第二章 登校拒否の神崎くん 6
真夏を控えた七月の空はとてもよく晴れ渡っていた。青い空にはそこを切り取ったような白い雲がぽっかり浮かび、灼熱の太陽が大喜びで地表を照らしていた。太い幹には蝉が留まり盛大に鳴き声を上げて、緑色の葉はきらきらと太陽を反射する。向日葵畑は一斉に咲き誇り、天高く光輝く太陽の恵みに顔を向けていた。
「熱い!」
そう、熱い。厚いでも暑いでもなくすでに熱い。折角帽子を被っているのに頭が蒸れて、蒸し風呂のようになっている。汗で髪の毛が額にぺっとりへばりつき、背中から汗が滴り、全身見事に汗まみれ。勿論汗まみれなのは私だけではなくて、日本中すべての人が汗まみれで汗臭いわけではないのだけれど、ああ、せっかくおしゃれをしてきたのにとか後悔をしてしまう自分が悲しい。
Tシャツとハーフパンツにキャップではしゃぐみー君の背中は汗で模様ができていて、日本地図のようになっていた。あれが九州、あれが四国とか私がやっていると神ちゃんもそれに気が付いたらしく、「道彦、背中が地図みたいだよ」と笑っていた。
普通にしていてもイケメンの神崎隆太は私服に着替えてもやっぱりイケメン。ただシャツを着てベストを羽織ってジーンズにベルトをしているだけなのに、周囲と比べて雲泥の差が生まれていた。イケメンて何から何からすごいなぁ。
背中に日本地図を描いたみー君は飛ぶように跳ねるように歩いていたのだが、ゲームセンターの看板を見て足を止めた。
「ゲーセン入りたい」
いうが早いか、みー君の黒いスニーカーはゲームセンターに向かい一直線にかけていき、私と神ちゃんを困らせる。
手も足も早いみー君はまず対戦型ゲーム機を乗っ取った。「ストリートファイター」とか、超懐かしい。こんなの金持の坊ちゃんができるのかなぁとか思ったのだけれど、神崎隆太は何でもできて渋谷道彦はぼこぼこにされて終了する。続いて始まった「太鼓の達人」対決では、国民的な青い猫型ロボットアニメのオープニングを選んだ神ちゃんに比べなぜかみー君はテンポの速い洋曲をチョイスして全然リズムが合わなくてぼこぼこになる。
ゲームセンターでは散々だったみー君だけれど、次のカラオケボックスでは意外な声帯を披露して私たちを驚かせる。ここでしくじったのが神崎隆太で、音程を外しに外しまくり最終的に声が出なくなり渋谷道彦を腹を抱えて笑わせた。私はびっくりしてけれど少し安心した。イケメンで金持ちで頭がよくて性格さえもよさ気な神崎隆太にもちゃんと欠点があったのだ。欠点があるのはソファの上に仁王立ちをして幼女向けアニメのテーマソングを歌って踊っている渋谷道彦だけではないのだ。
カラオケボックスを出たころに散々歌って踊って大満足をしたみー君が「お腹が空いた」と盛大に腹を鳴らし、私達のことを笑わせる。それどころかすれ違ったお姉さんさえ笑っていた。
日曜日の昼過ぎのファーストフード店は賑やかでとても混んでいて、端っこのほうにようやく三人座れるスペースを見つけて確保する。
みー君はポテトとシェイクを頼んだのだが、神ちゃんがナゲットを頼んだのを見て羨ましくなり買いに走った。それから、私のジンジャーエールが飲みたくなって手を伸ばしたら横にあった飲み物をひっくり返してトレーの上をシェイクだらけにし、床にも滴りバイトのお姉さんに嫌な顔をさせた。その他にも、ナゲットのケチャップを腕につけポテトのカスを口の周りにつて手をべたべたにするという幼児顔負けの技を見せた。落ち着きがない。体が冷えたとかでトイレに走るみー君の背中を見送って、私は息をつく。
「まったくもう、どうしてみー君てあんなに落ち着きがないんだろう」
腕を組んでソファに体をもたらせ私が呟くと、神ちゃんは返事をするようにしてくるりとストローを動かした。
「だってね、神ちゃん聞いて! みー君て、学校でもずっとあんな感じなの。授業中はずっと寝てるし、休み時間にお弁当食べて私に集るし、宿題は全然やってこないし!」
ドンッ! と私が机を叩くと、目の前のトレーがちょっと浮いた。神ちゃんはくるくるとストローを動かしながら、微笑ましそうに私を見ている。
