第二章 登校拒否の神崎くん 9
動きやすい服に着替えて外に出る。
赤いTシャツに上着を羽織った着たみー君は家の近くの駐車場にいて、跨っていたのはなんとオートバイ。はいこれ、と渡されたのは赤いフルフェイスヘルメットで、みー君はすでに跨っていつでも発進できるような体勢を取っていた。みー君は背中になぜかゴルフバッグを担いでいて、「はい」とそれを渡される。みー君が担いでいると私が後ろに乗れないからだ。ずっしり重い。「なにこれ、中になに入ってるの」と聞くと、「秘密兵器」とウインクされた。
青い光沢のあるオートバイは、みー君とみー君にしがみ付いた私を乗せて夜の勅使河原市をどんどん走る。十時なんてこの町じゃあ殆ど夜中に入るから、夜の仕事の人以外誰もいない。七月の夜の田圃道は、蛍がきらきらと光り田圃の水を反射して、草木さえも輝いているかに見えた。
「みー君、どこいくの?」
「取り合えず神ちゃんち」
神ちゃんち? なんで? 神崎邸に一体何があるのだろう。
みー君の背中にしっかりとしがみ付いた私が問うと、「行けばわかるよ」と背中越しに返された。返事の代わりに、しがみ付く腕をきつくする。
「ねぇ、みー君」
「なにー?」
「みー君、いつオートバイの免許取ったのー?」
私の素朴な問いかけに、みー君はうん? と首を傾げた。
「おれ、免許なんか持ってないよ」
「はい?」
「これ、ゆうちゃんのだから。今夏休みでこっち来てて、勝手に借りてきた」
「……」
「乗り方とか、ゆうちゃんが乗ってるのみて覚えたんだ」
俺結構うまいっしょ。とか言いながらブルンブルン景気よくエンジンを吹かす渋谷道彦。
私はみー君の言っている意味がよくわからなくて、真夏の夜風を体に受けながら放心状態になる。え? なにそれ? 免許持ってないってどういう意味? それってすなわち、教習所いったわけでもないし誰かに教えを説かれたわけでもないってこと。
「へーきへーき。おれ、中学のとき二日にいっぺんくらいゆうちゃんの後ろに乗せてもらってたから」
いやそれ、全然大丈夫じゃないし。
私はどうしようもない不安だとか絶望だとかを感じながらも、風を切りながら田舎道を走っていくオートバイから飛び降りることも、しがみ付いているみー君から離れることもできないでただただ打ちひしがれた気分で空を見上げる。
命の危険が近寄っていることを感じても満月は綺麗だしキラキラと夏の星座が輝いている。ああ、綺麗だな。あれが乙女座であれが確か天秤座。夏の大三角形ってどれだっけ? あれとあれとあれだっけとか現実逃避を仕掛けてみても、現実は一向に遠のいてはくれなくてむしろこくこくと近寄り足音さえも立てているようだった。 今目の前でみー君のTシャツを掴んでいるこの手を放してしまえばどんなに楽なことだろうと思うのだが、私の理性だとか本能だとかがそれを拒む。
私は馬鹿だった。忘れていたのだ。
どんなにカリスマ性があってもいくらオートバイを運転する姿が格好よくてもこいつは渋谷道彦だった。渋谷道彦の異常性だとか意外性をすっかり侮りなめきってしまっていたのだ。
そうこうしている間に、みー君の運転する(お姉さんの)オートバイは神崎邸に到着をする。埼玉の田舎のど真ん中にある神崎邸は、周りは暗いのにそこだけライトがついていて違う世界のように見えた。
みー君がオートバイを停めたのは、神崎邸から十メートルくらい離れた場所にある民家の影で、そこから民家の三件くらいは軽く建っちゃうくらい広さのある神崎邸専用の駐車場が見えた。暫くすると、神崎邸からスーツ姿の男の人が現れる。サングラスなんてかけていないし、着ているものだって神崎の黒いやつではなくて灰色のどこにでもある誰でも来ているスーツだけれど、わかる。神崎邸の警備員だ。
