第5話 【ACT五】新人

 「俺は疑問に思うんだが」退院したばかりのグゼが言った。「I・Cは何で薬物ドラッグに手を出していないんだ? 何故酒だけで済んでいるんだ?」

「……バッドトリップって分かるか?」I・Cはどうでも良さそうに言う。「ありとあらゆる薬物は、それこそ薬から猛毒まで試したさ。 だが俺が見る幻想はいつだって『悪夢』そのものなんだ」

「ああ、それでか」彼らと同じ特務員の、吸血鬼の青年フー・シャーがぽんと手を打った。「良かったな、薬物に手を出したのが知られたらボスの地位も危うくなる。 まだ酒なら……って」そこでフー・シャーははっとした。「飲酒運転、してはいないよな!?」

「俺は免許持ってない」

「ああ、良かった」とフー・シャーはほっとした顔をしたが次の瞬間、「まさか無免許でしかも飲酒運転しているんじゃ!?」

「どうだって良いだろ。 俺が法律だ」

「良くない良くない良くない何も良くは無い! 何でI・Cみたいな人非人が『俺が法律だ』なんて言うんだよ! そのセリフはシャマイムみたいな滅茶苦茶良い子が」とフー・シャーは言いかけて、そこに、

「シャマイムみたいな滅茶苦茶良い子はそもそもそんな発言をしない」グゼが突っ込んだ。「I・Cのような人でなしのろくでなしが大抵言うんだ、そのセリフは」

「ああ、そうだよねえ」とフー・シャーは頷いた。「でもシャマイムの『自分が法律だ』なら『うん、そうだね、分かった』って素直に従える気がする」

「そうだな、同感だ」とグゼが言った。

「あ、俺もだ」ひょっこりと顔を出したセシルも言う。「シャマイムが法律なら万々歳で大歓迎だな。 比べてI・Cが法律だなんて言われた日にゃ……」

「そんなに俺の法律は嫌か」I・Cは不機嫌そうに言う。

「「嫌だ」」即答で、ハーモニーが出来た。

「だってアレだよ、酒臭そうだよね……」とフー・シャー。

「どうせI・Cだけに都合の良い条文ばかりなんだろう?」と、グゼ。

「どうせボスの手で粉砕してくれたら拍手喝采が起きるような内容なんだろう。 酒はただで売れとか酔いつぶれたらシャマイムに介護させろとか」セシルが言ってしまった。I・Cは腹を立てて、

「じゃあシャマイムの場合ならどうなんだ!」

三人は少し考えた後、

「条文その一、人には親切にしよう」

「その二、仲間は守ろう」

「その三、任務放棄して酒場に逃げ込むのは止めよう」

「その四、お見舞いには花束を」

「その五、ゴミはゴミ箱へ」

「その六、左の頬をぶたれたら右の頬を差し出そう、られる前に殺れなんて絶対に止めよう」

「あ、それがまず条文の一番上に来るな!」

「そうだね!」

I・Cが憎々しげに、「お前らシャマイムが『兵器』だってのを忘れちまっているだろう」

「人でなしのアル中より人間の出来た兵器だよ」とフー・シャーが言い返した。I・Cはむすっとした顔で黙り込んだ。


 聖教機構和平派。第一一九次世界大戦を止めるべきだと主張し、万魔殿と恒久和平を締結するべきだと訴え、かつ、『真なる神』を信じるべきだと叫んでいる勢力である。これと対立関係にあるのが、同じ聖教機構の強硬派であった。こちらは『旧き神』を信じるべきだと言い、かつ、万魔殿を完全打倒するまで戦争は継続するべきだと引き下がらない勢力だった。この両者の対立は決定的なものになっていて、もはや武力抗争に至る寸前であった。それでも彼らが真正面から激突しないのは、万魔殿と言う共通敵がいるから、だけである。だが和平派は強硬派の無差別爆撃を糾弾していたし、強硬派は和平派の『真なる神』が教義に反する上に宿敵に屈服するなどありえないと唱えていた。

 同時に、万魔殿内部でも対立が起きていた。過激派と穏健派が不仲なのである。過激派は文字通り過激な行動を取る派閥で、主に自爆・爆破テロをまるで趣味であるかのように聖教機構に対して行っていた。穏健派はそれを白眼視しており、そんな馬鹿げた真似より早々に和平の締結をと言っていた。それを弱腰だ、屈辱だ、と過激派は蔑視していた。彼らが分離しないのも、ただ聖教機構と言う共通敵がいるから、たったそれだけなのである。


 『今回の任務は』通信端末の向こうで、マグダレニャンは言った。『新人ルーキーの特務員の研修です』

「……それなら俺じゃなくてもっと適材がいるだろうが」I・Cはぼそりと答える。例のごとく彼は酒場にいた。「グゼとかシャマイムとかフー・シャーとか他にも沢山」

『生憎その適材には全て別の任務が入っているのですわ。 私もI・Cに任せるのは本当に不本意なので……彼らの任務が終了し次第、加わらせます。 それまでおやりなさい』

「はいはい、分かったよお嬢様」

『それでは、ヴィルラ街の和平派拠点ビルに行くように』


 ほとんどの吸血鬼にとって日光は害毒である。彼らは否が応でも夜行性にならざるを得なかった。それでも昼間起きる場合は、ミイラのように包帯で体の露出部分を隠したり、もしくは特殊な装置を装備して自分に当たる日光の中の有毒光線を吸収させるようにしていた。

だがI・Cは、まさかその両方をやっている吸血鬼がいるとは思わなかったのである。そこまで臆病な吸血鬼は見た事が無かったのだ。

(何だコイツは)それがヴィルラでI・Cが彼女に出会った際の第一印象であった。(何か訳の分からないヤツだ)

彼に対して怯えている、何だか、細い、か細い、言っては悪いが性的魅力が皆無なくらいにガリガリに痩せた物体Xがいる。物体Xは日傘を持って包帯で全身をぐるぐる巻き、それに加えて遮光機を身に付けていた。

