第17話 総司にとって不都合な事実

 イゾーは、四条河原町にある竜馬の隠れ家の前で、冷たい雨に濡れていた。


 微かに、睦みあう男女の声が洩れ聞こえてくる……訪ねては来たものの、入るに入れず、それが終わるまで……と、待っているうちに雨が降ってきたのだ。軒へ寄れば少しはしのげるのだが、声が大きく聞こえて来そうな気がして、イゾーは寄れずに居る。


 ずぶ濡れで立っているイゾーを、煙草を買いに出てきたおりょうが見つけて、玄関の中へ招きいれた時には、四半時も経過していた。少し上気した顔のおりょうが手拭いで身体を拭いてくれるのを、イゾーはじっと見ていた。


「ずーっと、待っててくれはったんか……堪忍え。」

「……おりょうさんは、おらの事好き?」

「大好きどすえ。」

「愛してくれる?」

「そうどすなあ……ぼんは、ほんまに可愛ゆうおす。そやけど、うちにはもう心底惚れ抜いた人が居てはるから……」


 浴衣姿の竜馬が障子を開けて現れた。

 おりょうに顎をしゃくる。


「えー湯じゃ。早う、入っちょき。」

「ぼんが……」

「おらは……ええです。」

「イゾーはわしに用事じゃきに。かまん、入り。」


 おりょうが風呂に向かうと、竜馬は湯飲み茶碗に酒を注いで、グイっと飲んだ。イゾーの顔を見て、にっこり笑い、またグイっと飲んで菓子と茶を勧めた。イゾーは常と違って手を出そうともしない。竜馬は所在無げに、イゾーの濡れた髪を撫でた。


「いやー、すまんすまん。待たせてしもうたのお。おりょうがなかなか放しちくれんきに……今、風呂に入っとったんじゃ。おりょうが上がったら直ぐ、おまんの分も飯の用意をさせるからのう………で、何の用じゃ、イゾー。」


 イゾーは、黙ってうつむいている。


「……どうした?イゾー!なんちゃ?そん顔色は!顔見せてみい……いかんいかん、こんな顔しちょったらいかんぜよ……イゾー、男はパワーぜよ、エネルギーぜよ。明るく楽しく、エネルギーを発散しとらんといかん。おまんは、辛いこと苦しいこと、悲しいことを、心の内に溜めちょるきに、そんな顔になるんじゃ……ほい、イゾー笑っちみい!」


 黙って首を振るイゾーの様子を見て、竜馬の笑顔が曇った。イゾーの後ろから両肩を掴む。


「……じゃあ、泣いちみい。声あげて、大声で、オーイオーイゆうち、泣くんがええ。おまんは子供ぜよ。子供が、大人みたいに我慢しちゃいかんきに……わしなんざ、餓鬼んころは寝小便たれでのー、そん上に、大の泣き虫での、姉さの後を金魚の糞みたいに、ひっついちょったもんよ。いつでも、大口開けて『アネサー!オットー!オッカー!』っち、泣きどーしじゃったきに……ほれ、おまんも、泣いちみい。かまんぜよ。」


 イゾーは首を振り続けていたが、両の目からはポロポロ涙がこぼれ落ちはじめた。うめくような小さな声が洩れたかと思うと、たちまち、土砂降りの夕立のように大声で泣きだした。竜馬はイゾーの首をしっかり胸にかいこんで、イゾーの頭を大きな手で撫でた。


「子供じゃのー。おまんは、まっこと子供じゃ。ええんじゃ、それでええんじゃ。泣き虫、子虫でかまんきに……」


 イゾーが、竜馬の胸で鳴咽していると、突然廊下側の障子が開き、おりょーが一糸まとわぬ姿で飛び込んで来た!


「だんはん!!」

「このべこのかあ!イゾーがおるじゃいが!」


 慌てて目をつぶったまま、両手でおりょーの胸と腰を隠そうとする竜馬。跳び越えて、おりょーが叫ぶ、


「それどころやおへん!新選組どすえ!!」


 いきなり斬り込んできた斎藤一の刃と、受け止めたイゾーの刃が火花を散らした刹那、竜馬が行灯を吹き消した。闇の中に高杉晋作の形見、S&W"サラマンダー"が二度、三度火を吹く。土方の声が走った。


「退けー!一時撤退!」

「イゾー!こっちじゃ!おりょー押し入れへ!」


 窓から屋根へと逃げ出した竜馬とイゾーの眼に、月光を背に立つ一人の新選組隊士のシルエットが待っていた。


「誰じゃ!」

「新選組一番隊長、沖田総司!」


 影の発した声がイゾーの聞いた事の無い、緊迫したトーンで響いていた。


「総司さん!」


 と、イゾーは手を広げて竜馬のピストルを制した。


「イゾー君?!」

「ほお、さすがに知っちょるようじゃの。土佐の"岡田以蔵"ゆうたら新選組にとっちゃ死神のような名前じゃろ。わしが撃たんでもええ、まかせろゆうちょる……おんし、命が惜しかったら、そこをどいた方が身の為じゃぞ。」

「イゾー君は……土佐の…岡田以蔵だったのか……!?」


 青い光に縁取られた影は身じろぎもせずに言った。

 イゾーは影に向かって頭を下げた。


「総司さん、ごめん!見逃して!」


 土手につながる裏道へ飛び降りて消える。


「どないなっちょんじゃ?」


 竜馬もとまどいながら後を追った……

 呆然と立つ総司を、土方が窓から見上げた。


「どうした!総司、逃がしたのか?」

「はい……土方さん。」

「?……刀も抜かずにか……?」

「……はい。」

「事情は後で聞こう。」


 こめかみに血管を浮かせながらも、あくまで冷徹に対処してくれる土方さんが有難いと、総司は唇をかみしめながら思った。

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