第三章 海に行こうよ 2
うろちょろと歩き回るみー君を監視しながら電車に乗る。
私は学校も地元だから電車を使う機会なんて実は殆どなかったんだけど、神崎隆太は更に久しぶりのことだったらしく、みー君とまではいかなくてもどこかそわそわと落ち着きのない態度を取っていた。
「電車乗るの久しぶり? 私は久しぶりなんだよ」
「久しぶり。それに、友達とどこかに行くのも久しぶりだから、だからちょっと緊張してる」
そうなんだ。神ちゃんが慣れない手で切符を買っている間にも、落ち着きのないみー君と綾香があっちへいったりこっちへいったりと幼稚園児みたいなことをして、私のことを怒らせる。
夏休みの電車は人が多くて座れないことも多かったけれど、二人の落ち着きのなさだとか煩さだとか駅の構内でも電車の中でも顕然で、一向に話が止まる気配も笑い声が収まる気配もしなかった。そんなにしゃべり続けていたら喉が枯れて声がでなくなっちゃうんじゃないかとか、海につく前に疲れて嫌になっちゃうんじゃないかとか余計な心配をし始める。
「次どこで乗り換えるの?」
「ふひでふえほひき」
「あー、みー君私もそれ食べたーい」
綾香がポテトチップスの袋を開けようとしてぶちまけたりみー君が口の中に物を入れてしゃべれなかったり私がどこかに行ってしまったみー君を探しにいったりする様を、神ちゃんは微笑ましげにずっと見ていた。
一時間を過ぎたころにしゃべりつかれた綾香が船を漕ぎ始めて、ようやくみー君が大人しくなってきた頃に、潮の匂いが漂ってくる。車窓から見える田圃やビルや民家が堤防に変化して、青い海と、海と空の境界を泳ぐ船が見えてきた。
「海だ!」
浜辺についた瞬間に、みー君はぽんぽんぽんと服を脱いでそのまま海に駆け出した。シートも何も引いていないところに脱ぎ捨てたので、シャツもズボンも砂塗れだ。
八月の浜辺はシートを置く場所もないんじゃないかっていうくらい混んでいると思っていたのに今日のこの日はそうでもなくて、真っ黒に焼けた海の上のお兄さんに問いかけると「今日は空いている日なんだよ」とそう言われた。
それでも真夏の浜辺には、セクシーな水着を着たお姉さんも真っ黒に日焼けをしたマッチョなお兄さんもいたし、小さい子を二人連れた家族もサングラスをかけて刺青をしたちょっと怖めのお兄さんだって沢山いた。
真っ青な海も対照的な白い雲も燃えるような太陽も健全だったし、灼熱の太陽を含んだ砂浜は何十分も熱したフライパンみたいになっていた。吹く風さえも暑くて、それに塩っ気と砂利が混じる。ただ少し不健全だったのは八月の空の下でも白い神ちゃんの肌。対するみー君はすでに真っ黒に焦げていて、綾香はパラソルの下で日焼け止めを塗っていた。私も塗ろうと思って鞄の中から取り出すと、すでに沖まで行って帰ってきたらしいびしょびしょのみー君がバケツの中に大量に汲んできた海水を頭の上からぶっかけてきたので、砂浜を駆け海を泳ぎ地の果てまで追いかける。
ようやくみー君にお仕置きをして陸に戻ると、神ちゃんがのんびりとかき氷を食べていた。綾香はどうしたのかと問いかけると、「さっき、二人を追いかけて行ったよ」と言われたので綾香の姿を周囲に探す。すると、波打ち際で知らない人たちとビーチバレーをし始めた綾香とみー君の姿が目に入り、思わず笑ってしまう。まったく、あの二人の社交性だとか愛嬌だとか愛想だとかは本当に呆れるものがある。
大人しく荷物版をしている神ちゃんの隣に座り込むと、何かに気が付いた神ちゃんがかき氷を差し出して「食べる?」と問いかけてきた。これも、最近の神ちゃんにおける少しの変化。
「ううん、要らない。ありがと」
「そう」
「神ちゃんへーき? 疲れてない?」
「うん。大丈夫。こんな遠くまで出たのすごく久しぶりだけど、でも楽しい」
うっすらと笑みを作りかき氷にストローを突っ込んだ神ちゃん。久しぶり。そうだろう、だってこのお坊ちゃんはつい先日まで家からも出なかったのだ。
「それにしても、みー君と綾香にも困ったもんだよね。あんなにうるさく燥いじゃって。まるで小さい子みたい」
「海は遊ぶところだからいいんじゃないの?」
「そうじゃないの。電車の中とか人ごみとか、あんなにちょろちょろちょろちょろ動いて、あれだったら、近所に住んでる子の方が手がかからないよ」
「あはは」
「まったく、こんなんじゃ帰りも思いやられるわ」
「帰りは二人揃って寝るから静かじゃないのかな」
「ううん。二人揃って寝るから荷物が増える」
きっぱりと私が答えると、神ちゃんはぷぷっと拭き出して声を出して笑った。
「でも、あれだね」
「うん」
「芝原さんは、かわいいね」
遠くの方で知らない人たちを眺めながら発した神ちゃんの言葉に、私は思わず硬直をする。それから少し考えて、「神ちゃんて、綾香みたいなのが好きなの?」と問いかけると、「違う違う」と思い切り否定された。
「ただ、あんな風に素直に笑ったり動いたりする子ってあんまり身近にいなかったから」
「子犬みたいで?」
「そう、子犬みたいで」
