第三章 海に行こうよ 3
散々はしゃいで動いで騒いだ綾香はやっぱり電車の中で寝てしまう。がたんごとん、がたんごとんという振動で半開きの口から涎が垂れて、それがなぜか私のシャツを汚してしまう。
「あー、汚いなぁ。ほら、綾香。そろそろ乗り換えだよ」
なんて肩を揺すると、半開きの口から「うにゃぁぁぁ」という猫みたいな声を上げて目を擦った。
対するみー君の体力はまだまだ底を知らないようで、先ほどからずっと神ちゃんと話している。「あれがいい」「あれが楽しい」「あそこでああすればもっと良かった」話しているといっても、九割九分みー君が一人で話しているだけであり、神ちゃんは黙って頷いているだけだ。
「みー君ていつ黙るの?」
私が聞くと、じっと黙っていた神ちゃんが
「道彦は黙らないよ。だって、ご飯のときも寝てる時もお風呂に入る時だって、ずっとしゃべってるんでしょ?」
と的を射た答えを出した。確かに。
疲れ切った綾香があんまりふらふらで危なっかしいので、綾香のお兄さんに連絡をして迎えに来てもらう。
『えー? あいつそんなになってんのー? ったくしょうがねーなー。いいよー。迎えにいくよー。俺、今、結構近くにいるからすぐにいくってー。えぇ? あはは。大丈夫だってー。気にしないでー』
近くにいるというだけあって、綾香のお兄さんは連絡をして数分でやってきた。
「やっほー。愛ちゃん久しぶりー」とモスグリーンの軽から姿を現したお兄さんに、殆ど寝てしまっている綾香を押し付ける。綾香のお兄さんは、一見背が高くて眉も細くて無駄にセンスのいい服を着ていてとても軽そうにいい加減そうで、例えて言うなら街角に佇んでは女の子をナンパしていそうに見えるのに、本当はとても優しくて面倒見がいい。
「この車、お兄さんのですか」
「違う違う! 俺がこんなセンス悪い車乗るわけないじゃん! 俺、ちょっと酒飲んじゃったから、友達が運転してくれたの!」
なるほど、運転席ではどうやら友達らしい金髪で目つきのよくないちょっと怖めのお兄さんが座っていて、「早くしろよ」とばかりにクラクションをプピーと鳴らした。フロント越しでもわかるその不機嫌な表情。お兄さんの友達はまるでチンピラみたいに見えた。
お兄さんは今にも寝息を立ててしまいそうな綾香の手を取って、「わかってるからちょっと待てって!」とお友達に向かって叫んだ。
遠くなる車に手を振っていたみー君が、くん、と何かに気が付いたようにして鼻を鳴らした。
「雨の匂いがする」
雨? 雨の匂い?
本当? とか思って、みー君のまねをしてくんくん匂いを嗅いでみるけど、残念ながら私の鼻には自動車のガスの匂いしか入ってこないし、空はとても晴れている。雨が降るどころか、太陽が沈んだ夜の空にはお月様がらんらんと輝いている。
「雨が降るなんて天気予報で行ってないよ」
「むしろ、下手すれば今月はずっと雨が降らないって聞いたけど」
という私達それぞれの反論に、みー君はまた、空に向けてくんくんと小さく鼻を鳴らした。
「でも、雨の匂いがするんだ」
みー君の人間離れした嗅覚は的中していたようで、神ちゃんと別れた辺りで傍目でもわかるくらいに薄暗い雲が空にかかり、じっとりとした嫌な空気が体中に巻き付いてきた。
それから雨。ぽつぽつぽつという小さな滴はあっというまに大粒の雨に変わり、乾いた地表を打ち付ける。今年は雨が少なく日照りが多いから、農家やダムにとってはまさに天の恵みだろう。けれど、私達一般人はまさかここで雨が降るとは誰も予想をしていないので、待ちゆく人たちが勿論誰も傘なんてものを持っていない。そして雷。一体どこに隠れていたんだというような巨大な雷がぴかっと光って、町中の至る所で悲鳴が上がった。
私も例外ではなくて、突然の雷雨に思わず体を縮めて跳ねあがらせて、雷様の怒鳴り声と一緒に「ひぃっ!」とかいう情けない悲鳴を上げてしまう。思わず頭を抱えて蹲ると、同じようにびしょびしょになったみー君が「あいちゃん、こっち!」と私の手を掴んで走り出した。岩みたいに大きな雨粒は地面を叩きつけるように降り注いでいるし、雷様だって大きな声で怒鳴り上げて太鼓もどんどん叩いている。
雨が多すぎて大きすぎて強すぎて周りの様子なんかぜんぜんなにもわからないし、聞こえてくるのは雨と悲鳴と雷の音だけ。あと自分の悲鳴。「ひぇぇ」だとか「ひぃぃ」だとかわけのわからない声を上げながら手を引かれてたどり着いたのは誰かのおうち。どれくらい走ったのかよくわからない。ほんの数秒だったのかもしれないけれど、何十分も何時間も走ったような気さえした。
