第38話 女神

「なるほどね。で、結局、夢じゃなかったと」


「そう……です」


「あっ、また敬語使ってる。そんなかしこまらなくても良いって」


 そう言って彼女は手前の鍋をつつく。

 俺は拾われた。高架下で寝ていた俺に話しかけてきた、この彼女に。


 ーーーーここで寝てたら風邪ひきますよ


 その言葉のあとに、すぐくしゃみをしてしまった俺を、彼女はクスッと笑った。

 彼女は自分のアパートに案内すると言った。俺は一瞬戸惑ったが、彼女は、今の時代に寝床すら確保出来ない人なんてそうそういないよ、と俺の現状を咎めた。そして、困ってる人がいたら見捨てられない、と続けた。

 今考えると、この人は女神なのかもしれない。今、彼女のアパートで厚かましくお世話になっているが、彼女はさっきから嫌な顔ひとつしない。俺の話も、神妙な面持ちで聴いてくれた。記憶喪失など、馬鹿げた話だろうに。

 信じてくれるか、と聞いてみたところ、「信じるもなにも、嘘だったら最低なのはあなただし、ホントのことだったら、あなたの力になりたいとは思ってるよ」と、さらっと言ってくれた。昨日の夕飯の残りだ、と出してくれた鍋を前に、俺は今にも泣き出しそうになった。

 彼女の言う通り、昨日のことは夢じゃなかったわけだ。記憶は戻らないし、今もこうして、人のぬくもりを直に感じている。俺は間違いなくこの世界に生きていた。

 その現実を噛み締めるように、シイタケを口に入れて噛んだ。


「ねえ、聞いてる?」


 声のボリュームを上げた彼女に、ハッとさせられる。


「な、何?」


「聴いてて思ったんだけど、あなた、ここが東京じゃないって思ったんだよね?」


「う、うん」


「あなたの知ってる東京を基準に、そう思ったんでしょ?」


 確かにそうだった。俺が意識を取り戻したあの瞬間、ここは東京じゃないと思った。でも、何でだ?

 俺は、じゃあ自分の知っている東京の街を思い浮かべよう、と思っても、それが出来ずにいた。


「あなたが知る東京って?」


「……分からない。多分、その時の直感だった」


 苦し紛れに東京の街を想像して、嘘八百を喋るのも違うと思った。今俺は、ありのままの記憶を彼女に喋るべきだ。そう思った。


「うーん、ちょっと待ってて」


 彼女は箸を置いて、別の部屋へと行く。このアパートの部屋は二間あって、今このちゃぶ台でご飯を食べている部屋と、その奥に彼女の寝室と思わしき部屋があった。仕切りは襖で、今は最大限に開かれている。

 彼女はその寝室から紙とペンを取ってきて戻ってきた。


「文字を見て、ここが日本だって判断をしたんでしょ? なんか知ってる字、書いてみてよ」


 彼女はその紙とペンを俺に差し出した。

 字……字か。

 正直、書けなくもない。今こうして彼女と日本語を使って喋っているわけだし、大抵の漢字も書ける自信があった。でもいざ書いてみろとなると、何を書けばいいか分からない。

 とりあえず、筆の進むままに任せた。


「〝魂〟……」


 俺が書き上げていく字を、彼女が小声で呟いていく。俺は〝魂〟と書かれた字の下に、〝地球〟、〝運命〟、〝人間〟と次々に書いていく。

 そこまで書いて彼女の顔を見てみると、呆気に取られていた。


「難しいこと書くね」


 自分でも、何故この文字を書き出したのか分からなかった。これも直感の類なのかと思った。


「もしかして……詩人とか?」


 彼女の口から突拍子もないことが出る。まさか、と俺は笑った。

 次の瞬間、彼女の表情にまた驚きが生まれた。その視線が自分の手元に来ているのに気付き、つられて俺も下を向く。

 手がいつの間にか動いていた。紙には新しく、〝ジョー〟と書かれてあった。


「名前……じゃない?」


 彼女がそう言った。


「え?」


「多分これ、君の名前だよ」

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