物体Xはまるで小ウサギのようにぶるぶると震えていて、発声その一、

「え、ええとええとあのそのええとごめんなさい!」

だった。

「……何でいきなり謝るんだ?」

「あ、あ、あ、あ、あ、あ、そ、その、ええと、何かごめんなさいって気分なんです……あたし」

何だこれは。I・Cはそう思ったが、すぐにどうでも良くなって、

「お前がアズチェーナだな?」

「は、はい! I・Cさんですね、よよよよよよよよろしくお願いします……そ、それで、あの」と彼女は言った。「初任務の内容は何でしょうか……?」

I・Cはさらりと言った、「割と楽な仕事だぞ、誘拐だ」


 アンドリュー・ロラと言う男がいた。強硬派に所属していて、かなりの地位に就いていた。だが、この男は裏でマフィア『ドリアン・グレイの肖像』と通じていた。麻薬密売を見逃す代わりに、金を受け取っていたのだ。おまけに自分の養子にした少年と、ふしだらな関係になっていた。この二つの醜聞スキャンダルを手に入れたマグダレニャンは、当然ながら強硬派を蹴り落とすべく暗躍する。マフィアとの癒着を暴きだし、アンドリューを異端審問裁判にて告発するべく証拠を集め始めたのだ。既にマフィア側の決定的証拠は掴んでいる。残るは、この証拠の鮮度が良い内に強硬派に致命的な打撃を与える事だ。それが、アンドリューと愛人の少年ロビンとの『ふしだらな関係』であった。だが、薄々強硬派の中でもマフィアとの癒着やこの関係に気付いている者がいるらしい。無差別爆撃が大好きな強硬派の事だ、ロビンを殺してでも口封じするかも知れない。あるいはアンドリューを殺すか。念のためにマグダレニャンはアンドリューの方も確保させるべくセシル達にも出向させた。I・C達はロビンを誘拐すれば良い。

 「……って事でこのガキを拉致って確保し、安全圏まで連れて来い。 それが今度の任務だ」

「な、なるほど」とアズチェーナは頷いた。「それで、どうやって拉致するんですか?」

「ええと」とI・Cはロビンの情報を確認する。「登下校の所を襲うのが良さそうだ。 ……それにしてもだ、良いご身分だな、お坊ちゃまの中のお坊ちゃまのみが通える、モンマルトル王国の私立タンホイザー学園に通って、しかも重力車での送迎付きで。 いくら愛人やっているからって、コイツは少しくらい怖い思いをさせなきゃ不公平ってもんだぜ」

「こここ、怖い思いって、具体的には……?」アズチェーナはびくびくしている。

「決まっているだろ、暴力振るうんだよ」I・Cはまたその薄汚い性根を見せる。「口の中に拳銃突っ込んでしゃぶらせたって良いくらいだ」

「……あ、あのー」アズチェーナは遠慮がちに聞いた。「あたし、その、ええと、あんまり頭が良くないって言われているので馬鹿な質問だったらすみませんが、聖教機構和平派って、戦争を止めよう、優しい神様を信じよう、ってのがスローガンじゃ……?」

「本音と建前だ」

「で、でも、や、やりすぎですよ!」と彼女は必死に訴える。

「俺の場合、やりすぎなのが丁度良いんだ」

アズチェーナはこっそりと、I・Cには聞かれないように呟いた。

「……I・Cさん、『アル中で人格障害者で、俺はあんな最低な男は見たことが無い、近付くと誰彼構わずに暴行して強姦して挙句の果てに殺すから気を付けるんだ』って本当だったんだ……」

「それ誰が言った」

「グゼさんが教えてくれました、秘密だって。 あ」ここでアズチェーナは青ざめて、「ま、まさか聞こえていましたか!?」

「生憎俺は地獄耳でな」目の端をひくひくとけいれんさせて、I・Cは握っていた酒瓶を握りつぶした。

「うわああああああ!」アズチェーナはパニックになった。「グゼさんが殺される、暴行されて酷い事されてこここここここここ殺される! 誰か、誰か、そうだボスに助けをお願いしなきゃ!」とアズチェーナが通信端末を取り出した所でI・Cは彼女を殴った。

「きゃあ!」

アズチェーナは悲鳴をあげた。警察官がすぐに飛んできた。ここはモンマルトルとも往来のある空港の混雑するロビーで、おまけにがりがりな少女と雰囲気が怖い男と言う滅茶苦茶な組み合わせは、嫌が応にも人目を引いていた。その雰囲気の怖い男が少女に暴力を振るったとあれば、もはや誰の目にも男は凶悪犯罪者であった。

「動くな! 婦女暴行の現行犯で逮捕する!」

警察官は果敢にもI・Cを止めようとした。

だが、それで止まるなら、グゼはI・Cを『俺はあんな最低な男は見たことが無い』とまで酷評しない。

「引っ込んでろ警察風情が!」I・Cが鞭を取り出した。「こうなったら仕事なんてやってられるか、グゼをぶっ殺してやる!」

そして彼は来た道を引き返し始める。

「ま、待て、どこに行くつもりだ!」警察官が銃を構えた。

「ウザい。 死ね」とI・Cが鞭を振りかざして警察官が青ざめた時、通信端末が鳴った。

I・Cの顔色が変わった。鞭を収めて、通信端末を取り出す。

『あーらI・C、新人をいびり倒すのも趣味だったとは、私も知らなかったですわねえ?』

それは、彼らの主、マグダレニャン直々の通信だった。

アズチェーナが殴られてもなお諦めずに、ご注進したのだろう。

「……グゼが悪いんだ、ある事無い事アズチェーナに吹き込んだんだぜ」

『そのある事無い事って何かしら?』

「俺が殺人鬼の強姦魔で人格障害者だと……」

『全部当てはまっていると私も思いますが、何か?』

「……」I・Cは無言である。

『四の五の言わずに任務を遂行しなさい』

「……でも」

反論など要らないと、彼の主は彼を怒鳴りつけた。

『私の命令を聞け、下僕!』

それで通信が遮断された。

五分ほど、落ち込んでいたが、やがてI・Cは警察官に言った。

「俺は何で俺みたいになったんだろうな?」

そんな事を聞かれた警察官が、本当に良い迷惑であった。


 「わー」とアズチェーナはモンマルトルの都市アヴィニヨンの美しい様を見て、声を上げた。赤褐色のレンガで作られた街は、優雅で、上品であった。この街は、道往く人々ですらとてもお洒落であるように見せた。「綺麗な街!」

