第二章 登校拒否の神崎くん 8
みー君の行動なんて意味不明で奇怪で私みたいな一般人には大抵理解できないことだ。それは今も昔もおそらくきっと十年後も二十年後も同じことで、みー君のことを100%理解できる人間なんて現れることがないだろう。
最も、人間の頭や思考なんてホラー映画に出てくる底なし沼や底なし井戸以上にわけのわからないものであって理解しようとして理解できるはずがないのだけれど、普通は理解をしようとしてほんの何百分の一くらいは理解できたりわかったりわかったような理解できるような気分になったりするものなのだろうと思っていた。もし、それがただの滑稽な思い込みだったり本当に「気分」になっただけで、時々思い込みの激しい自意識過剰な誰かに「私にあんたの気持ちなんてわかるはずがない」だとか「わかったような口利かないで」だとか口汚く罵られたりするのかもしれないけれど、そういう経験は生きていれば多かれ少なかれ誰にだってあるはずだし、誰かの本質だとか性格だとかを理解したような気になることで人生をうまく円滑に進めていけるはずだ。過剰な思い込みっていうのは人生を狂わすことが多いかもしれないけれど、少しくらい思い込みの激しいくらいがいいのかもしれないし「人生なんてそんなもん」て思った方が、無駄に悲しんだり悔やんだりしなくて済んだりするかもしれないのだ。
けれど残念ながら私の初恋の渋谷道彦という人間はそれらすべてが当てはまらない人間だった。
人間の心は頭を開いてみなければよくわからないというけれど、みー君の頭の中にはそれこそわけのわからない玩具がごちゃごちゃとたくさん入っていた。「頭カラッポのほうが夢詰め込める」なんて歌詞があるけれど、みー君の頭は空っぽすぎて夢もガラクタも色々たくさん入りすぎていた。頭の中を開いてみても、色々とごちゃごちゃ入りすぎて一体どこに何があるのか何がどれほど入っているのか全く把握ができないのだ。
普通は暫く付き合っていればぼんやりと鉛筆の線で引っ掻いたような軽い輪舞くらいは見えたりするのに、みー君の場合はその輪舞がブレにブレてどれがどれだかわからない。
渋谷道彦という人間を初めて知った時、大抵の人は「どういう人間か」「何を考えているのか」などということをこっそり探ってみたりもするのだけれど、所詮それは無駄な努力という奴であり、みー君と仲良くなった後は面倒になり考えることをやめてしまう。賢明な判断だ。
勿論それはうちのクラスの担任だとか幼稚園の時の先生だとか委員長の五味君だって例外ではないわけで、神崎隆太に至ってはものの五分でやめてしまった。
現段階でみー君に一番近いのは恐らく私なわけなのだけれど(最近、クラスメイトから渋谷係という嫌なあだ名をつけられる)私だって渋谷道彦についてそれほど理解をしていないし、把握だってできていない。唐突な展開や行動には慣れ始めてしまっていたし、授業中の教室からふらっとみー君がいなくなっても「ああ、またか」くらいで終わることが多くなってしまった。それに、私とみー君には実に十年の溝がある。みー君だってもう高校生なのだ。そんな、命に関わるような無茶や訳のわからない行動を起こしたりするわけがないのだ。いくら普段遊びほうけていたとしても、十七歳になったみー君には年相応の緊張感だとか礼儀だとかそういったものがあるはずなのだ。
けれど私は、それらがただの、本当にただの思い込みであったことに、渋谷道彦の手で気づかされる。
時間は夜の十時。東京はまだまだ煌びやかで、人も街も起きて活動をしている時間なのかもしれないけれど、埼玉県北東部に位置をする勅使河原市の町は殆ど眠りに落ちていた。
駅の傍だったら電車があるし、商店街のお店もやっているからぼちぼち明るいはずなんだけれど、私の家は田圃の傍に建っていてコンビニもマーケットだって存在しない。コンビニは去年潰れた。近所にあるのは車の通りが多くて信号も横断歩道もない危ない道路と古い用水路と無駄に幅を取った大きな田圃。二十分くらい歩くと国道が通っていたりもするんだけれど、勅使河原市には何もないのでこんな町で誰も立ち止まったりはしない。勅使河原市は少子高齢化が進んでいるから住んでいる人もおじいちゃんやおばあちゃんばっかりだから、夜遅くまで電気をつけたり営業をしたりする必要がないのだ。
