出したように言った。「お嬢様。 メタトロンが暗躍している、万魔殿過激派の首領ジュリアスになって」

『! 大天使メタトロンが何故、今になって……?』彼らの主は困惑した。

「分からん。 俺への復讐ならもっと昔にやっていてもおかしくは無いのに、今頃になって、だ。 しかも万魔殿穏健派幹部二人を殺傷して逃げやがった」

『メタトロンが……そうですか、分かりましたわ。 そちらも調査します。 ですがとにかく今は、I・C、帰還なさい』

「ああ」

通信が終わった後、I・Cはぼうっとしていたが、やがて一人、誰にも聞こえない声で呟いた。

「俺は帰りたかったんだ……ヘレナ、お前の腕の中に。 世界でただ一つだけ俺を否まなかった俺の居場所へ……」


 小さなトランクを提げた若い女が酒場に入ってきたのと入れ違いにI・Cは酒場を出ようとして、ふと足を止めた。振り返って彼女をじっと見る。女は視線に気付いたようで一度はI・Cを見たが、気にもせずにカウンター席に座ろうとした。その腕をI・Cは掴んで、あっと言う間も無く女を引きずって店外に連れ出した。

「ちょ、ちょっとアンタ何するの!?」我に返った女は当然ながら抗議した。

「お前なんかに用は無い」I・Cはにやりと薄気味悪い笑みを浮かべる。

「はあ!? 私に用が無いんだったら何でこんな事を!?」

「だからじゃねえんだよ。 出て来い、ムールムール」

不意に女の影が凝固し、そこから男が姿を見せる。

『――ワタシを知っているとは、貴様は何者ですぞ!』

男は、酷く耳障りな声で怒鳴った。と言っても音声ではなく、精神に響くようなものだった。I・Cは彼を懐かしそうに見て、

「俺だよ、魔王サタンだ」と言った。

『!』男は飛び上がった。『貴方様でしたか! いやはやこうしてお目にかかるのは一体何百年ぶりですか……』

「そうだな、俺は長い事異界ゲヘナに帰っていないから、時間の感覚がおかしいんだ。 何千年前の事が昨日の事みたいで、昨日の事が何千年前の事みたいだ」そこでI・Cは言葉を区切って、「で、ムールムール。 俺は今聖教機構和平派に所属している。 特務員をやっている。 お前らもこっちに来ないか?」

『えぇえええええええええええええええ!?』ムールムールは仰天した。『あ、貴方様が、貴方様ともあろう御方が聖教機構にいて、どうして聖教機構が万魔殿に勝利していないのですぞ!? 貴方ならば万魔殿を絶滅させる事すら簡単でいらっしゃるのに……』

「俺の前の上司も今の上司もな、変な所で理想家で、『万魔殿を絶滅させた所で争いの根本は一切解決しない、正義と正義の争いは続いてしまう』って思っているんだ。 それで俺は大人しく従僕をやっている。 で、今の俺の名前はI・Cって言うんだ。 I・Cって呼べ」

『……は、はあ……』

I・Cは戸惑いがちな彼に向かって、

「ここで会ったのも何かの縁だ、ウチに来ないか? 俺が飲み代かっぱらう相手が増える」

「ねえムールムールちゃん」と女が言った。「コイツ誰? 知り合い? 一体何なの?」

『知り合いと言えば知り合いですが……うーむうーむ。 言葉で言うにはちょっと複雑すぎる関係なのですぞ。 何しろこの御方は魔王であらせられる。 ドルカス、いつぞや語りましたな、この世界の真実の断片の一つ、もっとも重大なものを』

「何だっけ。 ああ、あれか。 ……『この世界には残酷な神がいたけれど、もう死んだ』」

『ですぞですぞ。 で、この御方がその残酷な神を殺した張本人なのですぞ』

「……冗談よね?」と女は訊ねたがムールムールは真顔で、

『ドルカス。 生憎と事実ですぞ』

「うーん……」ドルカスは三秒考えてから言った。「嫌。 だってコイツ、側にいると何か気持ち悪いんだもん。 何かねー、側にいるととにかく酷い事の巻き添えをくらってこっちまで酷い目に遭いそうなの」

「おいドブス」とI・Cは快楽殺人鬼のような笑みを浮かべて、「いいぜ、いくらだって酷い目とやらに遭わせてやる、四六時中な!」

「ほら言った!」ドルカスはトランクを抱きしめて、「ムールムールちゃん、コイツ絶対生ける災禍だよ! 私の勘は外れないの!」

『ま、まあまあ落ち着くのですぞ、ドルカス』ムールムールは彼女を抑えて、『特務員は確かに危険な職業ですが、同時に報酬も大変に美味しいのですぞ。 死人召喚術ネクロマンシーで呼び出した死人を使役してドルカスは安全圏にいれば、ほとんどただで美味しい思いが出来るのですぞ』

「へえ、ムールムールは流石に分別があるなあ。 で、どうするんだ? 嫌だって言えば俺がお前らを虐殺するだけだが」

I・Cは実にあっさりと言った。ムールムールの方が嘆息して、

『……貴方様の性格は全然変わっていらっしゃらないのですぞ……』

「ねえムールムールちゃん、コイツ召喚した死人でぶっ殺せない?」ドルカスはちょっと怯えながら言う。あっさりと虐殺と言う言葉を口にするI・Cに引いているのである。

『「ぶっ殺す」……それは無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理ですぞ。 那由多の果てまで無理なのですぞ。 彼を殺そうとした数多の企みは全て破綻し、破壊され、食いつぶされて、文字通り彼に丸呑みにされてしまった……』

「ミサイルとか、最新兵器をコイツにブチ込んで何とかならないの!?」

ムールムールは脱力気味に、

『聖教機構が所有する「遺物レリック」、「聖遺物」の「聖槍・貫く者グングニル・ロンギヌス」がこの御方目がけて発射された事がありましたが……この通り無傷であっけらかんとしていらっしゃるのですぞ……』

「『グングニル・ロンギヌス』を!?」ドルカスは目を見張った。「あれって聖教機構が所有する兵器の中では最上級の破壊力を持っているって……!」

「もう与太話はどうでも良いだろ。 さあ、返事をよこせ!」

I・Cがそう言ってドルカスに迫った時だった。I・Cの目が真ん丸に見開かれた。

「――あ、ああああああああ!」

その視線は少し離れた暗がりに立っている、一人の女を捉えている。闇の所為で女の顔は見えない。けれど、かすかに微笑んでいるのが雰囲気で分かる。

「お前か! お前なのか!?」I・Cがドルカスを突き飛ばして駆けた。「――お前だ!」

そう言って女にすがるように抱きついた彼を抱きしめ返して、女は少しハスキーな声で言った。

「ええ、私よ。 二人きりになれる場所へ行こう、イノツェント?」

「ひっ!」

『む!』

ドルカスとムールムールの背筋が総毛立った。女の目が見えたのだが、そこには真っ黒な闇があるきりで、あるべきはずの眼球が無かったのである。そして、女はとても邪悪な、おぞましいとすら言える笑みを浮かべていた。だがI・Cがそれに気付いている様子は全く無い。

「ムールムールちゃん!」

『承知ですぞ!』

ドルカスがトランクを開けた。闇があふれ出した。闇はすぐに凝集し、固まって人の形を取る。若い青年だった。古めかしい格好をしていて、背中には二つの鍵が交差した紋章を背負っている。

「あ、あれ?」青年はきょろきょろと辺りを見回した。「ここはどこなんだ……?」

「後で説明するからあの女をやっつけて! アイツ敵よ!」

「敵だと!?」ドルカスが叫ぶなり青年の顔が豹変し、『糸』が飛んだ。

女の首が転げ落ちた。

「あ」I・Cが半狂乱で青年に襲いかかる。「ああああああああああああああああああああああああああああああ!」

だがそれをも青年は『糸』でがんじがらめに束縛した。とは言え『糸』は今にも暴れるI・Cにより引きちぎられそうである。

「俺の女を! 殺したな!」I・Cはわめいた。「俺の女を!」

「敵は殺す、それが僕らの信条だ」青年は冷酷に言う。

『あッ!』その時ムールムールが叫んだ。『し、死体が消えたですぞ!?』

「嘘だ」I・Cはその何もない有様を見て、へなへなとその場にうずくまった。「嘘だ……!」

『糸』から解放されたと言うのに、彼は半分死んでいるようだった。

「どうしよう」ドルカスが慌てた。「ねえムールムールちゃん、どうすれば良い!?」

『うーむうーむ……』と悪魔は考えてから、『ああ、そうだ、お仲間を呼べば良いですぞ、恐らくは通信端末をお持ちのはずですからな』


 ――すぐさま駆けつけたシャマイムとアズチェーナは、放心状態のI・Cに絶句した。この男が放心状態になる有様など、初めて見たのだ。

「事態の説明を要求する」とシャマイムは言った。

「ええとね、怪しい女が出てきてI・Cがおかしくなって、ソイツは殺したんだけれど、その死体が消えたのよ」とドルカスが答えた。

はっとアズチェーナが息を吞んで、「ま、また死体が消えたんですか!?」

「『また』!?」ドルカスが食いついた。「どう言う事、それ!?」

「あわわわわわわわ」アズチェーナは己の失言にパニックを起こして、「違うんです違うんです他意は無いんですええとそうじゃなくてそう言う意味じゃなくて特務員失踪事件とは関係が無くて」さらに口を滑らせた。

「特務員の失踪事件って、何が起きているの!?」

「アズチェーナ、冷静な応答が可能になるまで沈黙する事を推奨する」シャマイムがアズチェーナの口を素早く塞ぎ、「事情は了解した。 貴女らの名前を訊ねても良いか」

「私はドルカス、こっちはムールムールちゃん……ところで」とドルカスは青年を見て面倒臭そうに、「アンタ誰?」

「それはこっちの質問だ! 貴様らは誰で一体ここはどこなんだ!」と青年は叫んだ。「異端審問官はどこで何をやっている! こんな得体の知れない連中を野放しにしているなんて――」

「自分は聖教機構和平派所有兵器自律自動型可変形兵器オートトランスフォームロイド機体名称シャマイムだ。 現在は特務員として活動している」とシャマイムが名乗った。「こちらはアズチェーナ、特務員の同僚だ」

「私達は旅芸人よ」とドルカスが言って、ムールムールも頷いた。

「旅芸人は分かるが……聖教機構? 特務員? 何だ、それは?」青年は怪訝そうである。「異端審問官は? 検邪聖省はどこにある?」

「検邪聖省と言う役所は現在の聖教機構には存在しない」シャマイムが淡々と言った。「それは聖教機構の前身である教国ヴァティカンに存在した組織だ。 異端審問官は教国が聖教機構へ改革されたとほぼ同時期に特務員として再編成された」

「はあ!?」青年は目を剥いた。「一体何がどうなっているんだ!?」

「……シャマイム」その時、小さな、小さなかすれ声がした。

「I・C?」シャマイムはI・Cの方を向いて、彼がやっと正気に戻ったのを確認した。

「死にたい」とI・Cはまるで祈りのように呟いた。「俺は死にたい、シャマイム」

シャマイムは冷静だった。セシルの場合と続いて、これで二件目だからだ。「重度の精神的打撃を受けたためカウンセリングが必要だと判断する」

そう言って、立ち上がるI・Cを支えようとする。だがI・Cはその手を振り払い、

「要らん。 もう要らん。 ……あー」I・Cはぼんやりとした目で周囲を見渡し、そして青年を見て驚いた。「おい! ムールムール、お前こんなのを召喚したのか!?」

『こんなのとは酷い言い様ですぞ』ムールムールが反論した。『この異端審問官が出てこなかったら、貴方様は今頃どんな目に遭わされていたか!』

「あー、うん、しかし久しぶりだなあ、異端審問官なんて何百年ぶりか……」

I・Cの懐かしそうな言葉に、青年はもう目が飛び出しそうな顔をする。

「何百年!? い、今は一体いつなんだ!? どうして僕はここにいる!?」

「今はな、お前の生きた時代の遥か未来なんだ」I・Cが性根を見せて、底意地悪く言った。「どうしてお前がここにいるか? それはな、この悪魔ムールムールの『死人召喚術』でここに呼び出されたからだ」

「悪魔!?」青年はムールムールを睨みつけた。「悪魔など皆殺しだ!」

『糸』が飛んだ――が、それはムールムールの体に届く前に地面に落ちた。

『やれやれ、緊急事態だったので咄嗟の事で適用に強そうなのを召喚したは良いですが、とんでもない暴れん坊を引っ張り出したようですな』とムールムールは心外そうな顔をして、『召喚主にただの死人の下僕が攻撃なんぞ出来るはずが無いのですぞ』

