第13話 【ACT五】愛していたがために

 クセルクセス・イレナエウスの人生は、途中まで順調だった。名門貴族の子弟として生まれ、誰からも大事にされて、厳格な父親の元、次々と位階を極めていった。同じ若き名門貴族の子弟ファフナーと並び称されるほど、彼は優秀であった。いずれは彼らのどちらかが枢密司主席に――と誰もが思っていた。

 だが、彼は恋をしてしまった。相手がもし貴族の娘であったなら、誰もが喜んで二人の恋を祝福しただろうが、相手は召使――平民の小娘であった。勿論彼は帝国の法律上、貴族と平民の結婚は絶対に許されないことを知っていた。それで彼らは駆け落ちをしようとしたのである。しかし、厳格な――人情味が薄いほど厳格な父親に見つかり、彼らは生木を引き裂くように無惨に引き裂かれた。小娘は帝国を追放され、自分の息子の愚行に激怒した父親は、彼を僻地ジュナイナ・ガルダイアに左遷した。彼はそこで泣きわめき、絶望し、そして二度と帝都の地を踏まないことを決心した。彼の人生を全てジュナイナ・ガルダイアに費やすことを決意したのである。

 彼は僻地を改革した。およそ三〇年で、帝国の富の一角を成すような、巨大な貿易都市へと変貌させたのである。息子の偉業に驚いた父親は彼を呼び戻そうとしたが、彼は頑としてそれに応じなかった。帝都にて国葬で行われた父親の葬式にも行かなかった。彼は父親を許せなかったのである。この事で、彼は姉を除く親族から徹底的に責められたが、それを平然と受け流した。この時には、傲慢で我が侭でナルシストな彼は形成されていたのだろう。

彼は何でも屋だった。何をやらせても人の数倍速く、上手くやった。政治家としても、軍人としても彼は大成した。彼は主に女と前衛芸術を愛した。金がかかるものを愛した。新しくて変わっていて値段の張る物は彼のお気に入りであった。彼のコレクションは膨大であった。止めるものがいないばかりに、彼の奇矯な性格は酷くなっていくばかりだった。

 彼がジュナイナ・ガルダイアの太守兼帝国海軍提督として、不動の地位を築き上げていた頃のことである。その頃の彼は独身で、女遊びが激しく、自分でも生涯結婚することはあるまいと思っていた。だが、姉が見合い話を持ちこんできた。相手は平凡極まりない貴族の娘であった。他の親族はともかく、優しい姉のことだけは敬愛していた彼はやむを得ず引き受けて――一目惚れした。何の偶然か、彼が数百年前に失った少女によく似ていたのである。次に彼は慎ましやかで笑顔を絶やさない性根に惚れた。ほとんど彼の意志で、二人は結婚した。彼は幸せだった。

 カール・フォン・ホーエンフルトが帝国にやって来たのは、彼の幸せの絶頂期であった。彼は女帝に面会を求めて、帝都に入る許可が下りるまでクセルクセスの屋敷に滞在することになった。彼は帝国外の話を聞けると無邪気に喜び、カールを盛大に歓待した。男一人で寝るのは寂しいだろう、と女まで手配したのである。その頃の彼は幸せに目がくらんで何一つ疑っていなかった。だから、まさか彼の妻がカールに一目惚れして、その女に金を渡して入れ替わり、カールと寝たなどとは露ほども思っていなかったのだ。

 彼の妻フリージアは愛されてこそいたが、不安であった。自分は彼を愛しているのだろうか?と思うことがあった。見合い結婚で、向こうから望まれて嫁ぎ、何ら不平不満のない生活を送り――それで、自分は本当に幸せなのだろうか?彼女は時々この正体のない不安に襲われて、笑顔で無くなる時があった。正にその時に、彼女はカールに出会ってしまったのである。そして、泥沼の恋情を抱いた。泥沼。正に底なしの泥沼であった。一歩踏み入れたら、もう後戻り出来ないでどこまでも沈んでいく。そこに彼女は足を踏み入れた。

カールは結局宮中まで迎え入れられたものの、女帝との謁見は許されず、気落ちして帰っていった。

クセルクセスは彼を慰め、彼を見送った。彼は去り際に言った。

「満ちない欠月は無い。 私は諦めない」と。

 フリージアの妊娠が発覚したのは、それから少し経った時だった。

 クセルクセスの喜びようと言ったらそれはもう無かった。有頂天の彼は子供の名前を考え、子供の将来を考え、自分がもう若くはないことを自覚して、万が一自分が死んでも二人が後の生活に困らぬようにと長い長い遺書を大急ぎでしたため、それらの行為を嬉々として――その意図は無かったのだが、妻に見せつけた。