うちだって田舎の環境にすっかり慣れきっちゃっていて、奈々子はゆっくりお風呂に入っててお父さんとお母さんはすでに寝る準備をしていた。私もすでにお風呂は入っちゃっていて、明日はお休みだしどうしようかな。寝ようかな。でもちょっともったいないからもう少し夜更かししようかななんて思ってた。こんなとき部屋にテレビだとかパソコンだとかがあれがもっと楽しく過ごせるのに、あいにくうちは貧乏でCDプレーヤーくらいしか置いてない。折角だから音楽を聴きながら漫画でも読んでようかとそれまで寝転んでいたベッドから立ち上がると、こんこんという窓を叩くような音が聞こえた。なんだろう、小鳥が悪戯でもしてるのかなって思って外を見ると、そこにいたのは黒い人影で私のことを驚かせる。ひっ、なんだ、痴漢!? とか思って、立てかけてあった布団叩きを手に取る。その時私の脳裏に浮かんだのは、先日ニュースでやっていた一家四人惨殺事件。日曜日の一家団欒に強盗が押し入って惨殺をしたのだ。どうしよう。まだお父さんは自分の部屋で起きているはずだ。お父さんに言わなくちゃと思い急いでドアノブに手を掛けると、黒い人影はとんとんと握った拳で窓を叩いて、「あいちゃん、あいちゃん」と耳を澄ましてようやく聞こえるような声で私の名前を呼んでいた。なんでこの人私の名前を知ってるの? もしかしてストーカー? 体はがたがたぶるぶる震えているし、うまくドアノブを掴んでくれない。やだ、超怖いと思いながら必死の覚悟でドアを開けると、黒い影は「あいちゃん、おれだよおれ」と小さな声で言ってくる。ストーカー+オレオレ詐欺とか最悪とか思うんだけど、その声がどこか聞き覚えのあるもののような気がして、私は開けかけたドアを閉める。
「おれだよおれ。道彦」
「みー君!?」
みー君は部屋の隣に生えていた柿の木を登り、屋根に上がっていた。真ん中に「男前」と感じで書かれた赤いシャツに上着を羽織った全然格好よくない服装のみー君に「シー」と唇に手を当てられて、思わず口を手で押さえる。それから、こほんと喉を鳴らし小声で言う。
「みー君、みー君こんな時間になにしてるの? なんでそんな所にいるの?な んで木登りなんかしてるの? なんでうちの屋根に上ってるの?」
私が今ある疑問をすべて問いかけると、みー君は窓枠に腕を乗せこう言った。
「あいちゃん、暇?」
暇っていうか、そもそもこの時間に何かをしている方がおかしい。
「じゃあ助けに行こう」
なにを。
「神ちゃん」
「あんた頭おかしいんじゃないの!」
思わずそう叫んでしまい、反応をしたのはたまたま二階に上がっていたお母さん。お母さんは、ドアの外側から「あいー。誰かと話してるのー」とノックをした。私は勢いよく窓を閉めると、
「うんー。綾香から電話がきたのー」
「そうー。もう夜遅いから、あんまり大きい声立てるんじゃないわよー」
お母さんが階段を下りて、足音が遠くなり聞こえなくなる。ほっ、として窓を開けると、窓枠に肉を挟まれたらしいみー君が屋根の上でのたうち回っていて、そのまま落ちて骨折ればいいのにと私は思う。
先ほどよりもずっと声のトーンを落とし、
「何考えてんの!」
「場所が大体特定できたから」
「はぁ!?」
何言ってんだこいつ。
「そんなの、神崎の警備員さんに任せればいいの!」
「だってもう、準備できちゃってるし」
「準備ィ?」
「そう。助ける準備」
ホントにこいつ、どうかしちゃってるんじゃないの。
くらくらとする頭を押さえてそのままベッドに座り込む。目の前が霞んでみるし、月夜に照らされたみー君の黒い髪がきらきらと天使みたいに光ってて、もしかしてこれは夢なんじゃないか。現実の私はすでにすやすやと眠っていて、タチの悪い夢を見ているんじゃないかと考える。ためしに頬っぺたをつねってみると、そこに感じたのは紛れもない痛みと感触であり、タチの悪い夢だという確信も安心も与えてくれなかった。
私は忘れていた。渋谷道彦という人間は、そういえばこういう奴だった。
「頼むよー。おれ、あいちゃん以外に頼れる人がいないんだってー」
頼むって言われても。そんなグラビアアイドルみたいにクネクネと腰を動かしてもセクシーでもキュートでもなんでもないから。
「いやだ」
「なんで」
なんでって、わざわざ理由をいわなくちゃいけないのか。
「怖いし、危ないし、夜遅いもん」
私の正当な答えに、みー君はふむ、というようにして腕を組んだ。むき出しの小麦色の腕は、さっき窓枠に挟んだせいでちょっと赤くなっている。
「じゃあ、危なくないようにおれがあいちゃんを守る。もしかして危なくなるかもしれないけど、頑張って守る。それなら、一緒に来てくれる?」
一点の曇りもない瞳で私のことをまっすぐ見つめる、みー君。みー君はたまにすごくずるくて、何の計算もなくすっとこういう言葉を出す。
「でも、夜遅いもん。お父さんとお母さんになんて言えばいいのかわかんないもん」
少しだけぐらついてそれでも私が断ると、みー君はうーんとまた少し考えて、ぴんと人差し指を立てた。
「夜デートだと思えばなんてことないよ」
そんなこと言われたらいかないわけにはいかないじゃない、馬鹿。
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