第二章 登校拒否の神崎くん
第二章 登校拒否の神崎くん 1
黒の学生服を着込んでいたみー君にうちの学校の制服ができる頃に梅雨が終わり、太陽の日差しが眩しい夏が来る。
絵の具をそのまま垂らしたみたいに真っ青な空にほわほわの白い雲が浮かび、蝉がみんみんという鳴き声を立て始めた。
愛想のいい渋谷道彦が惹きつけるという天性の才能を発揮して、厳しいと評判の保険医と羊羹を食べながらお茶を飲むという関係を築き上げたとき、それは起こった。
「あれ、誰の席?」
その時歴史の授業で出されたのは、五人一組になって課題として出された時代を調べるということ。私のグループに当てられたのは飛鳥時代からの平安時代。五人一組なのに一人足りなくて四人でグループを作ったときに、渋谷道彦はそんな質問をぶつけてきた。
私のグループは綾香と私、みー君と委員長の五味くんの四人。
さぁ教科書を開こうという体勢で固まる五味くん。五味くんの四角い机に角を合わせるようにして机をくっつけたみー君は、きょとんとした口調でこう言った。
「うちのクラスって俺を含めて三十五人でしょ? 五人で作れば七グループできるはずなのに、どうして一人足りないのさ」
よん、ご、と指を折々数えるみー君の視線の先には、一組の机が置かれていた。私もみー君も使っているような、どこにでもある普通の机だ。教室にしっかりと馴染んでいるはずの茶色の机は、なぜかそれだけ世界に取り残されたかのようにぽつんと一つ佇んでいて、哀愁さえ感じさせた。それの周りを同じような形のものが取り囲んでいるはずなのに、馴染ませるどころか馴染むはずのない異質さを際立たせているようだった。
「最初はさぁ、誰か休みの人の席なんかなぁって思ってたんだけど、まだ一度も見たことなかったから」
ぷー、と子供のように唇を尖らせるみー君は、私の記憶の中にあるみー君と寸分違わず重なって微笑ましささえ感じさせる様だったのだが、いかんせん質問がよくなかった。
教科書を開けようとする体勢のまま固まっていた五味恭介は、まるでゴキブリを見つけてしまったときのようななんとも言えない顔をして、それから開きかけていた教科書を閉じた。
「
と言って。
神崎隆太は日本で有数の電気機器メーカーKANZAKIの跡取り息子だ。一年のときは違うクラスで、二年生で同じクラスになった。私が彼の存在を知った時にはすでに学校に来ていなかったから顔は知らない。「背が高くて格好いい」というのは綾香の話。「めちゃくちゃ頭がよくて、テストではいつも上の方だった」といったのは、一年のとき同じクラスだった五味くんだった。
「一年の頃はぼちぼち来てたよ。でも、体がちょっと弱かったらしくて元々ちょっと休みがちで……それで、家のこともあって、色々陰で言われたらしくて」
それで、と五味くんは言いにくそうに声を落とした。どこか落ち込んだ様子の五味くんから察するに、当時のクラスでも委員長を務めていた五味くんは神崎隆太の登校拒否について先生から色々と相談を受けていたらしい。
「それで、結局解決策を見出せなかったと」
「そうそう、先生ってば俺にばっかりどうにかしてくれどうなったとかいう癖に自分じゃ全然なにもしなくて……って! うるさい!」
腕を組んでふんふんと他人事のように頷いて(実際他人事なんだけど)要らぬつっこみを入れてきたみー君につっこむ、五味くん。こんな五味くんを見れるようになったのはごく最近。渋谷道彦のパワーというのは得体が知れない。
五味くんはぷつんと米神に青筋を浮かべ椅子を直すと、
「だからもう、先生達も諦めてるんだろ。その話は終わりっ! 課題やるぞ!」
まるでどこかの先生みたいに拳で机を叩いた五味くんは大層迫力があったのだが、みー君は寝てるし綾香は遊んでばっかりで、研究は全然進まなかった。結果的には堪忍袋の緒が切れた五味くんがチャイムと同時に怒鳴り声をあげて、クラス中が凍りついたところでみー君が欠伸をしてのんびりと起きだすという形で終わりを迎えた。