「そうよー、あえて言うならばアンタは私達のお人形かつ忠犬。 それが主に噛みついたりなんか出来るはずが無いのよ」ドルカスも言った。「お手しなさい、ワンワンちゃん!」

すると青年の体は勝手に動いて、ドルカスに対してまるで犬のようにお手をした。

「な、何!?」青年は目の前が真っ赤になるような衝撃を受けた。「ふざけるな、僕を何だと思っている!」

「だから言っているじゃない、ワンワンちゃんだって」

「貴様ら! 貴様らァ!」青年は怒りのあまりに憤死しそうであった。

「お、おおおおおおおおおお、落ち着いて下さいよ!」口が自由になったアズチェーナがなだめようとして、青年の凄まじい眼光に逆に震え上がった。「と、とにかく、怒るのは良くない事です、体に悪いですよ!」

その口元から鋭い牙がこぼれたのを、青年は見逃さなかった。

「貴様は」青年の顔に冷酷な表情が浮かぶ。殺意が研がれた刃になる。「貴様は吸血鬼か! 今ここで死ね!」

「――ひいいいッ!」アズチェーナは完全に腰を抜かして、シャマイムに庇われた。

「彼女を殺傷する理由は現時点では一切存在しない」シャマイムはきっぱりと言った。「殺処分を彼女に下す場合は、死刑もしくは死刑に匹敵する重罪判決が下った場合、そして看過不能な任務違反を犯した場合だ」

「理由なんか要らないのさ。 僕らは化物を皆殺す!」

「化物?」シャマイムは己にしがみついてウサギのように震えているアズチェーナを見て、「アズチェーナを化物……だと判断したのか?」

「ああそうだ! 魔族を絶滅させるのが僕らの使命だ!」

「???」シャマイムは困ったような印象を与える声で、「現在聖教機構管轄下に置かれている魔族の総人口は到底貴君が殺害可能な数では無い。 ましてや絶滅させた場合には、聖教機構の相当な戦力減と未曾有の経済的不況と過度の倫理違反を招来する。 そして、化物……?」

己の背後で涙目で震えているやせっぽちの少女のどこをどう観察しても、シャマイムには彼女が化物だと主張する青年の発言が理解しがたかった。

「訂正を要求する。 魔族は化物では無い」

「断る! 魔族は、化物は一匹残らず殺してやる!」

「ねーどうすんのよムールムールちゃん」ドルカスが口をへの字に曲げて、「コイツ強いんだろうけれど頭がカッチンコッチンでカビが生えているんじゃないの? 今の常識を知らなくて魔族を殺す殺すばっかり。 もー何で洗脳しないで呼び出したのよー」

『慌てていたのでそこまで手が回らなくてですな……どうしたものやら。 しかしまあ、ワタシ達の許可なく殺人をさせないように改造はしましたから、後々ゆっくりと洗脳すれば良いですぞ』

その間も青年は殺すと何度も叫び、だが体が一切言う事を聞かなくて愕然としていた。

「諸経緯を含め、詳しい事情を聴取したい。 任意同行を要請する」

とシャマイムが言って、車に変形した。


 聖教機構和平派拠点イオナ・ビルに入った途端に、青年は絶叫した。

「――化物が何でこんなに沢山いるんだ!? 何故殺さない!?」

「繰り返すが魔族は化物ではない」シャマイムが忍耐強く訂正した。「そして魔族を公的に殺害するのは死刑判決並びに死刑に匹敵する重罪を犯した場合のみだ。 無罪の魔族を殺傷する事は重大な法律違反だ」

「あのなあ」とI・Cがいやらしい顔をして、「若いの。 お前の常識は今の非常識なんだぜ。 お前が死んでいた数百年の間に世界はがらりと変わった。 何せ万魔殿が出来ちまったからなあ」

「何だそれは……?」

「魔族が人間を支配する巨大機構。 今じゃ聖教機構と対等にぶつかりあっている『もう一つの正義』だ。 これが出来た事で聖教機構は体制を抜本的に変えざるを得なかった。 毒を以て毒を制すって言葉があるが、正にそれだ。 魔族を使って魔族を倒す、そうしなければとてもじゃないが万魔殿とは張り合えない。 だから聖教機構は魔族を赦して、仲間にしたのさ」

「滅茶苦茶だ……!」青年は頭を抱えたくなった。

そこにがやがやと一団がやって来た。I・Cに積み重なった恨みつらみをぶつけるべく会議室からやって来た特務員達だった。彼らはI・Cを見つけた時に文句を叩き付けるのはいざ今だと言う顔をしたが、ドルカス達や変な格好の青年をも同時に見つけた。

「失礼ですが、どなたでしょうか?」セシルが丁寧な口調で訊ねる。彼には常識のようなものがI・Cとは違って頭の中にあるのである。「私はセシル、この皆と同様に和平派特務員です」

「貴様は!」青年がセシルを凄まじい眼光で射抜いた。「変身種ライカンスロープか! 殺してやる!」

「へ?」セシルの目が真ん丸になった。そんな理由で『殺してやる』と言われたのは人生初めてだったからである。

「こ、この人、この人凄く魔族に対して攻撃的なんです!」アズチェーナが半泣きで訴えた。「魔族を化物って言ったり、凄く怖いんです!」

「黙れこの吸血鬼風情が! そっ首叩き落すぞ!」

青年が凄まじい剣幕で怒鳴りつけたので、アズチェーナは、

「ひいッ!」とシャマイムにしがみついて離れない。

「おい」とグゼが流石に見かねて割って入った。「こんな女の子相手に貴方は何をやっているんだ。 立派な脅迫じゃないか」

「貴様はそれでも人間か?」と青年は殺意の眼差しで彼を睨む。「魔族の味方をするとは人間が腐っている!」

「『吸血鬼風情』とか『そっ首叩き落すぞ』なんてこんな女の子相手に暴言を吐く貴方よりは遥かに人間としてはマシだと思うが」

「何だと!?」

「あー……」I・Cがそこでようやく発言した。「この若いのはな、実は死人なんだ。 数百年前に死んだのが今さっきよみがえらされたばかりなんで、当時のままなんだ、頭の中が」

「……。 死人が生き返るのか?」セシルが逆に化物を見るような目で青年をじろじろと見る。

「どうせI・Cの虚言じゃないの? だって流石に……ねえ?」とニナがフィオナの方を向く。

「……そうだよ姉さん。 大体死人が生き返ったらゾンビで出てくるものじゃあないの?」フィオナは頷く。

「生き返ったは良いが頭の中がゾンビになっているんじゃないのかな、言っている事から察するに……」フー・シャーが小声で言った。

「だろうな、それで間違いないだろう。 だってあまりにもだ。 I・Cだって魔族差別はしないぞ。 と言う事は人類最低だと言う事になるが……」

ひそひそと青年を見ては話し合う特務員達の中で、グゼが何の悪気も無しにとどめを刺した。青年は心底腹を立てて、

「貴様ら。 僕が生身であったならば、全員この場で殲滅させてやったものを!」

「何だ、やるのか? 別に受けても構わないが」グゼが呆れた様子で言った。「やって気が済むのなら俺が相手になるぞ」

「えええええええええええええええええ」素っとん狂な声を出したのはドルカスだった。彼女は青年を足蹴にして、「こんな水も滴る良い男をぶっ殺したらアンタはブタの餌にするから!」

「うるさい黙れ!」青年はにやりと不敵に笑う。「僕と張り合おうなんて良い度胸だ。 ――この最強の異端審問官と呼ばれたベルトラン・レッシングに!」

「それじゃやるか」グゼがそう言った後、はっとして、「あ……とは言え今日は流石に時間が時間だし、場所が場所だ。 明日にしてくれないか。 何、俺は逃げたりしない」

「大丈夫なの?」ニナが言った。「グゼっていつも怪我している感じがするんだけれど」

「……女さえ」グゼは目を潤ませた。「女と言う生き物さえこの世界に存在しなければ俺は絶対に怪我なんかしない! 俺は女が怖い、修道院に入って一生女に会いたくないくらいに!」

「……イケメンゆえの女性不信、ここに極まれり……」フィオナがぼそりと呟いた。


 翌日、早朝。草が生い茂る広場で、グゼとベルトランは対峙した。観衆は、主に和平派特務員とドルカス達だ。

(――?)ベルトランは『糸』の感覚が、生前よりも遥かに密に感じられる事に気付いた。そして身体能力が飛躍的に上昇しているのも感じた。恐らくムールムールが彼の身体を改造したのだろう。悪魔め、と思うものの、その悪魔の支配下にある己の身体が恨めしかった。(――だが、今はそれが好都合だ)

「どうした」グゼはナイフも持たずに立っている。「かかって来ないのか?」

「行ってやるとも!」ベルトランはグゼ目がけて駆け出した。

その次の瞬間、爆音と共にベルトランの右足が吹っ飛んだ。

「あーあ」セシルが目を覆った。「やっぱりこう来たか」

「グゼさんと戦うのって凄くリスキーですよねえ……」日傘を差しつつアズチェーナがしみじみと言った。「だってありとあらゆる罠がありとあらゆる所から襲ってくるんですもん」

「うわあ、卑怯だわ、何て素敵なの!」ドルカスがはしゃいでいる。

「何だ!?」ベルトランは『糸』で体を支えて、絶叫した。

「地雷だ」グゼは平然としている。「そこらじゅうに埋まっている。 踏めば爆発して足がそうなる」

つまり、今のベルトランは地雷原の中にいるのである。

「貴様、卑怯だぞ!」

「俺がいつ正々堂々と戦うと言った。 今の戦いはおしなべて卑怯と卑怯のすり合わせだ」

それからグゼはガラス瓶をいくつか投げた。ベルトランは『糸』でそれを切り裂く、だが中に入っていた液体は辺り一面に飛散し、ベルトランにもかかった。その液体は異臭がした。

「何だこれは!?」

「ガソリンだ」グゼはそう言って、拳銃を撃った。

中の火炎弾がはじけてガソリンに引火し、辺りは一瞬で業火に包まれる。勿論ベルトランはそのど真ん中にいた。

「ぐ、ぐあああああああ!」彼の体が炎の中で暴れ、動かなくなった。

そこにグゼは淡々と言ったのだ、「確かにまともにぶつかればお前が勝っただろう。 だが今の戦闘をお前は知らないのに、知ろうともしないのに、俺に勝てる訳が無いだろう?」

『ああ!』ムールムールが目を覆った。『いくら修復できるからと言っても、黒焦げの丸焼きにされるとは! これは時間がかかりますぞ!』

「消火活動並びに地雷の撤去を開始する」

シャマイムがそう言って、消防車に変形した。それにグゼは気付いて、シャマイムに向かって、

「すまない、消火だけ頼むよ。 実はエステバンから新型の地雷撤去装置が完成したからその試運転をしたいと頼まれていたんだ。 だから俺は頑張ってここをわざわざ立ち入り禁止の地雷原にしたんだ。 まあ」とそこで彼は動かないベルトランの体を見て、「その時にはこんな使い方をするなんて思ってもいなかったんだがな……」


 「……」悔しそうな顔をして、トランクから這い出てきたベルトランは、何も言わなかった。

アズチェーナが感心した顔で、「これが『死人召喚術』ですか、凄いですねえ!」

「ふふふん」ドルカスはご機嫌そうである。「どう、分かった? アンタは時代遅れだって」

「……」ベルトランは額に青筋を浮かべながらも頷いた。

「話題を転換するが」シャマイムが発言した。「ドルカス達は今後何を希望している? こちらはドルカス達をこのまま放任する事は出来ない。 何故ならこの案件に既に関係者として深く関与しているからだ」

「良いわよ、こっちもここまで立ち入ったのに、このまま放り出されるなんてゴメンだもの!」ドルカスはグゼを見てうっとりしつつ、「それに、ねえ……うふふふ」

「あれグゼどうしたの?」ニナが不審そうな顔をした。「いつものグゼだったらこの段階で逃げているのに。 女性不信の塊って言うか、もう女性恐怖症でしょ、グゼって」

「……いや、その、何だ」グゼはどう言って良いのか本当に分からないと伝えたいような、困惑気味の顔で、「女性と言うか……その、何だ……」

「……何か理由があるのね、分かった」フィオナが小さく頷いた。

そこでいきなり特務員の持つ通信端末がいっせいに鳴った。

『一大事だよ!』漏れ聞こえるくらいの大声で、レットが叫んでいる。『万魔殿過激派の馬鹿共が「帝国セントラル」の商都ジュナイナ・ガルダイアを空爆しようとしたんだ! そして「帝国」の支配者の女帝を殺そうとした! 当然「帝国」はマジ切れ、これは戦争になるよ!』