本日の業務が終わった警備員は、神崎邸の綺麗な革靴とは対照的な草臥れた靴を履き、駐車場に踏み込んだ。入口から一番遠い場所に停めてあった乗用車に入り込むと、ぶるん、ぶるるんという音を立て発進をする。百メートルくらい進んだところでみー君は、ぶるん、とオートバイのエンジンを入れて進み始める。
「ねぇ、ホントにどこに行くの? なんで神崎の警備員を追いかけるの?」
ここまでくれば私の心にも諦めだとか開き直りの言葉が浮上し始めて、ぶるんぶるんとハンドルを握るみー君に振り落とされぬよう大人しくへばりついておくことに決める。
みー君は言った。
「神ちゃんの誘拐には、神崎の警備員が絡んでる」
「え?」
なにいってんの、こいつ。
「それ、本気?」
「うん、本気。松田さんに付けた発信機が」
「発信機? 盗聴器だけじゃなかったの?」
「盗聴器と発信機が一緒になってる」
盗聴器型発信機……うん? 発信機型盗聴器? とかくだらないことで悩みだし、右手で顎を抑えたみー君。勿論それはグリップから離れてしまっているわけで、私は焦る。
「ハンドル! ハンドルちゃんと持って! あと、前向いて!」
「ん ?あ、やっべ」
ゆうちゃんの青いオートバイは一気にバランスを崩して右方向に四十五度傾く。
「ひぃっ!」
ぎゅぎゅぎゅぎゅというタイヤの軋むような音を響かせて、倒れる直前でなんとかぎりぎり体勢を立て直す。途中、大きなデコトラとすれ違ってガタイのいい運転手がひどく驚いた顔でこちらを見ていた。
「あっぶねー」
さすがのみー君も焦ったらしい。ふぃー、という気の抜けた音を立て肩の力をすっと抜いた。私はみー君にしっかりしがみ付いてがたがたぶるぶる震えていた。冷や汗が体中を伝い、ぽたぽたと垂れている。歯ががちがちと音を立てて、全身の骨が軋んだような音を立てた。
「そう、発信機が神ちゃんのGPSと近づいたり離れたりしてる。マイクにもそれっぽい声が入ってた」
前方の乗用車がスピードを上げ、角を曲がる。みー君がぶるるんとアクセルを動かして食いついていく。都会だったら車が多いしお巡りさんも立っているかもしれないけど、ここは田舎だし夜の九時を過ぎれば車だって殆ど通っていないし街そのものが眠りこけたようになる。暴走族だって殆どいないし、いるとすれば精々髪を染めてルーズソックスを履いたダサい田舎の不良程度。変質者の一人や二人いればちょっと面白いのかもしれないけど、私はまだ田圃の横でいちゃついているオカマのカップルしか見たことがない。
国道を超える途中、みー君のオートバイと前方の乗用車の間に黒の軽ワゴンが割り込んできて、私の心臓を止めかける。
「松田さんだ」
赤のヘルメットをかぶったみー君は見覚えのある眼鏡をかけていて、おそらくそれは神崎隆太作成の発信機追跡眼鏡。途中の分かれ道で、みー君の運転をするオートバイは乗用車と一時的に離れることを決める。「この先は殆ど何もないから、見つかるかもしれない」らしい。
乗用車と軽ワゴンを追って、発信機を頼りに到着をした場所は工場だった。今はもう使っていない、錆びれてぼろぼろで、今にもぱかっと罅割れてくびれ落ちてしまいそうな工場。昔見たアメリカのホラー映画に出てきて、実際ジェイソンだとかフレディだとかが出てきて襲いかかってきそうな、そんな工場。
フェンスの入り口には頑丈に南京錠がつけられていて決して入れそうもないだのが、実は一部分だけ教室の扉の大きさ程度に壊されていて、すぐ近くに車を停めた2人はあっさりと敷地内に侵入していく。工場の敷地内は砕けた小石が散らばって草や木もぼうぼうで、とても人が立ち入っているようには思えない。
五十メートルほど歩いたところに、工場の中への入り口は存在した。男はまた鍵の束を取り出すと、扉に掛けられている大きな南京錠に押し込んだ。かちゃんという高い音が鳴り、開錠する。ギギィ……という重たい音を立てて扉を開き、暗闇に吸い込まれるように入っていく、二人。
