第32話 悪夢から逃れた日④

「……何で……俺の名前を…………」


 老婆は、俺にフードの隙間から白い歯を見せつける。肩を震わせ、低く笑いながら、老婆はまた手を動かし始めた。


「言ったろう? 視えるんだよ。お前さんの……過去、今、未来、全てが」


 信じられない。いや、信じるはずもない。この老婆は何を言ってるんだ? 俺の過去、今、未来だと? 有り得ない。そんな馬鹿げた話。さっき、俺の名前や事件のことについて口にしたのも、ただの偶然に決まってる。

 俺はそう信じたかった。どうか、ハッタリであってくれ。


「ああ……神からのお告げじゃ……ありがたや、ありがたや」


 老婆の身体が震え出す。

 本当に大丈夫か? こいつ、キメてたりはしてないよな?

 ピタと老婆の動きが止まる。


「案ずるな、少年。アタシの言葉を信じるか信じないかはお前さん次第じゃ。……ではいくぞ」


 老婆は急に声色を低く変える。瞬間、目の前の水晶玉が透明色から黒に変色した。


「……明日は、お前さんにとっての運命の日になるだろう。人生の狂い時じゃ。ふむ……灯台下暗し、か。お前さんの見つけたかった人は意外と近くにいたみたいじゃな。……それは今回の事件の犯人、とでも言おうか。気をつけろ。油断は禁物じゃ。そして、それからお前さんは神の試練を乗り越え、世界を救う役割を担うことになるだろう。同じ意志を持った仲間と共にな……」


 老婆は淡々と話した。俺は、老婆の言ってることが分かるようで分からなかった。何を言ったのか、よりも、なぜさっきから事件のことについて言及しているのかが不思議でならなかった。

 自然と口が動く。


「あんた、何者なんだよ!……俺の名前を知ってたり、事件のことを言ってたり……新手の不審者か? 信じられる訳ないだろ。ここで通報してもいいんだぞ?」


 老婆は顔を上げ、フードに隠れていた煌めいた瞳を、初めて俺に向けた。動揺は全く感じられない。老婆は真っ直ぐ俺を見つめ、また口を開く。


「鮫島兄弟と、学校周辺の不可解な事件について捜査中。一年前、お前さんが恋していた人間サニが失踪し、その謎が解けなかったお前さんは今もそのことを引きずっている。杉谷俊介。お前さんの一人の友達。それから……」


「お、おい! ちょっと待ってくれ!!」


 背の皮が剥ぎ取られるようだった。口が、まともに息を吸おうとしない。俺はこの老婆に恐怖を抱き始めていた。

 咄嗟に出た言葉で老婆を黙らせたが、俺は軽い動悸を起こしていた。

 こいつ、ヤバい。最近の占い師は皆こんななのか?……いや、透、騙されちゃ駄目だ。こいつは何かしらの方法で俺の個人情報や身辺を調べ上げ、ここに待ち伏せしていたんだ。いわゆる不審者だ。そうだ。そうに決まってる。最初からの疑念、覆ることは無い。

 俺はパイプ椅子から立ち上がった。


「おや、もう終わりにするのかい? 意外と用心深い人だねえ。ま、今日は無料でサービスしとくよ。またおいで」


 無料? お金は巻き上げないのか? 五百円と立て札には書いてあったけど、実は「百」と「円」の間に小さく「万」と書かれていたりしないのか?

 老婆の目的が分からない。俺はますます老婆を気味悪く感じた。

 もう、この場から離れよう。

 そう思い、一歩踏み出した時だった。


「早く、本当のお前さんと話してみたいよ。待ってるからね。だからちゃんと、今日も日記書けよ?」


 日記……だと?

 その言葉が俺を振り向かせた。だが、今の今まで俺が座っていたパイプ椅子はおろか、机、水晶玉、老婆、全てがそこから忽然と姿を消していた。



 日記。こればかりは、一般人の力で調べられるものじゃない。俺の部屋に監視カメラでも付けない限りは。

 老婆の最後の言葉がずっとこだまする。トボトボと帰り道を歩く俺の頭の中で、老婆は本当に俺の全てが視えていたのではないかと思い始めた。

 徐々に脳内で、老婆の言葉がプレイバックされる。


 ーーーー灯台下暗し。


 ーーーー気をつけろ。油断は禁物じゃ。


 ーーーーお前さんは神の試練を乗り越え、世界を救う役割を担うことになる。


 何だ? 老婆は俺に何を伝えたかったんだ?……分からない。もう少し詳しく聞いておけば良かったか。いや、老婆は重要なことを口にしていた筈だ。思い出せ。思い出せ……。


 ーーーー明日は、お前さんにとっての運命の日だ。

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