「この街はな、亡国クリスタニア王国が、都市計画で首都を拡張する時に、その外観のモデルとされたんだ」とI・Cは面倒臭そうに言う。

「へぇー、凄いですねえ。 お手本にしたんですねえ」アズチェーナは感心する事しきりだった。「I・Cさんって物知りだ」

「まあな、俺ほど生きていれば、嫌でも物知りになるさ。 で、私立タンホイザー学園はこっちだ」

I・Cは車を走らせる。アズチェーナはしばらく助手席から車窓にへばり付いて街並みを見ていたが、ふとI・Cの方を向いて、

「あ、あの、あたし、馬鹿って言われているんで、今の世界情勢とか、詳しくないんですけれど、聖教機構、万魔殿、帝国と並んで、モンマルトル王国やアルビオン王国みたいに、列強諸国が今では台頭しつつある……んですよね?」

「そうだな、そうだ。 列強諸国が今じゃかなり力を持ちつつある。 実際に、かつて列強諸国の一つだった亡国クリスタニア王国が、一度はウチと肩を並べたからな。 だが、まだまだウチの方が力では列強諸国を圧倒している。 まともに戦ったら、滅ぼせるぜ」

「ふむふむ」

「キナ臭くはあるが、まだ火は着いていない。 ヤバいと思ったらすぐにウチにより爆弾の雨が降る。 そんな所だ」

「怖いですね……」

「だがな、現状の勢力均衡を維持しているのは列強諸国だけじゃない。 ウトガルド島や傭兵都市ヴァナヘイムもそうだ」

アズチェーナは不思議そうに、「ウトガルド島……娯楽と享楽の島、でしたっけ? ヴァナヘイムは傭兵都市で……。 それがどうして……?」

「表向きはそうだ。 だがウトガルド島は裏ではマネーロンダリングの世界拠点だ。 今の世界経済はウトガルド島無くして維持できない。 だからあそこは帝国もウチも万魔殿もどこの勢力も介入できないアジールなんだ。 だって下手に介入して金融が滞ったら、世界は恐慌状態に陥るからな」

「なるほど、分かりました」アズチェーナは何度も頷いた。「ええと、じゃあ、ヴァナヘイムはどうして……?」

「あそこはそのウトガルド島と密にくっ付いている、事実上ウトガルド島の軍隊だ。 と言っても関係は対等だがな。 ヴァナヘイムの怖い所は、世界最強の傭兵軍隊なのにどこの勢力にも与しない所だ。 あれだけの武力を持つ輩を敵に回すと、かなり厄介なんだ。 おまけにウチは度々あそこから軍隊を借りている。 金を払ってな。 過去にウチはあそこがいなかったら万魔殿と戦えなかった事だってあったんだ。 敵は少ないに越した事は無い。 ああ、それとウトガルドやヴァナヘイムの他にも色々な勢力があって、今のこの世界は保たれている」

「ほうほう」アズチェーナが納得した顔をする。「そ、想像していたよりも複雑ですね、やっぱり」

「その内慣れるさ」とI・Cはどうでも良さそうに言った。「さてと。 もうすぐタンホイザー学園だ。 楽しい楽しいパーティタイムの始まりだぜ」と彼は手榴弾をいくつも取り出す。その使用目的は、不明。

アズチェーナはぞっとして、悟った。(この人の言う楽しいって、犯罪行為が楽しいって意味なんだ……!)


 「ロビン様」と誰も彼もが敬語で言う。「ロビン様が羨ましいです」と言う。

当然だ、聖教機構のお偉いさんのアンドリューが義理の父親なのだから。金も権力も、勉強の出来る頭も、何よりもその美貌をもロビンは持っているのだから。

でも、何にも知らないからそう言えるのだ、とロビンは思っている。

「……はあ」

ロビンはもの憂げにため息をつく。彼は、死にたいと思っていた。死ねば解放されるのだ、と思っていた。この退屈でびらんした毎日から。

欲しいものは何でも買ってもらえた。望みは何でも叶った。児童保護施設にいた時には諦めていた何もかもが手に入った。アンドリューとセックスする代わりに、得られたものは、誰もが羨ましがるものだった。

でも彼が本当に欲しかったものは、得られなかった。

 その日もロビンはいつものように学園で勉強し、授業が終わったので帰ろうと迎えを呼んだ。校門の内側で待っていると、やがて見慣れた送迎の車がやって来た。ロビンは門の外に出た。次の瞬間、送迎の車に真横から何らブレーキをかけずに、いやむしろフルアクセルで突っ込んできた別の車が激突した。送迎の車は無残にもつぶれて、横転した。暴走車の方も運転できないくらいに車の前方がひしゃげた。ロビンがあ然としていると、その暴走車から痩せっぽちの少女が逃げ出すかのように降りてきて、ぎゃあぎゃあと泣き喚いた。

「う、うわああああああああああああああああああああん、あんまりですよ、こんなのあんまりですよ!!!」

「うるせえ」とその車の運転席から不気味な男が降りてきた。「この程度で泣き叫ぶんじゃねえ」

その男は、あまりの光景に動くに動けないでいたロビンに近付くと、言った。手榴弾を突きつけながら。

「ロビンお坊ちゃま、ちょっと付いてきてもらおうか?」

 ――こうしてロビンの退屈で憂鬱な毎日は、無残に崩壊したのだった。


 「何!? ロビンが誘拐された!?」アンドリューは血相を変えた。「万魔殿か!?」

部下が首を横に振って、

「いえ、和平派です。 送迎の者があの『魔王』が動いたと言っておりました。 アンドリュー様、いかがいたしましょうか?」

「……」アンドリューはやられたと思った。『魔王』が仕えているのは、彼らと敵対する和平派幹部マグダレニャンなのだ。そしてアンドリューは己の悪事がそろそろ発覚しかけているのに気付いていた。だからアンドリューは今日、送迎の者に命令したのだ、『ロビンを処分しろ』と。それが出し抜かれた!「今ヤツらはどこにいる!?」

「恐らく……まだアヴィニヨンの中でございます」

「ならば」とアンドリューはにやりと邪悪に笑う。「こちらも手の打ちようが、まだ、あるぞ!」

その時であった。彼らのいる執務室のモニターに、強硬派最高幹部シーザーが映った。片眼鏡をかけた男だった。恐ろしいまでのカリスマ性と知能を持った男で、強硬派を率いており、和平派のマグダレニャンとは正面から激突している。

『アンドリュー』とシーザーは厳かな声で言った。『お前のやった事は、到底許しがたいものだ』

ざあっとアンドリューの顔から血の気が引いた。このシーザーに悪事を看破された、と言う事は彼の今後の出世や政治活動を全て諦めろ、と言う事だったからだ。彼の政治生命は今この瞬間絶たれた。否、下手をすれば、彼は異端審問裁判に――!

