第6話 【ACT六】自滅

 神などいない。この世界に神などいない。シラノは心底それを理解した。思い知らされた。もしも神がいるのならば、どうしてこんな残酷な世界になったのだ。

 妙だな、とは思ったのだ。ソニア達が一度も見舞いに来なかったのを、妙だな、と思った。彼の周りの医療関係者も全て心を閉ざしているのを妙だなと思っていた。だが、オットーの『彼女に今の貴方の姿を見せたら自殺しかねないのです』『今の貴方の姿は本当に無残そのものなのです』と言う言い分で無理やり自分を納得させた。だって恐ろしいじゃないか、もしもそれがこの現実だったら、と思うと。だから彼は薄々気付いていたのかも知れない。気付いてはいたが必死に自覚するまいと努めていたのかも知れない。

――案の定、それが事実で、現実であった。

退院した日の夜の事だった。自室でシラノはロクサーヌを久しぶりに手に取った。かつてはまぶしい銀色の銃身だったのに、手入れをしなかった所為ですっかり鈍い色になっていた。

「よし」と彼は愛おしげにそれを磨き、手入れをする。「しばらく放置していてすまなかったな、ロクサーヌ。 だが明日から早速――」

トントン、とノックの音がした。

「シラノさん、俺です、オットーです」

「どうした、オットー君? とにかく、入りなさい」

入ってきたオットーの顔は、まるで死刑判決が下された者のような有様であった。オットーが心の壁を取る。隠していた真実を、暴露するために。

シラノの手からロクサーヌが滑り落ちた。……現実、だったのか!シラノは絶句して、

「         」

声にもならない叫びが口から出た。

『テロリストは全員その場にて処刑』

「――あぁああああああああああああああああ!」

『貴方を聖教機構より取り戻そうとした子供は、ソニアは、全員、殺されました』

「どうして! どうしてだ!? ソニア達に一体何の罪があったのだ!? 親も兄弟も殺されて、やっと幸せになれたと笑っていたあの子達が、何故!?」

シラノが心底期待して、心底楽しみにして、心底希望をそそいでいた彼の未来が、今、最も酷いやり方で潰された。絶望の焦土からようやく生えた一つの新芽が、踏みにじられた。彼の貫いた意地は全て無駄だったのだ。彼の愛が殺された。

「……俺がアルビオンの反意に気付いていれば、あるいは、ソニア達の自殺行為に事前に気付いていれば、こんな事には……ですが、こんな思考は全て『今更』です」オットーはもう泣きたいのか笑いたいのか分からない顔だった。

「そうだ、アルビオンがあんな真似さえしなければ……」

シラノはそう言いつつ、ロクサーヌを拾った。

オットーが表情を変えた。シラノの目にぞっとする光が宿ったのを感じたのだ。

「シラノさん!? まさか――!」

「『彼女達』に伝えてくれ」シラノはそれに銃弾を込めつつ言った。「私はもう、もう、かつてのシラノ・ド・ベルジュラックではないと」

「いけませんシラノさん! それだけは駄目です!」オットーがドアの前に立ちはだかった。「過激派に身を投じるなんて、貴方が! それだけは駄目です!」

「オットー君」シラノは穏やかに狂ってしまった笑みを浮かべて言った。「私はね、耐えられた。 実際どんな拷問にだって耐えたよ。 あの子達が私の帰りを待っていると思うと、どんな苦痛にだろうとどんな絶望にだろうと耐えられたんだ。 でもね、もうあの子達はいない。 どこにもいないんだ。 ……この世界に神はいない。 もし、いたとしたら殺してやる。 私からあの子達を奪った神など殺してやる。 そうしなければ、私はもはや生きていく事が出来ないよ」

「シラノさん……!」オットーは大剣を抜いた。「力ずくででも止めます! 貴方は、貴方みたいな優しい人は過激派に行くべきじゃない!」

シラノは目を細めた。「……大きくなったねえオットー坊や。 きっとカールも君みたいな息子を持てて、さぞや誇らしいだろう。 もしもアイツが生きていたら、きっと君と全く同じ行動を取るに違いない」その目が見開かれた。「そして私はカールであろうと君であろうと、倒す!」

きらりとロクサーヌがきらめいた。オットーはシラノが肉迫してきたため、剣を振るった。だが当たらない。かすりもしない。オットーの顔に焦りが浮かんだ。その腹部に、こつん、とロクサーヌの銃口が当てられた。

「さようならだオットー君。 私はアルビオンを根絶やしに行くよ」

銃声。オットーがくずおれた。致命傷では無い。だが、戦うために動けなくなるには十分なダメージであった。

「シラノ、さん……!」オットーは手を伸ばした。必死に伸ばした。かつて彼が幼い子供だった時に遊んでくれとせがんだ、その時にはちゃんと届いた手を。

「シラノさん! 分かっているはずだ、貴方なら、大事な人が失われる痛みを! 止めて下さい、お願いだ!」

だが、今ではもう、届かなかった。

「……分かっている。 よく分かっている。 それでも私は止まれないんだ」

シラノの後ろ姿が、ドアの向こうの闇の中に消えて行った。


 「ド畜生が!」セシルは攻撃しつつ、怒鳴る。「同士討ちなんざ、ゴメンだってのに!」

「済まない、許してくれとは言わない!」フー・シャーが巨大な音叉を振るいながら、叫んだ。「僕の妻が人質に取られたんだ!」

そこから発生した超音波が、命中した先の街路樹を灰に変える。

「何でボスに言わなかった!」セシルが鋭い触手でフー・シャーを行動不能にしようと突き刺した。それを間一髪でかわして、

「言ったら殺すと……!」フー・シャーは泣いていた。「頼む、僕を殺してくれ!」

 セシル達は列強諸国の一つ、アルバイシン王国のデバン地方に来ていた。ここはアルバイシン王国から独立しようとしている不穏な紛争地域であり、『デバン解放軍』がテロリストとして暗躍している場所でもあった。そのテロリストが万魔殿と組んだと言う情報が流れたため、セシル達はマグダレニャンから調査するように言われたのだ。