二人の姿が完全に見えなくなり扉が閉まったことを確認して、みー君は足音を立てぬように近寄った。オートバイを隠したみー君がどんどん先に行くものだから、置いてかれぬように私も一生懸命ついていく。
錆びっぽくて硬くて大きな扉に手を掛けるが、内側から鍵をしたらしく押しても引いてもどうにもならない。重たい大きな南京錠は月光を反射しながらぷらぷらとぶら下がっていて、「開かない」と呟いたみー君の手には錆びと泥と砂と色んな汚れて赤と黒の混じったような色で汚れていた。
みー君は掌をズボンの裾でぐいっと拭うと、
「あいちゃん、ヘアピンとか持ってない?」
「ヘアピン? なんに使うの?」
「ちょっと貸して」
私は前髪を留めていたヘアピンを取り、みー君に渡した。みー君はそのヘアピンをぐにゃりと伸ばすと、錆びついた鍵穴に押し込んで、ぐるりぐるりと回転させた。かちゃり。
「開いた」
なんでだ。
みー君はぐにゃぐにゃになってもう二度と使い物にならないようなヘアピンを私に返すと(なぜ返すのか)音を響かせぬよう慎重に重たい扉を開けた。
工場の中はとても暗くて錆び臭くて、何リットルもの泥と雨と煙を押し込んだような嫌な匂いがして、幽霊で有名な生駒トンネルみたいにじっとりとしていた。わけのわからない複雑な機械や道具はたくさんあって、雨も降っていないのになぜか天井からは水がぽたぽた落ちてきた。チュウ、という声で思わず肩を跳ねあがらせると、後ろにいたのはなんとネズミ。ネズミとか初めて見た、と私が言うと、みー君はひどく驚いた顔で「あいちゃんてホントはお嬢様なの?」と聞いてきた。違うっつの。
どろどろの階段を上がってわけのわからない機械と機械の間を抜けて足場の悪いはしごを渡る。男は数十メートル離れたところをずっとずっと歩いていて、一向に私たちのことに気が付く気配がない。途中、うっかり階段を踏み外したみー君が大きな音を立てたのだけれど、丁度良いタイミングでどこからか入り込んでいた野良猫が「うにゃあ」という気の抜けた声を上げてくれたのでうまく凌ぐことができた。工場の至る場所が傷んでいて軋んでいて所々壊れていて、足場も悪く不安定で最低な場所だった。
先をいくみー君のリュックを引っ張りながら恐々と進んでいくと、2人はとある部屋への扉を開けて入っていった。ぼろぼろの表札でこう記されている。
『ボイラー室』
様々な機械の置かれた狭い部屋の一番奥に、神崎隆太は存在した。
松田さんは、屈んで視線を合わせると
「あともう少しの辛抱ですから、我慢してくださいね」
大きな機械に縄でぐるぐる巻きに拘束をされた神崎隆太は、何の色もない瞳でじっ、と男を見たまま何も言わない。何も答えない。
「坊ちゃんにはなんの恨みもありません。恨むんだったら、自分のお父様を恨んでください。明日の朝、社長が私に金を渡してさえすれればすべて終わりです。坊ちゃんには何の危害を与える気もありません」
「……父さんは」
「はい」
「父さんには、お金を出す気は、ないと、思う」
ぼそりと、何の感情も現さずに発せられた低い声は、ぼろぼろに汚れた床を這うようにして私の耳まで飛び込んできた。
「そんなわけないでしょう。社長も奥様も、あなたの安否を大変ご心配なられております」
ひどく低姿勢で言っていることは丁寧なのに、松田さんから発せられるのは威圧感だとか重量感だとかヘドロのように黒くて禍々しいオーラばかりだった。少しでも気を抜けば、すぐに押しつぶされてしまうのではないかというくらい重たくて暗いもの。
「……むしろ逆に、僕みたいな厄介者がいなくなってせいせいするって大喜びなんじゃないのか?」
どういうことだ? 意味がよくわからない。マイク越しに聞いた神ちゃんのお母さんの声はひどく緊張をして悲壮感に溢れていて、マイク越しでも甲高い鳴き声だとかわめき声だとかキンキンと金属を叩いているみたいに響いてきた。そもそも、子供のことを心配しない親なんて存在するのか?