だが、シーザーは首を振って、『私はお前を異端審問裁判に被告として出廷させたくは無い。 極力、それは避けたいと思っている。 我らが強硬派の不利益になってしまう。 だから猶予をやろう。 今日の夕方六時までに、全て片付ければ、私はお前を無事に引退させてやる』

アンドリューの顔に血の気が戻った。それを確認してシーザーは、

『良いな? 期限は今日の夕方六時だ。 では……』

モニターが光を失い、黒くなった。

――そこには、凶悪な顔をしたアンドリューが映っていた。


 「シクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシク」アズチェーナはさめざめと泣いている。「あだじなんでごんなどんでもないびどがらじんじんげんじゅうをうげなぎゃいげないの……!?」

「うるせえな、もう一発殴られたいのか!」I・Cは彼女に車(通りに停まっていたのをI・Cが盗んだ)を運転させて、自分は酒をあおっている。「大体何が悲しくて色気もクソも無いようなガリガリのガキが特務員になったんだ? 泣き虫弱虫役立たず、死んだ方がマシじゃねえか。 つーか死ね」

「じねなんでびどいごどいわないでぐだざい」赤信号で止まった時、アズチェーナはそこでI・Cを恨みがましい目で見て、鼻をすすりながら、「だいだいどうじであなだみだいなびどいびどがどぐむいんになっだんでずが? ぞれどもどぐむいんのびどっで、みんなぎょうあぐなんでずが?」

I・Cはげらげらと笑いながら、

「和平派はぬるま湯に浸かっているヤツらが多いが、強硬派だと凄いぞ。 何せ一匹の害虫を殺すのに、畑全域に爆弾を落とすからな」

「あだじぎょうごうばばぎらいでず」アズチェーナはもう駄目だ、自分はこんな男に新人研修の白羽の矢が立った時点で終わっていたんだ、そう悲嘆しつつ言った。「あだじもぬるまゆがいいでず、シクシクシクシクシクシク」

「……新人研修?」怪訝な声を出したのは、I・Cの隣、後部座席に逃げ出せないよう手錠と縄付きで固定されているロビンだった。「特務員の新人研修なのに僕を誘拐しようと……? しかも二人きりで?」

「おいクソガキ、そう言う言い方をすると俺は不機嫌になるんだぜ」I・Cがにやりと口角を邪悪に吊り上げて笑う。「拷問に遭いたく無かったら減らず口は叩かない事だ」

「でも、二人きりじゃいくらなんでも人数が少なすぎる。 このアヴィニヨンから無事に脱出するのは、あまりにも無理だ。 増援でも来るのかい?」ロビンはもの憂げに言った。

「どうじでむりなんでずが?」アズチェーナが鼻声で言った時だった。

通信端末が鳴った。

I・Cとアズチェーナがすぐに情報を聞く、と同時に血相を変えた。

「アンドリューのヤツ、モンマルトルの役人と繋がっていやがったのか! この街を完全包囲した上で俺達に懸賞金をかけて、殺したらそれを払うだと!?」I・Cが口走った。

「……やっぱり知らなかったんだね」ロビンはため息をついて、「アンドリューはこのアヴィニヨンの役人と癒着している。 アヴィニヨンの官憲全てがアンドリューの支配下にあると言って良い。 貴方達は特務員になったくらいの実力者だから何とかなるだろうけれど、僕は……ね」

「――あ、あの」とアズチェーナがようやく泣き止んで言う。「まるで貴方まで殺される、みたいな言い方じゃないですか、それ……」

「君達の所属は万魔殿じゃあない、和平派だ。 そしてその和平派が僕を殺しにではなく拉致しに来た。 つまり僕にはそれだけの何かがある。 これにアンドリューが気付かないはずが無いよ。 どうせ連れ戻されたって、僕はいずれ殺されるさ」

ロビンは相変わらず気だるそうに、そう言った。アズチェーナはきょとんとして、

「……殺されても、良いんですか?」

「僕はそろそろ死にたいんだ。 だって好きでもない男相手に股を開く人生なんだよ? もう十分に死にたい理由になるさ」

「え」アズチェーナは、心底びっくりした顔をして、「……たったそれだけで?」

ロビンの形相が歪んだ。「たったそれだけ? よくも言えたモンだね、どうせ僕の事なんかろくに知りもしない癖に!」

「いえ、その、ええと、あたし、売春婦だったんですけれど」とアズチェーナは言った。

直後I・Cが酒を毒霧のように吹いた。「どこの男だ、お前みたいな色気もクソもないガキにおっ起てた馬鹿は! 何の薬を使ったかは知らんが、よく起ったな!?」

「あ、あたしに聞かないで下さい!」アズチェーナは車を走らせて、「この世の中には変態がいっぱいいるんです。 ……それにしても、気持ち悪いですよねえ、好きでもない相手に股を開いて、異物を自分の中に入れなきゃならないなんて。 そりゃ、死にたくなるのも、分かります」

「……」ロビンは黙っている。

「で、でも、あたし、まだ恵まれていた方でした。 同じ売春婦の友達もいたし、最低限の読み書きは教わったし。 ちゃんと避妊もしてもらえたので、堕胎なんて酷い目には遭わなかったですから」

「……かなりマシな部類の娼婦宿だったんだな。 普通はもっと過激で、肉体精神ぶっ壊す連中が大勢出るんだぜ、あそこじゃ」

I・Cの発言にアズチェーナは頷いて、

「その、あたしのいた所、戦地だったんで、軍人さんが大勢お客さんとして来ました。 軍人ってほら、戦争に出されるから、凄くすさんでいて。 だから癒しとかを求めて売春婦を買うんです。 そのおかげか、あんまり酷い事はされませんでした」彼女は一度、そこでちょっと黙ってから、「自分が世界一可哀想だって思いたいの、分かります。 自分に世界一同情して欲しいって願うのも、分かります。 でも、それは所詮は自分が悲劇の主人公になりたいって言う、ただの甘えです。 自分に酔っているだけなんです」