だが、それがこれである。着いて早々、フー・シャーが彼らと敵対行動を取り始めたのだ。セシルはやむを得ず交戦を開始した。まずボスに報告するためにグゼを逃げさせ、そしてセシルが相手になった。

セシルとフー・シャー、両者の戦いは互角であった。お互い魔族であり、いくつもの修羅場を越えてきた強者であり、おまけに訳有って戦ってはいるものの、同僚同士、本気で戦う訳には行かなかったのだ。

「俺は嫌だぞ、こんなのは嫌だ! まだI・Cを殺せってのならともかく、フー・シャー、お前を殺せってのは!」

セシルは大声で怒鳴り散らし、大型重機並みの力と肉食獣の素早さを持った巨体で、フー・シャーに道端の車を投げつけた。それを超音波で破壊して、フー・シャーは叫ぶ。

「頼む、殺してくれ! そうすればウルリカは助かる!」

「馬鹿、テロリストがどう言う存在かくらい良く知っているだろうが! お前が死ねばお前の奥さんはなぶりものにされた挙句に殺されるんだぞ!?」

「う、うう……!」

セシルが、一瞬だけ動きが止まったフー・シャーとの間合いを一気に詰めた。そして振りかざした触手の一本で、フー・シャーを殴り飛ばす。

「ぐうッ!」フー・シャーは吹っ飛んで壁面に着地したが、その右腕はだらりと不自然に曲がっていた。「手加減するな! しないでくれ!」

「バカヤロウ、やむを得ない事情で対立する仲間をぶっ殺すなんて、俺に出来る訳が無いだろう!」

セシルが超音波をかわしつつ、フー・シャーに迫る。だが一気に後ろへと飛んだ。セシルのいた空間を通過した超音波の、何度目かの直撃を受けたビルが、ついに倒壊する。

『おい』とセシルはこっそりと通信端末でフー・シャーに言う。『この戦いを見学しているテロリストの位置特定は出来たか?』

『超音波でもう探知できた。 既にグゼに伝えた』フー・シャーも左手で音叉を構えつつ、無音通信で言う。『グゼ、どうだい?』

『今、始末した所だ。 万魔殿強硬派とは兵器の供給関係で繋がっているそうだ。 しぶとくないテロリストだったから、あっさりとアジトの場所を吐いてくれた。 アジトの制圧まで、約一五分はかかるだろう。 それまで派手に暴れていてくれ』

『了解だ。 行くぜ!』

『ああ!』

そしてセシルとフー・シャーはを続けるのだった。


 「――三、二、一、〇」

グゼは小声で数える。次の瞬間、彼の視線の先、テロリストのアジトで爆発が起こった。大騒ぎになった。テロリスト達が血相を変えて出てくる。そこにグゼは手榴弾をいくつか投げた。爆死したテロリスト達の死体を越えて、彼はアジトの中に入る。

「いやあ今度の仕事は楽で良い」グゼは聞かれないように呟く。「フー・シャーの奥さんを人質にするような外道なんか、ためらいも無く殺せると言うものだ」

彼は変装していた。彼が拷問して始末したテロリストの顔と姿に姿を偽っていた。

「何が起きた!?」

とテロリスト達が騒いでいる所に、グゼは負傷し息切れして弱りきった姿をして、

「大変だぁ、聖教機構の連中が増援を呼びやがった! フー・シャーはもう役立たずだ、今の内にヤツの女を殺しておいて、逃げないと……!」

「何だと!?」とテロリストのこのアジトのリーダーらしき男が顔色を変えた。「チッ、これから楽しもうと思っていたが、そうも行かなくなったか!」

彼らは地下室から縄で縛られた美女を引きずるようにして連れてきた。

リーダーが機関銃を彼女に向けた。やつれた彼女の顔に、恐怖が浮かぶ。

「――すう」とグゼは深く呼吸した。「はあ――」

そして彼は呼吸を止めて、両手にナイフを握って、両隣にいたテロリスト達の喉笛を切り裂いた。

「「!?」」

血が飛び散るよりも早く、グゼは動いた。瞬く間に六人の喉笛を切り裂いて絶命させている。そこでようやく事態を悟ったリーダー達が彼に向けて機関銃の引き金を引いた。だが、当たらない。一発も当たらない。そして投げられたナイフがリーダーの頚部に突き刺さって、ぐしゃりとリーダーの体はくずおれた。後は逃げ惑い、あるいは抵抗するテロリスト達を一方的にグゼが始末した。

全て片付けた彼は、美女を縛る縄をナイフで切ると、変装をはぎ取って言った。

「走れますか」

「あ、貴方は!」彼女は結婚式に来てくれた夫の同僚の中にこの男がいた事を思い出す。彼女の女友達が既婚独身を問わず、この男に対する目の色を変えていて、式後にどうか彼の連絡先を教えてくれと彼女に血相を変えて迫ってきたからだ。彼女は今の事態を悟り、すぐに頷いた。「ええ、走れます!」

「こっちです」とグゼが言った時だった。リーダーの指が、ぴくりと動いた。

グゼはその気配を悟るや否や、美女を突き飛ばした。

銃声が一発。グゼは倒れた。

「あ、あああ!」美女は真っ青になって後ずさった。リーダーの男が立ち上がって、グゼを蹴り飛ばした。ごろんと転がったグゼは目を開いたまま、反応しない。

「……ったく魔族を舐めるなよ?」とリーダーが言った。「惜しいな、人間だったら即死していたぜ」

そして彼は銃口を彼女に向けた。

「じゃあな奥さん、死んでくれ」

その後ろで、ゆらりと誰かが立ち上がった。

「……元暗殺者を舐めるなよ?」

今度こそ、背中からナイフがリーダーの心臓を貫いた。

「……」

グゼが、立っていた。撃たれたのに、立ったのだ。だが無理をしたために膝をつく。

「う、ぐ……」

「あ、貴方! しっかりして!」彼女は彼を支えようとして、己の手にべったりと付いた血に顔色を変えた。「ッ! 応急処置をしなければ――!」

グゼは負傷はしたが、急所には当たらなかったのだ。それでも銃に撃たれたためにグゼは力尽きて地面に倒れ、最後の力でセシル達にアジトの場所を告げて、意識を手放した。


 「ありがとう」フー・シャーは右腕にギプスを巻いていた。彼はひたすら感謝する。「本当にありがとう」

「いや、良いんだ、気にするな」とグゼは病院のベッドの上で言う。彼の負傷は、決して軽いものだとは言えなかったが、今後の彼の活動に妨げになるようなものでもなかった。「お前の奥さんは看護師だったな。 おかげ様で俺の応急処置は完璧だったそうじゃないか。 良い奥さんを貰ったな」

「貰ったと言うか僕が土下座して結婚を頼んだんだ」フー・シャーは遠い目をして、「バイオリニストだった僕が過激派のテロで両腕を奪われて、再生治療を受けたけれどもう元通りには演奏できなくなってしまった、と言うのはご存知の通りだ。 ウルリカはそんな僕を助けてくれた。 彼女には本当、頭が上がらないよ」

「……羨ましいな」とグゼがしみじみとした顔で言う。「俺は女運が最悪なんだ。 『女』と俺が意識した対象から、ことごとく俺は不利益をこうむっている。 俺は占いなんか信じないが、一度占い師に言われたよ、『貴方には女難の相があります』と。 実際そうだと思う。 俺は女のいない世界に行きたい」

「え」フー・シャーはぽかんとした。グゼと言うのは誰もが認める美男子であり、女だったら一目で恋に落ちそうなくらいだったし、女の方から何でもするから付き合ってくれと懇願されそうなものなのに……。「……い、意外だね」

「俺は俺に厄介事ばかり招く女よりも、弟妹のような存在が好きだ。 『お兄ちゃん』と呼ばれると俺は生きていて良かったなと思う」

フー・シャーは納得した顔で、

「……あー、だからグゼはアズチェーナに色々とアドバイスをしていたのか」

グゼは首を横に振って、「いや、それもあったがI・Cと初仕事で組まされるのかと思うと心底気の毒で……」

「それもそうだね……」フー・シャーは頭を縦に振って、「I・Cって本当に人間の屑だから、悪影響を受けなければ良いんだけれど……」

「屑に失礼だ。 ヤツは産業廃棄物と言うべきだ」

「産業廃棄物に謝るべきだよそれは。 ヤツはがん細胞だ」

「がん細胞なら治療で多少はどうにかなるだろう」

「うーん」フー・シャーは考え込んだ。「I・Cほどどうしようもない最低なヤツを形容する言葉が、生憎僕の語いには存在しないんだよね……」

グゼは迷わずに、「俺にも無い」

その時である。病室に設置されたモニターに緊急速報が流れた。

『アルビオン王国首都ロンディニウムにて、万魔殿過激派によるものと思われる連続爆破テロ発生!』

悲惨な有様のロンディニウムの市街の光景が報道される。割れたガラス、吹っ飛んだ建物、車が引っくり返っていて、逃げ惑う人々。それを映すカメラですら揺れている。

「また過激派か!」フー・シャーは顔をしかめた。「全くヤツらは人の命を何だと思っているんだ!」

「自爆テロが大好きな過激派、爆弾の雨を降らせる強硬派……どちらにとっても人の命は数でしか無いんだろうな」グゼがぽつりと言った。


 おかしい。異常事態だ。

アルビオン王国の首相や閣僚、並びに上層部はそう思った。アルビオン全土にて、過激派によるものと思われる自爆・爆破テロが、今日だけで三〇件もあったのだ。いくらなんでもこの数はおかしすぎる。まるで過激派に狙われたかのようだ。そして、ここまで執拗に狙われる心当たりが、彼らには一つだけあった。

――シラノ・ド・ベルジュラック。

 アルビオンの上層部は、大騒ぎになっていた。首相及び閣僚達は連日連夜緊急会議を開き、この事態を打開するべく血眼になっていた。

「聖教機構め! ヤツらがシラノを脱走させるなど、想定外にも程がある!」

「いつも威張り散らしている癖に、肝心な所で何と言う大失態だ!」

「そもそも北エリンは我々アルビオンのものだ! 万魔殿め、本当に余計な真似を! こうなったら武力衝突してでも、北エリンを奪還するべきだ!」

「落ち着け!」

「これが落ち着いてなどいられるか!」

「――速報です、また爆破テロが起きました! 場所はソーホーです、死者負傷者多数、正確な数は未だ不明!」

「またか……! 何と言う事態だ……!」

「まだシラノが穏健派にいれば良かったのに、よりにもよって過激派に転身するとは!」

「……シラノを解放しろと言うテロリスト達がアルバイシンで殲滅されたそうだが……それが恐らくシラノが過激派に転身した理由なのだろうな。 何でも、そのテロリストは子供達だったそうじゃないか」

「…………」

「……」

「……事の発端は、我々アルビオンの国際法逸脱行為にあると認めよう。 だが自国民をこのような危険な目に遭わせ被害をこれ以上増やすのは看過できない。 そして我々には今、直接過激派と武力衝突できるまでの力が無い。 かくなる上は、聖教機構にへりくだって、助力を仰がねば……なるまい。 もはや面子を気にしていられる状態ではないのだ。 強硬派だと余計にこじれるだろう、和平派にしよう……」


 アルビオン王国からの懇願により、和平派幹部の一人ヨハンが、アルビオン王国が首都ロンディニウムに出向いた。自爆テロを警戒して、空中戦艦ウェスパシアヌスに乗ってやってきた。

「自爆、て、テロ……」空中戦艦の中で、ヨハンはぶるぶると震えながら言った。彼は貧弱そのものの青年であった。二十歳は越えているのだが、いつも何かに怯えている上に己に自信が無いのが丸見えで、その所為で実年齢よりももっと幼く見られた。「ど、どうしたら、止められるのかな?」

彼が問いかけたモニターの向こうのマグダレニャンは、答えて、

『現在アルビオンで起きている連続自爆テロは、シラノの実働によるアルビオンへの復讐である可能性がとても高いので、特務員を派遣してシラノを処分すれば止まるでしょう。 大丈夫ですよ、ヨハン』と彼女はいつになく優しい声で言った。『貴方はアルビオンで、聖教機構の特務員が自由に行動する、正式な許可を認めさせれば良いのです。 アルビオンは間違いなく是と言うでしょうから、何も心配は要りませんわ』

「う、うん……」とヨハンは何度も頷いた。「あ、ありがとうね、マグダ」

『いえいえ。 ……それでは、失礼しますわね』

モニターが黒くなった。ヨハンは何度も深呼吸をした。

「だ、大丈夫だ」彼はそう自分に言い聞かせる。「大丈夫、大丈夫。 マグダに、迷惑をかけたりなんか、しない」

「マスター」と機械的な声がして、一人のメイド・ロボットが近付いてきた。「間もなくロンディニウムに到着します。 ご準備はよろしいでしょうか?」

「う、うん! だ、大丈夫だよ、ブリュンヒルデ」彼はしっかりと頷いた。「は、早く、アルビオンの人達を助けなきゃ! ぼ、僕、が、頑張るよ!」

「応援いたします、マスター」とブリュンヒルデは言った。

「う、うん! マグダがね、大丈夫って言ったから、ぼ、僕はそれを信じる」

とヨハンは笑った。

 ――「彼で本当に大丈夫なのかね?」和平派幹部の一人、ジャクセンはマグダレニャンに訊ねた。「ヨハン殿にアルビオンとの外交など……厳しくは無いかと思うのだが」

「今のアルビオンにはもはや我々にすがる他はありません。 向こうに我々の存在がいかに重大かつ重要なものであるか、思い知らせるには丁度良い機会ですわ。 これは『外交』ではありません。 『救済』のための下準備です」

マグダレニャンは淡々と言う。しかしジャクセンは顔をしかめて、

「……婚約者を庇いたいのは分かりますが、マグダレニャン殿……彼ははっきり言って我々『一三幹部』に相応しくない。 彼は家柄だけで生きてきたも同然です。 彼には何も出来ない。 彼は無力だ。 おまけに臆病者で、覇気が無く……特技と言えば機械工学、電子工学などの、むしろ研究者向けのもので……政治家としても軍人としても本当に無能だ。 違いますかな?」

「……無能は無能で構わないですわ」とマグダレニャンは、ふと目を細めた。懐かしい何かを思い出すかのように。「それよりも私達にとっては、彼が卑怯者ではない事の方が大事ではありませんこと?」


 「いやはや、この度はご足労ありがとうございます」と外相ヘンリーがロンディニウム空港でヨハンをうやうやしく出迎える。周りには大勢の護衛がいて、非常警戒態勢が敷かれていた。「どうぞこちらへ」

「は、はい」とヨハンはそれに従って、ウェスパシアヌスから降りて、ヘリコプターに乗った。車だと道中、自爆テロに巻き込まれる危険性があるのだ。ヘリは護衛機を従えて、すぐさま飛び立つ。

「おや?」とヘンリーが不思議そうな顔をした。彼らの乗るヘリのすぐ背後に、メイド・ロボットのブリュンヒルデが滞空していたのである。「あれは何ですかな?」

「ぼ、僕の友達、です。 僕が心配だからって、つ、付いてきてくれたんです」

ヘンリーはすぐに納得して、「ああ、そう言えばヨハン様は機械電子工学の碩学でいらっしゃった。 確かアンドロイドや人工知能AIの研究でご有名でしたな。 なるほど、彼女もその一体ですか」

「え、ええ」と少し嬉しそうな顔をしてヨハンが言った時、彼らの乗った、そのヘリが地上から砲撃されて、爆発した。

「マスター!」ブリュンヒルデが叫んで、爆発の中に飛び込んだ。


 「――」マグダレニャンは、もはや悪魔も裸足で逃げ出すような、般若の顔をしていた。「……ヨハンが全治三ヶ月、なるほど、良く分かりましたわ」

『アルビオン外相は、即死でした。 マスターが生きていたのは、奇跡のようなものです』ブリュンヒルデの声は、モニター越しであり、そもそも機械音声なのに、今にも彼女が泣き出しそうな気配を感じさせるものだった。マグダレニャンの顔が穏やかなものに戻って、

「いいえ、奇跡ではありませんわ。 貴方がヨハンを助けようと決死の思いで飛び込んだからこそ、彼は今も生きていられるのです」

少し黙った後、ブリュンヒルデは口にした。

『……私達「ヴァルキュリーズ」には心がありません。 機械ですから。 ですが、マスターがいなくなったら、と思うと、私達は恐ろしいと言われる感情に近い「何か」に襲われるのです』

「それで良いのですよ」マグダレニャンは穏やかに言う。「ヨハンは貴方に、貴方達に心を与えたのです。 貴方達が機械人形から人へとなる事は、ヨハンが望んだ事。 きっと目覚めたヨハンがそれを聞けば、喜ぶでしょう」

そう言い終えたマグダレニャンの顔が、一気に険しくなった。

「シラノ・ド・ベルジュラック。 ――この報いは必ず受けさせますわ!」


 「うっひょー、お嬢様、シラノの馬鹿はお嬢様を激怒させたな。 ……もうヤツには死ぬしか道が無い。 ヤツも哀れだ、そもそもアルビオンが卑怯な手段を取らなかったら、ヤツだってここまで堕落はしなかったってのに。 アルビオンは自業自得だが、お嬢様のコレ」とにやにやしてI・Cは小指を立てた。「こっちは本当にとんだとばっちりだな、おい。 まさか過激派がロンディニウムの市中を飛ぶヘリを撃墜させるなんて、想定外の想定外だったからなあ」