「いくら奥様といえど、子に対する愛情くらいお持ちですよ、坊ちゃん」
「……お金の方が大事だと、僕は思うね」
「世間体をご存じですか?……もしここで大事なご子息に傷をつけたら、メディアからなんといわれるか」
まったく意味が解らない。私はぶるぶると震えたまま、機械に隠れたみー君の更に後ろにへばりついて、テレビドラマのワンシーンみたいな光景を目の当たりにする。こんな一昔前の刑事ドラマみたいなことが、まさか現実にあるなんて。
ぐるぐるに縛り上げられた神ちゃんは「どうだか」というようにして口の端を歪ませた。
じっと神ちゃんと視線を合わせていた松田さんは、ひどく緩慢な動作で立ち上がり厚いフレームの奥から覗くようにして神ちゃんを見下ろした。
「大人しくしておいてくださいよ。そうすれば私たちは、あなたに危害を加えることはありませんから」
神ちゃんは、なんの感情も持たないような瞳の中に、スーツ姿の男を2人映し出した。何も言わない。薄い唇は一直線に結ばれていて、瞬きさえもしなかった。
「それではまた、明日」
失礼します、と動作だけは丁寧にお辞儀をする二人が踵を返したことで、私とみー君は隠れる位置を急いで代える。隣の部屋の扉の後ろに屈みこんで、二人揃って口を押えた。二つの足音がだんだん遠くなり、階段を下りて、聞こえなくなる。ほっ、と安堵をした瞬間に私の前をうにゃんと猫がやってきて驚かせた。ひっ、と思わず悲鳴を上げそうになったのをなんとか抑え、立ち上がる。二人はいない。
なるべく音を建てないように緊張感を保ったまま、ボイラー室の神ちゃんに忍び寄る。
気配に敏感そうな神ちゃんは、かさり、と微かに聞こえる程度の足音に小さな反応を示した。それから、目の前にいるのが一度も同じ教室で勉強をしたことがないクラスメイトだということに気がついて、瞳孔を開いた。
「神ちゃん、へーき?」
呆気にとられたという顔をお手本のように作り上げた神ちゃん。私たちの姿を上から下から何度も何度も確認して、まさに唖然、というようにして口を開いた。
「……なに、してんの?」
みー君はズボンのポケットから体調十五センチくらいのサバイバルナイフ(昼間、神ちゃんの部屋から持ってきたもの!)を取り出して、神ちゃんの体を拘束しているロープをかき切った。ロープはとても太くて頑丈で、私達が普段使っているカッターナイフではとても切れるようなものではなかったが、さすがそこはKANZAKIだ。スパン、と腕のいい料理人が最高級の包丁を使い魚を裁くようにして、気持ちよく切ることができた。
「助けに来た」
「……僕を?」
「やだなぁ、他に誰を助けにきたっていうのさ」
ロープが切れて、完璧に自由になった神ちゃん。この前会ったときよりも、少しだけやつれたようにも見えた。
現状が全く理解できていない神ちゃんは、命の切れた蛇みたいにして体に絡みついているロープを払い、ぽかんとした表情で見上げている。
「なんで……どうやって? どうして?」
「間抜け」をそのまま絵に描いたみたいな表情の神ちゃんに、私は少し笑ってしまう。そりゃあそうだ。私にも、なんで今こんな状況になっているのか正直意味がわからない。
みー君はきょろきょろと辺りを見回して、
「早くいこ、じゃないと、あいつらが戻ってきちゃうかもしれない」
といって、自分よりも一回り以上背の高い神ちゃんの手を取った。神ちゃんはまったく訳が分からないという表情のまま立ち上がり、それから逃げるチャンスだということを悟り顔を引き締めた。
