第三章 ジョー

第37話 孤独な男

 俺が最初に見たのは人だった。大勢の人が、俺の周りで往来する様子。車のエンジン音、人の声、その音一つ一つが自分に、ここが現実世界だと感じさせる材料になっていく。

 俺は横断歩道のど真ん中で突っ立っていた。クラクションの音と誰かの怒号が聞こえ、やっと意識を取り戻す。

 渡らなきゃ。

 俺はおぼつかない足取りでその横断歩道を渡った。

 それから俺は辺りを見回した。四方八方ビルが建ち並ぶ街。どこもかしこも人。目に映るものは全て新しく、俺の視線はせわしなく動いた。

 ここはどこだ?

 こんな街、知らない。人の多さやビルの果てしない高さから、東京かと推測したが違う。俺の知る東京と違う。

 日本であることは確かだった。通る人の会話や店の看板の文字などからすぐに分かった。

 でも、それまでだった。俺の知り得た情報はそこまで。自分が本当にどこにいるのか、どこに行けばいいのかが分からなかった。

 なんとなく歩いてみる。騒々しい都会の街をさまよった。とりあえず、この街から出てみようと考えたのだ。

 タクシーに乗りたかったが、あいにくお金を持っていない。俺は仕方なく徒歩で移動することにした。

 財布、家に置いてきたっけ。

 家から外出するまでの記憶を辿る。だが、何かが俺の追憶を阻む。見えない壁にぶち当ったようだ。

 ……思い出せない。

 俺がどうやって外出したのか、どのルートを通ってあの横断歩道にいたのか。そもそも俺は、あの横断歩道で意識を取り戻す〝以前〟の記憶が無かった。

 そのことに気付き、歩道の真ん中に思わず立ち止まる。前から来た一般人が、俺を訝しげに見ながら横を通り過ぎていく。

 俺は…………誰だ?

 止まった横には、オシャレなケーキ屋さんがあった。きらびやかなチョコケーキが並ぶショーウィンドウに、自分の姿が映っている。

 俺はその姿に近付いた。自分の顔をおでこから顎にかけて撫で回すと、そこに映る姿も同じ仕草を見せる。


「うそだ……」


 弱々しく洩れたその言葉は、すぐに都会の喧騒に呑み込まれた。

 道行く人は知らない人たち。それは当たり前だ。それでも、自分のことだけは知っているつもりだった。少なくとも、数分前までは。

 だが今、この窓に映っている姿を、俺は他人と認識している。どうか、心当たりのある顔に、今すぐにでも変わってくれ。そう願った。

 でもその顔は、依然として驚いた表情を俺に見せている。何も変わりはしない。

 これが、俺。

 髪はツーブロックに刈り上げているが、バング、トップともにボサボサで清潔感が無い。顔が縦に長い。鼻と口が前に出てるせいか犬のように見える。気を抜くとマヌケ顔になりそうな感じだ。目も覇気を感じられないし、鼻の下と顎の無精髭もなんだか似合ってない。一言で表すと、ダサい。でも、これが俺だった。


 どっと、孤独感が自分を襲った。それから途方に暮れながら歩いた。どこか自分にゆかりのある場所に行けば、少しでも自分のことを思い出せそうな気がしたからだ。でも、駄目だった。

 俺は、ついさっき自分は横断歩道の真ん中で誕生した生き物なんじゃないか、と思い始めた。でも違う。俺の容姿は、低く見積もっても二十代後半だ。多分三十は超えててもおかしくない。生後間もないハズは無かった。


 やがて日が落ち、雨が降り始めた。

 都会を抜け、住宅街も抜けて、原っぱや公園などがチラホラと見え始めた時であった。


「やばいっ」


 俺は雨が嫌いだ。身体のどんな部位も濡れたくない。こぶしを作って手の甲を空に向け、それを顔の傘にして走った。どこか、雨風をしのげる場所を求めて。


 最終的に、高架下に落ち着いた。ここも知らない場所だ。上で電車が荒々しく唸りを上げている。そんな場所でも、俺はすこし心地よかった。

 今の俺に雨は、格段に相性が悪い。より一層、自分が孤独であることを気付かされるようだったからだ。

 冷たいコンクリートの上に尻をつく。深呼吸をして荒くなった呼吸を整える。


 ……寝たい。


 寝れば、夢から覚めるかもしれない。きっとこれは悪夢だ。

 俺はそう考えるようになっていた。

 腕を枕にして、その場に横たわる。雨に打たれた身体を、通りすがりの風が冷やしていった。

 関係無い。どうせ夢だ。次に目を開ければ俺は、寝慣れた暖かくてフカフカのベッドの中にでもいることだろう。

 俺は寒さを気にもせず、雨音を子守唄のように聴きながら眠りについたーーーー



 ーーーーあの……大丈夫ですか?




「そう。そうして君が話しかけてきて、俺は目が覚めたんだ」

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