第10話 【ACT二】愛は全てを救う

 グスターヴは恋をしていた。身の程知らずの恋だった。彼は雑草のように平凡な貴族で、恋した相手は超の付く名門貴族イレナエウス家の一輪の薔薇、エリシャ・イレナエウスだった。彼女は、おまけに彼の親友ニコライと婚約していた。これでニコライが極悪非道で屑のような男であれば、彼は何のためらいもなく恋を選んで驀進しただろうが、ニコライは誠実極まりない、男から見ても男前の男であった。彼は散々苦しんだ挙げ句、友情を選んで、彼女への恋を握りつぶした。ぼたぼたと涙と血が滴った。

 だが、そのニコライが、共に往った戦場で、亡くなってしまったのである。

「彼女のことを、どうか――」

何故か吹っ切れたような表情をして、ニコライは最後の息で言った。

自分の恋を知っていたのか。グスターヴは初めてそれを知って驚いたが、待ってくれと叫ぶ前にニコライは死んでしまった。

 彼はすごすごと帰還し、彼の今際の際のことをエリシャに話した。エリシャは立派だった。最愛の人の死を知っても泣き叫びはせず、そうですか、と一言言い、頷いたきりだった。だが彼女の悲しみと絶望は絶頂に達していた。彼との会見が終わった直後に、卒倒してしまったのである。

慌てて医者が呼ばれて――そこで初めて彼女は自分が妊娠していた事を知った。弱った彼女を二重の衝撃が襲った。彼女は、大事な人を二人も失ったのだった。

 彼女は引きこもりがちになり――そして、誰とも会おうとしなくなった。人々の憐れみが疎ましさへと変貌するには時間がかからなかった。一度、彼女の父親が彼女を強引に外へと引きずり出したが、彼女は狂乱するだけであった。

 厳格なことで知られていた彼女の父親は、容赦なく彼女を一族から勘当した。彼女の相手をする人間はいなくなった。グスターヴだけが、相も変わらず、定期的に彼女を訪問し、玄関口で何時間も待たされた挙げ句、梨のつぶてで帰っていった。

 ある日彼は狂喜した。彼女の館に入れてもらえたのである。

そこで彼を待っていたのは、

あれほど美しかったのに、みすぼらしく変わり果てた彼女の、罵声の嵐だった。彼は一瞬固まった。だが、全くもってその通りだと素直に思ってしまった。

自分がニコライの代わりに死んでいれば、全てが調和して収まったのだ。ニコライと彼女は結婚し、今とは対照的に、幸せの頂点に立っていたであろう。死んでさえいれば、自分は今ごろ亡くなった無二の友人として、ニコライの記憶の中で燦然と輝いていたであろう。

その方が、どれだけ良かったことか。

全く彼は言い返せなかった。彼は愚直だったのである。

 それから、彼はほぼ毎日、彼女の罵声を浴びに彼女の館へと通った。他に事態を打開する方法が一切思いつかなかったためであった。彼女は罵詈雑言が尽き果てると、部屋中の物を彼めがけて投げつけた。彼は生傷と痣まみれになった。彼の親や友人は泣いて彼を止めた。何もあんな狂女にお前がそこまでつき合う必要は無いのだと、切々と説いた。しかし彼は黙っているきりだった。彼は見る目も当てられない有り様になっていった。その癖、通うのを頑として止めようとしなかった。

 ある日、彼はいつものように聴くに耐えない罵詈雑言の嵐と暴力に耐えた。彼女が、力尽きたように物を投げるのを止めて、言った。

「どうして、いつも何も言わないの」

ここで素直に、貴方を愛していますから、と答えれば良かったのだが、彼ときたら、とことん愚直だったのである。

「……ニコライとの約束ですから」

「お前がその名を口にするな!」

彼女は彼に襲いかかった。彼の服を切り裂き、彼を切り裂き、血まみれとぼろ切れまみれにした。おまけに首を絞めたのである。

可哀想に、その気は無いのに、男の生理として彼のナニは立ちあがってしまった。それに気付いた彼女は、ふんと嘲るように笑い、

「貴方、そういう趣味があったのね」

彼は彼女に犯された。それは紛れもない強姦だった。彼女はニコライの名を呼び、彼を求めて、グスターヴをその代用品として扱った。引き裂けそうな心を抱えて、それでも彼はうんともすんとも言わなかった。彼は犯されながらも彼女のことが愛しくてたまらなかった。紛れもなく、彼は彼女を愛していた。もう、その時には、どこまで自分が愚直なのか、彼にも分からなくなっていた。

 それからも、似たような日々が続いた。包帯まみれの彼は、もはや誰からも相手にされなくなっていたが、別に大してそれを気にしてもいなかった。だが、ある日、彼は館の中に入れてもらえなかった。妙だな、と彼は思った。次の瞬間むくむくとわき上がった不安が彼を襲って、彼は門を乗り越え、窓を破って館へと侵入した。そこで、彼は、床一面に飛び散った血と、小さな小瓶を握って倒れているエリシャを見つけたのである。

彼女は毒を呑んで、吐血して、気を失っていた。すぐさま医者が呼ばれて、懸命の手当てで気が付いた彼女には、また残酷な事実が知らされたのである。

 彼女は妊娠していたが、毒を呑んだがために流産する可能性が非常に高いこと。

彼女は、恥も外聞もなく、泣いた。後悔と絶望の涙だった。

 そこにグスターヴはやって来て、エリシャが早速どうして自分を助けたのだと罵ろうとした時に、初めて自分から口を利いた。彼は真っ赤な薔薇の花束を持っていた。

「結婚して下さい」

彼を馬鹿者だと罵るのは、少し待ってもらいたい。彼は本当に決死の覚悟で言ったのである。死んだニコライの冥助さえ請いたいくらいであった。こんなに勇気を振り絞ったのは、彼の人生初のことであった。断崖絶壁から飛び降りるよりも、振りしぼった。

あまりにも唐突な発言に、彼女は目を丸くした。

「お願いします、結婚して下さい」

押しつけられた花束に、彼女は唖然としてから、

「私、また流産するかも知れないのに――」

「知っています。 でも、貴女はちゃんと産めます」

そこで初めて彼に心の底から愛されていることを知った。この数ヶ月、彼女の凶行にただ一人つき合ってくれた理由を知った。すると涙が溢れてきて、止まらなくなった。泣きじゃくる彼女は抱きしめられて――。

二人は、結婚した。

数ヶ月後、彼女はグスターヴの予言通り、無事に女の赤ん坊を産み落とした。それがきっかけで、彼女は徐々に立ち直っていく。

元から優秀だった彼女は、枢密司補佐まで上り詰め(最終的には主席にまでなった)、父親からの勘当も解かれた。

 二人はようやく幸せになって――死が二人を分かつまでの間、それは続いた。


 ある日の朝、グスターヴは死んでいるのを発見された。

安らかな、眠りながら死んだことを証明するかのような顔で。

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