第41話 記憶不全のホームレス

「そんな訳ないって?」


 彼女の呟きが落ちていくのをキャッチする。

 無意識に口調が強まった。正直、聞き捨てならなかった。今自分の中で、自分は愛奈さんとは不釣り合いかもしれない、と思っていた矢先、それに同感された気がしたからだ。それも、見知らぬ女性に。俺はなんだかそれが癇に障った。

 彼女は、聞こえてたのか、と驚いた顔を見せたが、すぐに平静を取り戻す。


「いえ……何でもないです。それよりも、何故あなたはこの部屋から……?」


 彼女の目から好奇心が薄れていくような感じがした。両眉を近づけ、今度は警戒心を持ち始めているようである。

 ……少し考えてみた。

 そんな訳ない、とは、愛奈さんに彼氏がいる訳ない、ということだよな……?

 さっき俺は、彼女のその言葉に敏感に反応してしまったが、それは決して俺をけなしているようではなかった。愛奈さんに彼氏がいない理由は、まるで俺じゃなく愛奈さん自身にあるような言い方だった。

 そう考えてみると、この女性は愛奈さんのことをよく知っていて、さっき見せた好奇心や言葉も、愛奈さんの事情をよく知っているからこそ出たものかもしれない。

 数秒前までの自分が恥ずかしい。自分が愛奈さんとの間に線引きをしているのを、彼女に見透かされたと勘違いし、ついムキになってしまった。

 頭を冷やす。

 ……しかし、困った。

 俺はもうさっきまでの痴態は遠くへ放り投げ、今の状況を整理していた。

〝ある事情で彼氏がいない〟愛奈さんの部屋から、この俺が出てくるところを彼女は見てしまった。これを、なんと説明すれば良いのか。

 何故、という彼女の問いに、俺は咄嗟に答えを出せなかった。


「空き巣とかじゃ、ないですよね……?」


「いやいやいや! 違います!」


 あまりの突飛な発言に、顔がほころんだ。空き巣ではないことはたぶん説明出来るだろう。そんな余裕があった。……でも、どうする。順を追って説明すれば、納得してくれるのだろうか。


「……! あっ、いけない!」


 口を開こうとした瞬間、彼女の方が声を上げた。左手首の腕時計を見て、それから俺の横をそそくさと通り過ぎて行く。

 急用だろうか。待ち合わせだろうか。まあ俺には関係ないことなのだろうが、少し気持ちが晴れない。彼女に真実を言えなかったからだ。

 俺を空き巣かと疑っても細部まで問い詰めずに、私用を優先するというのは如何なものか。もし俺が凶悪犯罪者だったりしたら、一大事になっていたかもしれないのに。

 ……そもそも彼女は、俺を空き巣だと本気では疑ってなかったのかもしれない。つまり、俺は茶化されたのだ。

 そう結論づけて、俺はアパートを後にした。


 愛奈さんのアパートは、国道からそれた集合住宅の地帯に位置していた。庭の広い一軒家の横を歩き、近所付き合いをする主婦たちの声を耳に入れながら、俺は行くあてもなくぶらぶらと歩いた。

 昼。太陽が本領を発揮してさんさんと、元気になる頃だ。しかし、今日のヤツは弱々しい。風がその隙を見て、オレが主役だと言わんばかりにしゃしゃり出てきた。

「今は秋だよ」

 愛奈さんはそう言っていた。秋はこんなにも冷たいものだったのか。

 歩きながら、自分で自分を抱き寄せるようにする。寒い。俺はどこに向かっているのだろうか。どこかで俺を待っている人がいる。俺を暖かく迎えてくれる。そんな人がもしいたとしても、俺はその人を記憶の片隅からも消し去っているだろう。

 やがて、さっきまで感じていたあたたかさが、胃の奥へと吸い込まれて消えていった。


 公園に着いた。

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