みー君の連れられるままに知らないおうちに駆け込んで逃げ込んで、全身びっちょりのままはぁはぁと息を乱して問いかける。
「ここ、どこ?」
「おれんち」
みー君はびしょびしょの靴と靴下とズボンをその場で脱ぎ捨てて、廊下の奥に向けて盛大に叫んだ。
「ゆーちゃーん。ゆうちゃんいるー?」
みー君の声が反響をして数秒後、廊下の奥の扉を開けて現れたのは小柄の女の人。ふわふわのショートカットにピンクのTシャツ、短パンのラフな格好のその人は玄関に佇んだ濡れ鼠を二匹見つけると、「うげっ」という潰れたカエルのような悲鳴を上げた。
「やだ道彦、まさかあんたも濡れちゃったの?」
その人はもう一度廊下の奥の部屋に潜り込むと、すぐにバスタオルを二枚持ってきて私とみー君の頭にかけた。
「海行って帰る途中で降られた」
「海? てあんた、海に行ってきたの!?」
「そう」
くしゃくしゃとタオルで頭を拭く、みー君。
女の人は馬鹿ねー、というようにして眉を寄せると、
「丁度お風呂入ってるから、入っちゃいなさいよ。先にそっちの、えーと……」
ちらりと私に目を向ける女の人。緊張をした私が答える前に、
「あいちゃんだよ」
「そう。あいちゃん、先に入っちゃって。道彦はそこら辺にいなさい」
「ひでぇ!」
先ほどお姉さんが出てきた場所は脱衣所になっていた。その先がお風呂。お姉さんもコンビニに行った帰りに降られてしまい、今さっきお風呂に入って着替えを済ませたところらしい。
私の家よりも一回りくらい小さいお風呂には少し熱めのお湯が張られていた。いつのまにかお姉さんが着替えを用意してくれていたらしく、そこにあった下着とスラックスを着込んで脱衣場を後にする。玄関ではパンツ一丁に身を剥いだみー君が体育座りで震えていた。
「なにしてんの」
「ゆうちゃんがここから動かしてくれないんだよ!」
「大変だったでしょ? お茶飲む?」
ありがとうございます。
窓から外を見ると、まだまだたくさん雨が地面を打ち付けていて、遠い場所では雷だって光っている。ドォン! という音にビクリと体を震わせると、
「雨やまないねー。そんなに長々とは降らないと思うんだけど、ゆっくりしてっていいからねー」
優しい人。
柚子お姉さんは私を覚えていて、ちゃんとわかっていたらしい。
「最初はね。うっわ、道彦が女の子つれてきたよー。とか思ったんだけど、そのあとどこかで見覚えあるなーって思って。それから、愛ちゃんがお風呂に入ってる時に考えて、あっ、道彦が幼稚園の時によく遊んでたあの子だーって」
けたけたと笑いながらしゃべる柚子さんは、みー君とまではいかなくてもとても賑やかで華やかな人だった。ぱっと見、あんまり似てないなぁなどとも思うのだけれど、ふと見せる横顔だとか笑った時の目つきだとかがよく似ている。
「ねーねー、愛ちゃんて道彦といつから付き合ってんの?」
斜め上から飛んできた予想外の展開に、私は含んでいた麦茶をそのまま噴いた。
「付き合ってませんよ!」
「えー? うそー? 恥ずかしがらなくてもいいのにー」
「嘘じゃないですよ」
つん、と私が顔を反らすと、柚子さんはふーんというようにして頬杖を突いた。それからにやりといういやらしい笑みを浮かべて、がばっと私に襲いかかった。
「わっ」
「観念しろーっ。ホントのことを言えーっ」
「ホントもなにも嘘なんかいってないっ」
「嘘つけーっ。て、あいちゃん結構胸大きいね」
「はっ?」
「ねーねー。今つけてないっしょ? いくつー?」
「わっ、ちょっとっ」
寝転がったわたしの上に跨った柚子さんが、遠慮もなしに私の胸を鷲掴みしたその時に。
お風呂から上がったみー君が、敷居の辺りに佇んでほかほかと湯気を立てていることに気が付いて。
動きを止める。
「……お風呂、あがったんだけど」
「……」
「……」
「いつからいたの?」
「……いや、今さっきだけど……」
Tシャツとハーフパンツに着替えたみー君は、私と私に馬乗りになり胸を鷲掴んでいるお姉さんのことを隅から隅までじっと見て。
「ごめん、おれ、もう一回入り直してくる」
「なんでそこで余計な気を使うのよ!」
そこにあったティッシュボックスを掴んで、みー君の後頭部目掛けて投げつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます