第31話 悪夢から逃れた日③

 俺はそれから、途方に暮れる時間を過ごした。まずは確か、俊介が俺を呼び止めたんだ。


 ーーーーなあ、透。お前、道具全部用意出来たんだよな?


 ーーーーん、ああ、そうだな。


 ーーーーうん、ならいいんだ。それだけ確認しに来ただけ。じゃあな。


 ーーーーあっ、おい。


 ーーーーん?


 ーーーー俺、なんか仕事ある?


 ーーーー透は、劇のシナリオが完成したら出番が来るよ。それまで待っててな。


 そこで、俺は俊介と別れた。

 そして俺は今、誰も使っていない教室を探して、そこでぼーっとしてる。窓際の席に座って、その窓から見える街の景色を眺めてる。

 廊下からひしめく声が聞こえる。遠くで大勢の人が雑踏しているのだろう。その無数に聞こえる音たちが、俺の意識を遠くに追いやって薄れさせる。いや、俺が遠くへ逃げているだけか。……そんなことはどうでもいい。

 だって、あの人混みの中に君はもういないんだろう? この学校に、君の姿を見る者はいないんだろう? どうなんだ? お前は、何処にいるんだ?

 俺は夕日に問いかけた。窓越しに俺を見つめるその夕日に。でも答えない。奴は答えなかった。


「透君」


 俺は声のする方へ振り返った。聞き馴れている声だった。……だが、そこには誰もいない。ただ残影が佇んでいるだけだった。

 ああ、いつもお前は、俺が一人でいる時、こうやって話しかけて来たよな。まだ、お前がいる日々が昨日のように思い出せるよ。……いい加減にしろよ。本当に。早く出てこいよ。お前の笑った顔が、今も脳裏にチラつくんだよ。何事も無かったかのようにさ、またこの学校に現れてくれよ。俺は、お前の言う通り駄目な人間だったんだよ。お前がいないと……。なあ、だから……


「…………さ………………に」





 学校を出た時にはもう、日はすっかり落ちていた。俺は足早に下校の道を歩く。橋を渡り、高層ビルが連なる大通りに出る。おそらく仕事帰りであろうサラリーマンが四方八方に歩いていた。俺はそんな人だかりに溶け込む。


「おい、そこの少年や」


 俺は呼び止められた。しゃがれて震えた声で呼ばれた気がした。

 ああ、気がしただけだ。多分気のせいだ。


「おい、聞こえとるんやろ?」


 俺はとうとう足を止めてしまった。もう家はすぐそこなのに。


「何ですか?」


「何ですかじゃない。そこ座りなさい」


 キリキリと、錆びた鉄と鉄を擦り合わせるような声で、その人は俺に椅子に座るように勧めた。

 俺は目一杯顔を不機嫌にさせた。ここでこの人を怒鳴りつけてもいいのだが、なにせここは街中だ。大衆の目がこちらに向いてしまうのだけは避けたい。だから俺は不満一杯の顔を、背中を曲がりに曲げている物体に向けた。駄目だ。こっちを見向きもしない。もう、俺がそこのパイプ椅子に座ると思ってるんだな?

 俺は座った。紫の布を被せた小さい机に、透明な水晶玉と、一回五百円と書かれた立て札が置かれているその前に。俺は、その黒いフードを深く被った老婆と対面した。

 老婆は俺が座ったのを確認すると、ニンマリと口角を上げさせ、


「〝ラブリー・ラブリー占い館〟へ、ようこそ」


 と、囁いた。俺の表情は動かない。眉一つ上がらない。腕を組んで、貧乏ゆすりまでしてここから立ち去りたいのを陰湿にアピールした。だが、老婆はお構い無しに続ける。


「あんた、すぐ近くの高校の生徒さんかい?」


 俺は何も言わなかった。ただユサユサと足の踵を上げ下げさせる。

 俺の沈黙を「イェス」と受け取ったのか、老婆はまた続けた。


「あんた、今悩みを持ってるじゃろ?」


 はい、出た。決まり文句だ。大抵悩みを持ってない人なんているわけないだろ。そうやって子供だましみたいな、誘導尋問まがいなことをするから俺は〝占い〟というものが嫌いなんだよ。

 俺の貧乏ゆすりは益々エスカレートしていく。


「おお、視える! 視えるぞ!」


 老婆は、その目の前にあるスイカ並の大きさの水晶玉に手をかざし始めた。まだ俺は何も言ってないのに、随分と客を置いてけぼりにするもんだ。

 無駄な時間を過ごして、五百円むしり取られるのだけは御免だ。今、奴がそのチンケな玉に夢中になっている、今がチャンスだ。逃げよう。

 ついに俺が腰を上げようとした、その時だった。


「待ちなよ、〝神崎透〟。お前さんは事件を解決させたくないのか?」


 その言葉は紛れもなく、その老婆から発せられたものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る