「じゃあ」ロビンは叫んだ。「僕にどうしろと言うんだ!」

アズチェーナは考えて、「……あたし馬鹿って言われているんで、正しい事を言えるかは分からないですけれど、それを探していくのが人生、じゃないんでしょうか?」

ロビンの中で、何かが死んで、何かが芽生えた。それは今まで、彼の中に種としてはあったものの、水をちっとも与えられなかったために全く生まれようとしなかったものだった。彼は言った。

「……和平派が僕を拉致した理由は何だ。 理由次第で、僕は言う事を聞こう」

その時、通信端末が鳴った。I・Cが舌打ちしてからそれを耳に当てた。

『やあ。 ……非常にまずい事になったよ』声は、レットのものだった。『アヴィニヨンがアンドリューの手により完全に封鎖された。 これじゃ誰も増援に行けない。 おまけにI・C達は懸賞金付きで指名手配されてしまった。 警察官が総動員された上に、街の住民すらも敵になってしまった。 ――で、グッドニュースとバッドニュースがそれぞれ残り一個ずつあるんだけれど、どっちから聞きたい?』

「悪い方から頼む」

『強硬派特務員が動いた。 あのダリウスだ。 まずはI・C達、それからアンドリューを殺すために動いている』

I・Cは悪態をついた。「ああ、この前、俺がご自慢の面を破壊してやったサナダムシ野郎か。 で、良い方は何だ?」

『さっき誰も行けないって言ったけれど、シャマイムが増援に行けそうなんだ。 ステルス機能を駆使してアヴィニヨンの包囲網を突破すると言っている。 後、他に何か聞きたい事はあるかい?』

「アンドリューの確保には誰が出向いている?」

『セシルとニナとフィオナさ。 あの三人なら間もなく確保に成功する。 でも、恐らく時間的にI・C達の増援には行けないよ』

「来たって役立たずばかりだな。 ところでグゼはどうしている?」

『ちょっとフー・シャーと一緒に入院しているけれど、それが何か?』

「ざまあみろ」I・Cは何のためらいも無く、言った。

『……I・C、今度は何をしたんだい?』

「グゼの馬鹿がアズチェーナに俺の悪口を吹き込みやがったんだ! ぎゃははははは、そのグゼが入院か、ざまあみろ!」

『悪口ってか……I・Cに対しての悪口は僕は普通の評価だと思うんだけれどね。 まあ良いさ、僕は聞かなかった事にする』

通信が終わった。I・Cはご機嫌で言う、

「ロビンお坊ちゃま、俺達のボスがお前さんに証言台に立って欲しいと言っている。 そこで自分が性的暴行をされた事、全部暴露して欲しいんだ」

「ぜ、全部って!」アズチェーナの方が慌てた。「……性的暴行を受けたなんて、そんなの、誰にも言いたくないし、ましてや大勢の前で言うだなんて、ごごごごごごご拷問じゃないですか! あんまりですよ!」

「うるせえ黙ってろ!」I・Cが彼女を怒鳴りつけた。「それさえすればロビンお坊ちゃま、お前さんは全く新しい人生を始められる。 全身を整形して、全くの別人として生きられる。 もう好きでもない男の愛人だなんてやらなくても良いんだぜ」

「……」ロビンは黙っていたが、訊ねた。「僕はもう僕を駄目だと思っていた。 それでもやり直せるのかな?」

「……ロビンさん、貴方が本当にそれを望むのなら、出来る、とあたしは保証します」アズチェーナはふと、遠い目をして、「実際あたしもあの日から変わっちゃったし」

「あの日?」ロビンが聞き返すと、アズチェーナは小さな声で、

「あの日です。 報道こそされなかったけれど、ウェルズリーが地獄に変わった、『ウェルズリー事件』の起きたあの日。 あの日あたしは地獄を見ました」

「……君はあの事件の生き残りだったのか」ロビンは少し顔を引きつらせた。「アンドリューが言っていた、強硬派の軍隊が負けそうになったからって、勝手に戦線を離脱して、勿論そんな事をすれば死罪だから、やけになって、戦地の民間人を皆殺しにしたって……」

「皆殺しなんて可愛い表現で、あれは言い表せるものじゃあなかったです。 マスメディアが報道できないくらいに酷かったんです。 脱走兵を追跡して来た、それこそ人の死体なんか見慣れているだろう別の軍隊の人達が、ウェルズリーの有様を見て、全員吐きましたから」

「そうか……」ロビンは目を閉じた。

「……」I・Cはシャマイム相手に通信端末を作動させて、耳に当てた。彼はその事件についてあまり興味が無かったので、詳細を知らなかったのだ。

 『ウェルズリー事件とは、約半年前に戦地ウェルズリーで発生した強硬派特務員による民間人大量虐殺事件だ』とシャマイムの機械音声が通信端末の向こうから説明する。『戦場に送られた特務員達が劣勢になった聖教機構軍より大量脱走。 脱走は死罪に相当するため、自暴自棄になった特務員達が戦地の民間人を手当たり次第に虐殺。 死者総計一〇〇〇名以上。 だが』

「だが?」I・Cは聞き返す。

『特務員達はほぼ全員がその場で殺害された』

「……誰に?」

『アズチェーナに、だ』

「……何をどうやったらこんなガリガリの色気もクソも無いガキが戦闘においてもプロである特務員を殺せるんだ」とI・Cはアズチェーナに聞かれないように言った。びくびく震えている小ウサギのような、吸血鬼の少女が、どうやったら。

『正確な詳細は不明だ。 詳細を語れる生存者がアズチェーナと民間人数名のみであり、供述の大半がアズチェーナのものであるからだ。 ただ、戦場から脱走した特務員達は元より死罪であり、特務員が民間人を殺したのは現場の状況から明確であるため、アズチェーナは過剰防衛で不起訴となった。 以上が自分の知るウェルズリー事件のあらましだ』