マグダレニャンは言う。冷たい鋼のような声で。

「アルビオンへ聖教機構が武力介入する良いきっかけになりましたわ」

「もはや連中にそれを否と言う力は残っていないな。 何せ外相がぶっ殺されちまったからなあ。 ……こりゃ下手すればアルビオンを舞台とした、過激派と和平派の全面衝突って事態になりかねないぜ。 で、どうするんだお嬢様?」

「シラノを始末なさい。 シラノさえ始末すれば、この事態は解決します」

「お嬢様」とI・Cは小ばかにした声で言った。「ただ今の事態の解決じゃあなくて、根本的解決を俺が実行してやろうか?」

「……」マグダレニャンは呆れた顔をした。「根本的解決――『万魔殿の絶滅』――貴様になら確かに可能です。 ですがI・C、正義を同じように抱えている者をいくら貴様に食わせた所で、本当の解決には至らないのですわよ?」

「キレイ事がお好きなんだな、お嬢様は」I・Cは嘲笑った。だが彼女はきっぱりと、

「幸い私はお前ほど弱くないので、綺麗事を言える立場にあるのですよ。 それに私は、自分が死ぬべきだと思った時には死ねますから」

「……俺だって」I・Cの顔が苦悶に歪んだ。「死ねるものなら死にたいさ、死ねるものならな」

「あーら残念ですわね」彼女は全く同情していない声で、「貴様は七つの大罪を全て犯し、おまけに命惜しさと好奇心で最もしてはならない事をした。 死ねないのはそれの報いですわ。 本当に良い気味としか言えませんわね」

「……いずれ、アイツは俺を憎むだろうな」とI・Cは低い声で呟いた。「俺があんな所業をやったから」


 ……またシャマイムが泥酔しているI・Cを抱えて、和平派拠点ビルに戻ってきた。エントランスホールを守る警備員がその姿を見て、シャマイムへの同情心のあまりにため息をついた。

そこにニナとフィオナが乗ったエレベーターが下りてきて、開いた。

丁度目に入ったシャマイムの姿に、この双子は思わず涙を浮かべた。

「……シャマイム……。 ソイツはね、下水道にぶち込んでドブネズミと共生させるべきだと思うの」フィオナが言った。彼女は重い雰囲気を持っている女性だった。物静かと言えば聞こえは良いのだろうが、静か過ぎるような……。

「I・Cが和平派特務員である限り下水道で生活させる事は不適当だと推測する」とシャマイムは言った。フィオナが目元を押さえて、

「……要約すると『仲間だから面倒見るよ』か……シャマイム、シャマイムはお人好し過ぎると思うの。 こんなクズ相手に、振り回されて……」

「うわッ、酒臭い!」ニナがシャマイムを手伝おうとして、飛びのいた。彼女は妹とは対照的に、活発でしゃきしゃきとした女性である。「火を点けたら絶対良く燃えるわよ、コイツ! ってか燃やそう! みんなで燃やそう! きっと世界一楽しい焚刑になるわよ、だってI・Cの事みんな嫌いだから」

「ボスが処分を下さない限りI・Cを焚刑には出来ない。 そもそも焚刑はかつての異端者弾圧でよく用いられた処刑方法であり、現在の倫理観念とは相容れない」

シャマイムの言葉に、ニナは絶句してから、はらはらと涙をこぼし、

「『いくら何でもI・Cにガソリンぶっ掛けて焼き殺すのは可哀そうだ』なんて、そんな言葉が出てくるのはシャマイムだけよ……本当に優しいのね……」

「自分は兵器だ。 兵器に『優しい』は存在しない」

「照れなくて良いよ、シャマイム!」ニナは感動した様子で言い、それからI・Cを睨みつけて、「ったくI・Cの動く生ゴミバイオテロ野郎なんかシャマイムの爪のアカでも……!」

その時I・Cは目を覚まして、ニナの台詞を聞いてしまった。

「ぶっ殺すぞこのクソアマ!」瞬間沸騰するI・C。

「やれるものならやってみなさい!」ニナはきっぱりと宣言した。「I・C、アンタなんかの味方は誰一人いないって事を思い知らせてやるから!」

「味方がいようがいまいが関係ねえ! 全員虐殺してやる!」

ヒートアップする二人に、ぼそりとフィオナが言った。

「……姉さんに何かしたらボスに言うからね」

「――」心底憎々しげにI・Cは言った。「貴様ら、俺をどうしても屈服させたいようだな」

「違うよ、シャマイムに向かってアンタを土下座させたいだけ! それで今までの悪逆非道な行いを世界中の人に謝りなさい! この強姦魔の殺人鬼の人格障害者! と言うかアンタなんか強姦魔の殺人鬼の人格障害者以下!」ニナがまくしたてた。「いつだったっけ、小さい子供がはしゃいで道を走っていたら転んじゃって、わあわあ泣いている所を、『うるせえ』って蹴っ飛ばしたの! 私まだ覚えているよ! 他にも何だっけ、強姦未遂で警察に捕まったよね? それも可愛い男の子相手に襲い掛かったって! あの時は本当にぞっとしなかったよ!? 当然ボスを激怒させたのに、何らアンタは反省せずにその二日後に今度は幼女を誘拐しようと……!」

「ひい」と言う声が聞こえてI・Cがそちらを向けば、完全に震え上がったアズチェーナが腰を抜かしていた。I・Cと視線が合った途端に、彼女は必死に這ってでも逃げようとする。「変態だ、へへへへへへ変態がいる、誰か、誰か――! 警察を! お巡りさんを!」

