第三章 海に行こうよ 4
「お父さんとお母さんはどうしたの?」
「一昨日から二人で旅行してる。おれ一人だと危ないけど、ゆうちゃんが一緒だから安全なんだって」
なるほど。確かにこの人間危険物に留守を任せて旅行に行って帰ってきたら、家の一つや二つ燃えてなくなってしまってそうだ。
私が言うと、柚子さんは大笑いをして壊れるくらいにテーブルを叩いて、みー君はぶぅっと不細工な顔でそっぽを向いた。
そのあと、柚子さんの作った夕ご飯をご馳走になったり一緒にゲームをしたりしているうちに時計の針が九時を指示した。その頃にはもう、土砂降りの雨も雷もどこか遠くへ行ってしまい、広い空にはきらきらという星が音を立て晴れあがっていた。
「夜も遅いから泊まっていってもいいよ」
という柚子さんの言葉を丁寧にお断りして、外に出る。「道彦、家まで送って行ってあげなさいよ」と柚子さんに諭されたみー君がどこかにいってしまうのだが、次に現れたときに手に持っていたのは青いリード。つまり犬。白と黒の牛みたいなブチ模様の小型犬は、とても静かで大人しい、みー君とはまるで正反対の犬だった。
「これがみー君の犬?」
「そう。これが俺の親友のモー。ほら、モー。おれの友達のあいちゃんだぞ。挨拶しろよー」
言い聞かせるようにしてモーの背中をふさりを撫でる。
「よろしくね、モー」
触らせてもらったモーの毛はちょっと少なくてごわごわだったけれど、ちゃんと柔らかくて暖かい。くぅんと小さな声を立てて尻尾を揺らしたモーは、ちろっと小さな舌を出して私の掌をぺろりと舐めた。可愛い。
「モーはもう、お爺さんなんだ。おれが小学生のときに拾ってきて、もう十年くらいうちにいる。な、モー。」
みー君が軽く背中の毛を撫でると、くぅんと小さく頷いた。
雨上がりの空にはピカピカ星が光っていて、月もきっかり綺麗に見えた。いつもはじっとりとした空気がとても綺麗で住んでいたし、植物についた水滴が月光を反射して宝石みたいに見えた。
おじいさん犬のモーの足取りは神ちゃんの家のオールに比べて歩幅も狭くてとてもゆっくりだった。
「モーは頭のいい犬なんだよ。今はもうおじいさんになっちゃったけど、昔は神ちゃんちのオールに負けないくらいに足の速い犬だったんだ」
モーの速さに合わせて、普段の四分の一くらいの速さで歩く。モーは声で返事をする代わりに、ちょろりと小さく尻尾を揺らした。可愛い。ゴールデンレトリバーのオールの若々しい可愛さとは違い、熟年された老犬の落ち着きを感じさせる。
いつもより随分とゆっくりと歩くみー君は、「愛犬のモーがいかに賢く可愛らしいのか」を熱く語り、私のことを呆れさせた。私だけではなく愛犬オールさえも呆れているかのように見えた。
「みー君で、子供が生まれたらきっと親馬鹿になって子供に鬱陶しがられるタイプだよね」
延々と続くみー君の自慢話に、すっかり呆れた私が言うと
「子供ねー。子供はやっぱ、野球チームができるくらい多い方がいいよねー」
なんて言い出す始末。いや、それはちょっと無理でしょう。野球チームができるくらいとか、現代日本の女性に十二人も子供を産めとかいくらなんでも無理すぎる。そしたら、みー君が「またあいちゃんは?」とかとんでもないところから斜め上すぎる質問を投げてくるので思わず顔を引き攣らせた。
本当にみー君は直球すぎるし、色んなことをあまりに考えなさすぎている。私はみー君が好きなのに。普通の男の子は、同世代の女の子に対してそんな質問をしないのに。まるっきり熟年のカップルの会話じゃないか。
どう答えていいのかわからずに黙っていると、空気の読めない渋谷道彦が「ねぇ、どうなの」
と追い打ちをかけてくる。なので思わずムキになって、
「みー君は好きな人いないの?」
などと言ってしまう。覆水盆に返らず。言ってしまってからしまったと思う、私。
するとみー君は、まったくなんの迷いも躊躇もせずに、あっさりとこう言い放った。
「いるよ」
「え!?」
「父さんと母さんとゆうちゃん。モー。あいちゃんと神ちゃん、それにあやパン」
あっはっはっと楽しげにいうみー君に、私はがくんと脱力をする。そうじゃない。そうじゃなくて、結婚したい人とか彼氏になって手を繋いだりしたい人。などとと、あり得ないような説明をすると、みー君はあー。というようにして間抜けな声を上げ天を見上げた。それから、何かを悩むような口調で
「いるような……いないような……」
「……彼氏になって手を繋いだりしたい人?」
「彼氏になって手を繋いだりしたいひと」
彼氏になって手を繋いだりしたい人。
この、空気が読めない女心のわからない自分勝手な渋谷道彦にも、異性に対するそういった欲求だとか衝動だとかがちゃんと存在しているのか。遊ぶことが好きでしゃべることが好きでピーマンと勉強が嫌いな永遠の子供みたいな渋谷道彦にも、年相応のものがきちんと存在をしているのか。
そう考えると、なんだか少しだけ恥ずかしくなって気づかれないように数センチだけ距離を取った。みー君の足もとで大人しくしているモーだけがちらりと視線をこちらに向けたけれど、ご主人様はまったく気にしていなかった。
みー君はまた、うーんと考えるような仕草を取ると、
「好きになるとさぁ、手を繋いだりしたくなるじゃない」
「……うん」
「付き合ったらさぁ、キスとかして、その先したくなるじゃない」