「ふーん。 このアズチェーナがなあ……」

『I・C』シャマイムは念を押すように、『自分は、I・Cはアズチェーナを酷使するべきでは無いと主張する。 彼女はまだ研修中で』

「うるせえクソ兵器が」

通信をぶった切ってI・Cは酒をあおった。


 シャマイムは正真正銘の善人だ。和平派特務員は口を揃えてそう言う。

「風邪で寝込んだらおかゆを作ってきてくれた」

「夜勤の時はコーヒーを淹れてくれた」

「スーツにアイロンかけてくれた」

「本人は否定しているけれど、あれほどの善人は滅多にいないよ」

「何か、死んだお袋みたいに思えてきた……母ちゃん……」

「シャマイムが兵器じゃなかったら結婚したかった」

「何て言うかさ、誰に対しても誠実にそして親切に接してくれるよね」

「聞いた? 横断歩道で飛び出した子供を庇ってまた車にはねられたって」

「だろうなあ、シャマイムは本当に良いヤツだもんなあ……」

そして彼らは一つの結論に行きつく。

「シャマイムを虐めるI・Cは死ね、殺す」

 けれどシャマイムは全くそれを自覚していない。『その状況に最適な行動を取るだけ』、それがシャマイムの常時自覚している行動理念であった。そもそも兵器の自分が何故善人と呼ばれるのか、シャマイムには理解できない。味方を支援し、敵を打倒し、任務を遂行する。それがシャマイムの至上命令であった。その障害になるものは可能な限り事前に排除する、それだけである。シャマイムは味方の、足を引っ張るという障害を排除しているだけなのだ。

ただし、その『味方』の範囲が限りなく広いのがシャマイムであった。赤ん坊から老人まで、和平派の支配下にある、もしくは、保護命令下にあるもの全て。それでシャマイムは子供を庇って車にはね飛ばされる(ただし大破したのは車の方)と言う行動を取っただけ、なのである。シャマイムは兵器であるので感情的になると言う事が無い。だからいつも冷静でいる。冷静に状況を分析し、最適な行動をする。

シャマイムは、だが、時々変な思考回路に陥る事があった。I・Cに関係する行動を取った時に、たまにその思考回路はシャマイムの中にこつ然と出現するのである。その思考回路、否、『感情らしきもの』は、シャマイムに囁くのだ、『I・Cを殺せ』と。『復讐しろ』と。I・Cを殺す理由も復讐しなければならない事案も一切シャマイムの記憶回路には無い、と言うのにだ。

シャマイムは、この事を主であるマグダレニャンに報告した事がある。すると彼女はため息をついて、

「もしもシャマイム、貴方がそうしたくてどうしようもなくなったら、そんな時が来てしまったら、己の感情に忠実になりなさい」

と言った。

シャマイムは混乱する。そこまで強い感情を持たないのである、シャマイムは。シャマイムが意志し、忠実になろうとするのは命令に対してであり、遂行するべき任務であり、味方内での闘争ではないのだ。シャマイムは訊ねた。

「これは自分のバグではないのか、ボス」

「違いますわ。 むしろ貴方が正常な証拠。 ……I・Cが極悪人、否、であるがゆえに貴方が受けた絶望の、当然なる反撃ですわ」

「I・Cは自分に何の被害を与えた?」

「……今はまだ、それを貴方に知らせる時ではありません」マグダレニャンは首を振った。「でも、これだけは告げておきますわ――『あの人でなしは貴方を裏切った』と」

「……」

裏切ったと言っても、I・Cは誰にとっても嫌な男で、敵だけでなく味方の誰からも相当な恨みを買っていた。そんな恨み程度で、このような感情が発生するのか?シャマイムは疑念を抱いている。確かにI・Cの取った行動で自分に不利益が発生した事は多々ある。しかし、それでこのような、どす黒いとも言える感情に行き着くのか?シャマイムには理解できない。

 「――」

シャマイムは今、ステルス機能を最大駆使して、戦闘機の姿でアヴィニヨンへ飛んでいる。現在の所、強硬派に発見されてはいないようだ。

……アヴィニヨンの街がぐるりと包囲されていた。水も漏らさぬ警備状態にあった。これでは穴を掘るか空を飛ぶかでもしない限り、脱出は出来ない。ロビンを連れ出すI・C達はおろか、アンドリューを確保するセシル達もこれでは任務にならないだろう。

『おい』とI・Cの声が通信端末から届く。『今どこにいる?』

「現在アヴィニヨン市街上空にいる。 脱出経路を捜索中……」

『それならもう見つけてある。 お前は良いから精々ダリウスの陽動をやってくれ。 こっちの脱出をヤツに気付かれると厄介だ』

「了解した。 ステルス状態解除、戦闘体制へ移行する」

シャマイムはステルス機能を解除して、その白く優美な機体を夕暮れの空に浮かび上がらせた。地上から声が上がる――来たぞ、シャマイムが!と。


 大地を揺るがすような轟音と、地響きがこだまする。

「ひっ!」アズチェーナがびくりと震えた。「しゃ、シャマイムさん本当に大丈夫なんですか!? こんなに砲撃されているのに!」

「実を言うとあまり大丈夫じゃない」I・Cは言った。「ヤツは妙な所でお人好しだからな、捕まって人質になりかねない」

「え、じゃあ、何でI・Cさんは囮になれって言ったんですか!?」

「……あのなあ」とI・Cはうっとうしそうにアズチェーナを見て、「研修生に囮をやらせても、俺が囮になってお前にロビンお坊ちゃまを無事この迷路から連れ出せって命令しても、最後には俺がボスから大目玉食らうからに決まっているだろうが。 俺が研修生を敵地に置き去りにした、もしくは道も知らない研修生を迷路に放り込んだと因縁つけられて。 ……どっちにしろお前さんは役立たずなんだ」

「あ、あああ」アズチェーナは泣き出して、「ごめんなざい……! ぞうでずよね、ぞうでずよね、あだじ、ごごのみぢぜんぜんじらないんでず……!」

「このアヴィニヨンにこんな道があったなんてね」とロビンが呟いた。「全く知らなかったよ」

「まあな」とI・Cは酒を飲んで、「地下に『下水道』って名前の付いた通路が昔あったんだ、ここには。 かつてこの街が亡国クリスタニア王国の支配下にあった時、整備された。 だがクリスタニア王国の崩落と同時に、『敵国のものなんか使えるか!』ってモンマルトル王国により封鎖されて放棄されたのさ」

