第四章 呪われろ! 5
私が頑固で意地っ張りで見栄っ張りなのは昔からだ。
甘えたいときに素直に甘えられないし、頼りたいときに頼れない。小さい頃は、自分に非があることもなかなかうまく謝れなくてそのせいで友達同士のいざこざを起こしたことだってあるし、失敗したことだってたくさんある。今は昔ほどひどいわけではないけれど、やっぱり自発的に話を振ったり盛り上げたりすることは苦手だし目立つのだって好きじゃない。三つ下の妹はすごく愛嬌がよくて甘え上手で親戚からも「可愛い可愛い」って言われてるのに、私はいつも「お姉ちゃんはいつもしっかりしててえらいね」とか「愛はお姉ちゃんだからいいんだよな」とかそればっかり。それでも甘えなかったのは、私の意地とかプライドのため。その、変な意地やプライドを守るために私はまた心にもない余計なことを、本当に思っていることとは全く正反対の言葉を言って、大切な言葉が足りなくて、私の心にある大事なものを失った。
生まれてから十七年間そんなことばかりしていたせいで、私の中に間違いなく存在していたはずの「寂しい」だとか「甘えたい」だとかいう可愛い心を見失い、今更こうして悲しい思いをする羽目になってしまった。何てことだ。
だからといって、今更綾香や神ちゃんに「仲間に入れてー」なんていうこともできないし、みー君に「あの時は言い過ぎた。ごめんね」とか素直に謝ることもできない。妹の半分でも、ううん十分の一でも素直さがあれば別なのに。どうして私は、もっと素直になることができないのだろう。
なんて、後悔ばかり張り巡らしている私の頭の中ではまともなことを考えることもままならなくて、やっぱりみー君なんて比にならないくらいに面倒なことに巻き込まれることになる。
私はその時、英語の教科書を置いてきてしまったことに気が付いてうんざりとする。英語の先生は厳しくてうるさくて、課題も宿題も沢山出す。今日やらなければいけない課題が出ているのに、ノートも教科書もまるごと置いてきてしまったようだ。時計を見るともう七時。勅使河原市の夜は早くて深くて、電灯も少ないから本当は外なんか出たくなんかないんだけれど、私にはもう頼れる人がいないから仕方がない。この時期の運動部は遅い時で九時ぐらいまで練習しているところもあるから、まだ校門も玄関も空いているだろう。
制服に着替えて外に出ると、夏の間とは全然違う透き通るような寒さが私の肌を刺激した。虫の泣き声もしないし星も月も出ていないから余計不気味。町に数えるほどしかない電灯は、電気が切れかけてぱちぱちと瞬きを繰り返し、その周りをブンブン蛾が飛んでいる。不気味だ。不気味すぎる。明かりのない街を一人で歩いているときに、先日クラス中で見た呪いのビデオを思い出して一人体を震わせた。見た人が死んじゃう呪いのビデオ。そんなことあるわけないしあのビデオだって偽物に決まっているのに、心のどこかにどうしてもそれを信じてしまう私がいる。
夜の学校は、それよりも更に不気味でずっと怖い。体育館側はまだ明るいところもあるけれど、どの教室も殆ど真っ暗だし静かだしそのくせ、遠いところから運動部の掛け声だとか物音とかが聞こえてきて、私のことをビビらせる。暗いくせに所々光っている「非常口」の緑色の蛍光灯から、お化けかなにか出てきそう。
大体、なんで学校という所にはお化けだとか幽霊だとかの階段話が多いのか。昼間人がたくさん集まる所は負のエネルギーがなんとかかんとかとか、どこかの誰かが言っていたような気がするけれど、ただの高校生である私には余計な情報でしかないのだ。
ぶるぶると震える体を抱えて行った教室はやっぱり暗くて、教室の角っこにある掃除用具入れの中からどろどろのお化けが登場するんじゃないかっていうくらい。その、地獄の底にあるような暗闇は私が電気をつけることでぱちっと一気に明るくなってしまうものだから、それが余計に気味悪い。
英語の教科書もノートもそのまま机の中に入っていて、そのことが唯一私のことをほっとさせた。よかった。その二つを大急ぎでリュックの中に仕舞い込んで外に出ようとするのだけれど、明るい教室が再び暗闇の底に落ちることが私の指を止めさせる。ごくりと唾を飲み込んで電気を落とそうとした瞬間。奴らはやってきた。
「あっれー? 愛ちゃんじゃないのー?」