そう言う神ちゃんのかき氷は半分くらい減っていて、それの半分くらいは溶けかけている。かき氷は溶ける前に食べるのが醍醐味なのに、やっぱり神ちゃんは食べるのがちょっと遅い。
神ちゃんはのたのたとかき氷を食べているし、綾香とみー君は知らない人たちとビーチバレーをやっているから私も少し泳いでこようかなと立ち上がると、今思い出したというようにして神ちゃんがぽつりと言い放った。
「そういえば愛ちゃん」
「なぁに?」
「期末の順位どうだった?」
期末試験。自分では割とうまく行っていたと思ったのに、微妙にアテが外れていて、それほど胸を張ってとれるような点数は取ることができなかった。勿論上位は、目の前でのんびりと溶けかけたかき氷を食べている神崎隆太とか散々みんなに弄られている五味くんだとかが占領をしているわけなんだけど、実は綾香もそんなに成績は悪くない。
「そんなに悪くはなかったよ」
と私が言うと、そっか、というようにしてスプーンを口に含む、神ちゃん。何かを考え込むようにして白と赤のスプーンを前歯で甘噛みをすると、
「道彦って」
みー君の期末テストの結果は、そりゃあもうひどかった。口に出せないほど酷かった。赤点が三つもあったし、その後の追試も更に落ちてとんでもなく怒られていた。
私が事実をそのまま伝えると、ストローの先に歯型をつけた神ちゃんはぼんやりと呟くようにこう言った。
「道彦が、入る前の編入試験。ほぼ満点取ったの、知ってる?」
神ちゃんの薄い唇から発せられた驚愕の事実に、私はパーカーを脱ごうとファスナーを下しかけていた手をそこで止める。
意味がよくわからなくて理解できなくて、そのままの体勢で固まる、私。
神ちゃんがカップの底に残った氷を飲み干してようやく全部食べ終わったころ、働くことをやめていた私の体内細胞が漸く動きを再開して、聞き返す。
「なんだって?」
思わず声が裏返ってしまったのは仕方がない。
「編入試験。主要五教科の試験を受けて、全教科九割九分以上の正解率で合格したの」
「……それ、ほんと?」
「前、あいちゃんが道彦に勉強教えてるとき、職員室で先生たちが話してた。編入試験あれだけできてたのに、なんでこんな問題ができないんだって先生たちが嘆いていた」
そんな話知らないし、誰からも何も聞いてない。
「そうだろうね。道彦だってそんなこと、自分から言うはずないもんね」
神ちゃんは意味もなく足元の砂を掘り返して、小さな貝殻を拾い上げた。掌にすっぽり収まる程度の大きさの貝殻。
「おかしいと思ったんだ。普通の常識を持つような人が、僕の改造したモデルガンを扱えるとは思えないもの」
小さな貝殻は端の方がちょっとかけていて、砂を払うと真珠みたいな白い肌が現れた。水に溶けて砂を落として太陽に翳すと、ぴかぴか光る宝石みたいだった。
噂のみー君はというと、降ってきたビーチボールを顔面で受け止めてそのまま反対側に打ち返した。鼻血が出ていてちょっと痛そう。「涙が出ちゃう! 女の子だもん!」とか意味の解らないことを叫んでいるみー君はどこからどうみてもただの馬鹿で、決して編入試験で好成績を取ってみたり間違えても頭がよさそうには決して見えない。
神ちゃんの聞き間違えじゃないかとか思いながらぼんぼん弾むボールを眺めていると、神ちゃんが私の掌に先ほどの貝殻をぽとんと落とした。
「奇麗だからあげるよ」
他の男の子には決してありえないその気遣い。ちょっとだけ緊張をして、ありがとうとそれを受け取る。
「……頭良さそうにはみえないけど」
「人を楽しませることのできる人は、頭がいい人が多いんだよ」
そうなのだろうか。確かに本人は楽しんでいるかもしれないが、考えて楽しませている用意は思えない。私には自分のやりたいようにやっているだけに見えるし、恐らくそれは事実だろう。
「……頭のいいひとは、友達と電車に乗って迷子になったりしないんじゃないかな」
思ったことをそのまま言うと、確かに、神ちゃんは笑った。それから、空いたかき氷の容器をごみの袋に押し込んで、立ち上がる。
「あいちゃん、泳ぐ?」
神ちゃんからの予想外の提案に、私は思わず聞き返す。
「神ちゃん泳げるの?」
すると神ちゃんは、失礼だな、というようにして苦笑すると
「泳げるよ。僕、結構速いんだ」
「溺れたって助けてあげないよ?」
「愛ちゃんが溺れたら助けてあげるよ」
これも変化。マイペースな天才神崎隆太は、皮肉だっていうし冗談だってちゃんというんだ。
私と神ちゃんが沖まで行って帰ってくると、そこには綾香と顔面にボールを受けて真っ赤な鼻血を出したみー君が寝転んでいた。神ちゃんが二杯目のかき氷を食べている間にみー君の鼻血は完全に止まって、今度は四人でバレーボールを始める。そのうち、どこからかモリを借りてきたみー君が海に潜ってタコを掴まえて(一体どこまで深く潜ったのか)「とったどー!」と叫び、タコに墨を吹きかけられた。
楽しい時間はどんどん過ぎる。真っ赤な太陽な水平線の向こうに沈み。青い海を夕日の色に染め上げた。
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