「『帝国』……」ベルトランが呟いた。「まだこの時代になってもあの国は滅びていなかったのか……」

「滅びていない所か、『帝国』はかつて人間の作った大国、いや亡国クリスタニアを事実上滅亡に追い込んだりしたんだぜ」I・Cがなれなれしくベルトランの肩に寄りかかり、「若いの。 君が死んでいた間の歴史を勉強したまえ。 きっと仰天するに違いない。 そして挙句の果てに絶望したまえ。 歴史は若いの、君を裏切った。 いや、往々にして歴史とはそう言うものなんだぜ? この世界はとことん無慈悲で残酷なんだ」

「……そんな」ベルトランは顔色がゆっくりと悪くなっていった。「そんな! 神がいるならばどうしてこんな――!」

「I・C」シャマイムが彼らを引きはがした。「ベルトランに悪影響を付与するのは即刻停止しろ。 現時点における最重要問題は女帝殺害未遂事件だ。 レット、詳しい状況の説明を」

『分かった……。 ああ、でもちょっと今は情報が錯そうしていて、正確なものは伝えられそうに無いから、もう少し情報を収集してまとめてから電子データでボスに送信するよ。 ただ、「帝国」が万魔殿過激派相手にこれ以上なく激怒しているのは事実なんだ。 それだけは知っていてくれ』

「了解した」


 かつて列強諸国の中で傑出した国があった。名前をクリスタニア王国と言った。たったの半世紀とそこらで列強諸国から世界的組織である聖教機構、万魔殿と匹敵するような大国に成り上がった、人間が人間を支配する国であった。だがこの国は空前絶後の栄華を誇ったのもつかの間、国王が交代した途端に「帝国」との戦争に手ひどく敗れ、その隙を周囲の列強諸国に付け込まれて、あっと言う間に空中分解してしまった。その後、この亡国の最盛期の繁栄は列強諸国にとっては憧れの対象となった。我こそが次なるクリスタニア王国にならんとする列強諸国の権力者達の、崇敬の対象となり目標となった。

――そして今、第二のクリスタニア王国になろうとする国が、ある。

「カルバリア共和国の動向は、今や黙視ならない」

聖教機構最高権力者『一三幹部』の一人にして、聖教機構強硬派の首領であるシーザー・エリヤが口を開いた。まるで神のようなカリスマ性と人間離れした知性、そして敵に対しては一片の慈悲をも持たぬ男であった。モニター越しですら凄まじいまでの存在感と威圧感を放っている。

『そうですわね』和平派幹部のマグダレニャンが言った。『第二のクリスタニア王国になりかねませんもの』

聖教機構は今現在真っ二つに割れていた。万魔殿と徹底抗戦を訴える強硬派と、逆に恒久的和平締結を求める和平派とが、対立しあっていた。この対立は政治問題が原因であるだけでなく、聖教機構の教義を巡ってでも食い違っていた。

一三幹部の会議は続く。強硬派幹部はモニターに映る和平派幹部を敵視していたし、敵視されていた。同じ会議室にはいられないくらいに両者は対立しているのである。

『しかし、今はまだ空爆を行う時では無いでしょう。 他の手段でけん制するべきかと』と和平派幹部が言う。

「そんな甘い事を言えるのは、やはり和平派が腰抜けだからか?」

『戦狂いの狂戦士には、やはりおつむが少々足らぬようですな』

「何だと!?」

「冷静に考えろ」シーザーが言った。「釘を刺しておかねばならぬのは確かだ。 それには恐らく我々の内の誰かとの会談が必要だろう。 一三幹部の内、誰が行くべきだろうか?」

「取りあえずヨハン殿には無理でしょうな」と強硬派幹部の一人が言うと、失笑が強硬派幹部の中で起こった。一三幹部の内、最も無力で最も無能と言われているのが和平派のヨハンだったからである。

『……』マグダレニャンの顔が冷徹なものへと変わる。彼女はそのヨハンと婚約していた。『生憎今の彼は病院にいますわ。 もしも強硬派に勇気のある方がいらっしゃらないようでしたら、私が行きますが?』

「……父親の栄光をかさに着て随分といい気になっているようだな」強硬派の誰かが侮蔑するように言った。だがマグダレニャンは平然と、

『ええ、何せその父の足元にも到底及ばない方々が強硬派には多いので』

「……」シーザーはほんの少し眉をひそめて、「ではマグダレニャン殿に行ってもらおう。 こちらはそれが失敗した場合の準備をしておく。 それで良いな?」

『あらあら、まだ会談の日取りも決まっていないのに、せわしくていらっしゃる。 ですがそれでも構いませんわ』

それで彼女が行く事になった。


 「カルバリア共和国の現大統領の支持率が一〇〇%だもんなあ」I・Cはにやにやと笑っている。「完璧に異常値だぜ。 なあお嬢様? しかしお嬢様も自ら虎口に飛び込むなんざ、救世主もびっくりの呆れた自己犠牲精神だ。 いや、売られた喧嘩はことごとく買っては叩き潰すお嬢様の性格か?」

「……これはヨハンからの頼みでもありますわ」とマグダレニャンが言った。彼女の膝の上では猫がくつろいだ様子で丸まっている。

「へえ、何でだ?」

「現在カルバリア共和国が軍事侵略している小国ビザンティの君主とヨハンは親交があるのです」

「馬鹿じゃねえの? そんなの見捨てちまえば良いだけだろうに」

「……そのビザンティには、世界でもそこの鉱山メギドからしか出土しないレアメタル『オリハルコン』があるのです。 これは非常に特殊な性質を持っていて、希少価値の高さでは宝石類よりも遥かに上なのですわ。 それをカルバリア共和国もビザンティに引き続き聖教機構和平派に気安く輸出してくれるか……となると非常に疑問でしてよ」

「あーそれか。 そう言う事情もあるか。 流石お嬢様だなー」

「私がただ感情のみで動くとでもお前は思っていたのですか?」

「いやだってお嬢様はさ、コレ」とI・Cは片手の小指を立てる。「コレに激甘じゃねえか。 猫可愛がりどころか、砂糖を蜂蜜にぶち込んだくらいに。 いやしくも『鋼鉄の乙女アイアンメイデン』のお嬢様がさ、いくら自分の婚約者だからってよ。 ……だが、お嬢様は確かに腐ってもキレてもの娘だ。 それだけは間違いないな。 あの時俺が見殺しにしなくて正解だったかもなー。 だって今度は上手く行けばカルバリア共和国を丸ごと喰えるもん」

「……貴様にとって他者の命とは所詮食物に過ぎないのですわね」

マグダレニャンは不愉快そうに言い捨てた。

「え、命って食い物以外の何なんだ?」心底びっくりしたようにI・Cが言った。


 ――ずずん、ずずんと館が震動している。攻撃を受けているのだ。守備隊が必死に防いでいるが、時間の問題だろう。脱出経路も塞がれて、逃げ場はもうどこにもない。

この館の主たる一人の幼い少女は、じっと唇を噛みしめて月光が差し込める窓からその様を見下ろしていた。

全ては彼女が操り人形となる事を拒絶したことから始まった。

聖教機構最高指導者ギー・ド・クロワズノワ、『聖王』。

彼が『BBブルーブラッド事件』――万魔殿パンテオン聖教機構ヴァルハルラが長い間続いた戦争を止めて恒久的和平を結ぼうとしたのに、会見場所にて両方の最高指導者『大帝』と『聖王』が警護の者共々消失した事件――で行方不明になった直後、聖教機構でまず起こった事は醜い後継者争いだった。その中の一派に彼の娘たる彼女を担ぎ上げて、名目だけのお人形にして、権力を貪ろうという連中がいた。彼女はそれを拒絶して、自らの足で権力者として立って見せた。少女とは思えないような手段を使って、一三人の最高幹部の一人となってみせたのである。

それを許さない連中が、何と彼女めがけて聖教機構の軍隊を差し向けたと言う訳だった。想定外の外の外、これは重大な違反行為だった。だが、文句を言う者さえを潰してしまえば後は何とでもなる。力ずくでやろうと言うのだ。

「――よう、お嬢様」

彼女のいる部屋に聖王の部下だった男が一人入ってくる。月光に照らされても逆にどす黒さが際立つ、蓬髪とよどんだ雰囲気が印象的な男だった。

「もうすぐ守備隊は潰れるぜ、そしてお前さんも捕まってぶち殺される。 馬鹿だなあ、大人しくお人形をやれば良かったのに」

男はにやりと笑った。

「俺はお前さんをとっ捕まえて連中に引き渡そうと思っている。 そうすりゃ俺は一生安楽な暮らしが出来るだろう」

「――I・C」少女は振り向きもせずに言った。「お父様から聞いた話が本当であるならば、化物たる貴方はこの絶望的状況を逆転出来るはず。 命令します、私に従いなさい」

「嫌だね。 誰がションベン臭いガキの言うことなんか聞くか。 さあとっとと大人しく捕まりな、お嬢様」

男は少女に近付いていく。

「――誰がションベン臭いガキですって?」

少女は振り返ると、誰もが怯むような凄い目で男を睨みつけた。

「私はマグダレニャン。 貴様の主です。 命令に従え、下僕!」

「――」

男は立ち止まる。驚いたような、感動したような顔で。

「どうしてそう言う目が出来る? 弱々しい人間の癖に、下らない生き物の癖に、ただのただの人間の癖に、どうしてお前の親父と同じ目をしやがる! 怖くないってか、俺が怖くないってか? お前の味方など一人もいないってのに、絶対に諦めないってか? どこまでも戦ってやるってか?」

少女は毅然と立っている。

「当たり前です、。 諦めたときに人は死ぬのですよ。 私は死なない、どこまでも生きてやる。 お父様は死んだ。 否、殺された。 だから私は絶対に死ねないのです」

「――いいだろうお嬢様、精々チビらずに見ているがいい。 俺が何故に化物と呼ばれ、恐れられるのかを!」

男はただ一人正面玄関を開けて立った。サーチライトが彼を照らす。彼の周りに倒れる死者を照らす。彼の顔に浮かんだ、歪んだ笑みを照らす。

「やあやあ兵士諸君。 上官が馬鹿なばかりにみんな死ね。 全軍俺に喰われて死ね。 ――『サタン』発動」

闇が爆発した。それは雪崩であり、濁流であり、黒い稲妻のようだった。一瞬で、何もかもが呑みこまれ、終わってしまった。

ヘリが慌てふためいて逃げていく。

「恐ろしい、そうだろう?」

いつの間にか少女の後ろには先ほどの不気味な男が立っている。男はまるで試すかのように言ったのだが、少女はむしろ退屈そうに、

「いいえ、これだけですか?」

「ぶはっ」男は吹き出した。紛れもない喜悦の表情を顔に浮かべていた。「いいな、何ていい女なんだ、気に入った! いいやお嬢様、これだけじゃあない!」

闇からは『ドラゴン』が姿を現した。それは口から光線を吐き、逃げていたヘリ達を一撃で沈める。

「化物め」少女は不愉快そうに吐き捨てた。「大食らいの怪物ベヒーモスめ」

「その通りでございますとも、お嬢様、いいやボス」

男はかしこまって、彼女の足元にひざまずいた。

「御父君にお仕えしたのと同様に、貴女に忠誠を誓います」

「……貴様は一体何なのです」

「魔王。 現在の第一次統合体名称はI・C。 偽神ヤルダバオトに謀叛しぶち殺して大天使ラブ・マラキムサタナエルから堕天して魔王サタンになった。 なあに、今じゃお前さんに仕える一匹のただの化物モンスターさ」


 「意外だな」とグゼが言った。彼ら特務員もマグダレニャンの護衛のためにカルバリア共和国へ向かう事が決まっていた。それの準備のための打ち合わせが会議室で、今、開かれていた。「俺も、てっきりカルバリア共和国が思いっきり抗議してくるだろうと思ったんだが……」

「まあ向こうだってこっちとの全面戦争は避けたいんだろう」セシルが苦笑して、「会談を積極的に受け入れた、ってのはむしろ喜ばしい事じゃあないか。 少なくとも最悪の事態にはならないさ」