「アズチェーナ」とシャマイムはニナとI・Cの間に割って入ってから言った。「I・Cは警察では制圧不能だ。 もしも襲撃された場合は、全力で抵抗し、即座に特務員を呼ぶ事を推奨する」

アズチェーナはどうにか起き上がって、「わわわわわ分かりました! ……普通、と言うか常識をほんの少しでも持っている人なら、自分より弱い者を攻撃する事なんてしませんよね……」

「生憎コイツは普通じゃないし常識も完全に欠落しているのよ」ニナがさも不愉快そうにI・Cを横目で睨み、「誰からも嫌われて、誰からも憎まれて、その癖まるでガン細胞みたいにしぶとい。 異名も『魔王』! だから並大抵の悪事はやっていると思って良いよ。 コイツだけに関しては悪口が真実だから」

アズチェーナがわっと泣き出した。「あ、あだじ、よぐ、じんじんげんじゅうでいぎのごれだああああああ! ごろざれなぐでよがっだー!」

「……ぎゃあぎゃあうるせえんだよ!」I・Cが完全に逆上した。「テメエら全員なぶり殺してやる!」

その時、よろよろとエントランスホールに、現在入院中であるはずのグゼが入ってきた。顔色も最悪でふらふらとしていて、今にも死にそうな有様であった。

「あ……」と彼はシャマイムを見つけた途端に、ついに倒れた。シャマイムはグゼを抱き起こす。グゼは脂汗で濡れた顔をしていた。

ニナがびっくりして訊ねる、「な、何があったのグゼ!? アンタ入院しているはずじゃ……!」

「……お世辞を言ったんだ、看護師(五〇代♀)に」グゼはうめくように言った。「あくまでも女性向けの社交辞令のつもりだった、俺は。 そうしたら……」

「……本気だと受け取った看護師が、貴方に色仕掛けで迫ってきたり、断ったら貴方を殺そうとしたの?」フィオナがぼそりと言う。

大当たりだったのだろう、グゼはぐったりとして、

「……女なんか嫌いだ……男しかいない世界に行きたい……」

「ケッ」I・Cが忌々しそうに言う。「罪な野郎だぜ! 早く死ね!」

「ちょっと! グゼが『罪な野郎』なのは分かるけれど……『死ね』ってあんまりよ!」ニナが食ってかかった。「自分がモテないからって何ひがんでいるのよ!」

フィオナも後方で支援攻撃をする。「I・Cって、女医さんを手込めにしようとした事があったそうだけれどさ、言い換えればそれだけモテないんだよね。 モテ過ぎて困っているグゼとは大違い」

「ええええええええええ、じょ、女医さんを!!? 頭完全におかしくないですかこの人! くるくるぱーってヤツですよ!」アズチェーナが何ら邪気なく言ってしまった。「……でもそれもそうですよね、I・Cさんと付き合う人って、I・Cさんに金か力かそのどちらかしか求めていないとあたしも思います。 I・Cさんを心底から好きだって人、この世界がいくら広くてもどこにもいないですよ」

I・Cは額に青筋を浮かべて、鞭を手にし、

「よーし全員そこに並べ、まずはその眼球からつぶしてやる」

「現在の最優先事項はグゼを医療室に連れて行く事だ」シャマイムが自動浮遊式担架に変形した。それにグゼを乗せて、シャマイムは動き出す。「なおビル内での闘争行為は緊急時を除いて一切禁じられている。 規律違反者はボスより直々に処分命令が下る。 I・C、『忘れていた』はボスには一切通用しない事を警告しておく」

「……チッ」I・Cは憎々しげに舌打ちした。


 「うわ……」とフー・シャーは思わず顔をしかめた。「これは酷い……」

ロンディニウムの中の公園の一つ、ハイド・パーク。そこに植えられた木は折れ曲がり、地面には穴が空いていた。飛び散っているのは血か、肉片か、それとも土くれか。既にアルビオンの軍隊が出動してロンディニウムは厳戒態勢が敷かれている。救急車や軍関連の車がせわしなく道を行き来していた。

「自業自得だろ」I・Cは何がおかしいのか、ニヤニヤとしていた。「アルビオンが最初に卑怯な真似さえしなければ、狙われなかったんだ。 たかが列強諸国の身の上で、身の程知らずの背信行為をするからだ」

「だからってこれは……」と、フー・シャーは血にまみれて地面に落ちている兎のぬいぐるみを見て、痛々しい顔をした。「とにかくボスに言われた通り、シラノを止めよう」

「……二手に分かれてシラノを叩くぞ」セシルは、何かの感情を吐露したいのを必死にこらえて、言う。「止めるんだ。 一秒一分でも早く!」

「了解した」シャマイムが言う。「自分はI・Cと行動する。 セシル、フー・シャー、相互連絡を密にし、シラノを発見した場合は即座に制圧もしくは増援に向かおう」

I・Cはやはりいやらしくニヤニヤとして、

「へいへい、じゃシャマイム、行くぞ」


 「駄目だ、絶対にそれだけは駄目だ!」オットーは怒鳴った。「『付いていく』だと!? アルビオンはもう特務員がうろつく敵地なんだぞ! 絶対に駄目だ!」

彼は、シラノを止めるべく動いていた。アルビオンに行くつもりであった。

「じゃあ一人で行きます!」少年ルイスは怒鳴り返した。この少年も、シラノに救われた子供の一人だった。「大体オットーさんは、シラノおじさんを一人では止められなかったじゃあないですか! でも僕なら止められるかも知れない! だって僕は『詩謳いホメロス』だから! 僕の詩なら、今のシラノおじさんにも届くかも知れないんです! 行ってきます、じゃあ!」

とルイスは彼に背を向けて勝手に行こうとした。

オットーは心底悪いと思ったが、ルイスの頭を背後から殴り、気絶させた。

「すまないな、だが行かなければ……」オットーは倒れた少年をベッドに寝かせて、呟いた。「もうあの人は傷だらけで、致命傷を負ったがために、痛みを一切感じられなくなっているのだから」