その後は、五味くんの機嫌が悪いこと以外特に変わったことのないまま一日の授業が終了をする。なんだか瞳をきらきらとさせたみー君に肩を叩かれたのは、さぁ帰るぞとローファーに履き替えたときだった。
「神崎くんち行かない?」
正直何を言っているのだろうと思った。
「神崎くん?」
「そう、神崎くん」
「神崎くんてどこの神崎くん?」
「どこの? って。うちのクラスの神崎くんに決まってるじゃん」
「いや」
意味の解らないことをいうみー君の腕を振り切り帰ろうとすると、恐ろしい瞬発力を持つみー君はどういう魔法を使ったのか0,1秒で私の前に回り込んだ。
「なんで!?」
それはこっちの台詞。なんで私が登校拒否の神崎くんのおうちに行かなきゃいけないの。
「興味が湧いたから?」
嫌だっつーの。
目の前でディフェンスをするみー君をあっさりと通過して帰ろうとすると、鞄を持った腕を掴まれて引き留められる。
「離してよ」
「あいちゃんが来てくれるっていったら」
「いやだってば」
「なんで」
「私、その人知らないもん」
「同じクラスの人じゃない」
「同じクラスの人でも知らない人は知らないの」
「じゃあ知ろうよ」
「はぁ?」
「知らない人だから知りたくないんでしょ? じゃあ知ればもっと知りたくなるよ」
飼い主に縋りつく子犬みたいな体勢で引きずられるみー君の言葉は滅茶苦茶でなんの脈絡もなかったけれど、なぜか奇妙な説得力を含んでいて私の心をぐらつかせた。確かに私が神崎隆太の家に行きたくないのは神崎隆太と面識がないからで、顔も声も性格も何一つ確かな情報を持っていないからだ。
でも、神崎隆太は登校拒否児だ。もう何か月も学校に来ていないような奴の、仲のいい友達だったらまだしも顔も知らないクラスメイトの家になんか行きたくない。
「無理」
私がどれほどの力で振り解こうとしてもどれほど引き摺られようともみー君はまるでしがみつき人形のように私の腕にしがみつき絡みつき、正門の辺りで見回りをしていた学年主任に見つかって二人揃ってお説教を受け、半強制的に道彦に対しyesの返事を返すことを余儀なくされる。
「さーっすがあいちゃん! 頼りになるぅー」
なんて溶けるような笑顔を作ったみー君に、私は半分腹を立て、もう半分をときめかせたということはここだけの秘密だ。
みー君の自転車はもう十年くらい使っているようなぼろぼろのママチャリで、フレームの所に「渋谷登」っていう名前としっかり住所が書かれている。曰く、「父さんのお下がり」らしい。
「前の学校のときは、自転車使ってなかったんだ。今までずっとこれ使ってたから、買う必要もなかったし」
「自分のないの?」
「小さい頃はゆうちゃんと共同で使ってたんだ。それでそのうち、母さんとゆうちゃんが共同で使うようになって、父さんが使ってたのがおれ用になった」
「おじさんは?」
「普段は車だから。たまに使うときだけおれの使ってる。ゆうちゃんの自転車はゆうちゃんが持ってって、母さんは新しい自分の奴買ってた」
みー君は財布の中から夢の国のねずみのキーホルダーのついた鍵を取り出した。鍵穴はすでにちょっと錆びているらしく、メッキが落ちてちょっと赤っぽくなっているのだけれど、慣れたみー君はあっという間に開錠をした。茶色いバッグを乱暴に前かごに突っ込んだみー君は勢いよくサドルに跨ると、言った。
「乗らないのー?」
「え?」
「早く乗ってー。乗らないとあいちゃん、走っていくことになるよー」
みー君の自転車は思ったよりも高くて、漕ぐのも速かった。男の子と二人乗りをするのは初めてで、私はちょっと緊張していた。
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