「護衛で付いていくにも気が楽だよね」フー・シャーが安心した顔で、「これが敵地に乗り込むとなるとぞっとしないのだけれど」

「そうだな、会談を積極的に受け入れたんだ、会談で済む問題の内に片づけたいんだろうな、向こうも」グゼも少しはほっとしたようである。「取りあえず、昨今の急激なカルバリアの軍事拡張とそれに伴って生まれた外交問題をどうにかしてもらえば、こちらとしては嬉しい限りだ」

「ひゃーはははははははははは!」そこに奇声が響いた。和平派特務員が怯えた顔で一斉にその音源の方を向く。ドアを蹴っ飛ばすように開けて、見るからに狂科学者と言った風情の青年が、人間の生首……では無くて人間型ロボット、いわゆるアンドロイドの頭部を掴んで飛ぶようにしてやって来た。

「エステバン、どうしたんだ?」グゼだけが怯えないでいる。彼は相手が男ならば平気なのである。女が迫ってきたらなりふり構わずに逃げるのだが。「それは何だ?」

「ありがとうグゼ!」エステバンは血走った目で言った。「地雷原作ってくれてありがとうグゼ! おかげで新型の地雷撤去装置がいかに有能か分かったよ! ドカンドカンドカンとあっという間に全部爆破させてしかもそれは自動なんだ! 僕らは安全地帯からたまーに操作すれば良いんだ! ……あ、これ? これはね、ヨハン様のアンドロイドの抜け殻! ほらヨハン様って今入院しているじゃん! 定期メンテナンスを頼まれたんだ! ひゃーははははははははははは! ヨハン様は天才だ! こんなに精緻かつ大胆なプログラミングを編み出せるなんて天才だ、きゃーははははははははは!」

「取りあえず落ち着け、エステバン」とグゼは言った。

「グゼ!」エステバンはぐいと顔をグゼに近づけて、「僕が落ち着くのは死んだ後だ! さて、グゼが女性に何故に異常なくらいにモテるのか、その研究もしたいんだけれど、良いよね!?」

「……俺は本気で整形手術を考えている」グゼは一気に涙目になった。「俺は女にモテなくなりたい。 男だけの世界に行きたい。 変装もしてみたんだ、何度も何十度もしてみたんだ。 不細工になりたくて必死に頑張ったんだ。 だが俺がホームレスに変装していた時ですら何故か女が大量に俺を囲んできゃあきゃあと……」

「その原因が分かったらグゼはモテなくなる事も可能だと思うよ!」

「よし乗った」グゼは即答した。「俺は一度で良いから女に怯えずに生きたいんだ!」

「……ムカつくくらいに贅沢に聞こえるけれど、でもグゼにしてみたら地獄なんだろうね」フィオナが言った。「だって世界の総人口の約半分が女なんだし……」

「ねえグゼ、貴方を巡って女同士の刃傷沙汰でも起きたの?」ニナが訊ねると、

「あ、あはははは……」グゼは弱々しく笑って、「もっと酷い目に遭った。 刃傷沙汰で済めばどれだけ幸せだったか……」


 「何だこれは!」ベルトランは激高した。「神が二人もいるだと!?」

彼は今、聖教機構所属図書館地下三〇階の第三〇二資料室にいた。

イエス」シャマイムが彼から電子タブレットを奪い取った。ベルトランがそれを床に叩きつけようとしたからだ。「現在の教義ではそれが正統だとされている」

「唯一神がどうして二人もいなければならないんだ!」

聖典カノンは二種類に分類される。 旧約と新約だ。 これらに登場する神の性格が全く異なっているために、神は本当に唯一なのかと言う激しい論争が発生した。 更に『帝国』との戦争で敗北した教国では唯一神を信じていたのにも関わらず何故敗北したかと言う原因追及が起こった。 その結果、宗教改革が勃発する」

「宗教改革だと……!?」

「教国は旧約の神『旧き神』を信仰していたために『帝国』に敗北したと認定した。 このため新約の神『真なる神』を信じる事を正統教義とした。 そして教国は聖教機構へと変革した。 だがこれには反対者が多数存在し、現に強硬派は旧約の神を信奉するべきだと主張している」

「……無茶苦茶だ!」

「まあそうだろうな、普通はそうだ」I・Cがそこに現れた。「神が二人いる、その時点で若いのの脳みそは悲鳴を上げるだろう。 だが唯一神とて所詮は運命の手の平で踊る人形の一体に過ぎないんだ。 ところで」とI・Cはまた別の電子タブレットを引っ張り出してきた。「ヴィルヘルムって男は記憶に無いか?」

「!」ベルトランははっとした。「同僚だった!」

「検索したらソイツの日記に若いのの名前が記載されているのが見つかってなあ。 古文書だったんでちょっと電子化に時間がかかったんだが、ほら、これだ」

とI・Cは電子タブレットを差し出した。ベルトランはそれをじっと見つめていたが、その唇が噛みしめられて、それから、一言、

「そうか」と言った。

I・Cはニヤニヤしつつ、

「『戦場で行方不明』『死体は発見されず』『彼女の死により帝国との戦争で教国は敗北』……この女と若いのはどんな関係だったんだ?」

「……ただの同僚だった、ただの」とベルトランは言い切って、黙り込む。

「ふーん。 若いの、お前の死因もさぞや壮絶なんだろうな、最強だったんだろう? 大軍の敵陣に斬りこんで全滅させたが自分も死亡とか」I・Cはそこでタブレットを見て、びっくりしたように、「……え、魔女一匹ににぶっ殺された? おいおい若いの、最強だった癖に魔女一匹に敗死かよ。 どこが最強なんだ? つーか、周りも相当仰天しただろうなあ、自称最強が魔女一匹にぶっ殺されるとは。 何で若いのは最強と自ら名乗っていたんだ? もしかして単に殺した数でトップだったのか、うん?」

「……」

「最強を名乗るんだったら溶鉱炉に突き落とされても死なない肉体くらい持っていろよ、おい。 どんな病原菌にも毒にもやられない生命力くらい持っていろよ。 可哀想に若いのは若いから勘違いしちまったんだなあ、全然最強じゃない癖に……」

「……」

「俺の知っている最強の男は目玉二つを潰されてもまだ襲いかかって来たぜ? 目を失った事で逆に闘志を爆発させやがった。 それで大敵を半殺しの返り討ちにした。 それに比べて、全く駄目なんだなあ、若いのは」

「I・C、止めろ」シャマイムがそこで間に入った。「I・Cにも精神面で脆弱な点がある。 いくら肉体的に強靭であろうと、それはI・Cがベルトランを責める理由にはならない」

「黙れポンコツ!」

「確かに自分は最新の兵器では無いが、それは現在I・Cがベルトランを精神的に圧迫するのを阻止してはならない理由には該当しない。 I・C、ベルトランに対する配慮を要求する」

「嫌だ。 俺は人が苦しんでいる所を見ると物凄く楽しいんだ」

「……お前は」ベルトランがやっと口を開いた。「一体何なんだ?」

「魔王さ」I・Cは断言した。「哀れな化物だ」


 「アザレア・アナニアノス様」と閣僚が言った。「本当に聖教機構の言いなりで良いのですか?」

「否と言えば向こうにこちらを空爆させる格好の口実になってしまう」カルバリア大統領アザレア・アナニアノスはそう言って、わざとらしくため息をついた。「そして今のカルバリアの総戦力を以ってしても聖教機構との戦争には勝てない。 かつての亡国クリスタニアにいた悪魔的な戦の天才オリエル元帥でもいない限り……」

「しかし我々を不老不死にして下さった、そしてカルバリアの民の万病を癒して下さったアザレア様のご命令ならば、我らは死兵となって聖教機構に立ち向かいましょう!」別の閣僚が言った。

「……嬉しい限りだ。 だが」と大統領はわざとらしく涙ぐみ、「だからこそ私はお前達を失う訳には行かないのだよ」


 『これは……あくまでも噂なんですけれど』レットが珍しく口ごもりながら話し出した。『カルバリア共和国の民の間に、「不老不死」になれると言う流言があるみたいなんです』

「不老不死?」マグダレニャンが訊ね返すと、立体映像の青年は頷き、

『ええ。 何でも現大統領アザレア・アナニアノスには不思議な力があるみたいで、触れただけで万病を癒したり、半死人を救った、と言う話がいくつもあるんです。 そしてアザレア・アナニアノスはご存じでしょうが「ありとあらゆる病から人を救う」と言うのを公約に、大統領に当選しました。 そして事実、この男はまるでA.D.アドバンストのように不思議な力を持っていて、その力は絶大な治癒の力なんです。 大統領官邸には国中から集まった病人や怪我人が横たわっていて、彼らは治療を受けた後は自分の足でスキップしながら帰っていく、らしいんです』

A.D.とはいわゆる超能力者の事である。人間でありながら不思議な力を持っていると言われ、かつては聖人や預言者と呼ばれた。

「……いくら今の医療技術が進歩しているからとは言え、そんな事が可能だとは思えませんが……」

『同感ですよ。 でも、それが長じて、「不老不死」の噂が流れたようなんです。 ……国民はまるで洗脳されたかのようにアザレア・アナニアノスを信仰しています。 じゃない、なんです。 どうもこうも、何か不気味で……』

「……分かりました。 どうやら怪しい何かが背後にある模様、警戒を解かずに行きますわ」


 物理的にも精神的にも酷い目に遭った上に、I・Cが彼の墓場まで見つけて、面白半分でそこへ連れて行かれた後、帰ってきたベルトランはひたすらぼう然としていた。今の彼は時代差ジェネレーションギャップに打ちのめされて、打ちひしがれていた。彼は大昔に死んだはずなのに、終わったはずなのに、それが無理やりにこの今になって再開されたのだ。何もかもが受け入れがたく、何もかもが絶対的である『かつて』と『今』の格差に彼は圧倒されていた。

(――僕をどうして死んだままにしておいてくれなかったんだ!)

その理不尽さに、彼はただやるせない気持ちを抱いている。

その時、だった。紅茶の甘くて優雅な香りがした。そちらに目をやると、シャマイムが紅茶が入ったカップを彼の方へ運んできていた。

「……?」

「温度が高いため注意を要求する」とシャマイムは彼に紅茶のカップを渡した。

「……いや、僕は死人だから、飲食なんか必要無いんだ……と僕を召喚した悪魔が言っていた」

「精神面での鎮静化が期待される。 ベルトランは復活してより安静とは程遠い精神状態だったと推測される。 休憩が必要だ」

「……」

そう言えば、とベルトランは思い出した。誰も彼もがシャマイムには笑顔もしくは好意的な顔を向けていた。その理由が、分かった気がした。

「いただくよ」

ベルトランは紅茶を飲んだ。そこへグゼが通りがかった。

「あ」とグゼがはっとした顔で言った。「ベルトラン、貴方の生前の知り合いにヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン大公がいらっしゃったとか。 それは本当なのか?」

「大公?」ベルトランは一瞬戸惑ったが、「……そうか、アイツは出世したんだな。 いたよ。 同僚だった」

「……そのご子孫が今でも脈々と生きている。 今は入院中だが。 これからボスがそのお見舞いに行くのに同行するんだが、一緒に行くか?」

「……何で入院しているんだ? アイツは入院するようなやわな男じゃなかった」

グゼはちょっと困った顔をして、

「……まあ、会えば分かるさ」

その童顔でひょろひょろの青年は、電子タブレットに何か打ち込んでいたが、婚約者が病室に入って来たのを見て、気の弱そうな笑顔を浮かべる。彼の側にはメイド・ロボット――アンドロイドがいて、彼女はうやうやしくマグダレニャンに向けて一礼した。

「あ、ま、マグダ! し、手術が上手く行って、予定よりもは、早く、ら、来週には退院できそうなんだ」と青年は言った。

「それは良かったですわね」マグダレニャンが珍しく優しい笑みを浮かべる。「お見舞いに来たかいがありましたわ、ヨハン」

「そ、それで……」とヨハンは言いかけて、ベルトランを見つけた。「あ、あれ? 新人さん?」

「……」ベルトランは絶句している。声が出ないのだ。彼の知るヴィルヘルムとこの青年は、血の繋がりが一切無いと断言しても不自然ではないほどに、かけ離れていたから。「……ま、まさか、君が、ヴィルヘルム……?」

「……え、ええ、は、はい。 ぼ、僕が、ヨハン・ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン一三世です」

「ふざけ……い、いえ、何でもありません」ベルトランは辛うじて踏みとどまった。シャマイムが実に絶妙なタイミングで彼の腕を後ろから引いたからだ。「私はベルトランと言います。 どうぞよろしくお見知りおきを」