「なるほどね」ロビンは頷いた。

彼らはその、今では廃墟となった下水道を歩いている。通路は非常に入り組んでいて、道を知らない者にとってはまるで迷路だった。その真っ暗闇の中を、I・Cがライトを持って照らし、アヴィニヨンから抜けようとしていた。

その時、不意に砲撃音が止んだ。アズチェーナが顔色を変えた。

「お、音が! シャマイムさんが!」

『やあ』と間もなく彼らの通信端末から静かに狂気を混じらせた声がした。『和平派特務員のゴキブリさん達。 お仲間の命が惜しかったら、姿を見せるんだね』

「……あー」I・Cがうんざりとした顔で、「ダリウス。 今度はシャマイムをどうやって捕まえた?」

『簡単だよ、だってこのポンコツは、アヴィニヨンの住民に集団自殺をさせるかそれとも自分が捕まるか、どちらか選べと親切に伝えたら、大人しく捕まってくれたからね』

「……あの馬鹿」I・Cは無感情にそう言った。「人の命なんていくらでも代替が利くってのに」

『I・C。 I・C。 僕の美貌を壊したI・C。 許しはしないよ、絶対に。 ――貴様だけは地獄を見せてから殺してやる!』粘着質な声が恨みを伝える。

「美貌を壊した?」アズチェーナが訊ねた。「I・Cさん、一体それはどう言う――?」

I・Cはしれっとした顔で、「いやこのダリウスが、以前にもシャマイムを人質にして降伏しろとか訳の分からない事を言ったからさ、顔面に膝を三〇回くらいだったかな……いや四〇回だったか? とにかくそのご自慢の顔面に俺の膝をだな、俺の気が済むまでぶち込んでぐっちゃぐちゃにしてやったんだ」

「うわあああああ」アズチェーナは半泣きで、「それはあんまりだ、あんまりだ! そりゃI・Cさん、もしも相手が聖人だったとしても一生憎まれますよ!」

「別に良いじゃん、殺してねーんだ。 俺にしては優しい対応だぜ?」

「……貴方の優しいと言うのは、残酷の一歩後方にいるんだね」ロビンが言った。

『時間をやろう。 五分だ。 五分以内に出てこい。 さもなくばこのポンコツをスクラップにしてやる』とダリウスは告げた。

「困ったなー」とI・Cは面倒臭そうな顔をした。「どうしたものか」

「あ、あたしが行きます!」アズチェーナが言った。「シャマイムさんを助けに行きます!」

「共倒れされたら一番困るんだがなー」I・Cはそこで口をへの字に曲げた。「俺がボスから地獄を見せられる……」彼は自分の心配しかしていない。

「大丈夫です!」アズチェーナは薄っぺらい胸を張った。「こんなの、あの日のウェルズリーに比べたら、何て事無いです!」

「――本当に大丈夫なのかい?」ロビンが心配そうな声で言う。そして彼は自分が他人の心配をした、と言う事実に同時に驚いた。誰かの心配をした自分は、もはや一人ではないのだ。彼はもう孤独ではなかった。彼は、変わったのだ。「……」

「えへへへ、本当です」アズチェーナはにこっと笑って言った。「今度こそ、仲間を助けます!」


 ダリウスの能力は、『寄生虫パラサイト』である。人間にバグを植え付けて、意のままに操作する。これによって敵に同士討ちをさせたり、無関係の人間を己のために忠実に戦う駒とする。

彼の顔はとても美しいが、同時に、邪悪さに満ちあふれている。それは性格の悪さが表に出てきた、格好の事例であった。美しくて邪悪。彼の顔はまるで美を司る悪魔のようだった。否、悪魔の方がまだ善人だろう。だって悪魔はまだ存在そのものが悪なのだ。人であるのに悪魔以上に邪悪になったダリウスほど、邪まではない。

ダリウスは無関係な民間人を大量に殺戮あるいは負傷させるのが、大好きであった。人を殺した数ではI・Cには劣るが、ダリウスはいずれはI・Cをも超えてやろうと思っていた。

ダリウスは今も寄生虫をばらまいて、完全に支配下に置いた人間達を操り、シャマイムを解体している。とは言え知識が無い傀儡が兵器を分解しようと言うのだから、遅々として進まない。それでも内蔵の通信機を取り出すのには成功したから、時間の問題だ。

「……」ダリウスは再生治療を受けて復活した美貌を、邪悪に染めて、それを眺めているが、ふと口角を上げて、「うふふふふ、素敵だ。 破壊は楽しい」と言った。

次の瞬間、

「あ、あのー」と背後から声がしたものだから、ダリウスは仰天して振り返った。

がりがりに痩せた少女がいた。

「貴様は誰だ!?」

この周囲の人間は、全て寄生虫により支配させたはずだ。とするとこの少女は人間ではなく、魔族と言う事になる。魔族の、それも、恐らくは強力な力を持った――!

「えーと、名乗るほどの者では無いです。 ってか」少女の口元から鋭い牙が生えた。「親切で有名なシャマイムさんを虐めるようなヤツは問答無用で殺しちゃっても良いですよね?」

地面を突き破って、少女の周囲から燃え広がる業火のように草木が生え始めた。それは瞬く間に寄生虫に操られている人間を絡めとり、拘束する。

「!」ダリウスは咄嗟に後ろへと飛んだ。「シャマイムを知っているとは、貴様は! そうか、和平派特務員か!」

だが、ダリウスを仕留めるための罠は既に張られていた。後へと飛んだダリウスの背中に何かが当たる。

はっと背後を見たダリウスは、そこに巨大な食虫草が生えているのを見た。それは粘液を滴らせていた――今にもあふれ出しそうな、消化液を。

「しまっ――」

『しまった』と、最後までダリウスは言えなかった。

代わりに絶叫と、じゅうじゅうと肉が溶けて焼ける音が辺りに響いた。

 「シャマイムさん!」とアズチェーナは壊されかけた白い機体に駆け寄る。「シャマイムさん、大丈夫ですか!?」

「……自動修復を開始。 現状で可変可能な形態へと移行――」白い戦闘機は、白い人型に戻った。「謝罪する、アズチェーナ。 ダリウスがアヴィニヨンの住民を人質に行動した事は予測できていた事例だ。 予測済みでありながら回避できなかった自分に一切の非がある」

