第二章 登校拒否の神崎くん 3

 古来の日本を感じさせる趣を持つ外観とは対照的に、神崎邸の内観はとても近代的だった。

 玄関先には大きな金魚の入った水槽が置かれていて、隣には白くて綺麗な電話が並べられていた。綺麗に磨かれた廊下には私なんかには価値のわからない壺だとか絵画だとか骨董品だとかが並べられていて私のことを緊張させた。“海外の人から見たら日本の家はウサギ小屋だ”なんていうブラックジョークがあるけれど、こうして白くて大きくてふかふかのソファに座っていると、うちのソファってどれだけ安物なんだろう、うちってなんで狭いんだろう。あれなに? 昔みー君が幼稚園を抜け出して昼寝をしていた神社の鶏小屋みたいなの? とか思っちゃうのは不思議じゃない。目の前に置かれたいかにも高級っていう感じのティーカップだとか紅茶だとかお菓子にもがちがちふるふる震えちゃって、場違いでもう本当にすいませんお願いですから許してくださいって意味もなく泣きそうになっている私の隣で、無駄に幅を取って座っているみー君が無遠慮にお菓子をモリモリ食べて音を立てて紅茶を飲んで、更にお代わりを要求している。社会の厳しさとか格差社会だとか痛感している私の横で「かんちゃーんお代わりちょーだい!」とか叫んだ奴には、おそらく羞恥心だとかそういったものが存在をしないんだろうなぁ。あああ、なんかもう恥ずかしいを通り過ぎてちょっとうらやましくさえなってきた。

 花柄のスリッパを履かされた私達が神崎隆太に通されたのは、どうやら神崎隆太の部屋らしい。らしい、というのは、果たしてここが神崎隆太の部屋なのかいまいち確信が持てなかったのだ。いや、部屋にあるものは机とかベッドとか厚みのある本ばかり置かれた本棚だとかここが神崎くんの部屋なのは殆ど間違いないのだけれど、 私が胸を張って「ここが神崎くんの部屋である」と言えなかった理由はこの部屋の広さにあった。私の部屋を二つ繋げても足りない広さのその部屋には、机だとかベッドだとかの他にもテレビだとか小型の冷蔵庫だとか置かれていた。パソコンだとかスキャナーだとかプリンターだとか普通といえば普通なのかもしれないけれど、お父さんの部屋にようやく一台古いパソコンがあるだけのうちでは自分の部屋にあるというだけですごすぎる。ていうかベッドがでかい。なにこれシングル? ダブルじゃないの?

 神崎隆太の部屋にはなぜかソファが二つあって、当の本人は向かいのソファに座りゴールデンレトリバーの「オール」に餌をやっていた。私は震える手で紅茶のカップを持ち上げて、睫の奥から覗くようにして伺ってみる。

 神崎隆太。同じ年。登校拒否児。電気機器メーカーKANZAKIの一人息子。背が高い。私と数センチしか変わらないみー君よりもずっとずっと大きく見える。

「それで、何か用?」

 綺麗に餌を食べ終わったお利口なオールの頭を撫でる隆太の発したその言葉に、私は顔を引き攣らせる。『登校拒否の神崎くんがどんな子なのか興味が湧いてきました』なんて、まさか本人に言えるはずがない。

「えーと……その……あの……」

「登校拒否の神崎くんがどんな子か気になったから遊びに来たんだ」

 そんな私の気遣いをものの見事にぶち壊したのはやっぱり渋谷道彦で、真ん丸に膨れたお腹を満腹そうに擦りながらげっぷをして、部屋の空気を凍りつかせた。目の前に座る神崎隆太はまるで遠くのものを見るようにして細い目を更に細くしているし、オールだって可愛い瞳をくりくりと動かしている。

 一気に重くなった雰囲気をぶち壊すように「馬鹿ー!」と私が叫ぶと、みー君は「うわっ!」と驚きの声を上げて両耳を抑えた。

「なんでそんなこと言っちゃうの!」

「えっ、だって本当のことじゃん!」

「本当のことでも、言っていいことといけないことがあるの!」

 暫く神崎くんは、ぽかぽかと言い合いを続ける私達のことをぽかんと眺めていたのだけれど、だんだん顔が歪んでいって、堰を切ったように笑い出した。あんまりころころ笑うものだから、今度はこっちが驚く番。文字通り腹を抱えて笑って笑って笑い続けて、ようやく元の表情に戻る。

「ごめんごめん。それでえーと……」

「神崎くんがどんなのか気になってきたんだ」

「そう……」

 スルースキルが高いらしい神崎くんは、顎に手を当ててほんの少しだけ考えて、こういった。

「先生に言われたとか、そういうんじゃなくて?」

 みー君は、テーブルの上に置かれたお盆の中からクッキーを一枚摘みあげ、ぽいっと口に放り込んだ。

「違うよ。俺が会いたかったから来たんだ」

 むしゃむしゃむしゃと豪快に動くみー君の口元にはお菓子のカスが付いていて、それがソファにぱらぱらと落ちている。

 神崎くんは「そう」と呟くようにそう言って、口元に手を当て考え込むような仕草を取った。ただ足を組んで口元に手を当てているだけなのに、なんでこんなに絵になるんだろう。イケメンてやっぱり得だなぁ。私の隣ではみー君が口いっぱいにお菓子を頬張っていて、頬張りすぎて口からぼろぼろ零れている。近所に住んでいる幼稚園児の方がもう少し上手に食べられるとか思っていたら案の定器官に詰まらせて、豪快に咳き込んだ。

 神崎くんは、足元でお利口に待機をしているオールの金毛をふさりと撫でると、

「……悪いけど、僕は学校、行く気ないよ」

『僕』。そうか、神崎くんは『僕』なのか。高校生にもなって自分のこと“僕”なんていう奴、現実世界で初めて見た。

 口いっぱいにお菓子を詰め込んだみー君は、口の中を洗い流すようにして紅茶と一緒に飲み込むと、真ん丸に膨れたお腹をさすり、言った。

「いーよ、別に」

 予想外の言葉に、私も神崎くんも言葉を失くして思わず固まる。

「だっておれ、別に神崎くんを学校に来させるために来たわけじゃないし」

 ぺろり、と親指を舐めるみー君に、神崎くんは訝しげに眉を潜めた。

「言ったじゃん。おれ、神崎くんが見たくて来たって。それだけだから、来たくなければ来なくていいよ」

 ぽかんとしている私を尻目に、みー君は空になったカップを掲げて「おかわりを貰っていいか」と要求した。

 神崎くんは眉を寄せたまま少しだけ首を動かして、

「ジュースでもいい?」

「なんでもいいよ」

 ひどくゆったりと立ち上がると、部屋の脇に設置をしてあった小型の冷蔵庫から250mlの缶を二本取り出した。二本? 不思議に思って顔を上げると、一本をみー君の前に、もう一本を私の前にコトンと置いた。

「よかったらどうぞ」

 イケメンてすごい。この人、本当に現実世界の人なのかな。実はこのおうち自体がドラマか何かの盛大なセットだったりしないのかな。

 ありがとう、と呟いてオレンジの缶を手に取る。缶は丁度良いくらいに冷えていて、頬っぺたにあてるとひんやり馴染む。

 渋谷道彦と神崎隆太は無意識のうちに攻防戦を繰り広げているらしく、2つの視線の交差点では見えない火花がバチバチと飛んでいた。

 そのうち、意味もない争いをすることに飽きてしまったらしいみー君がジュースの蓋をぷしゅりと開けて、飲み下した。

 ずっと微妙な表情を作り上げていた神崎隆太も、底の見えない渋谷道彦の心理を探ることを諦めたのだろう。ふっ、と体の力を抜いて脱力をすると、行儀よく座り込んでいるオールの顎を撫で上げた。

「そっか」

「そう。わかってくれた」

「うん。わかった」

「よかった」

 先ほどよりも和らいだ部屋の雰囲気に、私は少しほっとする。ちょっとだけ温くなったオレンジジュースを持ち上げると、テーブルの上にまぁるい輪っかができていた。ジュースの缶には、色の違うオレンジがいくつも書かれていて、一体何色あるんだろう。1、2、3……と五色目まで数えたところで聞えてきたのはまたゲップ。優雅に長い足を組んでいる神崎隆太と比べなんて下品なやつなのだろう。

「遊びに来たんだっけ」

「そうだよ」

「……何する?」

「うん?」

「何して遊ぶ?」

 何して遊ぶ? イケメンから飛び出てきた想定外の質問に、私は少し困惑する。遊び方とか、高校生にもなってそんなの考えたこともない。

 食べるだけ食べて飲めるだけ飲んで大満足をみー君はどこからか爪楊枝を取り出して、歯と歯の間をシーハーシーハーし始めた。それからそれをごみ箱の中に投げ捨てて、こう答えた。

「おれ、犬の散歩したいなぁ」

 大きくなったお腹を抱えのっそりと立ち上がり、神崎隆太の隣で足を揃えているオールの傍に近寄った。みー君がふさふさと頭を撫でると、オールは気持ちよさげに鼻を鳴らし、目を細めた。

「さっき、散歩行く途中だったんでしょ? お腹いっぱいになったし、散歩したい」

 それは犬のためっていうか殆ど自分のためなのかもしれないけれど、どうやらオールも彼の意見に賛成らしく、返事の代わりにお菓子のカスのくっついたみー君の顔をぺろりと舐めた。

 嫌がる理由は特にない。神崎くんはわかったというようにして薄く笑うと、ちょっと待っててとテーブルの上を片付け始めた。ただ紅茶のカップを重ねてお盆に乗せているだけなのに、なんとも様になっている。みー君はみー君でいつの間にか青いリードを取り出して、オールの金色の首に引っ掻けた。そして私はふかふかのソファに座ったまま、全く正反対の二人の背中を見つめていた。

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