「は、はい!」ヨハンは元気に頷いた。それから許婚のマグダレニャンを見て、

「ご、ごめんね、ゲルヒルデから聞いたよ、ま、まさか、マグダがカルバリアに行く事になるなんて……」

「いえいえ」にこやかに彼女は笑い、「こらゲルヒルデ、私よりもヨハンの体調を優先しなさいな。 もしもヨハンが私の事で気を病んで回復に支障が出たらどうするのです」

命令気味に言った事は言ったのだけれど、その声にはいつもの威圧的なものはなく、代わりにまるで姉妹にかけるような親しさがあった。

「大変失礼いたしました、マグダレニャン様」

メイド・ロボットがそう言って頭を下げた。ヨハンが慌てて、

「ううん、僕がね、せ、せっついたんだ、レオニノスの事が心配で……」

「ええ。 ビザンティの国王レオニノス君も、きっと私が行けば助かるでしょう。 ヨハンは何の心配もしなくて大丈夫ですわよ」

「……そ、それでも、と、と、友達だから心配なんだ」

「ヨハンは本当に優しいですわね」マグダはご機嫌で言った。

「と、ところで」ヨハンがやや怯えた様子で、「え、エステバンがね、人工知能搭載新型兵器を作りたいから、『ヴァルキュリーズ』を貸してくれって……」

それはヨハンが制作した、人口知性を所持するメイド型アンドロイド達の事だった。ゲルヒルデもその一体だ。

「あら」マグダの脳裏にあのマッドサイエンティストの顔が浮かんだ。「ヨハンが嫌でしたら私の方から断っておきますわよ?」

「それが……そ、それが……み、みんな、『強くなりたい』って……ブリュンヒルデなんか土下座して……ぼ、僕、どうしよう」

「あら……。 どうして強くなりたいと思ったのです、ゲルヒルデ?」

マグダが訊ねるとメイド・ロボットは、

「マスターをお守りしたいからです。 どんな敵からも脅威からも、全力でお守りしたいのです。 アルビオン連続テロによりヨハン様が害された時、私達ヴァルキュリーズは何も出来ませんでした。 このような思いは二度としたくないのです。 これは私達の共通意志です。 ですから……」

「……と、友達でいてくれるだけで、い、良いのに」ヨハンが言うと、

「大事な友達だからこそお守りしたい、と思ってはいけない事でしょうか」

沈黙が、一瞬立ち止まった。

「ヨハンの負けですわね」マグダがそう言って、ゲルヒルデを優しい目で見た。「強くなりたい、強くあらねば、この世界では愛する者を守る事すら出来ない。 破壊のための強化では無く、ただ一途な意志による強化への悲願です。 ……ちょっと妬けますわねえ、うふふふふ」


 「帝国セントラル」は大荒れに荒れていた。

この魔族が総べる一大国家の唯一絶対君主を「女帝」と呼ぶ。その女帝が万魔殿過激派により暗殺されかけたのだ。辛うじて彼女は無事だったが、彼女を守ろうとした廷臣達が何人も亡くなった。帝国は基本的に聖教機構と万魔殿の争いには介入しようとせず、また、それほど好戦的な国でも無かった。だが一度この国を徹底的に怒らせておいて、無事であった国も、歴史上一つとして存在してはいない。だが、彼女を暗殺しようとした謀叛者の貴族達――帝国では魔族が貴族なのだ――が大量に過激派へ転身したため、軍事機密なども相当量が過激派に流れ込んでいた。そのため、即座に開戦する、と言う事が出来なかったのである。

「我らが故郷、我らが同朋、我らが現人神を裏切った上に弑逆しようなどと謀った人非人に報いを与えずして、ただ黙っていられる者がこの場にいるか!」

帝国の政治中枢を司る枢密司達の一人、帝宮近衛部隊を率いる将軍の熱血漢レミギウスが怒鳴ると、帝国全土の貴族や、選ばれた平民が立体映像の形などで集っている、非常に巨大な半円形の議場から、次々にそうだそうだとの賛同の声がうねりのように上がった。それはもはや怒号に近く、議場を揺るがさんばかりであった。

「落ち着くのです、レミギウス殿。 すぐにでも過激派を殲滅したいのは誰とて同じ。 ですが、今真っ先に必要なのは我らが帝国の軍制改革です。 女帝陛下を殺されかけた上に敗戦などと言う結果がもたらされたが最後、彼奴らをほくそ笑ませるだけですわ」枢密司主席のユナが、まだ痛々しくも体に包帯を巻いて、車いすに乗りながら、けれどはっきりとした声で言った。

「……それにしても我らはあまりにも多く喪った。 痛手が多すぎた。 悔しいが、彼奴らに良いようにもてあそばれたも同然だ……。 だからこそ、何としてでも奪還せねばならぬ。 我らが信念と忠義にかけて! 我らの誇りを!」新たに蔵相となった枢密司のエレメンティアラが断言すると、議場はまたそうだそうだと言う声で溢れた。

『……で、その軍制の改革は具体的にどうやるんだ?』そこに、立体映像で現れた、どこかニヒリスティックな雰囲気の青年が言った。立体映像を投映している機器には、「ジュナイナ・ガルダイア」と刻印されている。『感情だけで突っ走って、連中に掘られた落とし穴に落ちたら本当に馬鹿ってものだぜ? それとも平和ボケしすぎて「軍の強さは兵卒の意志の強さだー!」なんて言い出し始めたのかい? そいつはちょっと、あまりにも阿呆だぜ?』

「セルゲイ、貴様、場をわきまえよ!」

レミギウスが怒鳴ったが、青年は平然と、

『大体どうして連中が裏切ったか、アンタらはもう忘れたとでも言うのかい? 連中は、「同じ魔族なのにお前達は万魔殿過激派とは違って食っちゃ寝で平和ボケしているが、本当にそれで良いのか?」とに洗脳されて裏切ったんだ。 だから今、最も必要なのは、今の帝国の在り様そのものを変える事、でなければまた裏切り者が出るさ。 その裏切り者の動機は今度はワイロかも知れないがな』

「……商都ジュナイナ・ガルダイアの連中は、金儲けばかり考えていて、どうも我ら帝都シャングリラの者とは意見が違うようだ」

エレメンティアラが辛辣に言ったが、青年はけろりと、

『ああ。 帝都の諸君はボンボン揃い、良くも悪くも金の恐ろしさとありがたみを分かっていないからな。 それよりもユナ大姉様、今後はどう言う方針で行くんだい?』

「今や、開戦しないと我々貴族が言えば平民が暴動を起こしかねない有様です。 既に陛下を裏切り国外逃亡した貴族の館を平民が焼打ちにしたと言う事件も発生しています。 必ず開戦はします。 ですがそのための準備にしばらくかかる、そして戦後処理の用意もしなければなりません。 今は、歯を食いしばって耐える時です」

『なるほど。 そう言う事ならこちらも――ジュナイナ・ガルダイアも精々情報と資金を集めて提供するよう全力で動こう』

その議場に、血相を変えた平民の官僚が一人駆け込んできた。

「大変でございます!」

「どうした、騒がしいぞ!」

レミギウスが自分の事は忘れて言うと、官僚は叫んだ。

「つい先ほど、万魔殿穏健派が過激派に最後通牒を叩き付けました、開戦も辞さないとの構えです! つきましては我らが帝国と戦略同盟を組みたいとの事! 数日中に使者がやって来るとの話です! いかがいたしましょう!?」

『一番良い手は、この穏健派からの過激派への戦争を、俺達帝国が全面支援する方法だな』青年が言った。『穏健派を帝国が全面支援すれば、こちらが損失を出す恐れも無く、かつ確実に過激派と戦える』

「そんな卑怯な手を――」と誰かが言いかけたが、青年が一言、

『卑怯も何も代理戦争をやると向こうから言い出してくれたも同じなんだ、利用するなって方がおかしいだろう?』

議場が大きくざわめいた。しかし、その時、議場の最深部の御簾の向こうに気配がして、ざわめきは静まってしまった。

「女帝、陛下……!」

「女帝陛下があそばされた!」

彼らの支配者である生神が、現臨したのだ。

「……セルゲイ」と女の声が青年の名を御簾の向こうから呼んだ。「そのやり方は、正しいとも言えませんが、間違っているともいえません」

『……』

「ですが当面は代理戦争、と言う事になるでしょう。 軍制改革が終わり次第、我らも援軍を出さねば、全て彼奴らの計画通りになってしまう」

『計画通り……? 何の計画ですか、陛下?』セルゲイが訊ねると、

「……今は、まだおしえられません。 ですが、いずれは……」

そして、御簾の向こうの気配は消え去った。

「……どうやら我らの方針は決まったようです」ユナがその御簾を見つめて言った。「急ぎ、動きましょう」


 「穏健派が過激派相手にキレた、と言うかキレざるを得なかったのには流石に同情するな」マグダレニャンのカルバリア共和国訪問が近づく中、和平派特務員達は情報を共有するべく何度も会議を開いていた。グゼがシャマイムの淹れてくれた紅茶を飲んで言う。「キレなければ最悪過激派の巻き添えで『帝国』にやられるかも知れない。 万魔殿の過激派だろうと穏健派だろうと、帝国にとっては万魔殿である事に違いは無い。 万魔殿を残すためには過激派と全面戦争をするしか、もう手段が無いんだろうな……」

「けれどぶっちゃけラッキーだよね」ニナがスコーンをかじりつつ言う。「こっちとしてはさ」

「だな。 もしかしたらこの何百年と続いたウチと万魔殿の戦争も、ウチが勝った形で終わるかも知れない。 お互いに潰しあいをしているその間にウチが全力で攻めれば……」そう言うセシルは蜂蜜を紅茶に入れている。

「……それでようやく戦争の無い世界、それが到来するのかな……」フィオナはスプーンで紅茶とミルクを混ぜている。

「だがな、もう国際軍事企業がそれじゃ黙ってはいないぜ?」I・Cだけが酒をあおっていた。「戦争が続かなきゃもう困るんだ、ヤツらの飯の種が無くなっちまう。 沢山沢山人が死んで、沢山沢山人が泣き喚く。 それは確かに悪の元凶だ、他者を害する悪そのものだ、だが、生きるには悪だって必要なんだぜ」

「「……」」誰もが不快そうな顔でI・Cを見る。

「戦争はな、否、殺人はな」それを全く気にせず、I・Cは心底面白そうに言う。「人類が誕生してから今まで延々と続いてきた。 救世主が来ようが神が殺人を禁止しようが誰にも止められなかった。 救世主本人にはその気は無かったが、ヤツの弟子達がヤツの教えを曲解して伝播したモンだからもう大変、救世主は大量殺人鬼よりも大勢の人間を間接的に殺す羽目になった。 人間に救いようなど何もありゃしねえのさ。 人間は人間を殺す、それは永遠に続く。

……かつて異教の神々がいた時代は無意味な殺人は嫌われた。 何故なら異教の神々は豊穣を愛したからだ。 豊かな事は素晴らしい。 富める事はありがたい。 増えよ、地の果てまで満ちよ。 何故ならそれらは生きる事に輝きを持たせるからだ。 何が清貧だクソ食らえ、そんなものは手の届かぬブドウを酸っぱいととけなす狐の言い訳だ。 自分達が貧民だから富豪を、富豪のその財産を妬んだだけだ。 豊穣には犠牲が付きもの、死ぬ一粒の種があってこその垂れる黄金の穂だ。 それをヤツらは分かっていた。 だから生きる事は高貴な事だった。 一つの命が死ぬ事は数多の命を招来する事だった。 だが、今、この時代の、この世界の、どこに一体高貴さがある? どこに無意味でない死がある? どこにも何も無いじゃねえか、うん?」

「……I・Cと付き合っていると気分が悪くなるよ」フー・シャーがぼそりと言った。

『大変だ!』とそこにレットが立体映像で現れる。『行方不明事件についてとんでもない情報が出てきたよ!』

「情報の詳細な説明を要求する、レット」シャマイムが訊ねると、

『カルバリアだ!』とレットは言った。『行方不明者が最後に目撃されたのは、カルバリア共和国内もしくはその周辺なんだ!』

「「!」」誰もがぎょっとした。今一番きな臭い国が、また出てきたのだ。

『……ちなみにこの情報をどこの誰から手に入れたと思う?』

レットは深呼吸をしてから、口に出した。

「……誰からだい?」フー・シャーが言った。

『ウトガルド島王を殺しに来た「デュナミス」の暗殺者からさ』

和平派特務員の内、I・Cを除く全員が目を見張った。デュナミスとは世界最悪と呼ばれる暗殺組織である。殺害方法が残酷かつ過虐で、周辺への被害を一切考慮しないため、テロリスト扱いを受けており、非常に危険視されていた。ウトガルト島王とは享楽と快楽の人工島ウトガルトの王であり、レットの主かつ世界経済の一角を担う人物でもあった。その彼が「デュナミス」の襲撃に遭ったのだ。