「にしても、神ちゃん、あいつらって一体なんなの? 神崎邸の警備員じゃないの?」
警戒をしつつ階段を下りながら、問いかける私。神ちゃんは細い目を更に細くしてひどく緊張した面持ちで、こう答えた。
「……LIFE TECHNICの元幹部だと思う」
「らいふてにくにっく?」
LIFE TECHNICは、家電を中心に売り出していた中小企業だ。元々は四谷電化の名前で売り出していたのだが、大手電機会社や経済の低迷などの影響を受け数年前に他の会社と吸収合併、そのあと、親会社共々倒産をして話題になった。
「うちの会社がLIFE TECHNICにかなり大きな圧力をかけてた。かなりえげつないこともやってたみたいだから、恨みの100や200買っていてもおかしくない」
思い当たる節があちらこちらから出てくるというように、神ちゃん。100や200とか、ちょっと恨みが多すぎる。社会人とか会社とか、大人になったらそうなっていくものなのか? でも、だからといって誘拐をするのは少しおかしすぎるんじゃないのか?
とか思っていたら、先頭を行くみー君が
「でも、神ちゃんがこんな目に合うのはおかしいよ」
流石。
もう何年も封鎖されていて何にも使われていない西野セメント工場の床はどろどろで埃っぽくて汚くて、いつ降ったのかわからないような雨水だとかどこから湧き出ていたのかわからない泥だとかがあちらこちらに集まっていた。人の出入りはないはずなのに、なぜかところどころに空き缶だとか空き瓶だとかお菓子の袋が捨てられていた。ホームレスだとか不良だとかが出入りをしていたのかもしれない。更にそれを求めるように集まっている、ねずみと虫。気持ち悪い。最低、吐きそう。でも、もうすぐここから出られるんだ。家に帰ったらすぐにシャワーを浴びてお風呂に入って、太陽の匂いのするふわふわのお布団で眠るんだ。
自分に言い聞かせながら必死にみー君に縋りついていると、何かに気がついた野生のみー君がすっと私と神ちゃんの手を引いて、屈みこむ。なんに使うのかよくわからない巨大な機械の後ろに隠れてると、かつんという蹴とばすような足音が聞こえてきた。あの二人だ。ここを出て行ったはずのあの二人が、なんらかの事情で戻ってきたのだ。
一番近い位置にいるのがみー君。みー君は、見たことがないくらい真剣な表情でじっ、と様子を覗っている。これはいくら何でもまずいんじゃないか? もしかして見つかってしまうんじゃないのか? もしこんなところであのごつい成人男性の誘拐犯二人組に見つかってしまったら、とんでもないことになってしまうんじゃないのか? みー君や神ちゃんでは到底かなうわけがないんじゃないのか? とかたった三秒くらいで考えて、私は命の危険だとか人生最大の危機だとかを迎えてしまったことを思い知る。頼むからあっちへいって、行ってくださいお願いしますだとか両手を握って願っているのに、怠け者の神様は残念ながら私みたいなひよっ子の願いを聞きもせず、二つの足音は徐々に徐々に近寄ってくる。それどころか、隠れたみー君の隣に暗く伸びた影が二つ見えている。声だってすでに聞こえているのだ。
みー君は冷や汗なのかただの汗なのかよくわからないものを流していて、額から首筋までじっとりと流れている。神ちゃんはじっ、と揺れる二つの影を見つめて息を呑んでいた。天井からぽたり、と水滴が垂れ、音を立てた。
心臓が鳴っている。とくん、とくんとかそういう静かな音じゃなくて、体の奥底から危険を鳴り響かせるようにして、叩きつけるようにどんどん音を立てていた。ちゅう、と小さいネズミが鳴き声を上げて、私達の前を過る。一秒、二秒、三秒……子ネズミが陰から飛び出して、長く伸びた影を踏んだ瞬間だった。