「つまり、分かってはいたけれどアヴィニヨンの人達を見捨てられなかったって事ですか?」

「簡略すればそうだ」

「……!」アズチェーナはとても感激した顔をして、「シャマイムさんが優しいって噂は本当なんですね!」

「自分は兵器だ。 兵器に『優しい』は存在しない」

「良いんですよ良いんですよ!」アズチェーナは目に涙をためて、「本当に良い人なんですね、本当に優しい人なんですね! ……あだじじんじんげんじゅうはじゃまいむざんがよがっだー!」

『おい何をぐずぐずしてやがる!』I・Cの怒声が通信機から放たれる。『助けるのに成功したんなら、シャマイムを連れて、とっとと脱出しろ!』

「了解したI・C」

頷いて、シャマイムはアズチェーナに言った。

「アズチェーナ、ボスの元へ急ごう。 ――!?」

だが、シャマイムはぎくりと震えて、ばっと夕空を仰ぎ見た。

時は六時を過ぎていた。

「レーダーで探知! アヴィニヨン上空へミサイルが接近している! 恐らくは局地制圧用核ミサイルだ!」


 「核ミサイルだとう!?」I・Cはシャマイム達と合流して、流石に形相を歪めている。「もうどうしようも無くなった強硬派の連中、アヴィニヨンをアンドリューごと消し飛ばすつもりか」

「その可能性が極めて高い、と推察する」シャマイムが言った。「アヴィニヨンへアンドリュー確保のため突入したセシル達が危険だ」

「ボスに言ったか?」

「報告した。 緊急会議が現在行われている」

『それが終わりましたわ』と通信機がちょうど鳴った。マグダレニャンの声が、彼らに命令を告げる。『強硬派……いえ、その首長のシーザーと言う男には、もはや何を言葉で言っても通じないのですわ。 強硬派はアンドリューの悪事を暴かれるくらいならばアヴィニヨンを廃墟にします。 ――I・C、命令しますわ、核ミサイルを迎撃しなさい。 そのための手段は一切不問としましょう。 アズチェーナとシャマイムは、ロビンを連れてセシル達と合流し次第、撤退を』

「へー」I・Cの顔が喜悦に染まった。「核ミサイルをぶっ飛ばすためには何をやっても良いか、か。 そいつは素敵だな! 了解したぜボス、全てはお望み通りに!」

『では、失礼しますわね』と彼女は通信を切った。

「え、え、え、え、え、え、え、え」アズチェーナは目を白黒させている。「どうするんですか!? 相手は核ミサイルなんですよ!?」

「安心しろ、俺は核ミサイルなんかじゃ死ねない!」

I・Cの背中から六対の黒い翼が生えた。あ然とするアズチェーナとロビンに、I・Cはげらげらと笑って、

「ぎゃははははははは、これだ、これが俺には楽しいんだ!」

宙に浮かんだI・Cの体が、あっと言う間に夕暮れの中に消えていった。


 セシル達がす巻きにしたアンドリューを連れて急いでやってきた時、シャマイムが彼らに挨拶代わりに言った。

「ミサイルの反応が遠距離からのものになった。 恐らくはI・Cが迎撃に成功したと推測される」

「やった!」とアズチェーナは無邪気に喜んだ。「これでみんな助かった!」

「そうよ、助かったわ!」と和平派特務員のニナが胸をなで下ろしたが、彼女と双子のフィオナが暗い声で、

「……でも、あのI・Cの事だもの。 まだアヴィニヨンが廃墟になった方がマシって事をやったのかも……あるいはモンマルトル王国と聖教機構が決裂しかねないような事をしでかしたのかも……」

セシルがため息をついて、

「言うな。 どうせアイツの事だ、それ以上の事をやっているさ」

「ぎゃははははは」と、暗くなって星がちらほら見える天上から笑い声が降ってきた。「強硬派のビルに核ミサイルぶち込んでやったぜ!」

I・Cが、ゆっくりと舞い降りてきた。


 アンドリューは壮絶な異端審問裁判にかけられて、極刑が言い渡された。ただでさえ拠点ビルに己が撃った核弾頭を逆に撃ち込まれたので、混乱を抑えきれなかった強硬派は、強く反撃できなかったのもあって、アンドリューは無残な死に様を見せる。……ロビンは、全くの別人となって新しい人生を歩き始める事になった。彼は手術を受ける前にアズチェーナに言った。

「ありがとう」

 かくして、和平派の今回の任務は至上達成された。

しかしマグダレニャンの顔は、怒り狂っている証に、完全なる無表情であった。それは、モンマルトル王国から激怒の抗議があったためだけでは無い。

「……街に核を落としたのですか」

「ああ」とI・Cは平然としている。「手段は不問だと言ったのは、お嬢様だぜ?」

マグダレニャンの執務室は、二人きりであった。誰にも止められない張りつめた空気が今にも雷を落としそうであった。この場から逃げ出したいのにそれが出来ない哀れな猫が部屋の隅で怯えて縮まって丸くなっている。

「……お前は、いつでも無駄に殺しますわね」

「だって楽しいんだお嬢様。 どうせ人間なんかいくらでもいるんだから、別に良いだろー」妙になれなれしい言葉をI・Cは使う。

「流石は裏切り者の堕天使。 ……いえ、魔王。 貴様がそう考える限り、貴様が本当に求めるものは永遠に得られないでしょう」

「……」I・Cが今度は無表情になった。「おいお嬢様。 俺はそこまで暗愚なのか?」

「あら、自覚すら無かったのかしら」

「そう言う認識は無かったが……俺の思考が俺を邪魔するのか」

「少なくとも私はお前の一番求めているものを知っていますし持っていますわよ?」

「じゃあ教えてくれ、『愛』とは何だ?」

「全てです。 ……お前がそれを認識できる好機は一度だけありましたわ。 だが暗愚な貴様は『彼女』を裏切り、たった一つの好機を自らの手でつぶした。 自業自得、実に『』ですわ」

マグダレニャンはそう言って、美しい白磁のティーカップから、優雅に紅茶を飲んだ。

「……レットめ、チクりやがって」I・Cは忌々しそうに呟いた。

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