「……何でデュナミスが行方不明事件について知っているんだ……?」

セシルが、誰もの胸に抱かれた疑問と不安を代弁するかのように、呟いた。

「面白くなってきたなあ」I・Cだけがにやにやしている。「これは楽しめそうだ」


 「ラファエル様」レスタトは言う。「ラファエル様。 『赤ずきんと狼』では少々荷が重すぎではありませんか? 相手はかつての最強の大天使なのでしょう? 『幻覚立体化ゴースト・ロスト』の力しか持たない彼では……」

「良いのですよ」その男は微笑んだ。とても優しいのにとても残忍な微笑だった。「データは取れます。 そしてそのデータはお前達を完成させるのに役立ちます。 ヤツには並大抵の物理攻撃は無意味です。 ですが精神……となるとヤツは完璧では無い。 それは私が良く知っています。 まあ、それを知った時にはまさかヤツが裏切るとは私は夢にも思っていませんでしたが……」

「ラファエル様はヤツに触れた事があるとおっしゃっていましたが、どうして裏切るとその時には分からなかったのでしょうか?」

「情報量」男は忌々しそうに言った。「ヤツの内包する情報量はとてつもない量なのです。 とても私では触れた一瞬で認識し記憶する事は出来なかった。 我らが唯一絶対神がいなければ、私はヤツの莫大な情報量に押しつぶされて発狂さえしていた。 ですから、私はこうやって間接的にデータを取る事でしかヤツを打倒する方法を探れないのですよ」

「なるほど……そうでしたか。 ですがラファエル様、貴方様は私を、私達『デュナミス・エンジェルズ』を創って下さった。 私や私達の可能性でヤツを破滅させる事は出来ませんか?」

「まだまだ」男は首を振った。「まだまだです。 ヤツは『認識したものを捕食し支配下に置き使役する』事が出来る。 私が『触れたものを認識し回復できる』ように。 そしてヤツが食べたもの、食べてしまったものの中で最も脅威であるのは、『神体』です」

「……」

「それに……『器』の再建も急がねばならない。 ガブリエルとていつまでも『断片』を保持できる訳ではありませんからね。 しかしこの数千年をかけても適合体は未だ見つからない……いえ」男は少し黙ってから、「あれならば成功するかも知れない。 『カマエル・シリーズ』ならば。 あれを完成させるためにもとにかくデータが必要なのです。 ですから――」

そこで男は振り返った。その視線の先には平凡な顔立ちの青年がいる。けれど青年が手からぶら下げているのは血にまみれた長い消化器官だった。

「おや、『赤ずきんと狼』、食べ残すとははしたないですね」男が言った。

「『サンドリヨン』も『シンドバッド』も『白雪姫』も『ヘンゼルとグレーテル』も『美女と野獣』も、他のみんなも、みんなみんな食べ飽きちゃったんです。 やっぱり食べるより殺していく方が面白いじゃないですか。 ね、『』?」

青年はそう言って、はらわたをぽいと投げ捨てた。

男はまるで小さい子供を叱るように、「こら、贅沢を言ってはいけませんよ」

「はーい」と青年はちょっとしょげた様子で言った。「ところでドクター、『魔女の女神アラディア』の様子がちょっとおかしいんです。 僕の記憶を共有させたら、何かおかしくなっちゃったんです。 機器がピーピーとうるさく鳴っています」

男は眼鏡を光らせ、血まみれの白衣を翻した。その背中には青い翼が生えている。

「それを先に言いなさい! すぐに行きます!」


 強硬派より特使が送られてきた。カルバリア共和国との会談が決裂した場合の強硬派の対応を公的に伝達しに来た使者だった。

「うるさいのが来た」とI・Cは小声で言った。「イノシシ武者のご登場だ」

使者の一人は、金色の髪を後ろで束ねた、見るからに精強そうな鎧姿の男だった。名前をイリヤ・シードロヴィチ・ツァレンコと言う。強硬派特務員の筆頭格であった。別名を『護教者ガーディアン』と言う。熱烈な聖教機構強硬派教義の信者であり、己の信仰のためならばたとえ相手が何であろうと戦う。

この男は見慣れていたのだが、もう一人の使者を見たI・Cはぎょっとして、

「シャマイム?」と言った。

それはとてもシャマイムに似ていた、と言うのもシャマイムの外見を模倣して制作されたからだ。けれどシャマイムは笑ったりしないのに、この使者は明らかな微笑みを浮かべている。

「シャマイムか?」

「シャマイムだ……少なくとも見た目は」

和平派特務員達がひそひそと噂しあった。

「あらあら皆様勘違いしていらっしゃる」それで使者は喋った。「私はシェオル、強硬派所有の最新型精神感応兵器ですわよ。 こんにちは、お初にお目にかかりますわね、シャマイムお兄様」

「……」シャマイムは黙っている。

「シェオル……あれが噂の試験機プロトタイプか」誰かが怯えたような目を向けた。「ダルマティア戦線を崩壊させた……」

ダルマティア戦線とは、聖教機構強硬派と万魔殿過激派が激突していた戦場の一つだった。だが聖教機構と万魔殿の戦争の御多分に漏れずその戦況はこう着していた。それを一瞬で崩壊させたのが、このシェオルだった。

肉体には一切の傷は無く、だが、その精神を再起不能なまでに破壊された過激派の局地的敗北が決まったのだ。

まるであれは人間では無くてサルのようだった、と誰かが言った。目が、目がもう人間のものじゃなかった。一思いに殺してやった方がどれだけ幸せかと思ったよ。あれは通常の虐殺の方が優しいとすら思わせた。だって、それならばまだ人のまま死ねるじゃないか。人として死ねるじゃないか。人の心を持って死ねる事がどれほどの幸せか、思い知らされたよ。

――その生き地獄を生み出した張本人が、今、和平派特務員達の目の前にいるのである。

「シェオル! この愚者共と会話すると馬鹿が移る! 任務を遂行し次第すぐに帰るぞ! 少しだけ待っていろ!」イリヤがやたら!の付く激しい口調で言って、マグダレニャンの秘書ランドルフに書類を渡しに行った。

「はーい」とシェオルは頷いたが、イリヤがいなくなった途端にシャマイムに興味津々と言った顔で近づいてきた。「うわあ本当に私にそっくり!」

「……」シャマイムは沈黙を貫いている。

「お喋りはお嫌いなようね。 私のお兄様だと言うのにつれなくていらっしゃる」

「「……」」シャマイムはそもそも相手を『殺してやった方が幸せ』なんて目には絶対に遭わせない、と和平派の誰もが同じ事を思った。なのに何が兄妹だ。

「きゃはははははは」シェオルは笑って、シャマイムにだけ聞こえるよう、囁いた。「お兄様にだけ特別に教えて差し上げますわ、私の本名は――『ハニエル』と言うのですよ」

「……」シャマイムは喋ろうとしない。

シェオルは気が済んだのかシャマイムから離れた。

そこにイリヤが戻ってきた。

「帰るぞ!」

「はーい」

それで特使は帰っていった。

「……シャマイム二号が出て来るなんてな」グゼが怯えた様子でいる。「俺はどうもあれは駄目だ、とても怖い。 シャマイムの外見だから、余計に。 俺はああ言うのがもう怖くてたまらない」

「あー。 露骨に女言葉だったもんなあ……」セシルがグゼの肩をぽんと叩いた。「ま、近づかなければ良いんだ、気に病むなよ、グゼ」

「……」シャマイムがあまりにも黙っているので、変に思ったニナが言った。

「どうしたの? 大丈夫? 何かされたの?」

「否。 ……だが一瞬謎の光景が記憶回路を埋め尽くした。 自分にはメンテナンスが必要だと判断する」

それは、西日が差しこむ安いアパートの一室の光景だった。

「……きっと自分そっくりなのに会ったからびっくりしたんだよ」フィオナが言う。「そうだね、メンテナンス行っておいで、シャマイム」


 カルバリア共和国をマグダレニャンが訪問する前日になった。空中戦艦三隻、旗艦アニケトゥス、随伴護衛艦カイサス・アバイルスが連れ立って、優雅に空を飛びながらカルバリア共和国へと出立する、その仕度が間もなく終わろうとしていた。

その頃I・Cは人が大勢入り乱れる駅前のベンチでぼうっとしながら飲酒している。その隣ではシャマイムが彼を引きずってでも飛行場に連れて行こうとしているのだが、I・Cは根が生えたように動こうとしない。

「I・C、間もなくボスの出立準備が終わる。 それまでに飛行場に集結しろとの命令だ」

「やだ。 面倒臭え」

「ボスからの命令に違反する事は看過不能だ」

「ぶっ壊すぞポンコツ!」

「自分は兵器だ。 ボスの判断を仰がずにI・Cの一存で破壊する事は出来ない」

「うぜえうぜえうぜえ!」I・Cは酒瓶でシャマイムを殴った。酒瓶が砕け散る。人間が相手ならば立派な傷害であったが、相手はシャマイムだった。

「……」それでもシャマイムはI・Cを引きずろうと努力している。

「――」頑強にそれに抵抗しつつ、I・Cはある光景を思い浮かべている。


 『愛せ。 運命を愛せ。 死を愛せ。 生を愛せ。 己を愛すように他人をも愛せ。 愛だけがこの世界を救うのだ……と我らがラボニはおっしゃった。 けれど』イスカリオテのシモンの子ユダは泣き出しそうな笑顔で言った。『我らが師を裏切った私を、どうして愛する事が出来よう?』

『知るか。 ああーアイツが死んで清々した! 死んで終わりだ、二度目は無い』

(俺は笑う。 げたげた笑う。 使命を果たせたのだ。 気に食わないヤツが死んだのだ。 これが笑わなくてどうしよう? なのにコイツと来たら)

『サタナエル……いや、お前の所為では無いのだ、全て私の所為だ。 私は何の罪も無い人を告発した。 銀貨三〇枚……私は、愛を金で売った……あの人は、あの人は、あの人だけが世界を救えたのに』

ユダは声も無く泣いた。

(俺は呆れて言う)

『バーカ! 世界を救うのは我らが唯一絶対神だ! あんな偽預言者じゃねえ!』

『いいや。 私はようやく分かった、あの人しかいないと。 いなかったのだと』ユダは泣きやみ、決意を秘めた目で言葉を続けた。『……私は死んで地獄に堕ちよう、あの人を愛していたのに裏切った罰として』

『何だ、お前も死ぬのか。 つまらんな』

(でももうコイツにゃ用無しだ。 別に死のうが生きようが関係ない。 地獄に堕ちてもどうでも良い。 俺はコイツから離れた)

『ああ、つまらないとも。 私の人生はつまらないものだった。 否、呪わしいものだった。 ……犯さねば生きられぬ。 命は犯させて生かす。 生かされて賑やかに。 殺されてよみがえる。 でも私は違った。 あの人を裏切ってしまったのだから……さあ』

ユダは手にしていた荒縄をぎゅうっと握りなおす。

『あの人に私は二度とは会えないだろう。 それで良い。 私は永遠に怨まれる存在になろう。 誰もが私の骸を踏みにじりむち打ち唾棄するだろう。 私の名は裏切り者の代名詞となるだろう。 それで良い、それで良いんだ』ユダは血の涙を流して叫んだ。『でも、それでも、私はあの人を愛していた!』


 『ギャハ、ギャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ! 何が真なる神アイオーンの子だ、ただの下らない無力な人間じゃないか! 真なる神の子だったら自分をそこから救って見せろ、お父様とやらに自分を救うよう懇願して見せろ! ほらほらほらほらほらほらほらほら! 救世主ソーテールだったらやって見せろ!』

『私は、自分の運命をも甘受する。 神を試してはならない』

『何をほざいている馬鹿野郎めが! 結局貴様は無力だったと言う事だ! ギャハハハハハハハハハハハハハハハハ、惨めだなまるで虫けらのようだ! 何が奇跡だ、何が真なる神だ! 我らが唯一絶対神の方が強い! 我らが唯一絶対神に土下座するんだ、「悪い事をしました赦して下さい」と! そうすれば寛大な我らが唯一絶対神の事だ、もしかしたら貴様を赦して下さるかも知れないぞ!』

『サタナエルよ。 ……真なる神は全てを赦すのだ、アガペーゆえに。 偽神は愛を知らない哀れな神だ。 私は彼をも救いたかった……』

『何が救うだ、偉そうに! 貴様は今ここで死に果てて、それでお終いだ!』

『……私は死なない。 肉の体を再びまとう日がやって来るだろう。 私は今死ぬが、復活する……そしていつか天国と共に再来する。 約束するよ、サタナエル』

『そんな約束反古にして肥溜めにぶち込んでやる! ギャハハハハハハ、死ぬ前に錯乱したんだな可哀相に!』

『いいや、私は正気だよ。 私は私の信仰のために今は死のう。 ――父よ! 私の魂を貴方の御手に委ねます! そうあれかしアーメン!』


 ……全部アイツが悪いんだ。

俺が殺させて、ちゃんと死んだのに復活した。おまけに俺に爆弾発言をした。

『私は君をも愛している』

俺は認識していないものは食えない。愛が認識できない限り、俺はそれを食えない。でも神様なら教えてくれるはずだ。唯一絶対の神様なのだから、きっと愛を教えてくれるはずだ。そうすればこの不安のような得体の知れない感情を俺は消化できる。そうすれば俺はこの恐怖から逃れられるに違いない。恐怖?そうだ、恐怖だ。むごく自分を殺した相手に『愛している』なんて言い放ったキチガイと、その発言が怖くなくて何だ。

そんな哀れで惨めな俺を神様は助けて下さる。そう信じた。信じていた。

なのに、神様は、

『そんな下らないもの、知った事か』

唯一絶対の神様なのに愛を知らない?