渋谷道彦はぱっ、と全身のばねを使いバッタのようにして飛び出すと同時に上着の内ポケットに潜めておいた水鉄砲を取り出して、サングラスをかけていない剥き出しの顔面に放った。ぱしゃり、という音と一緒に上がる悲鳴。獲物を狙った鳥みたいな勢いで飛び出たみー君はそのまま一気に体当たりをして、体すべてで男を押し倒した。もう一人の男――松田さんだ――は、一瞬だけぽかんとした表情を作り、はっ、と状況を理解する。その、一瞬だけぽかんとした隙に神ちゃんは私の手を握り走り出した。
「お前らっ……」
松田さんはぐわっ、と猛獣みたいな勢いでみー君を掴まえようとするのだけれど、すばしっこいみー君はにゅっと右に転がり、そこに転がっていた空き缶を手に取り、投げる。一歩踏み出した松田さんはタイミングよくみー君の転がした空き缶を踏みつけて転げた。しかも中身が半分くらい残っていたらしく踏みつけられた衝撃でぷしゅんと溢れて、スーツのズボンにべちょりとつく。
普段はとってものんびりでマイペースな癖に背の高い分足が長い神ちゃんは足が超速くて、私の腕を掴んだままロケットみたいに走り続ける。神ちゃんは松田さんが頭からスっ転んだことに気が付くと腹の底から大声で叫んだ。
「道彦!」
それを合図にしたように、みー君はばっ、と跳ねるようにして走り出した。そのときにはもう、みー君にオレンジジュース入りの水鉄砲を掛けられた男の人も空き缶で転んで頭を打った松田さんも半分くらい起き上がっていて、「追えっ、早く追え! ガキが逃げる!」とか、昔のテレビでチンピラが言っていそうな台詞を工場中に響くような声で叫んでいる。
みー君はあっ、という間に私たちの元に追いついて、私の空いている方の手をぐっと持ち、スピードを上げた。私が神ちゃんの足を引き摺っていたことに気が付いたのだ。左右からぎゅんっと引っ張られるようにして走り、階段を飛び降りて、廊下を滑る。後ろからはどんどんという床を叩きつけるような足音と怒鳴り声が聞こえてくる。怖い。猛獣に追いかけられている子兎の気分だ。途中でみー君がガン! と何かにぶつかって、残されていた廃材やら誰が持ち込んだのか空き缶空き瓶ペットボトルを床に蹴散らす。息もろくにできない状態で走って走り続けて、霞んできた視界に飛び込んできた入口。私にはまるで天国への入り口のようにも見えた。二人にほぼ引っ張られるような形で飛び出した。神崎隆太はばっ、と周囲を見渡して、それから何かを見つけて走り出す。車だ。ものの数秒で壊れたフェンスを潜り抜けた神ちゃんは滑るようにして灰色の乗用車に飛び乗った。
「早く!」
いうが早いか、天才的才能を持つ神崎隆太は差しっぱなしのキーを右に回して素早くエンジンを稼働させた。私と私を抱えたみー君がフェンスを抜けて飛び乗ると同時に発進をする乗用車。フェンスの向こうにはスーツ姿のガタイのいい男が2人鬼のような形相で走ってくる。怖い。超怖い。はぁ、はぁ、はぁと全身で息切れをする私の隣で更に息切れをするみー君が、同じように息切れをする神崎隆太に問いかける。
「神ちゃん、車の免許なんて持ってるん?」
全身汗まみれで泥まみれで、それでもちゃんとイケメンの神崎隆太はうっすらと口元だけで笑みを作るとこう言った。
「道彦、自動車の免許は十八歳にならないと取れないんだよ」
ですよねー。
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