「笑い事じゃないの! ほんと、どうしてみー君てあんなんなんだろう。うちの妹の方がまだ手がかからないよ。みー君て、幼稚園の頃から全然ちっとも変ってないの」
「幼稚園一緒だったの?」
「そうだよ。みー君てばもう、そのころから……」
と。そこで私は、斜め前から送られてくる生ぬるい視線に気が付いて。
言葉を止める。
細い目がまっすぐこちらを見ていることがなんだか恥ずかしくてどうしていいかわからなくて、後ずさるように体を縮める。
「な……なに?」
神ちゃんはずずっ、とコーラを飲むと
「あいちゃんさ」
「へ?」
「好きでしょ。道彦のこと」
神ちゃんが何の脈絡もなく投下した爆弾を直で受け取り、私は体の動きを止める。体どころか、時間が止まる。青い空では相も変わらず太陽がさんさんと輝いているし、蝉がうるさく泣き喚いている。お店の中にはお腹を空かせたお金のない学生がたくさんいて、がやがやと笑い声を立てていた。
私は顔の熱がカーッと一気に上がることを感じて、思わずそれを手で隠す。
「なっ……なんでっ……」
「あいちゃん、道彦と話してるとき楽しそうだから。だから」
「そ、そんなわけないっ……」
「あいちゃん、嘘ついたりごまかしたりするとき、少しだけ声が上擦ったり瞬きが増えたりするの。知ってる?」
にたり、と人の悪い笑みを浮かべる神ちゃん。神ちゃんはズー、とコーラを擦って、カランと氷を鳴らした。なくなった、と呟いて。
まっすぐと見つめてくる細い目に、私はどうしたらいいのかわからなくなりどうしようもなく恥ずかしくなり、意味もなく手持ちの鞄を抱きかかえた。
「わ、悪いっ!?」
がちがちに固まった声で叫ぶようにそういうと、神ちゃんは困ったように微笑んだ。駄目じゃないよ、とそういって。それから少し視線を落とし、言った。
「爪」
「え……」
「爪のマニキュアが、ムラがあるから。あんまり慣れてないのかなって、思って」
神ちゃんの鋭い指摘に、私は急いで爪を隠す。そうだ。私は普段マニキュアなんかしないのに、今日は折角出かけるから、わざわざリビングで爪を弄っていた妹のものを借りてきたのだ。
真っ赤な顔で睨み付ける、私。神ちゃんは空になった容器をトレーの上にとん、と置いて、軽く脱力をしたように座り心地の悪い椅子に体重をかけた。
「僕、結構人を観察したりするの、好きなんだ」
笑いを含んだ神ちゃんの声に、私はまた鞄を力強く抱きかかえた。どうしよう。私、そんなにわかりやすかったのかな。そんなにバレバレな態度取ってたのかな。人を観察するのが好きだとか、そういえば神ちゃんそんな感じがするよ。すごい見てそうだし見られてる感じがするよ。それどころか一般人には見えないものまで見えちゃいそうだよ。神ちゃんて絶対UFОとか幽霊とか好きでしょうとか意識が大気圏の外まで飛んで、神ちゃんが手元の紙ナプキンで鶴を折り始めたところで私の意識は元に戻る。
「……神ちゃんは」
「うん」
「変、だと思う?」
「変? なにが」
「私が、好きなこと」
私が好きな人がおかしいことは傍から見てもどこから見ても当然のことなので、否定しない。
神ちゃんは、言っている意味がわからないというように首を傾げ、
「……なんで?」
と、さも不思議そうに呟いた。無意識のうちに鞄を抱える手に力が入って赤く塗った爪の先が食い込んだ。
「だって……わたし、全然かわいくなんか、ないし……」
私は可愛くない。気が強いし、乱暴だし、言いたいことは全部いう。綾香みたいに可愛く甘えられないし、プライドだって無駄に高い。お化粧だってしないし、マニキュアだって上手に塗れないのだ。
くしゃくしゃな鶴を折りながら私の話を聞いていた神ちゃんは、ふっと目を細めて顔をあげた。
「愛ちゃんは、ちょっと気が強いけど、すごく面倒見がよくて、好きな人を一生懸命見てるから、すごくかわいい」
私の手元のジンジャーエールは氷が殆ど溶けていて、炭酸もちょっと抜けかかっていた。トレーの上は水浸しで、掴むと指先に水が付いた。
「だから、もっと自信持っていいと思うよ」