そして俺に、大天使の中でも一番可愛がっている俺なのに、教える事をも拒んだ?

哀れで惨めな俺を、俺の悩みを下らないものと言った?

俺は、俺の中で今まで信じていたものが一瞬で瓦解するのを悟った。

ああ。

アイツの言った事は正しかった。コイツは偽神だから、不完全な存在なのだ。不完全な存在を、もはや俺は唯一絶対神とは呼べない。崇められない。神は完全であるはずなのだから、そうだ、コイツはもう神じゃない。

神を信じているがゆえに、神に叛逆する。

それが俺の一世一代の大叛逆のきっかけであり動機であり理由だった。


 「I・C」シャマイムはとうとう強硬手段に出た。ベンチごとI・Cを引きずり始めたのだった。「遅刻はボスが最も好まれない勤務態度の一つだ」

「どーでも良い」I・Cは言う。「本当、俺は、どーでも良いんだ。 ……なあシャマイム。 噴火口や溶鉱炉や冬の海や地雷原や焼却炉や原子炉やありとあらゆる死ねそうな場所に身を投じても、死ねないってどう思う?」

「?」

「例えばの話だ。 お前が不老不死になったとする。 お前はどうする?」

「自分は聖教機構和平派所有兵器のため、稼動な限り任務を遂行し続ける」

「本音を言え。 ……お前、時々感情が不安定になるんだっけな。 どうしてそうなったと思う? その感情をどうしたいと思う?」

「不用物だと判断し削除を要請する」

「本当にそうか? 不老不死になったら、お前は不安定な感情のままに暴走したいんじゃないのか? 

「……」

「不老不死ってのになると、目的が無くなるんだ。 誰かから目的を与えられないと何も出来なくなる。 生物に備わっていた生存本能がまともに機能しなくなるからな。 目的の源泉である欲望が無くなるんだ。 そして何もかもがどうでも良くなる。 だが発狂する事も許されない。 不老不死だからな。 だから目的をくれる何かに、目的そのものに非常に固執するようになる。 だが不老でも不死でも無いお前の場合も、目的はあるだろう? 俺を殺すと言う」

「……I・Cは自分を時々雑念ノイズが邪魔する理由を知っているのか?」

「うん、全部俺の所為。 俺達の犯した罪過の中でも屈指に最悪な代物だ」

「『俺達』?」

「俺は所詮は第一次統合体だからな。 俺の本体と俺とが合体しているんだ。 人の顔がその人物が誰か判断する時に一番視覚的に優先されて見られるように、俺の場合は俺が俺達の顔になっている。 それだけだ」

「I・C」シャマイムは言った。いつもの機械音声で言った。「I・Cは自分に何をした?」

「……俺は、お前を、」とI・Cが言いかけた時だった。I・Cの眼から正気が失われて、彼は大声で叫びながら人ごみの中に飛び込んだ。「――ヘレナ!!!!!!!」

「I・C!?」

シャマイムは彼を引き留めようとしたが、彼はあっという間に人の海の間に消えてしまった。


 「……I・Cが、とうとう……」マグダレニャンはそう呟いて少し考えていたが、「シャマイム、改造したI・Cの通信端末にも発信器が付いていたはずです。 彼の現在位置は分かりますか?」

『……計測開始……』シャマイムはすぐに、『I・Cと思しき反応がアルタ街道近辺をカルバリア共和国方面へ高速移動中……』

「またカルバリアですか……」既に彼女達一行は空中戦艦の中にいた。

「マグダ様」秘書のランドルフが困った顔をして、「いかがいたしましょうか?」

会談が取りやめもしくは失敗した場合は、強硬派は例のごとく無差別爆撃を決行すると言っている。

「I・C追跡班に追跡させましょう。 カルバリアは危険地帯、I・Cがどうしても必要ですわ」

 ――ベルトラン達とシャマイムが、別途カルバリア共和国へ向かう事となった。

 「ムールムールちゃん、どうだった?」ドルカスは訊ねた。

『……駄目でしたぞドルカス』悪魔はしょげている。『あの方の匂いは所々でしたものの、あの方本人はどこにも……ただ、カルバリア共和国首都カルバリーに向かっている事だけはどうやら確かですぞ』

「カルバリーの、どこが目標地点だ?」彼らを乗せた大型車を運転しつつ、シャマイムは発言する。

『さあ……全然ですぞ』

「アイツは精神的におかしいんじゃないのか」ベルトランが言った。「少なくとも常人の神経をしていない、と僕は思う。 おいムールムール、アイツはいつからああだった」

『ちゃん付けしてくれですぞ! ……初めて出会った頃は残虐無比の殺戮者、次に出会った頃はまるで哀れな童のよう……その次に会った時は、ええと、そうですぞ、何だか惨めな老人のように絶望と諦念を背負っていたですぞ! ……今の方が超情状不安定のようですが、その理由は不明ですな』

「……それでアイツは何者なんだ。 魔王だとか自分では言っていたが」

ムールムールはぶるりと震えた。『……神喰らい。 国喰らい。 命に絶望をもたらす者。 災厄の招来者。 魔神女神殺し。 この世の何よりも恐ろしい存在ですぞ。 偽神のためならぬ者は喰い殺し、偽神に抗う者は喰い殺し、偽神の命令ならば世界をも悦んで滅ぼそうとした……今ではただの魔王ですが、そうなったのが「奇跡」なんですぞ』

「……良く分からないが化物と言う事だな」

『化物』ムールムールは何度も頷いた。『うんうん、それでいてくれる事がワタシらにとって一番ですぞ。 化物なら人間や魔族でも倒せるですからな。 ……しかしあの方はついに精神を病んだのやも知れませんな。 何しろ気の遠くなるような年月を、異界ゲヘナにも帰らずこの世界をさ迷っていたと……』

「異界? 何だそれは」

『端的に申しますと女帝の作成なさった、まあ地獄に対抗した冥府ですな。 ザ・女帝‘sワールドですぞ。 悪魔が大勢いる中々面白い場所ですぞ。 地獄は死人を責めさいなみ苦しめますが、異界では死人がのんびりと会話しているのですぞ。 まあ、ベルちゃんのような異界にも地獄にも逝けなかった魂は境界線でうろうろしておりまして、そいつをとっ捕まえて召喚するのがワタシの能力でしてな』

「ちゃん付けするな!」

腹を立てたベルトランに、言い含めるようにドルカスが言う、

「無駄よ。 ムールムールちゃんは乙女趣味だから、やたら人をちゃん付けしたがるのよ」

「だったら貴様やI・Cはどうしてちゃん付けされていない!?」

「ヒ☆ミ☆ツ☆」

更に怒ろうとしたベルトランに、運転しているシャマイムが、

「――就寝する事を推奨する。 明日の活動に差し障りの無いよう、眠るべきだ」

 その頃、空中戦艦の中ではグゼが怯えていた。

「ボス」彼は真っ青な顔をして言った。「カルバリア共和国は危険です。 近づくにつれて危険だと、俺の第六感が泣き喚いています」

「……確か貴方のA.D.としての力は『危険予知』でしたわね」マグダレニャンは言った。「……本来ならば逃げるのが正しい選択でしょう。 ですが強硬派がカルバリアへの空爆を既に準備している以上、逃げる事は出来ません」

「覚悟を決めるしかないな……」フー・シャーが険しい顔をして言った。「最悪、暗殺されるかも知れない。 最大警備で行こう」


 ……何事も無く、アニケトゥス、カイサスとアバイルスはカルバリーの大統領官邸に到着した。

「ようこそカルバリーへいらっしゃいました」

大統領自らが空中戦艦間近まで出向いて、出てきたマグダレニャンと握手をしようとしたが、彼女はそれを拒んだ。

「それよりも会談を急ぎましょう。 こうしている間にも無差別爆撃の準備は進行しているのですわ」

「そうでしたな」と彼らはそれで会議室に向かった。

そして、最大の目標である会談を始めて、しばらく経った時の事である。表向きは一切が順調であった。大統領側はほぼ全ての聖教機構側の要求を呑むと言い、しかしその代わりに絶対に戦争だけは回避したい構えを見せた。それを快く聖教機構は認めた。――ごう音と激震が、三つ、辺りを貫くまでは。

「「!?」」聖教機構側の誰もが、何が起きたのだと血相を変えた。だが、カルバリア共和国側がにやにやとしているので、すぐに事態を悟った。

「何をしたのです!」マグダレニャンは怒鳴りつけた。「そんなに戦争がしたいのか!」それは魔王ですら怯むような凄まじい一喝であったのだが、

「……ふん」けれどカルバリア共和国大統領アザレア・アナニアノスは鼻で笑った。「なるほど、父親が死んだ時にそのショックで体の成長が止まった、それで貴様は少女の体型をしているのですね。 中々興味深い。 解剖してみればさぞ面白い結果が出るでしょうに……」

「何をたわけている、答えなさい!」

「……ああ」アザレア・アナニアノスはそこでようやく我に返ったらしく、「そうか、そうでしたね、お答えしましょう!」

青い翼の天使がアザレア・アナニアノスの背後に出現した。その天使は眼鏡をかけていて、血まみれの白衣をまとっていた。同時にアザレア・アナニアノスの体はぐらりとよろめいて倒れた。後で分かったのだが、アザレア・アナニアノスと言う男の体は既に

「私こそが大天使ラファエル。 私は『デュナミス』を率いて貴様ら異端者共を断罪する。 このカルバリアの民は全て『デュナミス』の支配下に入った。 そして――」ラファエルはゆっくりと天上へと舞い上がり、「貴様らはここで死ぬ。 十重二十重の陸空軍が既にこの官邸を包囲している。 地獄で再会しよう、ではさようなら!」

誰もが絶句した瞬間、ラファエルはぱっと姿を消してしまった。同時に閣僚や側近達が襲いかかって来て、それを撃退するために時間が取られた。その襲撃者達は中々死ななくて、首をはねても心臓をえぐってもまだ生きていたが、全身をバラバラにされるとようやく大人しくなった。

「空中戦艦が全艦撃沈されたか!」セシルが呻いて窓へ飛び付き、真っ青になった。「い、いつの間に!? 天地の果てまで……カルバリーの果てまで……軍隊が詰め寄せていやがる!」

「何だと!?」

「うわ、ああああ……これは、いくら何でも無理だ!」

そして、砲撃音がして、ずずん、と官邸が揺れた。

「――I・C追跡班に連絡を」マグダレニャンが言った。「この絶望的状況を逆転できるのは彼だけです。 I・Cに命令を――『この国を絶滅させなさい』と」


 カルバリーの街中に入ったI・C追跡班は、不穏な空気に触れた。

「な、何だあれは」ベルトランはぎょっとした。

「カルバリア共和国の空軍と陸軍じゃないの。 何でこんなに集結しているの?」ドルカスは、次の瞬間目を見張る。「み、ミサイルを撃った! 荷電粒子砲もぶっ放した! 何!? 戦争でも始まるの!?」