そこに来たのは、昔懐かし吉住健。彼女がいるくせに私にモーションをかけ私のファーストキスを奪い取り、そのせいで私に股間を蹴りあげられたあの男。そして、羽子板に負けたみたいなお化粧をしてお友達と殴りこんできた彼女を持つ、あの男。
十月になって初めて見た吉住健はやっぱり黒くてそして汚くて、歯の部分だけやけに白くて気味が悪い。相変わらずワイシャツの襟ぐりは胸元ぐらいまで開いているしブレザにはお菓子のシミのようなものが付いていて汚いし、本来ならばきっちりと締めてこそ意味のあるもののはずのネクタイはまるで窓からぶら下がっているテルテル坊主のように揺れている。かっこ悪い。着崩しすぎて汚いし逆にしょぼい。そもそも、制服だとかスーツだとかは着崩してきたりするものではないのだ。スカートを上げたりボタンを外したり、制服を弄ることでファッション性を高めることもないけれど、制服というものはきちんと着て初めて意味を成すことができるのだ。いくらダサかったりしょぼかったりしても、過剰なほどに着崩してみたり弄ってみたりするものでは決してないのだ。
そして、そんな汚い恰好をした吉住の背後には同じように汚い恰好をした男が二人。見覚えのあるようなないような、茶色い髪を華道で使う「剣山」みたいにつんつんに逆立てた男と、髪の毛を無駄に伸ばして真っ赤なカチューシャをつけた男。それぞれカッコいいと思ってやっているみたいだけど、全然格好よくない。
なにこいつら、とか思って思わず体を縮こませる私の所に、ネックレスやらピアスやらやたら貴金属で着飾った吉住が近寄ってくる。
「あっいちゃーん。こんな時間に何してんのー?なんで帰ってないのー?」
うるさい馬鹿。近寄ってくるな。
「あんたには関係ないでしょ」
私は冷たく返すのだけれど、お馬鹿な吉住健は私の気持ちを読むことも空気を読むことさえもできなくて、歯磨きもしていないような顔をずいっと私に近づけてくる。
「俺たちねー。クリスマスコンサートでバントやんだよー。それでこんな時間まで残って練習してたんだぜー。」
へぇ。なるほど、そういえばカチューシャ男の背中に、いかにも「ギターが入っています」というような皮の鞄が背負われている。バンドとかいって、どこかの誰かも同じようなことをいっていたけど私にはそんなの関係ない。。
「ふぅん」
私が適当な相槌を打ちそのまま逃げようとする先を、口ピアスとカチューシャ男が通せん坊をする。
吉住は、私の隣にあった机に座りぐい、っと肩を引き寄せた。鬱陶しいな、こいつ。
「そういや、サヤカが愛ちゃんに失礼なことやったんだってー? ごめんねー。俺、あいつとはもう関係ないからさー。俺たち、ビートルズの曲やるんだー。勿論聞いてくれるよねー?」
サヤカちゃん。眉毛がなくて唇がピカピカで山姥みたいな恰好をした、それでもこのくだらない男のことを一途に思い続けて泣いていた女の子。一途に思い過ぎたせいで、綺麗な涙もお化粧も好きな気持ちも全部無駄にしてしまった可哀そうな子の顔を思い出して、私は私の肩を掴んでいた汚い手を払い落とす。
「気が向いたらね」
向くわけないけどね。
でも、どこまでもポジティブで自信過剰な吉住はそれを肯定の意味でとったのだろう、「やったー!」と犬の遠吠えのようにして高々と叫ぶとまた私の肩に汚い手を乗せて引き寄せてきた。
「そういえばさー。俺たち、あと一人メンバー欲しいんだー。だから、もしよかったら愛ちゃんなんて入れてあげてもいいかなー。なんてー」
吉住健の血色の悪い唇から飛び出る汚い言葉は、どこかの誰かに非常に酷似していて私のことをイラつかせて腹立たせる。今すぐにでも股間を蹴り上げてやりたいことを必死で抑え、
「ありがとう。でも私、人前に立つのって好きじゃないの」
と答えておく。
「そっかぁー。でも、クリスマスのときは俺たちのこと応援してね」
気が向いたらね。多分向かないと思うけど。
私は、吉住の汚い掌が私の肩に乗っかっているのも身なりの汚い男が私のことを取り囲んでいるのも嫌でどうにかしてこの場を抜け出してやろうと模索をしてみたりするのだけれど、流石の私も男3人を敵に回して勝機があるとも思えない。さてどうしようかと考えていると、ギターケースを背負ったカチューシャ男が口を開いた。
「そういやさ、クリスマスコンサートで俺たち以外にもバンドやるやついるらしいぜ」
ぎくり、というのは私の体が跳ねる音。
けれど、鈍い吉住健はそんな私の些細な反応に全く気が付くこともなく、カチューシャ男に同意する。