「ね」と彼は心底嬉しくて言うのである。悪意など全く無いのである。あるのは愛情と誠実さ、そして優しい気配りであった。「この老いぼれが死んでも、貴方達の暮らしには一欠片の不安も要りませんよ。 ああ、でもこの子が大人になるまでは生きていたい!」そこで彼は妻の腹を見て、急に泣き出しそうな顔になり、「……娘だったらいずれは嫁がせねばならないのか。 それは嫌だ!」と時期的に早すぎる駄々までこね始めた。

 一方、妻は、確信していた。この腹の中にいる子供はカールの子だと。彼女は追いつめられた。彼女は罪の子を胎んでしまったのだ。彼女は今さらながら後悔したが、何の取り返しも付かないことであった。夫の優しさと思いやりこそが、彼女を本当に追いつめた。優しくされる度、腹の中の赤ん坊がお前は罪人だと叫んでいる気がした。彼女の顔から笑みが消えた。クセルクセスはそれがマタニティ・ブルーだと周りからも言われて完全にそれを信じ込み、ますます彼女に優しくした。彼女の負担を減らすためならば金と手間暇を惜しまず働いた。ジュナイナ・ガルダイア最高の産院、極上の医師団の手配、彼女がつわりで苦しめば世界中から食べられそうなものを買い求め、落ち込む時にはそっと一人にしたり、優しく慰めたり、とにかく彼女が安心し幸せになるためならば身を粉にした。この期に及んで彼女はようやく、己がこの優しい夫をも愛していた事を自覚したのである。そして優しい彼女は、子供のためと割り切って、強かに生きる事が出来なかった。

もう悪循環だった。彼女は優しくされる都度、自分の夫を裏切ったのを何より後悔し、自分を激しく責めた。

 出産後、彼女は全てを書き連ねた遺書を残して、ついに自害する。

 全てを知ったクセルクセスは、事情を知る姉が見守る前で、その遺書を金庫の中の一番奥にしまって、厳重に鍵をかけた。どんな錠前破りの名人でも、悲鳴を上げるような鍵を、幾重もかけて。

本当にそれでいいのですか、と姉が訊ねた時、彼はこう言った。

「あの子は私の子です」

何故言ってくれなかったのか。クセルクセスは悲嘆しつつ思った。こんな老いぼれと結婚してくれただけで嬉しかった。こんな奇人と結婚してくれただけで良かった。死ぬほど後悔して反省しているのならば、彼は許した。自分のような変人と付き合ってくれただけで感謝していたのだ。誰にでも過ちはある。そして彼にとって彼女のした過ちは十分に許せるものであった。彼女の罪は、かつての彼の放埓と奔放そのものであった人生と比べれば、何の事は無いものであった。女から女へ次から次へと浮気に浮気を重ねてきた彼が、彼女のたった一度の一夜の過ちを許さなくて何なのだ。……だが彼女に死なれてしまっては、もう『許した』と伝える事すら出来なかった。

 彼はその子を育てた。しかし仕事が忙しい彼は自分一人では育てきれず、子守の女を求めた。それでやって来たのがサーシャであった。彼は女癖の悪さを発揮して、すぐ彼女に手を出した。魔族と人間だからまさか子供は生まれまいと油断していたら、見事にセルゲイが生まれた。彼は赤ん坊を一目見てぎょっとした。嫌味なまでに彼に似ていたからである。色々な検査もしたが、紛れもなく彼の息子であった。彼は、だからこの息子はあまり不憫に思わなかった。この子は己と血が繋がっている。それは消すのにとても手間がかかる、大変に頑丈な絆である。だが、彼の娘は、本当は彼とは何の関係も無いのだ。愛情が無ければ、いともたやすくその絆は途絶えてしまう。だから彼は息子は放置気味にする一方で、娘を溺愛した。

クセルクセスはジュナイナ・ガルダイアから離れなかったが、将来の出世のことを考えて、子供達は帝都で育てた。離ればなれであったものの、彼らは幸せな一時を過ごした。――凶竜の禍が起こるまでは。

サーシャは子供達を庇って死んだ。彼は高位の帝国貴族の務めとして事件の後始末に追われて、彼女の葬儀にも行けなかった。

後々、彼はこの時のことを思い出すと、必ず激しく後悔するのだった。何故貴族の務めと愛を秤に掛けて、貴族の務めを取ってしまったのだろう。何故仕事を捨ててしまえなかったのだろう。彼は務めを放棄してでも愛を取るべきだった!そうは言っても、彼の奮迅の働きがなければ帝都は復興しなかったのだ。

――だが、何にしても、もう遅いことであった。

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