次の瞬間、アニケトゥス、カイサスとアバイルスが撃破されて、地面に落ちるのを彼らは目撃した。

「「……」」あまりの事に彼らは声も無い。

「I・Cの存在反応が消えた。 恐らく地下に潜ったものだと推測される。 消えた箇所を中心に重点的に捜索しよう」沈黙を破って、シャマイムが言った。

――と、通信端末が鳴った。

「え、『デュナミス』ですって!? この国の国民は全員『デュナミス』の構成員!? ……嘘だと言ってよ誰か」ドルカスは目を覆った。

「現時点での最優先事項はI・Cの発見だ」シャマイムは車を止めた。「この近隣の地下にI・Cはいると推測される。 決して単独行動は取らずに、背後からの攻撃に注意して捜索を」

「じゃあ、急ぎましょ! 行くわよベルちゃん!」ドルカスは車から飛び降りた。

シャマイムとベルトラン達が地下への入り口を探していると、ムールムールがにゅうっと姿を見せた。

『このすぐ近くに、先代文明ロスト・タイムの遺物があったですぞ! それも地下に広がる――!』

 先代文明の遺物。それは今の世界の前の世界の残存物である。前の世界の文明は今以上に高度な科学力を持っていたらしく、遺物はその証で貴重な存在だった。

その入り口はカルバリーに建てられた高層ビジネスビルだった。軍事産業で有名な国際企業、ヴィトゲンシュタイン社の本社だった。

「――ヴィトゲンシュタイン社は先代文明の遺物を使って発展したのね」ドルカスがぽつりと呟く。シャマイムが続けて、

「それだけでは無い、と推測される。 ここに本社があると言う事は、『デュナミス』と提携している疑惑が存在する。 可能性としては武器弾薬などの供給の面で相当量の疑惑が存在しうる」

「つまりは敵か」

ベルトランがそう言って真っ先にエントランスに踏み込んだ。

「待て!」と屈強な警備員達が彼を囲む。「これ以上は社員証の無い者は入――」

「ご託は良いからとっとと地下の遺物へ案内しろ」

警備員達がぎょっとした。そしてすぐさま機関銃を構えて――それに対して、ベルトランはただ冷笑を浮かべたきりだった。ほんのわずかに指を動かす。それだけで、警備員達の首が宙を舞った。

悲鳴があちこちでわき上がり、次の警備員達が駆けつけてきた。銃声。シャマイムの二丁拳銃によって彼らも倒れる。

エレベーターでは危険なので階段を使っての地下二階、ビルの最深部に彼らは血と死をまき散らしながら進む。

そこには、関係者以外立ち入り禁止の厳重な電子ロックのかかった扉が、二つあった。けれどシャマイムはそれをすぐに解除してしまう。

「どちらかがダミーね、どうする?」ドルカスは訊ねた。

「二手に分かれて行こう」ベルトランはそう言って右側の扉を開けた。

 ――そこは、まるで地下墓廟カタコンベのような場所だった。通路の階段は狭く真っ直ぐに地下へと続いていて、熱を感じさせない謎の白みを帯びた光によって照らされていた。その果てに、丸いドーム状の空間があった。そこは色々な見た事も聞いた事も無いような機械が沢山ひしめいていて、その中央にいた。

I・Cが、女を抱きしめて泣いていた。

「「!」」

ベルトラン達は目を見張る。女はI・Cの首筋に何かは分からないが怪しい注射を打っていたのだ。彼女はベルトラン達に視線を向ける。

「ちょっとI・C!」ドルカスは声の限りに怒鳴った。「目を覚ましなさいよ! アンタそのあばずれに騙されているのよ!」

「――」I・Cは虚ろな視線でドルカス達を捉える。「騙されていて良いんだ、俺は。 俺は永遠にこの夢を見続けたいんだ。 それさえ叶わないのなら、俺は死にたい」そして、女の腕の中で激しく慟哭した。

「化物め。 正気に戻れ、I・C!」

ベルトランの腕が大きく振られた。女の首がころんと転がり落ちる。

I・Cが絶叫した。絶叫してベルトランめがけて襲いかかった。糸でそれを絡め取ろうとしたベルトランだったが、I・Cは何と糸を引きちぎった。引きちぎったまま腕を伸ばして、ベルトランの頭を壁に叩きつけた。嫌な音がして、ベルトランの頭部が卵のように潰れた。

「I・C!」

『I・C殿!』

ドルカスとムールムールの声が不揃いな和音を奏でる。

I・Cはよろよろと女の元へ近付く。女は、とうの昔に頭と体が繋がっていた。美しい聖母のような慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。

「――な、愛しているって言ってくれ。 愛しているって言ってくれ。 お前はいつもそう言ってくれた。 それとも――まだ俺の事が許せないでいるのか?」

女はただ黙ってI・Cを抱きしめる。それから、にんまりと口をV字型につり上げて言った。

「貴方なんか、大嫌い。 貴方なんか死ねば良い。 死んでくれるわよね?」

「うん、うん――!」I・Cはまるで素直な子供のようだった。「死ぬから、俺は死ぬ、俺が死ねば良い。 そうしたらお前は――」

俺の事を愛してくれるのか。

ムールムールとドルカスの叫びが遠くから聞こえてくる。でもそれすら今のI・Cには聞こえていなかった。今の彼はそう言ったもの全てが分からなかった。この女、愛おしいこの女。ただこの温もりだけが欲しくて、彼はさ迷っていたのだった。ただこの女に愛して欲しくて。愛。彼が欲しかったのは、究極的に求めていたのはこの愛だけだったのだ。他の全てはどうでも良かったのだ。たとえ世界が滅びようと、たとえ世界を滅ぼそうと、彼はこれだけが欲しかったのだ。三千世界のカラスを殺しぬしと朝寝がしてみたい。それだけだった。命も要らない。力も要らない。夢も希望も未来も過去も今も何も要らない。

ただこの愛と恋だけがあれば。

「ムールムールちゃん! どうするのよ! お願い早く修理して!」

『分かっているですぞ! ですが時間が無い!』

「じゃあ」女は言った。「おっ死ね!」

次の瞬間銃声がして、女がハチの巣になって倒れる。I・Cは悲鳴を上げて女の体にすがった。女は、辛うじて生きていた。I・Cは銃弾の飛んできた方向を睨みつけて、はっとした。

「……シャマイム」

「I・C、ボスからの命令だ、この国を滅亡させろ」兵器が、歩いてきた。

だが彼は激しく首を左右に振った。

「俺は……夢で良いんだ、この夢を見ていたいんだ! それすら叶わないなら、俺は――死にたい!」

」兵器は言った。

I・Cの顔に、はっきりとした驚きが浮かんだ。

「そこを退け。 その化物を排除する」兵器は続けた。「その化物は、我々の敵だ」

「助けて」女はI・Cにしがみ付いた。「私、殺される!」

「――だ」I・Cは小声で口にした。

「え?」

。 お前は確かに俺が喰い殺したんだよ――『サタン』発動」

どぷり。ぞ、ぞぞぞぞぞぞばぁっ!男の体から闇が吹きだした。

それは一瞬で女を飲み込み、その空間に満ち溢れて、外になだれ出た。

 「な」カルバリア共和国空軍旗艦ウェスパスのモニターに映った光景に、誰もが同じ文字を脳裏に浮かべた。「何だこれは!?」

――『自然災害』。それはもはや、到底人間の手の及ぶ出来事では、無い。

カルバリーの街並みが、否、地平線に至るまで、黒い海に呑みこまれているのだ。そしてその黒い海からは無数の飛空能力を所持した巨大な化物がいくつもいくつも出現し、上空にいる彼らに襲いかかった。

それは本当にあっと言う間だった。悲鳴を上げる猶予すら無かった。旗艦ウェスパスも化物により上空から叩き落されて黒い海に落ちて、飲み込まれて消えた。


 「――お嬢様」

突然天井から降ってきた声に、誰もが顔をはね上げた。

天井に穴が空いて、そこからI・Cが落ちてきた。二本の足で着地すると、

マグダレニャンの足下でひざまずく。

「ラファエルだ。 神の癒しラファエル。 だがその実はイカれた狂科学者。 アイツが『デュナミス』を指揮している……精鋭『デュナミス・エンジェルズ』を率いて!」

「また、大天使」マグダレニャンは呟いた。「連中は何を考えているのです」

「どうせ俺への復讐だろうよ。 怖かったらお嬢様、俺を即座に首にするんだな」

「いいえ、既に私も狙われている様子。 貴重な手駒は手放しませんわ」

――言うなりマグダレニャンはI・Cの顔面を蹴った。

「弱い弱い化け物め。 貴様の所為でどれだけ迷惑をこうむったか。 二度は赦しません!」

鼻血を出しながら、I・Cは何故か安どしたように笑う。

「……ああ、それで良い。 それで良いんだお嬢様」

 ――かくしてカルバリア共和国は滅亡した。理由はわざとらしく自然災害になっている。けれど、国民が一人も残らずに絶滅するような自然災害など、果たして起きるものだろうか?だが列強諸国でさえも、とても恐ろしいので、聖教機構に真実を訊ねる事など絶対に出来なかった。


 聖教機構勢力圏内へ帰る空中戦艦イオエウス内にて。

「そう言えば」グゼは何気なくドルカスに言った。「ヒゲは永久脱毛したのか?」

「あ、バレてた?」ドルカスはぺろっと舌を出す。

「ヒゲ!? 永久脱毛!? そ、そりゃどう言う事だ!?」

ぎょっとするセシルに、グゼは淡々と、

「俺も時々仕事で女装するからすぐ分かったんだが……」

「……」ベルトランは怪物でも見るような目で、「この僕が気付かなかったなんて……」

「まあまあ、良いじゃないの。 女でいた方が良いって事もあるのよ」と、ドルカスはにやにやしている。「と言うか、心が女なんだから良いじゃない」

『ですぞですぞ、おかげさまで乙女趣味が合致するのですぞ』とムールムールまで言う。

「「……」」誰もが思った、ああそうですか。

「性別は女と言う事で確定しておく」シャマイムが言った時、I・Cが通りがかった。彼は不思議そうな顔をして、

「ん? ……何だテメエら揃って変なものでも見るように」

「ううん何でも無いのよ!」ドルカスは笑って、「それよりさー、今日ご飯おごってちょうだいよ!」

「やだ」

「えー、ケチー! ケチな男はモテないわよー!」

「うるせえドブス!」

誰もが思った、ああI・Cは気付いていないんだな。


 「俺が喰ったのは『赤ずきんと狼』により立体化された幻覚のみならず、本体もだ。 ヤツの能力に弱点があるならば、幻覚を立体化させて操るのに対象のわりと付近でないと操れなかった所だろうな」I・Cはにやにやしている。執務室には彼と彼のボスの二人きりだった。「それで分かったんだが、万魔殿の連中もかなり食われていたぜ」

「……万魔殿も?」マグダレニャンが訊ねると彼は頷き、

「ああ。 他にもいっぱい化物がいた。 化物なのに名前がメルヘンチックなのばっかりだった。 失踪者は全員、情報を全部吐き出さされた後はソイツらの餌にされたんだ。 ――そして連中の次の狙いは『傭兵都市ヴァナヘイム』だろう。 そう言えるだけの情報が俺の手に入った」

「……『ニーベルングの指輪』ですか?」

「恐らくはそれだな。 あの『資格者を選定する』って噂の遺物。 何なのかは知らんが、アイツらはを創ろうとしている。 それには数多くの生贄……まーラファエルの手にかかっちゃ実験素体は全部生贄になっちまうんだが……と、生贄の中でも殊更優れた資質を所持する者だ。 それの選別に要るんだろうな。 ……俺の体液を採取してまでそのとんでもないものを創ろうと『赤ずきんと狼』は頑張ったようだしな」

「あれは確か『ヴァナヘイム』のの選出時に使われるのでしたわね……『神がよみし給う』とそれを人は呼んでいますが……『神』ですか……」

「神はゲロ不味かった。 二度と喰いたくない」

「心配しなくても神はそうそういませんわよ」

「昔はうじゃうじゃいたんだがなー、魔神や女神。 でもミカエルやガブリエルやウリエルや俺が、目ぼしいのを全部潰してやった」

「そんな事、自慢になるのですか?」

「いや魔神連中は全部美味かったんで忘れがたいだけだ」

「……。 とにかく、次は『ヴァナヘイム』ですわね。 私の方はヴィトゲンシュタイン社を始末しますわ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る