「あれだろー? 確か、一学期に転校してきた小さいやつ。こんな、石原義純みたいな眉毛したー」
ピクリと私の眉毛が動く。石原義純とか、そんなにごつくないっつーの。
「そーそー。あいつと一緒にやる神崎とかいう奴だって、つい最近まで学校来てなかったやつなんだろー? そんな奴と組むとか、正直気がしれねーよなー。どーせ大したことねーよー」
なんて下品な笑い声を立てる男たちに、私は心底腹を立てる。気に入らない。私のことならまだしも、みー君と神ちゃんのことを悪くいうこいつらのことが気に入らない。確かにみー君の眉毛は太いしうるさいに鬱陶しいしろくなことしないし言わないけれど、楽しくて優しくて穏やかないい子なんだ。神ちゃんは確かに登校拒否をしていたけれど、頭がよくて空気が読めて、私の心を汲んでくれる優しい人なんだ。こんな風に、だらしなく制服を着こなして意味もなく眉毛を剃りあげたりピアスをつけたりするやつらとは違うんだ。
だから私は気に入らない。二人のことを全然全く知らないくせに、変な憶測だけで悪口をいうこいつらのことが気に入らない。私の黄金の右足は気が付いたら目の前にいたカチューシャ男の股間を蹴り上げて、黄金の左手は馴れ馴れしくも私の肩に手を乗せていた吉住健の顔面にめりこんでいる。小学校六年間空手を学んだ私の左手と右手。剣山男がわけもわからずポカンと口を開けている。
私は0.1秒で自分が行ったことに気が付いて、大急ぎで廊下に出る。カチューシャ男は股間を抑えて床で悶絶しているし、吉住健は顔面を抑えて芋虫のようにごろごろのたうち廻っている。
私がいなくなったことに気が付いた剣山男が追ってくる。人気のない夜の校舎は暗くて怖くて、山姥にでも襲われているような気分になってくる。階段を下りて踊り場辺りで見上げると、いつの間にか三人に増えていて私のことを焦らせる。階段を飛ぶようにして走り全力で駆け下りて、女子トイレに隠れこむ。三つの足音がばたばたばたと遠くなったことを確認してほっとトイレのドアを開けると、そこにあったのは六つの目玉。つまり、吉住と剣山とカチューシャ。
奴らは、またトイレのドアを閉めようとした私の腕をがっと掴むと、そのまま無理やり引きずり出して壁にどん! と押し付けた。
「愛ちゃんさぁ、ちょっと乱暴すぎるんじゃねぇの? 俺達は優しいから愛ちゃんに付き合ってあげてるけど、本当はそんなことしてる暇ねぇの」
顔が近い近い近すぎる。
私の半径一メートル以内を三人の男が取り囲んでいる。また股間を打ち付けてやろうと黄金の右足を準備させるけど、三度目が確実に利くという自信がない。自分よりも背が高い相手。力が強い相手。小学生の時は、男の子と空手の試合をして勝ったりしたりもしたけれど、ここまで体格差がついてしまっては抵抗の仕様がない。
何をされるのか。殴られたり蹴られたり、乙女の柔肌に傷がつくようなことをされるのだろうか。もしくはそれ以外の心身共に心に傷が残るようなことをされちゃったりもするのだろうか。
私は、息のかかる距離で吉住の臭い息を感じながら、息を呑む。こういうとき、映画やドラマだったら丁度良いタイミングでヒーローが助けにきてくれたりするんだ。女の子を殴ろうと手をかざした瞬間に「やめろ」とか言って止めに来てくれたりもするんだ。でも、今私が体験しているこれは紛れもなく現実であり夢でもドラマでも映画でもないので洒落にならないし、そんな夢を見ていることもできない。
そう思って、痣の一つや二つできる覚悟したはずなのに。私は逆に、どんな人にも奇跡邸な偶然だとかドラマじみた運命だとか夢見がちなヒーローだとかが現れるということを知る羽目になる。
なぜかまだ校内に残っていた渋谷道彦は、女子トイレの隣にある男子トイレから出てきて水道で手を洗おうとした瞬間、数メートル離れたところ派手な男三人に囲まれている私に気が付いて、声を上げた。
「あっれー? あいちゃん、なにしてんのー?」
それに驚いたのは私。男3人は、昔の少年漫画に出てくる不良みたいな目つきで、ぎろっ、とみー君のことを睨み付けた。普通だったら、びびってそのまま逃げてしまいそうな目つき。
けれど、そんなことには怯まないのがみー君クオリティ。
じゃばじゃばと水道水で両手を洗ったみー君は、ひらひらと両手を煽らせて盛大に水をまき散らしながら私の傍に近寄ってきた。
「なにしてんのー? なんでこんな時間まで残ってんのー? 居残りー?」
