第三章 海に行こうよ

第三章 海に行こうよ 1

 玄関を開けたら

「あいちゃーん」

 ゴーグルとシューノケルと足ひれをつけた海パン姿の渋谷道彦が浮き輪を持って佇んでいたので

「海行こ」

 勢いよく閉めた。


 八月の熱を含んで鉄板のようになっている玄関の戸に体重をかけ、瞳を閉じて座り込み、考える。さて、今日は一体何月何日何曜日だっただろう。八月七日水曜日のバナナの日。夏休みに入り、実に二週間以上過ぎている。今年の夏は近年の異常気象も伴い、雨は少なくて気温も高くて、各地で水不足が多発している。太陽はいつも以上にカンカン照りだし、本来真夏の主役のひとつである向日葵だって萎れている。これだけ暑ければ北極の氷が溶けても仕方がないしそのせいで海面が浮上してどこかの国が沈没したって仕方がない。すでにどこかの国は沈没の危機に晒されてしまっているらしいし、日本だって島国だから、いつ与那国島とか波照間島とか小さな島が海水に飲み込まれてしまっても不思議ではないのだ。

 しっかりとした足取りで台所に行って、食器棚からカップを取り出して水を灌ぐ。先日、奈々子がコンビニのくじで当てたマグカップだ。お母さんはリビングの掃除をしているし、お父さんは裏庭の花壇に水をあげていた。

 ぬるい水を一杯飲んで、私はわかる。確信をする。大丈夫、私は正常だ。熱さでやられて頭がおかしくなんかなっていないし、幻覚だってみていない。そうだ。あれは幻だ。真夏の太陽が見せた幻想だとか、お盆が近づいてきているこの時期の、日本古来からあるおそらくそういったものなのだ。

 自分自身にそう言い聞かせて、もう一度玄関の戸を開く。

「あいちゃん、なんで閉めちゃうん?」

 そこにいたのは、やっぱり海パンにゴーグルとシュノーケルと足ひれをつけ浮き輪を持ったみー君で、愕然をする。自分でもわかるくらいひどい顔を作り上げて、上から下から何度も何度も視線を走らせる。

「何してんの?」

「迎えに来た」

「誰を」

「あいちゃん」

「帰れ」

 ばたん!

 自分でも驚くくらいに冷たくはっきり言い放って、戸を閉める。うぁぁ、一体こいつ何考えてんのありえないとか思いながら、頭を抱えてずるずるずるずる蹲る。リビングからはお母さんが「愛ー、玄関の戸はもっと静かに閉めないと壊れちゃうわよー」っていってくるし、外からは「あいちゃんあいちゃんなんで閉めるん? 開けてー開けてー」と叫びながらどんどんどんどん扉を叩く渋谷道彦の声が聞こえてくる。

 ホラー映画の登場人物になった気分だ。百年の眠りから目覚めた伝説の殺人鬼とか妖怪だとかそういった類のものに追い回されて空き家に逃げ込んだ主人公。頭を押さえたままぶるぶると体を震わせて、意を決して立ち上がり、再三玄関の戸を開ける。

 そこにいたのは、やっぱり変態のような格好をした渋谷道彦に違いがなかったわけなのだけれど、その隣から太陽のような笑顔を見せたのがクラスメイトの芝原綾香と神崎隆太。

 実は神ちゃんは、一学期の終わりごろ、期末試験が始まったころから少しずつ社会復帰を果たしつつあった。というのも、皆と同じように学校に行き、教室で授業を受けて、皆と遊んだりご飯を食べたりそういうこと。

 何か月も学校を休んでいた神崎隆太の登場に、それこそみんなギクシャクと腫れ物に触るような態度を取っていたのだが、渋谷道彦の愛嬌と五味恭介の気配りで徐々に徐々に打解けていた。

 最初、扉を開けたときは変質者のような格好をした渋谷道彦の姿しか目に入らなくて存在がわからなかったのだが、綾香と神ちゃんは最初からその場にいたようだ。

「はろー、愛ちゃん。久しぶりー」

 といって手を振る綾香は、勿論水着姿だったりゴーグルをつけているはずもなく、どこに出ても恥ずかしくない服を着込んでいる。みー君の隣で何とも言えない表情を作っている神ちゃんだって勿論そうだ。