 シラノはぼうっとしている。

彼の能力により、ロンディニウム中央駅前の、路上を過ぎ行く人の心が聞こえてくる。中には情景を伴う心が見える。

『今日はケーキで、お祝いしなきゃ! プレゼントは何にしよう?』

幼い娘の顔。ラッピングされたプレゼントの小さな箱。

『おいおい最近のアルビオン、どうしてこんなにテロが起きているんだ? また上が馬鹿な事しでかして過激派をつついたのか?』

ニュースのアナウンサーの顔。アルビオンの政治家達の顔。

『仕事仕事仕事。 朝から晩まで仕事に追われた人生さ、どうせ。 まあ、でも子供の寝顔を見ると、それでも悪く無いな』

会社で上司に怒鳴られた。安らかに眠る家族の顔。

『死にたい。 みんな死ねば良い。 何でコイツら幸せそうな顔をしているの? あーあ、今ここでテロが起きてコイツら全員死ねば良いのに。 そしたらアタシ、きっと笑える』

彼氏に振られた。彼氏が振った際の文句、『お前は人の不幸を心底面白そうに喋るから』。

そうだな、とシラノは考える。確かに他人の不幸は蜜の味だ。だから、と彼は手元にある小さなスイッチを押した。全員死ねば良い。

声々が一瞬で途絶えた。そして爆風と轟音、振動が伝わってくる。悲鳴と絶叫と泣き叫ぶ声が入り乱れて聞こえた。でも、それらを聞いても今のシラノは本当に何とも思わなかった。以前ならば過激派め、と憎々しく思ったのに、本当に何とも思わなかった。完全にどうでも良かった。彼はその場から立ち去ろうとした。

『……………………ぷっ』

笑いをこらえきれずに吹き出す声が聞こえた。この場にはもっとも似つかわしくない声だった。

「!?」

シラノは流石にあ然として、その声を出した者は誰か、物陰に隠れて探した。

『蛆虫、虫けら、うじゃうじゃ大地の上にはびこる人間共。 所詮は土くれから生まれた身の上。 死ね死ね死ね死ね、もっと死ね! 一匹二匹三匹四匹、死ね死ね死ね死ね、全部死ね! ――そうさ、そして俺は独りになる』

I・Cだった。シラノを、シラノが隠れている物陰を、爆煙の向こうから、見すえていた。


 「ロンディニウム中央駅前広場にてシラノ・ド・ベルジュラックを発見」シャマイムがサラピス‐Ⅶを構えた。「戦闘開始」

「俺に任せろシャマイム」とI・Cは歪んだ笑顔で言う。ぐるりと惨状を見渡して、「お前はこの哀れな爆破テロの被害者共を助けたいんだろう? うぷぷぷぷ、言わなくても良いさ。 分かっている。 だから、俺に殺させろ。 フー・シャーとセシルを呼びながら、精々お好きな慈善行動を取るんだな。 ほら、何してやがる、行けよ」

シャマイムは、だが、ノーと言った。

「I・Cに単独行動させた場合の被害状況を推測した。 現状を凌駕する絶望的被害が推定される。 よって、自分は救出行為ではなく戦闘を実行する」

「あっそ。 じゃあ勝手にしろ」I・Cは鞭を手にした。「とにかく俺はコイツをなぶり殺す」

 ……シラノはロクサーヌを手に、冷静に状況を判断した。まともに戦えば、この前の二の舞になるだけだ。ならば、と彼は決めた。この手を使おう。

「これが何か分かるかね?」と彼は小型の電子タブレットを手の平の上に乗せた。

「知らん。 どうでも良い。 ……あー」とI・Cが嫌なモノに対して閃いたような顔をし、ロンディニウム中央駅を見た、「まさかアレをぶっ壊す起爆スイッチか? それも時限式……のように見えるな」

「ご明察だ。 ちなみに解除するには私のみが知るパスワードを入力する必要がある」

「あー。 俺はどうでも良いんだがシャマイムはとてもそうじゃなさそうだな」

I・Cはちらりと小柄な兵器を見る。案の定兵器は言い出した、

イエス。 これ以上の爆破テロの被害は抑えるべきだ」

「偽善ここに極まれり、だな」I・Cは面倒臭そうに、「アルビオンの人間がいくら死のうが生きようが、どうだって良いじゃねえか。 アイツらが死んだ所為で、次の日から俺の酒が無くなるなんて事も無いんだぜ? たとえ明日の朝、人間が幾千幾万幾億死んだって、この世界は延々と続いていくんだからな」

シャマイムはそれを聞いても怒りもせず驚きもせず、淡々と言葉を繋げる。

「時間的猶予が無い。 シラノ・ド・ベルジュラック、取引条件を端的に言え」

「聖教機構和平派にアルビオンより撤退してもらおう。 そちらだって過激派と全面衝突するのは嫌なはずだ」シラノはそう言って、ロクサーヌを構えた。「否と言えば即座にこのタブレットを破壊する。 そうすれば爆破を避ける手段は、もう何も無い」

「良いな、弱い連中ってのはこうでなきゃならない!」I・Cはご機嫌で、「表裏卑怯でなきゃ弱い連中ってのは生きていられないんだ! だから俺は大嫌いだ。 弱い癖に俺相手に立ち向かうヤツには、その弱さゆえに色々なものを喪失すると言う絶望を教育してやらなきゃ、だろう?」

「……現在の我々の至上任務はシラノ・ド・ベルジュラックの打倒だ。 よってそちらのその条件は、我々の任務と抵触してしまう」シャマイムが珍しい事を言った。「交渉は決裂した。 シラノ・ド・ベルジュラック、繰り返す、交渉は決裂した」

