第五章 バンドしようよ! 3.5
その日はひどく冷たい雨が降っていた。
少年は走っていた。傘もささずに長靴も履かずに走っていた。
ぼろぼろのスポーツシューズからはたくさんの雨水が吸い込んで、靴下を濡らして踵の辺りまで彼の肌をふやかしていた。
少年はまだ越してきたばかりであった。
生まれて六年住んでいた土地を離れ、先日この場所にやってきた。
真っ暗な空には暗い雲が立ち込めて、大粒の雨を地表にどんどん叩きつけた。買ったばかりの黒いランドセルには雨が染みて、中に入っている教科書やノートをぐちゃぐちゃにした。
遠くの方で雷が鳴っている。どん! と音が聞こえるたびに、心の中で数を数える。先日父親に教わった方法だ。一……二……三……光ってから音が聞こえてくるまでの感覚が、どんどん狭くなっている。顔を上げると、金色の剣が天から地表に刺さるようにして光っていた。雷がどんどん近くなっている。こわい。
無意識のうちにおへそを抑える。雷様は、悪い子のおへそを取りに来る。悪戯をして両親に怒られるとき、少年はいつもこう言われた。
「道彦、そんな悪いことばっかりしていると、そのうち雷様がきて、あんたのおへそとっちゃうわよ」
少年は先日七つになった。少しずつ現実にあること、ないことを理解し始めていたのだが、迷信を完璧に迷信と思えるほど大人ではなかったのだ。
ぎゅ、ときつく瞼を閉じて雨の中を走っていると、雨音に紛れてきゅわんという声が聞こえた。きゅわん。車の音でも雨の音でも雷の音でもない声。高くて、小さくて、感情のある生き物の声。
少年は急がせていた足を止め、その声の発信源を探した。発信源は、電柱の下に置かれた段ボール箱の中あった。生まれてほんの数か月の、黒と白の牛模様の子犬。思わずそれを抱き上げると、小さな子犬は助けを求めるようにしてくぅんと小さく鼻を鳴らした。
全身びしょびしょのその子犬は、一瞬で少年の心を奪い取った。その子犬は、少年が今まで見た動物の中で一番可愛らしく見えた。小さな口元からははっ、はっと赤い唇が覗いていて、意味もなく手足をばたつかせている小さな犬。
少年は未だかつてない運命的な出会いをしたことに心を揺るがすと同時に、どうしようもない不安に駆られた。少年の母は動物が嫌いだった。犬も猫も世話をするのが大変なばかりで、いいことなんてひとつもないというのが口癖だ。今までも「犬を飼いたい」「猫を飼いたい」とねだったこともあったが、どれもこれもたった二文字で拒否をされた。けれど、この犬はまだ子犬だ。こんなにもたくさん雨が降っていて、しかも雷が鳴っているのだ。自分だって、雨に濡れてそのままでいたらあっという間に体調を崩して熱を出したのだ。こんな小さな生き物なのだ、もしかして、あっという間に死んでしまうのかもしれない。
少年は大急ぎで上着を脱ぐと、大急ぎで白と黒の子犬を抱え込んだ。上着も何もびちょびちょだけれど、直で雨がかかるよりましだと考えたのだ。
家についた少年は、まず母に見つからないようこっそり子犬と風呂に入った。それから、自分の部屋に連れて帰り、丁寧に丁寧に乾かせた。綺麗になった子犬は、姉の持っているぬいぐるみよりもふかふかで、やわらかく、かわいかった。きゅんきゅんという不明確な声を上げながら少年の体にじゃれついた。少年の心は、完全に子犬に射とめられた。けれど、問題は山積みだった。少年は自分の母がとても頑固なことを知っていた。
少年はまず、五つ上の姉を味方に付けた。姉は大喜びで子犬を飼うことを承諾した。そして少年は、風呂上りの父を引っ張って自分の部屋に連れて行った。父は犬が好きだった。最後の母は難関だった。それこそ、日本屈指の名門である東京大学の入試よりも難関だった。
神様は七日で地球を御造りなさったというけれど、少年もまた七日七晩実母のことを説得した。姉を巻き込み、いかにこの子犬は可愛らしく、理知的で、賢いということを姉弟二人で説得をした。そうして説得すること八日目の夜、涙ながらに訴える子供達に母は折れた。
「でも、ちゃんとあんたたちで面倒を見るのよ。少しでも怠けたら追い出すからね」
そうしてその子犬は、家族の一員として、また少年の親友になった。
子犬はとても賢い利口な犬だった。言葉を交わすことができずとも、少年は犬の言いたいこと話したいことがわかったし、子犬も少年の話すことを理解していた。
母に叱られたら犬小屋に潜り込み共に過ごし、寒い夜は布団に連れ込み引っ付いて寝た。出会ったころは両手で包めるくらいの大きさだったはずなのに、あっという間に成長をし大人になった。
少年が父と共に組み立てた犬小屋。あんなにすかすかだったのに、もう一匹でも窮屈だ。
少年は、当の昔に大きくなってしまった愛犬を抱きかかえ、自分の布団に連れて行った。母が言った。「ちゃんとお風呂に入れてからじゃなきゃ駄目よ」わかっている。この犬は自分などよりもずっとずっと利口な犬なのだ。体を洗いドライヤーをかけて、同じ布団にもぐりこんだ。頬ずりをするように抱きしめると、「きゃうん」と小さく声を立ててぺろんと顔を舐めてきた。少年は笑った。
そのまま、愛犬を抱き寄せ少年は眠りに落ちる。窓からは、淡い光が差し込んでいた。
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