みー君の明るい口調や眩いばかりのその笑顔が、地獄の底のようであった暗い雰囲気を和ませる。
みー君はびしゃびしゃと水滴をまき散らしながら男の間に割り込んで、私の正面に現れた。ビー玉みたいな水滴が吉住の制服にくっついてカチューシャ男の顔に飛び散って、奴らの体につきまくった。男たちの顔が歪んでいる。いい気味だけど、いかんせん状況があまりによくない。
「あ、あんたこそ一体何してんのよ!」
「んー? 用務員のおじさんがさあ、ぎっくり腰になっちゃってさぁ。それで、掃除手伝ったりお菓子食べたりしてたんだけど、なんか羊羹が古かったみたいで腹下しちゃってさー。それで、トイレに籠ってた」
そこまで言って、流石のみー君も両手から滴る水のことが気になったらしい。きょろきょろと何かを探してから、べしゃー、と吉住のブレザーの裾で拭き始めた。
「うわっ! 何するんだよてめー!」
なんて飛び退く吉住に、ざまーみろと私は思う。
わけのわからないみー君に、カチューシャ男と剣山男が警戒をしている。
両手を拭いて満足したらしいみー君はよいしょ、とリュックを背負い直して、
「あいちゃん、もう帰る? 帰ろうよ。俺、出すもの出したら腹減っちゃった」
なんてゆるゆると笑うみー君は、男たちのことなんて気にも留めず颯爽と去ろうとしている。流石みー君。見事なアウトオブ眼中。みー君と一緒ならば難なくこの場をされるのかもしれない。そう判断した私はうん、と小さく頷いて先を行くみー君の後に続くことに決めた。
不穏な空気をものともせず、「じゃあねー」と爽やかに微笑み、右手を上げた。そして、一歩踏み出したその瞬間、みー君の狭い右肩が吉住の手によってがっちりつかまれ足止めされる。
「ちょっと待てよ。愛ちゃんは俺達と遊んでんだから邪魔すんなよ」
「そうだよ。帰るんなら、お前一人で帰んな」
「痛い目みたくなかったらな」
なんて、悪役のテンプレートな言葉を言われ、珍しくみー君は少しだけ嫌な表情を浮かべた。
「やだよ。俺、もう腹減ったし帰りたいし。それに、女の子はこんな夜遅くまで学校にいたらいけないんだぞ」
「俺達が送って行ってあげるって」
「だめだよ。もう九時になっちゃうし。女の子は九時までに家に帰らなくちゃいけないんだって、母さんが言ってたもん」
べー、と真っ赤な唇をだすみー君。
吉住の広い額に漫画みたいな怒りマークがぴくりと入るのだが、みー君はそれに気づかない。気づいていたのかもしれないけど、気にしていないしそんな素振りも見せていない。
「さ、早く帰ろ」
と私の腕を掴んだところで、ばしっ、とその手を遮られる。吉住健。
米神に怒りマークをいくつも浮かべた吉住健は、ぺきぺきと両手の骨を鳴らしながら引き攣った笑いを浮かべている。吉住は背が高い。吉住だけではなく、他の二人も小柄なみー君に比べたら何十センチも差があるように見える。
あるのかないのかわからない我慢の限界に達した吉住健が、大きく右腕を振り上げてみー君に勢いよく殴りかかった。
殴りかかった、その瞬間。
みー君はぐっ、と体を縮めてそのまま吉住の懐に入り込み、そのままどん! と投げ捨てた。私は驚く。あれだ、いつだったか体育の授業でやった、柔道の「背負い投げ」みたいだ。床に仰向けで寝転んだ吉住がきらきら星を飛ばしていることに気が付いて、みー君が「しまった」という表情をする。私は知らなかったのだ。私とみー君の間にある十年間の空白で、みー君が柔道を習っていたということを。
そのみー君はあちゃー、というような顔で意味もなく頭を掻くと、くるくると目を回している吉住の枕元(?)に屈みこんで、ごめん! と両手の平を合わせた。
「襲い掛かられたから、つい投げちった! ごめん! でも、お前も悪いんだぞ。おれのこと殴ろうとしたから」
そういって立ち上がるみー君。吉住はぐるぐると目を回したまま気絶してるし、中心核ともいえる吉住があっさりとやられたことで見かけ倒しの金魚の糞に匹はびびって腰が引けている。
みー君はくるりと二人を見回すと、いつも通りの笑みを浮かべて「帰っていい?」と問いただす。無言で頷く二人。みー君はにぃ、と笑みを浮かべ、いった。
「そっか。じゃあね、ばいばい」
ひらひらと手を振りながら去っていくみー君。
私は、呆然としている奴らのことをちらちら見ながら、みー君の小さな背中を追って行った。
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