 私は、その二人と海パン一丁で素晴らしい笑顔を浮かべている渋谷道彦を何度も何度も見比べて、それからはぁ、とため息をつく。

「その格好で来たの?」

 私の素朴な質問に、みー君はうん、とシュノーケルを動かした。その馬鹿丸出しのみー君の隣で、Tシャツにズボンというひどくまともな格好をしたイケメンの神崎隆太は苦笑いをしてこう言った。

「道彦、この格好でうちまで来たんだよ。この格好で自転車に乗ってきたとか、信じられないでしょ」

「うちに来たときは普通の格好だったよ。ちょっとトイレ貸してーっていって、出てきたらこうなってた」

 白のチュニックにミニスカートを履いた綾香は抜群にかわいいけど、腹を抱えてげらげら笑い転げる姿は正直下品でかわいくない。そしてわたしは、みー君のゴーグルだとか海パンだとかに気を取られすぎて、本来の目的を忘れてしまう。

「それで、えーと、なんだっけ?」

 私の疑問に、みー君はすぽん! と意味もなくゴーグルを装着すると、

「あいちゃん、海行こう!」

 と、弾むような声でそう言った。

 海。海なんて、もう何年も行ってない。家族で海水浴なんて多分小学校が最後だし、プールさえもいつ入ったのか覚えてない。

「海なんてこの辺にあったっけ」

 私の疑問に答えたのは神ちゃんに諭されて庭の端で上着を着始めたみー君ではなく目の前にいる綾香。

「ないよ。だから、ちょっと茨城まで行こうと思って」

「……ちょっと遠いね」

「そう。二時間くらいかかるって」

「電車で行くの?」

「そう。最初は神ちゃんが車出してくれるって言ってたんだけど」

 車。ぴくりとその単語に反応をして、大人しく立っている神崎隆太を凝視する。上着とズボンを着込んでいる(バッグに入っていたらしい)みー君を監視している神ちゃんに水玉模様の浮き輪は非常に不釣り合いで、むしろそれが逆に可愛いのか、これが噂のギャップ萌か? などと妙な悟りが開けてくる。

 神ちゃんは違う違うと片手を振ると、

「今度はちゃんと、うちのひと。お手伝いさんが出してくれるっていったんだけど、電車で行こうって断った」

 もう、無免許運転はしないよと苦々しく笑う神ちゃん。それならいいんだ。腕を組んで一人で勝手に頷いていると、ゴーグルその他を外し服を着こみ人前に出れる格好をしたみー君が、

「あいちゃん、海行こうよ。海! 海! 楽しいよ! 行こうよ!」

 うきうきと体を揺らすみー君には、全身から音符だとかお花だとか「楽しい」っていう気分が記号みたいに溢れていて飛び出ていて、それどころか尻尾だとか猫耳だとかも飛び出てきそう。

「いいけどちょっと遠いね」

 私が言うと、長い髪の毛をお団子二つに結わいた綾香がくいっと首を突っ込んできた。

「いいじゃん。あいちゃん、どうせ暇なんでしょ? 少しくらい夜遅くなってもヘーキだよ」

 失礼ともいえるような綾香の言葉に、私は息を詰まらせる。確かに。宿題なんかまだやらないし、家にいたってどうせ暇だ。

 お団子頭の綾香は、じっ、と黙り込んでいる私の返事をじっ、と見つめて待っている。綾香は落ち着きがなくてちょっと頼りなくて、背だってわたしよりも低くてまるで妹みたいな感じなのにどこか奇妙な圧力だとか眼力だとかを持ってる。今だってただじっと返事を待っているそれだけなのになぜか、逆らってはいけないというか有無を言わさぬ雰囲気を醸し出しているような気がして、うっ、と退く。そして、私と綾香の間に割り込んできたのが浮き輪の間に挟まったみー君。服を着込んでいるのになぜ浮き輪を着用しているのか謎すぎる。

「あいちゃん、それでいかないんー? どうするんー?」

 行くよ。

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