神ちゃんの声はみー君よりも2オクターブくらい低くて、聞いててとっても心地いい。丁度良く耳の奥に馴染んで、水滴みたいに胸の奥にぽとんと落ちた。
私はすごくうれしくて、顔どころか耳まで真っ赤に染まっていた。そんなこと言われたの初めてだったから、どうしたらいいのかわからなかった。背中だけじゃなくて鞄を握った指先まで汗が滴りそうだった。
「そうかな……」
「そうだよ」
「うん」
「うん」
「あのね」
「うん?」
「……ありがと」
「……うん」
溶けたジンジャーエールは、水っぽいし炭酸は抜けているしで全然おいしくなんかなかった。そのおいしくないジンジャーエールを呑み終わる頃、やっとみー君が戻ってきてまた私のことを怒らせる。
「みー君! トイレ長いよ!」
「ごめんごめん。なんかお腹下っちゃって……」
「またおうちで冷たいものばっかり食べたんでしょ! ほら、みー君がなかなか戻ってこないから、神ちゃんが鶴ばっかり折っちゃったじゃん!」
「ホントだすげー!」
神ちゃんの周りには紙ナプキンで折ったくしゃくしゃの鶴が何匹も集まっていて、みー君の興味を引く。それから暫く三人で鶴を折り、あの耐久性のないくしゃくしゃの紙である程度鶴が折れるようになったのでお店を出た。
それから、適当に歩いてプリクラを撮ったりみー君が公園で鳩に餌をやって追いかけられたりバッティングセンターで打ったボールが跳ねかえってみー君の額に激突したりしているうちに時間が過ぎて、夜になる。
神ちゃんの家は門限が決められていて、それまでに帰らなければ電話がかかってくるという。
「未成年だから仕方がないんだ。十八になったらそれもなくなると思うから、それまでの辛抱」
六時半とかまだまだ明るくて帰るにはもったいない時間なんだけど、金持ちの息子がそういうのなら仕方がない。とか思っていたら、またみー君が「過保護な親を持つと大変だねぇ」とか余計なことを言い出して私のことを怒らせる。余計なことばかりいう口を思いきりつねり上げると、「いひゃいいひゃい」と不明確な擬音をあげて痛がった。神ちゃんは、痛がるみー君を見て笑っていたのだけれど、ふとした瞬間に真顔に戻って、言った。
「僕、そろそろ学校、行こうかなぁ」
ぽつんと、「そろそろ髪伸びてきたから切ろうかなぁ」的なノリで飛び出た発言に、私はみー君の口をつねったまま動きを止めた。
「僕さ、学校つまらなかったんだ。友達もいなくて、みんな、家のこと気にしてばっかりだったから。でも、道彦と愛ちゃんがいるのなら、もしかして、楽しいのかも、知れないって思った」
神ちゃんの顔は相変わらず何を考えているのかよくわからなくて、声もちょっと間延びしていた。でも、細い目の中にある黒い瞳はまっすぐ目を向いていたし、しっかり選んだ言葉を使っていた。
みー君は、いつまでも引っ張っている頬っぺたを奪い取ると、きっと神ちゃんに向き直った。
「来なよ。来た方がいいよ。くれば、きっと楽しいよ。もし一人で来づらかったら、朝おれとあいちゃんで迎えにいくし」
ね! と力強く応答を求められ、私は勢いよく首を上下する。予想外の展開だ。神崎隆太は人当たりのいい奴だかマイペースで、自分の世界を崩されることをひどく嫌がる人間だった。
「もし来たくなったら、ラインでも電話でも連絡してね。そうすれば、次の日の朝ちゃんと迎えにいくから」
そうだ。来たいときに来ればいい。一度来れば、学校も床屋もそう変わらないのだ。
バイバイといって別れる直前、神ちゃんは私に手招きをして近寄って、耳元でこっそりこう囁いた。
「愛ちゃん、道彦は手ごわいよ。だって道彦の考えは、僕にもよくわからないんだ」
神ちゃんの言葉はやっぱり笑みを含んでいて、私の耳の奥底をくすぐるように響いて何とも言えない気分にさせる。
じゃあね、と手を振って別れたあと、みー君に「最後神ちゃんに何言われたの?」と聞かれた。内緒、と私が答えると、なんだよ! おればっかりの除け者にして! とみー君は憤慨をしたけれど、みー君なんかに教えてあげない。
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