「では」とシラノはタブレットを撃ち抜くべく、撃鉄を鳴らした。「アルビオンの諸君、さようなら。 卑怯な自国の政府と無慈悲な聖教機構を地獄で恨むが良い」

銃声が響いた。


 瞠目したのは、I・C達の方であった。

「貴様は、オットー!」

あの青き青年が、こつ然と出現し、シラノに体当たりしてタブレットを奪ったのである。それは同時に、シャマイムの瞬間狙撃からシラノを逃してもいた。

「シラノさん!」オットーはタブレットを手に、叫んだ。「もう貴方がこれ以上傷つく必要なんて無いんです!」

「オットー……」タブレットを撃ち抜き損ねたシラノは、あ然とした顔から、すぐに哀しさを噛みしめた顔に変わる。「もう遅い。 全てが手遅れなんだ。 私は、もう――」

「子供達が貴方を待っている! それに、貴方は、ここで死ぬべきじゃない! あの子達をまた親無し子にしたいのですか!」

「……オットー。 私は、」

言いかけたシラノを遮って、オットーはシャマイム達へ向かって大剣を構える。

「聖教機構の相手は俺がやります、ですから、もうこれ以上は――!」

「……無理だ。 今の私には無理だ。 かつての私にならば出来ただろう。 オットー、人が堕ちるのは本当にあっという間なんだよ……」

不当に奪われた子供達の未来が、今や彼の壮絶な復讐心となっている。

「堕ちたとしても這い上がれば良い、そうじゃないんですか、シラノさん!」

その時、詩が聞こえた。不思議な声だった。音波と言うよりは、精神に響く――とても、とても優しい声だった。

『ラマで声が聞こえた。

激しく嘆き悲しむ声だ。

ラケルは子供たちのことで泣き、

慰めてもらおうともしない、

子供たちがもういないから』

「「!?」」

シラノとオットーの両目が見開かれた。

「ルイス!?」オットーがアルビオン中央駅を見た。そこから一人の少年が走ってくるのを目の当たりにした。「き、気絶させたはずなのに、どうして付いてきた!?」

「オットーさんは言う事を聞かないと最終手段に出るのは分かっていましたから!」ルイスは誇らしそうに、「それで殴られるのは分かっていましたから、殴られても何て事無いように特殊な装備を――物理攻撃に対して強化されたカツラをかぶっていました!」

「馬鹿、こっちに来るな!」オットーが瞬間転位して、ルイスの前に立った。

「チッ」少年を人質にし損ねたI・Cが舌打ちする。

「シラノおじさん!」ルイスは一生懸命、言った。「帰りましょう、みんなの所へ帰りましょう! みんな待っているんです、ですから、ねえ!」

「……私、は」と泣き出しそうな顔で言いかけたシラノの顔が引きつった。「逃げろ!」

 ――ロンディニウム中央駅が、爆破された。


 ……。

「あーあ。 助けようとした連中が全員死んじゃったな、シャマイム。 お前の瞬間狙撃が成功していればまだ違ったかも知れないのになー」

嫌味を言って、爆風から地面に伏せて逃れていたI・Cが起き上がる。辺りは粉じんやら飛び散るガレキによって、何も見えなかった。

「……」爆風で吹っ飛んだシャマイムは何も言わない。

「シラノおじさん!」ルイスの絶叫が響いた。風が吹いて、わずかに視界が開けると、そこには、爆発の余波で飛んできた資材が、シラノの胴体を幾つも貫いていて、そしてシラノが盾となったおかげで伏せていたオットーとルイスは無事だった。

「シラノさん!」オットーが倒れたシラノにすがりついた。そして、もう、魔族の身体能力をもってしてもシラノの命が持たない事を悟る。「そんな……!」

「これで、良いんだよ、私は、やっと……止まれる」シラノはかすかに微笑んでいた。「オットー、ルイス、ありがとう。 子供達を、頼むよ……」


 「……そうですか。 シラノの制圧完了を確認、任務達成ご苦労様」マグダレニャンはそう言って、紅茶を飲んだ。「ところでI・C」

『何だお嬢様』とモニターの向こうで、一人、I・Cはにたにたと笑っている。

「お前はまた本気を出さなかったのですね。 お前がやろうと思えば、ロンディニウム中央駅は無事だったはず」ぎろりとマグダレニャンは、彼を睨んだ。

『だって人が虫みたいに死ぬのが面白いんだ。 なあお嬢様、殺人の一体何がいけないのか教えてくれないか? 報復が怖い? 恨まれるのが怖い? 罪を犯したのが恐れ多い? 他人の痛みを完全無視するのが良くない事だから? そもそもこんな質問をするな? だが俺は問うぜ、人を殺す事の何が一体いけないんだ? たとえ神がそれを禁止しようと、それは何ら根拠が無いものなんだぜ』

「……貴様がそう言うとは、意外ですわね。 彼女一人を殺した事を、未だに後悔している癖に」

『――』I・Cの顔に、苦痛に近い表情が浮かんだ。『俺はあの時に戻れたら人間として死んでいた。 死んだ方が幸せだった。 でも、俺は、もう一度、もう一度だけ、あの腕の中に帰りたかった。 あの優しい腕の中へ――』

「だから悪魔に魂を売り渡し、貴様は化物へと成り果てた。 ……哀れな生き物ですわね。 本当に哀れな化物。 理性を捨てられず、渇望は満たされず、絶望が増えていくのみ。 死んだ方が幸せ、そう言う運命もあると言うのに、お前はその運命を最悪の方向へ変えてしまった」

『……』I・Cは何も言わない。


 「……そう、か。 シラノは、やっと楽になれたのだな」

「死が絶対的な救済、とは思わないけれど……あの子の折られた心は、これ以上傷つかなくても良いのよ。 ……オットー、お疲れ様でした」

「しばらく休んでおいで。 悪い事は言わないからさ。 お前もさぞ疲れただろう。 嫌だと言っても無理やりにでも休ませるよ」

「……はい」

「アルセナールも付いて行かせよう。 あの子も最近疲れた顔をしているからね」

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