「……うん」
「そういうのって、なんかよく、わかんないなぁってそう思って」
みー君は言った。
「好きになったら手を繋ぎたくなって、付き合ったらキスとかしたくなるんでしょ? 俺はその子のことが好きだし、手を繋いでみたいとか思うけど、でも別に、キスとかはしなくてもいいかなぁとか思ってるし。離れると寂しいから一緒に居たいと思うけど、でも結婚をして一生一緒にいるとかは正直想像できないかなぁ。自分の子供とか、何人欲しいとかこのくらいいたら楽しいだろうなぁとか漠然と考えることはできるけど、でも、もう少し大人になって実際その時になってみたら、今と全然違うんだろうなぁとか。甘そうに見えたお菓子を口に含んでみたら全然甘くないのと一緒でさ」
お月様の白い光に照らされたみー君は少しだけ視線を下げていた。いつもよりもちょっと真面目で、少しだけまともなことを口にするみー君は、いつもよりもほんの少しだけかっこよく見えた。
「みー君がこんなにまともなことを話すの初めて見た」
と私が言うと、「おれはいつだって真面目ですぅ」
とぷっくり頬を膨らませた。
「みー君は、その子と、そういうことしたくないの?」
少しだけ緊張をした私の問いかけに、みー君はまた少し考えて答えを出した。
「よくわかんないや。手を繋いだり一緒に遊んだりはいつでもできるし。多分、そういうのしたくないわけじゃないと思うんだけど、いまいちうまく想像できない」
「……みー君は」
「うん」
「その人のこと、好き?」
がちがちに緊張をして固まった私の言葉。
みー君はほんの少しだけ驚いて、それから「うん」とゆるく笑った。
「多分ね」
月夜に照らされた笑ったみー君は、私の知っているみー君のはずなのに、どこか遠くの国から来た全然知らない人みたいに見えた。
私はとてもショックだった。
初恋のみー君に、恋愛未満だとそうしても友達以上に思える人がいること。馬鹿だアホだと思っていたみー君が以外にもきちんとした考えを持ち合わせていたこと。そして、隣で愛犬のリードを引いている男の子が全然知らない人であることに、ショックを受けた。そうして、私は自分の中にいるみー君がずっと12年前のあのころで止まっていたことに愕然として、みー君が成長をしていることを知って恥ずかしくなった。
当たり前だ。私とみー君の間には、なんと12年もの溝がある。私はその間で身長が50センチ以上伸びで体重だって倍以上になった。知識だってその分増えたし、いい感情も悪い感情も抱え込んだ。
私が成長をしているのと同じように、みー君だってきちんと年相応に成長をしているはずなのだ。身長も伸びて体重もちゃんと増えているはずなのだ。なのにどうして私は、みー君のことを何も変わっていないなんて思い込んでいたんだろう。
「あいちゃんはいないの? 好きなひと」
みー君は話すとき、奇妙にアクセントを柔らかくする癖ことに気が付いたのはごく最近だ。「あい」ちゃんだったり「ゆう」ちゃんだったり、今みたいに好きな「ひと」だったり。そういえば、自分のことを「おれ」という時だって言い方が少し柔らかい。
その言い方にちょっとだけむっとして、そっぽ向いてこう答えた。
「いるよ。好きな人くらい」
「え。うそ。だれだれ?おれの知ってるひと?」
「そんなの知らない」
つーんと横を向いたまま答えると、なんだぁ、とみー君は残念そうに笑った。
「告白しないの?」
「しないよ」
「なんで?」
「……せっかく仲良くできてるのに、駄目になったらいやだもん」
少しだけ俯き加減にいう私。みー君は、リードを持つ手を意味なく左右取り換えると、
「あいちゃんもそのひとと、手ぇ繋いだりしてみたい?」
無言でこくんと頷いてみる、私。
みー君の手なんて、何度も何度も掴んでいるし掴まれていたりするのだけれど、私が求めているのはそういう友達感覚のものじゃないんだ。もっと愛があって夢があって可愛らしさだとか瑞々しさのあるものなのだ。
みー君に、そんな複雑な女心がわかるはずがない。
むっつりと唇を真一文字に結んだまま俯き加減で歩く私。
みー君は、また意味なくリードを左右入れ替えて今度は聞き手の左を開けた。
「おれの右手だったら空いてるよ。今なら、握り放題触り放題」
まるで、新しい商品を宣伝するかのように右手を掲げ、にい、と笑うみー君。
みー君が笑うと下がりめの眉毛が更に下がって、マスコットキャラクターみたいな顔になる。私の知っているみー君の顔。
私はみー君の手を軽くつかんで引き寄せて、それからぎゅ、と掴みとった。
「しょうがないから、みー君で我慢してあげる」
と私が口を尖らせると、「素直じゃないの」とみー君は言った。
みー君は右手に私、左手にモーのリードを持って、ぷらぷらと交互に揺らして空を見上げた。
「明日は晴れるかなー」
「明日も晴れるよ」
「そっかぁー」
ふーんふーんなんて鼻歌を歌っているみー君には、私の夢見る優しさだとか愛しさとかは全くなくてまったく的外れなものなんだけど。みー君のいう、「彼氏になって手をつないでみたいひと」が誰なのか、私にはまったく見当もつかなかったりするわけだけど。
(でも)
でもとりあえず、みー君の手があったかいからいいやと私は思った。
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