第43話 詰み

 俺は公園を後にして、愛奈さんのアパートに戻った。もうすぐ昼の二時。する事も特に無かったので、昼寝をすることにした。

 もう何も考えたくなかった。どこに行っても目新しいものばかりが視界に映って、脳が悲鳴をあげていた。ガイドブックも無しに、見知らぬ国へと放り出された気分だ。それでも言語だけは通じるという、奇妙な感覚。もううんざりだった。

 暗い押し入れの中。空気を循環させるために襖は少し開けておく。

 瞼を閉じたが……、すぐには眠れない。

 暗く、静かで落ち着いたこの場所で、今こそじっくり考えるべきじゃないか。脳がそう、重い腰を上げたのだ。


 あの日のことから振り返る。まず俺は、横断歩道の真ん中で意識が芽生えた。これ以外に、それ以前の記憶が無いので、そうとしか言えない。じゃあ何故、俺は横断歩道の真ん中に突っ立っていたのか。

 その時の俺は財布や携帯などの貴重品を一切持っていなかった。唯一持っていたのは、今日初めて持っていることに気が付いたペンダントだけ。

 明らかにおかしいと言える。外出するのに、財布も携帯も持って行かず、あんな大都会に何をしに行っていたというのか。もしかして、俺は乞食だったのか? 昔の俺はとても貧乏で、都会をウロウロと練り歩いては、ゴミ箱を漁って生活していたのかもしれない。たしかに可能性はある……が、あの時の俺は格別、腹は減っていなかったし、服は至って清潔と言える綺麗さだった。今も同じ服を着ている。キツい臭いもしない。……そういえば、あの日から風呂に入ってなかったな。愛奈さんに失礼だ。後で銭湯でも探しに行くか。

 とにかく、おかしい。本当に俺は、あの横断歩道の真ん中に突如誕生した生物。そう断言できる自信がある。

 そんな突拍子もない結論に至るほど、俺が今持つ判断材料は欠如していた。

 諦めて、寝るーーーー。


 物音がする。

 愛奈さんが帰ってきた。午後5時半を過ぎている。「もしかして、ずっと寝てたの?」と愛奈さんは聞いてきたので、いや、納豆ご飯美味しかったよ、と俺は言った。ああ、と、愛奈さんのにこやかな顔が返ってくる。その顔に俺はとてつもない安心感を覚えた。

 それから、愛奈さんは外から二つの赤いポリタンクを重そうに運んで来た。たたきの隅にそれらを置く。


「灯油、ですか?」


「うん、これから寒くなると思うから」


 俺が寝ていた押し入れは上と下に二段に分かれていて、その下の方にストーブを閉まっているのだという。ちなみに俺の寝床は上の段だ。


 それから俺は、愛奈さんの絶品の焼きそばをたいらげ、幸福感に満ち溢れながら、今日あったことを愛奈さんに話すことにした。

 まず、ペンダントの話だ。


「え、それ、めっちゃ重要な物じゃない?」


「やっぱり、そう思いますか?」


「ジョー君の記憶を取り戻す、重要な鍵だよ」


 愛奈さんは、俺がテーブルに置いたそのペンダントを手に取った。中の女性の写真を凝視する。


「……この人、ジョー君の恋人なんじゃない?」


「えっ……」


 心臓の鼓動が急に強くなる。

 愛奈さんの口から、〝恋人〟の言葉が出るのを恐れていた。

 ペンダントを見つけた時の、頭痛とともに流れてきた映像のことは愛奈さんに言っていない。そのペンダントの女性がジョーの恋人、という情報の信ぴょう性を高めると思ったからだ。少なくとも愛奈さんには、俺に恋人がいるということを知られたくなかった。きっと距離を置かれる。そう思ったからだ。


「だって、ペンダントに女性の写真入れてるのなんてさ、付き合ってるか、ストーカーのどっちかでしょ」


「そ、そうだね……」


 出来れば昔の俺はストーカーの方であって欲しい。あの映像も、昔の俺の被害妄想の一部であって欲しい。


「でも、ジョー君はストーカーする人には見えないんだよなぁ」


 愛奈さんのその言葉に、胸を苦しめられる。

 そうですよね。昔の俺はきっとストーカーじゃありません。そのペンダントの女性も、俺の恋人です。

 そう、口走りそうになるのを、グッとこらえた。

 多分、これからの人生で一生味わえないような葛藤が、今俺の中で起きている。


「てかジョー君、実際さ」


 ずい、と、愛奈さんが顔を近づけてくる。


「記憶、取り戻したい?」


 ……痛いところを突かれた。

 一番考えたくなかった論点。目を逸らしていた部分。この上ない図星だった。

 ギブアップしようか。俺の、今の本音を言うべきか。どうする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る